グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・所蔵CD覚書(1)概観

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歌曲集の収録曲詳細や演奏時間については、作品別一覧に記載してあります。
バルビローリのマーラー演奏を聴いての感想はこちらにあります。


概観

マーラーの受容に関して、LPレコードの普及が果たした役割の大きさは、クルト・ブラウコップフや、マイケル・ケネディの指摘しているところだが、 私もまた、受容の初期にはLPレコードを介してマーラーに接してきた。実際にはそれとともにFM放送の恩恵も大きいと思うが、これらについては 別に記述することにして、ここでは、現時点での私のマーラー受容の中心であるCDについて作品別にまとめておきたい。

といっても所蔵しているCDは限定されたもので、従って網羅的なディスコグラフィーは望むべくもなく、さりとて いわゆる「聴き比べ」にしても、網羅性に欠けたサンプルの範囲内での比較に何か意義があるとも思えない。結局のところ、第一義的には 自分の整理のためのもので、それを公開するのは、或る種の状況証拠、つまりマーラーに関して私が何かを語る時に、その裏づけとなっている 環境を確定するためである。

私の現時点での所蔵方針は、以下の通りである。

便宜的に交響曲と歌曲・カンタータでページを分けた。「大地の歌」の管弦楽版は「交響曲」とするのが妥当かも知れないが、 ピアノ伴奏版が存在していることもあり、連作歌曲の発展形態であるという見方にも妥当性がある。そこで、便宜的に 「大地の歌」は歌曲・カンタータの側に分類した。

それでもこのように作品別に整理してみると、さすがに10種類に及ぶものはほとんどないとはいえ、同一作品についての重複がかなりある。 勿論、マーラー・ファンの方々から見れば極めて慎ましいコレクションということになるのだろうが、私個人としては、これでも多すぎて それを「自分の」ディスコグラフィーに属するものと胸を張って言えないようなCDも幾つかあることを認めざるを得ない。 1枚1枚のCDには、演奏者や録音を企画した人、担当した人たちの思いがそれぞれに込められている。勿論、買ったけれど、 一度も聴いていないCDなどあろう筈もないが、それでも1枚1枚がそれぞれに持つ重みをきちんと受け止めることができているかを 自問してみるに、はなはだ心もとない気持ちに捉われる。しかしながら、1度聴いただけであったり持っているだけというのは 方針として所蔵しないことにしている。

だが、複数の演奏の録音を聴くことの効用は、専門的な音楽教育を受けていない私のような人間にとっては明らかだ。要するに、 スコアを見て音を思い浮かべるといっても限界があって、楽譜の読み取りの多様性、音響的な実現の多様性を論より証拠とばかりに 思い知らされるのに、複数の演奏を聴く以上に手っ取り早くて確実な方法はないのだ。楽譜の方も、唯一真正なヴァージョンが 1つ存在しているわけではないのだが、それもまた異なる版の楽譜に基づく録音を聴けば、自ずと理解されるのである。 演奏解釈に客観的に唯一真正のものがありうるというのがナンセンスなのは論を俟たないだろう。

それゆえ幾つかの演奏を聴くというのは大切なことだ。どんなに優れた演奏であったとしても、ある演奏は切断面の一つに過ぎない。 勿論可能であれば自分で楽譜を読み、演奏するのが望ましいのだろうが、それをしないまでも、別の演奏を聴くことで作品の持つ 別の側面に気付くことができる。結局、アドルノのいうところの星座の見え方は、各人固有のものであり、 他の誰も、その人の代わりにそこに立つことはできないのだ。

また、マーラーの自作自演(無論ピアノ編曲で)のピアノロールの再生を録音したものを含め、特に第2次世界大戦前から戦後間もなく くらいまでの録音には音質の限界を超えた価値が認められると考える。とりわけメンゲルベルク、ワルターの当該時期の録音は、彼等がマーラー自身と長期に わたって知己であったことや、フリート(第2交響曲)やホーレンシュタイン(レーケンパー歌唱の「子供の死の歌」)のケースも含め、演奏者の側にもマーラーを 同時代人として知る人間が少なからずいたはずであることを考えれば先ずもって記録としての価値があることは明らかだが、それだけではなくそれらの録音には それを単なる「資料」や「骨董」の類として聴くことを拒む何かが備わっていると私には感じられる。勿論、今日の演奏には、聴き手が同時代人として 違和感無く受け止めることができる、あるいは無条件でわかる何かが備わっているということもあろう。だが、ではなぜ音楽の方は1世紀も前の作品なのか。 少なくとも個人的な事情に限れば、私がマーラーを聴くのは自分が抱えているある種の「アナクロニスム」、同時代に対する適応不全ゆえであると感じているし、 マーラーの音楽がもともとそのために書かれたからといっても、今日の日本のコンサートホールでマーラーを聴くことにさえ、違和感を感じずにはいられない。 少なくとも近年の演奏のうちに、私が聴き取りたいと思っている「音調」が、同時代ゆえによりよく聞き取れるとは全く思えないのだ。

ただしこれは、私がいわゆる歴史的録音に「オーセンティシティ」を 認めているということを意味しない。そうではなく、まずは端的にそれらのうちの幾つかの(勿論、全てではないのは当然である)演奏には圧倒的な説得力が 備わっていると思っているし、それはそれらの持つ 音質の限界を勘案してなおそうなのだ、ということに過ぎない。そういうことでいけば、例えばバルビローリやコンドラシンは マーラー演奏の歴史的な経緯からすれば、いずれもどちらかといえばマージナルな存在である。 その一方で、近年の録音にも例外はあって、そのもっとも著しい例が平松英子さんが全曲を歌い、野平一郎さんがピアノを弾いた「大地の歌」であり、私見では この演奏については同時代の日本で演奏された記録ゆえの「近さ」の感覚とともに(何なら「にも関わらず」といっても良いが)、その演奏の驚異的な 説得力に圧倒されてしまった。全曲を女声で、しかもソプラノで歌うのは、少なくともマーラーの想定外であったに違いないし、ピアノ伴奏稿は企図されたことは 確かでも、それを最終的に彼がどうするつもりであったのかまでを確言することはできまいが、だからといってこの演奏の価値が減じることは些かもないと私は思う。

だが、そうした一部の例外を除けば、私には自分にとって「同時代」のものである筈の1980年代よりこちら側の演奏というのは 却って今ひとつぴんと来ないのだ。それは単に、子供の頃から親しんだが故に、その頃「刷り込まれた」演奏様式以降の演奏についていけないだけなのかも 知れないが、理由はともかく、リストをご覧いただければ、近年の演奏の方が寧ろ、特殊な理由があって演奏の質に関わり無く手元に置いているものばかりで あることにお気づきになるだろう。極論すれば、私は今日マーラーを聴くこと自体がアナクロニスムであってマーラーの時代は遠くに去ってしまったと感じているし、 1世紀の時間の隔たりを経て今日の演奏がようやく獲得したと言われるマーラーの作品との適切な距離感や客観的なアプローチなり、これまでの演奏解釈の 変遷を踏まえた新しい読みなりを積極的に評価する気になどなれないのだ。今日マーラーを演奏する「理由」や「意義」については演奏家の方々ご自身が お考えになれば良いことで私がどうこう言うべきことではそもそもないが、今日マーラーを聴く方については、積極的にそれが最早取り返しの利かない過去の ものであるということを抜きにして無媒介に受け止めることは困難であるように感じる。

またそれは文化史的な興味でマーラーにアプローチすることを意味するのではなく、寧ろ全く逆である。文化史的な興味など、マーラーを「骨董」として 扱う態度と隔たるところはない。そしてマーラーの音楽を「骨董」としてでなく聴くには距離感への意識が必要なのであって、文化史的な興味なるものは寧ろ それ自体、自分のパースペクティブにマーラーを嵌めこんでしまい、他者としてマーラーに接することを避けているのだ。 相手を自分の展望なり文脈に位置づけるのではなく、寧ろ自分が自分の本来の立ち位置から(仮想的にであれ、もっと言えば思い込みに過ぎなくても) 離れて「身を退く」こと、それが客観的には不可能であっても、時代の隔たりを超えて自分がマーラーに歩み寄り、少しだけマーラー「になる」こと、 それがマーラーを聴くことの意味だと思う。ありがたいことにマーラーを聴くことが「ファッション」であるような身の毛もよだつような酷い時期は過ぎ去ったようだ。 実際にはその結果、いよいよマーラーは手の届かない遠くに行ってしまったに違いないのだが、マーラーの音楽の力はそうした距離を超えるだけのものを 持っていると私には感じられる。音楽の持つ暴力、聴き手がそれを受容することで「別の身体」を自分の内側に引き込んでしまう力は、自分の知らない時代に 自分の生きていない風土に生きた人間を私の中に埋め込む。マーラーを聴くこととは、少なくとも私にとってはそういうことなのだ。

今後、せめて個々の演奏についてのコメントをつけようかとも考えているが、それが録音された演奏に相応しく(何しろ、 繰り返して聴くことができることが、その大きな特徴の一つで、実演との大きな違いな筈なのだから)一過的な印象にとどまらない ものたりうるか、あるいは複数の録音を聴く場合に陥りがちな、「聴き比べ」の弊に陥らずに済むかについては、あまり自信がない。 演奏の優劣を論じるのに必要な条件を私が充たしていないのは明らかで、だからいわゆる批評をするつもりもないし、 それぞれの演奏から何が聴き取れるかという側面に絞って書くしかないのだが、それでも、繰り返し聴くたびに加筆・修正を していくことになるのだろうと考えている。(2008.3.15初稿、10.26, 2009.6.12, 10.10加筆)



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(2008年3月作成)