グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・所蔵CD覚書(2)交響曲

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年表(録音順)
概観
第1交響曲/交響詩「巨人」
第2交響曲/交響詩「葬礼」
第3交響曲
第4交響曲
第5交響曲
第6交響曲
第7交響曲
第8交響曲
第9交響曲
第10交響曲(全集版アダージョ/クシェネク版アダージョ・プルガトリオ/クック版)



第1交響曲/交響詩「巨人」

バルビローリの演奏は第1楽章提示部の繰り返しを含まない。ただし繰り返し記号は1906年の出版譜において既に追加されているし、バルビローリはマーラーの 他の作品や他の作曲家の作品においても提示部の繰り返し指定を行わないことが多かったから、この演奏が1899年のヴァインベルガーから出版された楽譜に よるというわけではなくて、これは第6交響曲にも共通するバルビローリの演奏の特徴であると考えるべきだろう。

バルビローリにはニューヨーク・フィルとの1959年1月10日の演奏会を放送用に録音した記録があり、これはアルマがリハーサルと演奏会を聴いたというエピソードがあるものだが、 そうしたエピソードが伝えられて当然の感動的な演奏で、マーラーが晩年の1909年12月16, 17日に同じカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルを指揮して若書きの この曲を自ら取り上げたとき(これはこの作品のアメリカ初演でもあった)の印象をワルター宛の書簡(1996年版書簡集429、これはアルマの回想の付けられた 書簡選でも採られていて、ミッキェヴィッチの「葬送」の引用を含むことで有名な書簡である)にて述懐しているが、その印象を彷彿とさせるような圧倒的な力を持っている。

どこをとっても素晴らしい演奏だが、 特に第4楽章の2度ある突破のうちの最初の激発が収まったあと、第1楽章冒頭を回想する箇所の回想の時間性の眩暈を起こさせるような深み、全く異なる時間の流れに ふと落ち込んだような対比の鋭さはバルビローリの解釈の真骨頂を示すものだろう。第1楽章展開部後半を再現した2度目の突破からコーダに至るまでの音楽は、 まさにマーラーが書簡で語った「造物主への嘆願」であると感じられるし、アルマが50年近い時を隔ててこの演奏にマーラーその人を聴き取ったとしても不思議はない、 勿論、我々はマーラー自身の演奏がどうであったかを知る術はないけれど、確かにそれに迫る何かを備えていることを確信させる演奏の記録だと思う。

コンドラシンもまた第1楽章提示部反復を行わなかったようで、スタジオ録音、ライヴの2種類の第1交響曲も、第6交響曲のいずれも反復をしていない。 コンドラシンの演奏記録のうち、1981.3.7の北ドイツ放送交響楽団とのアムステルダムでの演奏は、テンシュテットの代演を急遽引き受けたもので、コンサートの後のホテルで コンドラシンが急逝した知らせが衝撃を持って駆け巡ったのは未だ記憶に新しい。演奏はそうした状況のアウラを抜きにしても深い感動を呼び起す素晴らしいもので、 コンドラシンならではの繊細な音響バランスと凄まじい集中力と推進力を兼ね備えた圧倒的な記録である。

初期の交響詩「巨人」としての形態の 録音も増えてきた。 ルードとノルシェーピング交響楽団による演奏はハンブルク稿によるもの。The Cambridge Companion to MahlerのDiscographyにはブダペスト稿と 記載されていて非常に驚いたがこれは記載ミスで、CDのリーフレットの指揮者自身の解説においてハンブルク稿を用いた演奏であることが明確に記載されている。 なお、ブダペスト初演時の形態は、その後のマーラーの改訂作業の進め方に由来する問題から稿態としては残存せず、復元も困難であるとされているようだ。 (もっとも、自筆譜では初期に存在したことが確認できる第4楽章冒頭部分の「再現」を採用した演奏が試みられたりはしているようだが。)

一方のハマルとパンノン・フィルによる交響詩「巨人」の演奏はヴァイマル稿によるとのことだが、これがハンブルク稿とどう違うのかについては詳らかではない。 こちらもCDのリーフレットに指揮者自身の書いた解説があるのだが、それには1893年に行われた改訂については言及されていても、1894年6月にヴァイマルで 行われた演奏に先立って1893年10月27日に行われたハンブルクでの演奏についての言及が全く無いのは不可解という他ない。また重大な日付の誤りがあり、 ド・ラ・グランジュの主張する1893年の2度の改訂の2回目が12月16日ということになっていて、そのためハンブルクでの演奏の日付を知っている人間が読めば、 まるでその後の改訂日付を持つ自筆譜があるかのように読めるが、実はこれは恐らくBlumine楽章の改訂日付である8月16日の誤記と思われる。 確かにド・ラ・グランジュは1893年1月の時点ではスケルツォ楽章が一旦第2楽章とされた形跡があることなどから、一旦Blumineが削除されたという推測をしているが、 その説を採用したとして、ハンブルクでの演奏の時点ではBlumine楽章が復活したことは確かだし、ド・ラ・グランジュもまたハンブルクでの演奏時の標題を示すことで 事実上それを認めている。ただしハンブルクでの演奏後に更に改訂作業が行われたことについてはミッチェルも指摘しており、可能性としてはそれが1894年の ヴァイマルでの演奏前に為されたこともありうる。ミッチェルは序奏と提示部の最初の17小節の写譜の異稿について言及しているが、そうだとしたらこの演奏が ミッチェル言うところの(ハンブルク稿を「第1稿」としたときの)「第2稿」、即ちに異稿によるものである可能性も残っている。とはいうものの、 リーフレットの記述内容などから推測するに多分そうではなくて、実際にはこれもいわゆる「ハンブルク稿」に基づく演奏で、私には判然としない何らかの根拠に基づき、 当該稿態が、ハンブルクでの演奏の時点よりもヴァイマルでの演奏時点のものであると判断したのではなかろうか。

なお、その後得た情報によれば、 ハンブルク稿はイエール大学に所蔵されている草稿のことだが、これとは別にウェスタン・オンタリオ大学に所蔵されている草稿があり、 これはほぼブダペスト稿に相当、一方、ヴァイマル稿はニューヨーク・パブリック・ライブラリに所蔵されているらしいので、ハマル/パンノン・フィルの演奏がこの草稿 ベースであれば、「ヴァイマル稿」による初演という主張自体には問題なく、リーフレットでの説明が不親切なだけ、ということになるだろう。なお、私はこの情報を Julian Johnsonの"Mahler's Voice"(2009)により知った。JohnsonはMcClatchieの"The 1889 Version of Mahler's First Symphony"(1996)を 参考文献として掲げており、これにあたればより正確な情報が得られるのだろうが、現時点ではあたれていない。Johnsonはまた、ハンブルク稿とヴァイマル稿の 違いについて、木管が3管編成から4管編成になったこととエキストラのホルンが3本加わったことを挙げている。このうち木管の増強は最終稿態での編成への 移行がハンブルク稿からヴァイマル稿の間でなされたということなのだろうが、ホルンの増強については、これが終楽章のホルンのエキストラ(ヴァインベルガーから 出版された初版では3本以上と指定されている)に繋がるものなのか、それとも最終的に7本となったホルンパートの増強なのか(「エキストラ」という点に注目 すれば前者ととるのが自然だろうが)、判然としない。なお、後述のように第4楽章56番のこのホルンパートの補強については、何で補強させるかに ついて、1906年版と1966年のマーラー協会版とで異なっていて、1906年版ではホルンのみで行われていた補強がトランペットの5番とトロンボーン4番も加わって (スコア上は、補強パートが削除され、替わってトランペットの5番とトロンボーン4番が追加されて)行われるようになっている点も考慮にいれるべきかも知れない。) 同様に、ニューヨーク・パブリック・ライブラリ所蔵の草稿の日付がハマルが記述するとおりの1893年12月16日の日付を持つのかどうかもまた、 草稿自体を確認し、CDの演奏を注意深く聴かないことには確かなことはいえなさそうである。せめてハンブルク稿のスコアが 手元にあれば、それとこの録音の演奏との違いを検討することもできるだろうが、現時点ではいずれもできない以上、これ以上の推測は慎むべきであると考える。 もう一点だけ付記すれば、Johnsonの記述(恐らくMcClatchieの論文に基づく)によるならば、現在一般にそう思われているのとは異なって、ブダペスト稿は、 ハンブルク稿改訂作業の結果、喪われてしまい復元不可能だということはなく、「ブダペスト稿」の試演も可能なようにもとれる。もしかしたらじきに「ブダペスト稿による 演奏」と銘打った演奏が行われたり、録音が行われたりするのだろうか。

ちなみにいわゆる「ハンブルク稿」の第1楽章冒頭の弦のAの持続音にはフラジオレット指定がないのだが、これについてはブダペストで演奏した折に(あるいはその 演奏の経験に基づきその後)追加したというマーラー自身の証言がナターリエ・バウアー=レヒナーの回想にあって、ハンブルクでの演奏の際に「実際に」どちらであったかは判然としない。 (金子健志はハンブルクではすでにフラジオレット奏法を採用していただろうという推測を述べている。) この点についてはマーラーの回想自体が矛盾を含んでいて、ライプチヒで第1楽章を書き上げた直後にヴェーバー家のピアノで試奏したときの回想ではまるで はじめからフラジオレットがあったかのような言い方になっている。

リッケンバッハーの演奏は「巨人」の第2楽章である「花の章」のみを単独で演奏したもの。一時期「花の章」を第1交響曲の第1楽章と第2楽章の間に 挟む折衷版の形態の演奏がしばしば行われ、録音としても存在するが、あくまで「仮構された」稿態と見做されるべきである。ケーゲルの3種のうち2種は 演奏会を収録した、本来の意味でのライヴ録音である。

小澤にはボストン交響楽団との演奏が2種類あり、一方は「花の章」付きだが、これは1977年に4楽章形態で録音したものに、1984年になって録音した 「花の章」をいわば後から挿入したもの。私が最初に聞いたマーラーはこの小澤の1977年録音の4楽章形態の演奏をFMで流したものであった。

1939年4月7日のワルターの演奏記録はNBC交響楽団との初めてのマーラー演奏であったが、結局ワルターはこの年の10月30日、ジェノヴァを発ってアメリカに 向かうことになる。録音状態には勿論限界はあるが、ワルターがマーラーその人から受け取ったものが確かに聴き取れるような、ある種デモーニッシュな 凄みすら感じさせる演奏である。第1楽章の提示部などの反復が行われていないことを考慮しても際立った演奏時間の短さから窺えるように、テンポ設定が 独特で、特にフィナーレ冒頭は楽段毎にテンポを一旦落としては極限まで上げていくことが繰り返され、目覚しい効果を上げている。戦前のワルターの 様式が後年に作られたイメージに必ずしも添っていないことや、表現主義的な演奏様式とか即物主義的な演奏様式とかいったラベル付けをして個別の演奏を 分類してしまうことの危うさを確認させる。だが何よりも、演奏様式の変遷や受容史の一齣に押し込めてしまうことのできない力、21世紀の今日においてもなお 喪われていない力を備えた貴重な演奏記録である。

交響詩「巨人」の稿態については既に記したとおりだが、それだけでなく1896年のベルリンでの演奏以降のいわゆる「第1交響曲」についても、稿態の問題は 存在する。これは出版譜の異同によって確認することができ、1899年にヴァインベルガーから出版された初版と1906年にユニフェルザールから出版された 版、更に1966年に出版されたマーラー協会全集版の間にはオーケストレーションに関してかなりの違いがある。(レートリヒのオイレンブルク版の序文によれば、 更に1943年のシュティードリーによる分析のついたBoosy & Hawks版、1960年にモスクワで出版されたいわゆる「ムジカ」版もそれぞれマーラーが行った 改訂作業の取捨選択について異同が見られるようだ。)

結果的に、いわゆる歴史的録音では 今日一般に用いられる楽譜とは異なった楽譜での演奏が行われていて、実際にCDによる記録でそれを確認することができる。例えば1939年のワルター、 1941年のミトロプーロスの演奏では、第4楽章の練習番号6からの主題提示の最初の部分が木管とホルンのみで為されていて、トランペットによる補強が ないが、これは1906年版で確認できるオーケストレーションに一致している。また練習番号44番のシンバルの一撃も1906年版の通り、打たれていない。 なおミトロプーロスの演奏では、第4楽章の冒頭数小節後から6番にかけてのティンパニが「ずれて」いるが、これは流石に意図的なものではなく、演奏ミスの類だろう。 古い演奏では、1906年版ではなく、1899年のヴァインベルガーの初版によるものの記録も残っているのかも知れないが、ヴァインベルガー版のスコアが 手元にないため、私には確認する手段がない。(ちなみに第1楽章提示部反復の有無は、バルビローリやコンドラシンの場合を考えてみれば明らかなように、 ヴァインベルガー版への依拠とは基本的に別の問題であることは言うまでもないだろう。)

興味深いのはバルビローリの演奏で、1957年の録音にも関わらず上掲の第4楽章冒頭の主題提示の開始部分でトランペットによる補強が確認でき、 1906年版とは異なる楽譜を用いているらしい。これは練習番号56番からのホルンの旋律の補強が全集版によっているように聞こえることからもいえるだろう。 バルビローリの演奏でもう1点興味深いのは1906年版にない練習番号44のシンバルの一撃が採られているだけでなく、その3小節前の頭拍にもシンバルが 打たれているのが確認できることで、これが使用楽譜によるのか、「現場の判断」によるのかはわからない。

一方1959年のニューヨークでのコンサートは、今日ではDover版などで確認できる古い版(恐らくは1906年の版)にほぼ従った演奏のようであるが、興味深いことに、 ここにおいても2年前のスタジオ録音と同じく第4楽章冒頭の主題提示の開始部分でトランペットによる補強がはっきりと聴き取れる。一方で練習番号44番前後の シンバル打ちについては1906年版にしたがっているようだ。この点で特に印象的なのは、相対的に無骨に演奏される第2楽章のレントラー再現の練習番号29番の 4小節後からティンパニが主題のリズムをフォルテで強打する部分で、この作品の成立史を知る者にとっては交響詩「巨人」のフラッシュバックであるかの ような印象を覚え、はっとさせられる。第1楽章の序奏の練習番号2番の4小節前のTempo I に対して、その直前にクラリネットが奏するカッコーの音型の 最後の繰り返しを、楽譜の指示(これは1906年版で既に確認できる)に従わずにTempo I に従うことや第1楽章の提示部反復を省略したりするなどは1957年の ステレオ録音と共通するものであるが、随所で聞かれる違いについてはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団が所有しているであろう楽譜に基づくものである可能性が 高いように思われる。ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団は2度の大戦を挟んで、一旦ヨーロッパでは中断しかかったマーラー演奏の伝統を継承してきたオーケストラだし、 マーラー自身が晩年、この作品を指揮した際に使用した楽譜がライブラリに保管されているようなので、この演奏にもそれが反映されている可能性は充分に あるわけである。ちなみにニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のライブラリ所蔵の楽譜は1899年のヴァインベルガーのもののようだが、恐らくマーラー自身が演奏したとなれば 1906年版に反映された変更も含め、その後の改訂の結果が反映されていると考えるのが自然であろう。この演奏のどの部分がそうした伝統に属しており、あるいは バルビローリ独自のものであるのかも含め、事実関係については現在の私には確認の手段がないのでこれ以上のコメントは控えるが、いずれにしてもそうした様々な 歴史的な脈絡の交錯の中で実現した稀有の記録の一つであることは疑いを容れないと考える。

コンドラシンの演奏はおおむね全集版によるのは確かだが、上掲の第4楽章冒頭の主題提示の開始部分は、モスクワ・フィルのはトランペットの補強なしに聞こえる。 更に興味深いのは練習番号56番からのホルンの旋律の補強についてで、両方の演奏とも1906年版とも全集版とも異なるようだ。練習番号56番からの最初の6小節は ホルンのみで補強させ、その後トランペットとトロンボーンを参加させる折衷的な形態を採っているように聞こえることで、これがコンドラシンの判断によるのだとしたら、 これは優れた判断だと私には思われる。(これについては、マーラー自身が、1898年にプラハでこの曲を演奏した際、リハーサルをつけたシャルクに対して、 トランペットとトロンボーンの補強は、ホルンのみで音量が充分出ない場合の非常手段で、あくまでもホルンのみでの補強が望ましいという文面の手紙を 送っているという事実を思い起こすべきだろう。)なおコンドラシンの用いた楽譜はレートリヒがオイレンブルク版の序文で言及していた1960年のムジカ版とも異なるようで、 練習番号44のシンバルの一撃は採られている。


第2交響曲/交響詩「葬礼」

リッケンバッハーのものは、第2交響曲第1楽章の初期形態である交響詩「葬礼」の形態を演奏したもの。かつて若杉・東京都交響楽団のマーラー・ツィクルスでは 葬礼+第2交響曲の第2~5楽章という形態の演奏が試みられたが、これは丁度、若杉が第1交響曲では避けた、第1交響曲に「花の章」を挿入するような もので疑問が残る。(私は「葬礼」のみ聴いて、その後は聴かなかった。)バルビローリの2回はいずれも本来の意味でのライヴ演奏で、演奏には傷が少なくない。フリートのものはマーラーの交響曲の最初の録音として著名である。1880年生まれのシューリヒトもまた、第8交響曲のミュンヘン初演に立ち会っており、早くも1913年9月にヴィースバーデンで第8交響曲の指揮をしており、第2交響曲と第3交響曲はシューリヒトのレパートリーの中で重要な位置を占めていた。1958年の第2交響曲の2種類のライヴはシューリヒトのマーラー解釈の卓越を証する貴重な記録である。

ワルターの1948年5月のウィーンでの第2交響曲の演奏記録の歴史的価値は揺るぐことがないだろう。これはワルターがアンシュルス直前に指揮した第9交響曲以来の、里帰り公演であった。今日我々は幸いにして ワルターがウィーンに別れを告げた第9交響曲、ワルターがウィーンと再会した折の第2交響曲のいずれの記録にも接することができる。だが、それだけではなく、この記録はマーラーのウィーンでの復活を告げる公演の ドキュメントでもあるのだ。ライブ特有の傷はあるし、録音の状態は良好とはいえないけれど、この一期一会の演奏の持つ例外的な力、それに立ち会った会場の異様な雰囲気は充分に感じ取ることができる。これほどまでにこの曲の歌詞が 重みを持って一言一言噛み締めるように歌われ、それを支えるパッセージが各楽器によって歌われ、聴き手の心に染み渡ってくる演奏は稀であろう。21世紀の今日、この曲の力は最早既に喪われたとする見方 もあるようだが、仮にそれを認めたとしても、このような記録に接することによって、その音楽の持つ偉大な力に触れる経験をすることは今なお可能なのである。


第3交響曲

バルビローリの2回のうち、ベルリンでのものは演奏会のライヴであるのに対し、マンチェスターでの演奏は放送用に収録されたもの。デリック・クックがEMIにリリースを働きかけたのは、マンチェスターでのハレ管弦楽団との演奏の方である。コンドラシンは第3交響曲のロシア初演者であり、早くも1961年に録音を行っている。コンドラシンの録音は(第4交響曲もそうだが)国内向けのロシア語歌唱のものに加えて、国外向けのドイツ語歌唱の ものがヴァリアントとして別途収録された。1880年生まれのシューリヒトもまた、第8交響曲のミュンヘン初演に立ち会っており、早くも1913年9月にヴィースバーデンで第8交響曲の指揮をしており、第2交響曲と第3交響曲はシューリヒトのレパートリーの中で重要な位置を占めていた。1960年4月7日にリーダーハレで演奏された第3交響曲の録音もまたシューリヒトのマーラー解釈の卓越を証する貴重な記録である。


第4交響曲

バルビローリのBBC交響楽団とのプラハでの録音は演奏会のライブである。ピアノロールに遺されたマーラー自身のピアノ演奏の記録は、指揮者としての演奏記録がないことを考えれば貴重なものである。メンゲルベルクの1939年の録音は、生前のマーラーが最も信頼を寄せた指揮者による貴重な演奏記録。メンゲルベルクの解釈は明晰な形式についての見通しを土台にしたものであり、主観的で恣意的な解釈とは全く異なった感触を備えている。この演奏に「時代」を感じるというのなら、その一方でマーラーを聴くこと自体については何故平気でいられるのか私には理解ができない。寧ろ私にはワルターの演奏の方にマーラー自身も含めた先人の世代に対する意識が感じ取れるし、最晩年のマーラーが最後に自作を演奏したのがニューヨークでの第4交響曲であったことを思えば、このワルターの演奏のそこかしこに、或る時期以降ワルターの演奏を形容するのに用いられたクリシェとは相容れないものを聴き取ることが可能であるように思える。第4楽章を歌うハルバンは、マーラー時代のウィーン宮廷歌劇場で活躍したゼルマ・クルツの娘である。なお、フィナーレをケニーが歌ったものはマーラーの演奏のピアノロールの再生に合せたもので、いわゆる普通の意味でのピアノ伴奏による歌唱とは全く異質のものである。コンドラシンのものは第3交響曲がそうであるように、ここでも国内向けのロシア語歌唱のものに加えて、国外向けのドイツ語歌唱のものがヴァリアントとして別途収録されている。


第5交響曲

ピアノロールに遺されたマーラー自身のピアノ演奏の記録は、指揮者としての演奏記録がないことを考えれば貴重なものである。メンゲルベルクおよびワルターの録音は戦前のものであり、この楽章を単独で演奏したケースである。メンゲルベルクはコンセルトへボウ管弦楽団との初のセッション録音を始めるにあたって、この曲を選択したようだ。こうしたやり方を、これまたマーラーが一般的でなかった時代の制約の賜物とする見方は、どこかで遠近感がおかしくなっているのだろう。作曲の経緯に由来するかどうかによらず、結果的にこの曲にはこうした演奏形態を許容するものがあると考えるべきだと思う。そしてそれは例えばクレンペラーのこの曲に対する批判的なスタンスと表裏一体のものであるに違いない。ちなみにワルターとメンゲルベルクによるアダージエットの演奏が、その後の一般的な演奏と比して速いテンポを採っているのは興味深い。そしてバルビローリの演奏は、全体としては非常にゆっくりとした演奏であるにも関わらず、第4楽章のみはやはり早めのテンポを採っている。これらのうちどれくらいの割合が指揮者の個性に由来し、どれくらいが様式的なものを含めた時代的なものか判断するのは難しいだろうが、それらに一定の傾向を見るのはあながち不当なこととは思えない。メンゲルベルクの演奏におけるポルタメントの多用は流石に時代を思わせるものだし、マクロなテンポ設定やより詳細なアゴーギグはそれぞれ全く異なったものであるが、それでもアダージョ楽章の旋律のフレージングや歌わせ方といったものの個別の解釈ではなく、そうした側面に対するフィーリングのようなところで近年のある種の演奏では聞くことのできない何かがあるように思えてならない。そうしたものはだから、例えばメンゲルベルクの演奏のテンポや奏法を表面的にコピーすれば「再生」可能なものではないのかも知れない。一方でコンドラシンの演奏は別の伝統に属するものでありながら、その演奏の価値は、ロシアにおける初期の録音記録であるというに留まることない、説得力を備えたものと感じられる。


第6交響曲

バルビローリのベルリンでの演奏は、演奏会のライヴだが、第2楽章アンダンテ、第3楽章スケルツォの順序で、3度目のハンマーが聴かれるなど、ラッツ校訂のマーラー協会全集によらない演奏。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音は、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの順序で発売されたこともあるようだが、版の問題は微妙で、3度目のハンマーは採用されず、チェレスタに置き換えられている一方で、ラッツの校訂に従っていない箇所もあるように聞こえる(つまり第3版による)。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのプロムスでのコンサートのライヴ録音はスタジオでの録音とほぼ同時期に収録されたものだが、解釈やテンポ設定は、寧ろ前年のベルリンでのライブに近い。ただし楽譜については中間楽章の順序も含め、スタジオ録音と同様(ラッツ校訂の全集版ではなく)第3版を用いている。なおバルビローリの録音に共通しているのは第1楽章の提示部反復を行わないことで、これは第1交響曲でもそうだし、マーラーに限らず、他の作曲家の作品の場合でもバルビローリは提示部の反復を行わない場合が少なくない。一方、マーラー協会全集版を忠実にリアライズしたインバルの演奏では第1楽章提示部の反復は勿論行われている。ゴルトシュミットがBBC交響楽団を演奏した録音の第2楽章というのはアンダンテ楽章である。ゴルトシュミットは第10交響曲の演奏会用バージョンの編者の一人として著名だが、このアンダンテ楽章の解釈も卓越しており、マーラーの音楽に対する理解と思い入れの深さを感じさせる名演で、抜粋なのが惜しまれるほどである。またゴルトシュミットは第6交響曲の楽章排列に関して第2楽章アンダンテ・第3楽章スケルツォの順序が正しいと考えていて、順序を入換えたラッツとは意見を異にしていた。この演奏が収録されたCDは国際マーラー協会による「マーレリアーナ」の付録なのだが、関連するゴルトシュミットのラッツ宛書簡が本文のp.84に収められていて、この演奏はまさにそれに対応する記録となっている点でも興味深い。コンドラシンの録音は第1楽章の提示部反復を行っていないが、協会全集版による演奏である。


第7交響曲

バルビローリはベルリンでの演奏会でマーラーの交響曲を順次取り上げていったが、1970年の急逝によって途中で絶たれてしまった。次に予定されていたのは第7交響曲であったようだ。バルビローリ、コンドラシン、 インバルの録音はそれぞれ異なったアプローチではあるが、この作品の演奏の中でも際立った説得力を備えたものと考える。


第8交響曲

バルビローリは第8交響曲のみ演奏の記録がない。もっともスコアの研究は行い、準備はしていたらしい。バルビローリはマーラーを取り上げるにあたって数年前から入念に準備をして演奏に臨んだらしく、あるいは第8交響曲もまた、演奏の予定があったのかも知れないが詳らかでない。ストコフスキーの1950年の録音は第8交響曲の録音としては最も早いものだが、同時に彼が1916年にこの曲のアメリカ初演を果たしていること、更には1910年9月のマーラー指揮によるミュンヘンでの初演の聴衆の一人であることは特記しておくべきだろう。


第9交響曲

バルビローリの演奏は、ベルリンでの演奏会での演奏に感激したベルリン・フィル側が録音を希望したという有名なエピソードがあるもの。これ以外にもニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との演奏、トリノの放送オーケストラとの演奏を放送用に収録した記録がある。ヴァルターのものはアンシュルスの直前のウィーンでの定期演奏会で演奏のライヴ録音で、異様な緊張感を湛えた貴重な記録。コンドラシンは第9交響曲のロシア初演者であるが、実は日本での第9交響曲の初演もまた、コンドラシンがモスクワ・フィルと来日した際のプログラムである。1967.4.16の東京文化会館での演奏は録音が残っており、その初演の模様を確認することができる。だがコンドラシンの演奏の価値はそうした歴史的観点のみから語られるものを大幅に上回る、極めてユニークではあるけれど、凄まじい説得力を備えた演奏である。


第10交響曲

第10交響曲は、マーラー協会の全集に従って、第1楽章アダージョのみを演奏する場合と、全5楽章を演奏可能な形態に補完したバージョンを演奏する場合があるが、後者におけるデ・ファクト・スタンダードは、デリック・クックによるものだろう。インバルは両方の版を録音しているが、これは極めて珍しいケース。リッケンバッハーの演奏は、アダージョのみを単独の独立の作品として演奏したもので、30分以上もかけた異色の演奏である。5楽章の補筆版にはクック版の他にも幾つかのバージョンがあって、録音もわずかながら存在するようだが、私見ではクックの版があれば充分である。それが最終形を想定したものでなく、残されたものを演奏可能にするという極めて慎重な方針に基づいたものであり、従って、テクスチュアが薄い箇所があるにせよ、他の版で行われた付加が結局マーラー的により近づくことに成功しているとは到底言い難いように思えるだけに、クックの判断の適切さを確認する結果になっているように私には感じられてならない。クシェネク版は第1楽章のアダージョと第3楽章のプルガトリオのみの出版だったが、この両方を演奏したのがセル、クリーヴランド管弦楽団の1958年録音のもの。和声付けや旋律線がクック版と比較してかなり違うのが一聴してわかる。リッケンバッハーの版は解説によればクシェネク版に対してベルクが更に行った校訂を反映した独自のヴァージョンを用いているとのこと。クック版の演奏としては、部分的な状態であった第1稿をおけば最も早い録音は1965年のオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団によるもので、これは出版された最初の稿態である第3稿の前の段階(第2稿)による演奏記録として貴重なものである。インバルの演奏はクックの没後に共編者のマシューズ兄弟とゴルトシュミットが更に手を入れた第3稿第2版の出版後であるが、第3稿第1版を用いている。

ちなみに、ワルターやアドルノをはじめとした多くの著名な論者による反論にも関わらず、5楽章版を聴くことの意義は明らかであるように思われる。トルソに過ぎなくても、マーラーが全曲をどのように構想したかを実際に音にして確認することの意義には疑問の余地がないように思えるからだ。アダージョのみを前提に考えるのと、5楽章の構想全体を踏まえて考えるのとでは、マーラーが最晩年に到達し、向かいつつあった方向についての展望は全く異なったものになるだろう。そしてこの点では、友人であったラッツとの関係もあってか、第1楽章のみを採用することを是としたアドルノの意見よりも、実際に音となって響いた全曲を聴いてクックの作業の価値を認めたアルマの判断の方が私には共感できる。



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