「大地の歌」については、管弦楽版とピアノ版、テノール・アルトの独唱か、テノール・バリトンの独唱か、という選択肢が存在する。上記の録音のうち、カツァリスのものがピアノ版であり、バーンスタインが指揮するウィーン・フィルとともに、キングとフィッシャー・ディースカウが歌ったものがテノール・バリトン独唱版ということになる。それ以外は最も一般的な選択である、テノール・アルトの独唱・管弦楽版である。バルビローリの録音は放送音源ではなく、放送をエアチェックした記録ということで、冒頭の7小節が欠落している他、録音の状態は良くないため、特にバルビローリの演奏に強い関心を持っているのでなければ一般的には記録としての価値を超えるものではないだろう。ちなみにテノール・バリトン独唱版というのは非常に稀で、上記のバーンスタイン版以外にはクレツキが指揮したものがあるのみという状態が長く続いたが、最近ようやく新しい録音が追加されたようだ。
大地の歌は歌手の確保の困難や他の交響曲の演奏頻度の向上もあって、近年は相対的に演奏や録音の頻度におけるプレゼンスが落ちているような傾向すらあるし、実演で接するのは寧ろ困難な曲に分類されるのかも知れないが、流石に往年の演奏記録には事欠かない。初演者ワルターが指揮したウィーン・フィルでトールボリとクルマンが歌った1936年の録音、1952年に同じ指揮者とオーケストラでフェリアーとパツァークが歌ったものの価値は揺るがないだろう。1939年10月5日のアムステルダム、コンセルトへボウの演奏会の記録であるシューリヒト指揮、コンセルトへボウ管弦楽団、トールボリとエーマンの歌唱の記録は、演奏会中(第6楽章の間奏が終わったタイミング)で発生したハプニングの記録で知られているが、そうした史料的価値を抜きしてもこの演奏は際立って優れたものの一つであると私は思う。実はこの演奏会は本来はメンゲルベルクが指揮する筈であったが、(メンゲルベルクにはしばしば起きたことのようだが、)病気のために指揮ができなくなり、急遽代役を探すことになったのだが、歌手達の意向もあって、ユトレヒトのオーケストラに客演していたシューリヒトが代役を務めることになったという経緯があるらしい。ここで聴かれる自在なテンポの変化、大きなテンポ・ルバートがどこまでメンゲルベルクとコンセルトへボウ管弦楽団のもので、どこからがシューリヒトの解釈であったのかを判断することは困難だろうが、いずれにしても前年にワルターの下でも歌ったトールボリにしてもエーマンにしても、その歌唱は見事だし、シューリヒト指揮するコンセルトへボウ管弦楽団の自在さは驚異的である。既に前年にオーストリアはナチス・ドイツにより併合され、ドイツ国内ではユダヤ人の音楽を演奏することが禁じられて、オランダの独立ももう間もなく喪われようというこの時期にユダヤ人による「大地の歌」という題名の作品をドイツ人の指揮者の指揮者によってオランダのオーケストラにより演奏されるという状況の異様さがくだんのハプニングを引き起こす原因であったに違いないが、ワルターによる3年前の大地の歌、そして前年のウィーン・フィルとの第9交響曲、そしてこの演奏のほんの1月前の演奏会の録音であるメンゲルベルクとコンセルトへボウ管弦楽団の第4交響曲といい、この時期の演奏が持っているアウラの力には凄まじいものが感じられるのは、決して後知恵によるものばかりとは言えないだろう。勿論、それだけではなく、第8交響曲の初演にも立ち会ったシューリヒトのマーラー解釈が如何に卓越したものであったかを認識することができる記録でもある。
最近の傾向としては、上述のアルトの替わりにバリトンが歌うものが増えてきていることと並んでシェーンベルク・リーン編の室内楽伴奏版の録音が増えているのが目立つが、手元には残していない。一方、ピアノ伴奏版については、それを連作歌曲集と見做してしまえば、「子供の死の歌」が女声で歌われる例などの延長線上に声部指定に拘らない選択もありうるだろう(ただし、マーラー自身の指定の有無の違いは厳然と残るが)。実際、それを実現した素晴らしい演奏がある。ソプラノの平松英子が野平一郎のピアノ伴奏で歌った演奏は歌曲としてのこの作品の解釈として圧倒的な説得力を持つ。ワルターの初演以来の西欧におけるこの作品の解釈とは異なった方向性が明確に打ち出されているが、それがピアノ伴奏版、全曲をリリック・ソプラノで歌うという選択と見事に調和している。かつて柴田南雄が東洋的なマーラーが聴けないものかという発言をしたが、それに対する回答にもなりえていると私には感じられた。歌唱もピアノ伴奏も技術的にも非常に高く、決して絶叫調にならずに完璧にコントロールされた肌理の細かい歌い分けと明晰な声部処理と和声の変化の雄弁さが際立つピアノ伴奏は、この作品の演奏記録で最高のものの一つではないか。一方、スミス・パレイ・ラーデマンのものはアルトの替わりにバリトンを用いたピアノ伴奏版での初録音という触れ込みのものである。
「嘆きの歌」には少なくとも2つの版が存在する。1880年の3部からなる初稿とその20年後にマーラー自身の指揮で初演され、出版された2部よりなる改訂稿である。改訂稿では初稿の第1部が削除され、各部のタイトルも削除された。しかし、初稿第1部の存在はかなり前から知られており、録音においても実演においても初稿第1部に改訂稿を付け加えた折衷による演奏が永らく一般的だった。全曲通しての1880年版の演奏は、ナガノ指揮ハレ管弦楽団によって1997年に行われ、マーラー協会もラッツ時代の最終稿=決定稿主義から方針を変えて、補巻として1880年稿が出版されることになった。ナガノの演奏は1880年稿の全曲初演の際に収録されたものである。
マーラーの歌曲のうち管弦楽伴奏があるものについては、ピアノ伴奏と管弦楽伴奏の2つの形態が存在する。一方、例えば「大地の歌」や交響曲に埋め込まれた歌曲の場合と異なって、歌曲集については、声部の指定は明示的なわけではなく、それゆえ男声によって歌われる場合と女声によって歌われる場合が出てくる。この「さすらう若者の歌」の場合も内容上は男声による歌唱が自然なのは当然だが、女声による歌唱も珍しくない。上記録音は4種類の組み合わせを網羅している。カールソンの歌唱はマーラーの演奏のピアノロールの再生に合せたもので、いわゆる普通の意味でのピアノ伴奏による歌唱とは全く異質のものである。
「子供の死の歌」の場合も声部指定があるわけではないのだが、さすがにこの曲の場合はマーラー自身は専ら男声による歌唱を想定していたらしい。だが、録音については女声で歌われるケースも決して稀ではない。それどころか、女声による演奏に名演の呼び声高いものも少なくなく、そこには興味深い問題があるように感じられる。レーケンパー/ホーレンシュタイン、フェリアー/ワルター、ベイカー/バルビローリはいずれも歴史的な名演奏であり、時代様式の違いと個性の違いはあるけれど、それぞれにこの作品の深みと凄みを示すものであり、時代の移り変わりを超えた価値があると考える。こういう演奏に対して「時代がかった」「古めかしい」という評言は全く不適当なもので、評言そのものが自らの時代の中に無意識に自足して、自分の価値判断の尺度の相対性と、その展望の遠近法的倒錯を顧みない度し難い傲慢さを示しているとしか思えない。だったらマーラーを聴くことなどいっそ「今日的」でないとして止めてしまえばいいのだ。なおこの曲集がピアノ伴奏版で録音される頻度は、大地の歌程ではないにせよ、他の歌曲に比較して低いように感じられる。上記は一応、男声・女声と管弦楽伴奏・ピアノ伴奏の両方の組み合わせを網羅している。
3つの歌はもともとの構想で3曲を1まとまりと考えられていたわけではなく、またマーラー自身が出版を想定していなかったのは明らかでマーラー自身が出版や演奏をどう思ったかについては微妙なところだと思うが、「嘆きの歌」との関連が見られることや、第3曲の「緑の野の5月の踊り」はほぼそのままリートと歌第1集の「ハンスとグレーテ」に転用されていることなど興味深いトピックを幾つか持っている。一方、リートと歌第1集は、第2,3集と異なって、子供の魔法の角笛によらない曲のみからなっていて、成立時期も遡るものが多い。ドン・ファンのファンタジーやドン・ファンのセレナーデは、第1交響曲の初期稿にふくまれた「花の章」と、「ゼッキンゲンのラッパ手」のための音楽との関係と同様、いわゆる「劇伴」との関連が考えられることや、ピアノ伴奏版でのみ残っているものの、オーケストレーションへの示唆が残っているなど、こちらも幾つか興味深い点が存在する。ワルターの伴奏で歌っているデジ・ハルバンはマーラーがウィーン宮廷歌劇場に呼び、マーラーの下で歌ったゼルマ・クルツの娘であるが、ゼルマ・クルツもまたグートハイル=ショーダーなどとともにマーラーの歌曲を歌ったことを思えば興味深いものがある。
リートと歌第2,3集の歌詞は子供の魔法の角笛に基づくものだが、ピアノ伴奏版のみでマーラー自身による管弦楽伴奏版は作られなかった曲集である。 ただしその中には「夏の交替」のように交響曲楽章との連関があるものも含まれるし、マーラーがピアノロールに遺した記録のうちに「私は緑の野を楽しく歩いた」が 含まれるなど、この曲集のマーラーの作品に占める位置は決して過小視されるべきではないし、フィッシャー=ディースカウやベイカーなど、マーラーを得意とした歌手による優れた演奏記録が存在する。更にこの曲集の場合には、管弦楽伴奏の曲集に比べると男声で歌われるか女声で歌われるかの自由度が大きいように 思われる。実際には男声・女声は勿論、声部指定がないという点ではどちらも同じなのだが。上記のように所蔵録音は男声・女声の両方があるが、 その一方で偶々どちらも中声(女声はメゾ・ソプラノ、男声はバリトン)の歌唱によるものである。カールソンの歌唱はマーラーの演奏のピアノロールの再生に合せたもので、いわゆる普通の意味でのピアノ伴奏による歌唱とは全く異質のものである。ワルターの伴奏で歌っているデジ・ハルバンはマーラーがウィーン宮廷歌劇場に呼び、マーラーの下で歌ったゼルマ・クルツの娘であるが、ゼルマ・クルツもまたグートハイル=ショーダーなどとともにマーラーの歌曲を歌ったことを思えば興味深いものがある。
管弦楽伴奏版の子供の魔法の角笛に基づく歌曲集の方は、その中にどれを含めるかについては必ずしも一定していない。もともと連作歌曲集として 編まれた訳ではないので無理もないのだが、長いスパンに渉って徐々に追加されていった経緯もあり、その一方で交響曲の楽章に埋め込まれるものが 出てきたりしているのがその理由である。上記の中ではナガノがハレ管弦楽団を演奏した録音は、「子供の死の歌」を含むリュッケルトの詩による歌曲とともに、 1905年1月29日のマーラー自身の指揮による歌曲の演奏会のプログラムを再現した企画であり、興味深い。なお、この歌曲集は「原光」のように交響曲 楽章に組み込まれた時に声部指定が行われたものを除くと、声部の指定がないものが多いため、男声・女声のいずれが歌うことも可能なはずだが、 一般には男声のみによる場合と、歌詞の上で男女の掛け合いのような構成になっている曲について男声・女声が分担して歌い(ただし勿論、本来的な 意味でのデュエットではない)、残りの曲は曲によって男声・女声で分担する場合が多いようだ。後者の場合にはだいたい分担は決まっていて、 高い知性への賛美、起床合図、少年鼓手、魚に説教するパドヴァの聖アントニウスといったところは専ら男声で、ラインの小伝説、この世の生活、 この歌をひねり出したのは誰は女声と、歌詞の内容などから大体分担が決まっているようである。だが、バーンスタインの伴奏でベリーとルートヴィヒ歌唱の ものでは管弦楽伴奏版もピアノ伴奏版も、魚に説教するパドヴァの聖アントニウスをルートヴィヒが担当しており、興味深い。
なお、 シュルスヌスの2曲とシャルル=カイエの「原光」の録音の歴史的価値の高さには異論がなかろう。とりわけシャルル=カイエは1907年にマーラーが 契約し、短期間ではあったがマーラーの下でウィーン宮廷歌劇場で活躍した歌手であり、1911年11月20日には「大地の歌」の初演をワルターの下で 歌っている。
リュッケルトの詩による歌曲のうち、「子供の死の歌」に含まれない5曲は、曲集として編まれる意図はなく、それぞれが独立の作品であり、従って、演奏会でも録音でも、部分的に取り上げられることが少なくない。特に管弦楽伴奏版については、「美しさゆえに愛するなら」はマーラー自身によるバージョンは存在していない点に留意する必要がある。他の4曲は「子供の死の歌」とともに1905年1月29日のコンサートでマーラー自身が指揮する管弦楽伴奏版によって初演されたのだが、この曲のみ2年遅れて1907年にピアノ伴奏版での初演が確認されているのである。上記の録音のうち、ナガノ指揮ハレ管弦楽団の演奏に「美しさゆえに愛するなら」が含まれないのは、ナガノの企画がその初演時のプログラムを再現したものである故に他ならない。一方で、フェリアーの歌をワルター指揮のウィーン・フィルが伴奏した1952年の録音は、もともと「大地の歌」の録音とともに収録されたものだったのだが、それぞれ「大地の歌」との関連が濃厚な3曲を選択して演奏している点が注目される。また、シャルル=カイエ、トールボリもまたワルターの下で「大地の歌」を歌った歌手であり、それぞれが「私はこの世に忘れられ」の歌唱を遺しているのは興味深い。トールボリのものは「大地の歌」の演奏会のアンコールでの歌唱であり、一方、シャルル=カイエはウィーン宮廷歌劇場においてマーラーの下で活躍した歌手であると同時に1911年11月20日の「大地の歌」の初演者でもある。それぞれその歌唱が遺されているのは実に貴重であるとともに、音質の制約を超えてそれぞれの歌唱の素晴らしさの片鱗を今なお知ることができることの意義は限りなく大きいだろう。なお、この曲集がピアノ伴奏で録音される頻度は、子供の死の歌ほどではないにせよあまり高くないのではないか。男声ではフィッシャー=ディースカウの録音が2種類あるため、さほどそうした感じはないが、女声については非常に少ないように思われる。上記は男声・女声と管弦楽伴奏・ピアノ伴奏をとりあえず網羅している。
1876年、ウィーン音楽院在学中のマーラーが書いた室内楽曲。マーラーの初期作品については曲名のみ知られていて残存しない作品がかなり知られているが、 楽譜が残っているのはこの曲のみのようだ。この曲がウィーン音楽院で1876年に賞を受賞したと伝えられるピアノ5重奏曲と同一なのか、あるいはまた同年 マーラーが故郷のイグラウに帰った折、9月12日に行った演奏会で採り上げられたピアノ四重奏曲と同一なのか、後年の妻アルマやバウアー・レヒナーの回想で 言及されているピアノ四重奏曲との関係はどうかについては、杳として知れないようである。
(c)YOJIBEE 2008--2013
(2008年3月作成)