グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・私のマーラー受容(3)カンタータ・歌曲

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「大地の歌」
「嘆きの歌」
「さすらう若者の歌」
「子供の死の歌」
3つの歌・リートと歌第1集
リートと歌第2,3集・子供の魔法の角笛
5つのリュッケルト歌曲

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「大地の歌」

最も早い時期に聴いた曲で、とにかく第6楽章に強い印象を受けた。 恐らくヨッフム・コンセルトヘボウのレコードが最初。この曲はFMで聴いた機会もないし、 実演で聴いたこともない。だがこのレコードは本当に良く聴いた。 スコアも、フィルハーモニア版の輸入版のポケットスコアを買って、早い時期から親しんでいた。

マーラーの作品の中で1つを選ぶという無茶な想定をした時に、結局私が選ぶのはこの曲か、 あるいは第6交響曲になるだろう。ただ、交響曲と歌曲の作曲家マーラーのあり方を体現する という意味では、大地の歌の方に分があるように思える。連作歌曲と交響曲が融合した、 ユニークな作品だし、聴けば必ず感動する。しかも、かつては第6楽章が圧倒的に好きで、 前半の5楽章はそれほどでもなかったのだが、最近は寧ろ通して聴いたときのメンタルな変容 プロセスに強く惹かれるものを感じる。これは比喩でもなんでもなく、死の受容の音楽なのだ。 実演も一度は聴いてみたいと思っている。多分がっかりするんだろうとは思いつつも。 否、がっかりしなければ、それはそれで怖ろしいことだ。もしコンサートホールで感動してしまったら、 私は自分が制御できる自信がない。不遜なことかも知れないが、こうした想像をすると決まって、 マーラー自身が第6交響曲の初演の時に自分自身の感情のコントロールができなくなることを 怖れた挙句、うまく指揮出来なかったという逸話を思い出す。バルビローリが言うとおり、 演奏者はどこかで冷静でなくてはならないのだが、時代を代表する大指揮者マーラーにも それが出来ない瞬間があったということなのだろう。あるいは バルビローリ追悼の「ゲロンティアスの夢」の演奏の結末で、天使を歌った大歌手ベイカーは故人への 追想の故に、涙を抑えることが出来ず、Farewellという詞で結ばれるその歌は途切れてしまったと いう逸話がある。だが恐らく、バルビローリはあのジョークを飛ばしまくる陽気で知的なベイカーの 涙を咎めたりはしないだろう。私がバルビローリのマーラー演奏に見出すのは、まさにそうした側面であって、 そうした側面がないのだとしたら、私はそもそもこうした音楽を必要としないのだ。

だが、コンサートホールという制度にあっては聴き手もまた、或る種の冷静さというのを暗黙の裡に要求されている。 否、そればかりではなく、そこには私のような聴き手にとっては耐え難い様々な見えない「決まり」がそこにはある。 他の作曲家と違って、マーラーの音楽は、まさにそのために書かれたというのに、そしてかつては楽長音楽という廉で 謗られた一方で、今日ではコンサートホールのレパートリーの主役であるにも関わらず、 コンサートホールという制度と馴染まない側面があるように感じられる。マーラー普及に寄与するところが 大きかったとされるLPレコードやCDといった録音メディアの効用は、実はマーラーの場合には、コンサートホールという 制度との錯綜とした関係による部分もあるように思える。もっとも冷静で知的な音楽社会学者の視点からは、 こうした私こそ、そうしたLPレコードやCDの時代の典型的な「症例」ということになるのが落ちなのだろうが。

「大地の歌」も早くから親しんだ作品だけに様々な演奏を聴いて来たし、優れた演奏が多いと思う。 ワルターの1936年と1952年のウィーン・フィルの演奏は勿論だが、古い録音ではシューリヒトが1939年に コンセルトヘボウでメンゲルベルクの代役で指揮した記録が素晴らしい。この録音は第6楽章で起きるハプニングで 有名なのだが、それよりも演奏自体が圧倒的で、私見ではこの曲の最高の演奏の一つだと思う。 またザンデルリンクがレニングラードに居た時代のロシア語歌唱の大地の歌の録音も、スタイルの違いはあれ、 非常に優れたものだと思う。

ステレオ録音の時代に入ってからの演奏では、ザンデルリンクのもの、ジュリーニのものが全く個性は違いながら、 マーラーの晩年の様式の把握という点でそれぞれ高い説得力を備えている。忘れてはならないのは ピアノ伴奏版の演奏で、初録音となったカツァリス・ファスベンダー・モーザーもいいが、私は平松・野平の演奏が この曲の音楽的な読みという点では(管弦楽版も含めても)最も優れていると思う。フレーズ一つ、和声の 垂直方向のバランス、水平方向の推移一つ一つとっても、これほどまでに構造を読み取り、そしてそれを 磨きぬかれた技術により実現した例を私は知らない。ソプラノの歌唱で全楽章通すのは、テノールと アルト(ないしバリトン)の指定を思えばオーセンティシティに欠けるように見えるかも知れないが、草稿には 一応「交響曲」と題されている管弦楽版はともかく、ピアノ伴奏版はシンフォニックな構造を備えた 連作歌曲集であり、従って他の連作歌曲集がそうであるように、声部の選択は色々な可能性があっても良い はずである。だが、そうした原則などどうでもいい。そうして記録された演奏の卓越がそうした議論を色褪せさせてしまう。


「嘆きの歌」

聴く機会がずっとなかったし、あまり印象にも残っていなかった。 この曲の素晴らしさに気づいたのは、最近になってからで、恐らくナガノ・ハレ管弦楽団の初稿の CDを聴いたことが大きい。これは単に初稿の初めての録音だというにとどまらず、際立って優れた演奏だと思う。



「さすらう若者の歌」

この曲だけは、最初に聴いた演奏の記憶が曖昧である。恐らくFMをエアチェックして録音したのが 最初だろう。フィッシャー・ディースカウ歌唱の管弦楽版が最初の気もするが、その場合、 フルトヴェングラーの伴奏のものだったか、クーベリックのものであったか、これがまたあやふやに なっている。多分、フルトヴェングラーのものだったと思うのだが、、、 一方で第2曲は第1交響曲の第1楽章の主題に転用されて有名だが、マーラーがピアノロールに 残した演奏があって、それをずっと聴いていた。

この曲に限らず歌曲はピアノ伴奏版の楽譜を持っていて、かつてLPレコードが普及するまでは 交響曲ですらピアノ連弾への編曲を通じて「発見」されていたように、自分で楽譜で見つけた感覚が強い。 逆にそれがあったからこそ、私にとってマーラーは交響曲と歌曲が対等の重要性を持つ 作曲家なのだと思う。そしてまた、歌曲に関してはピアノ伴奏版を管弦楽伴奏版のヴォーカル・スコアではなく、 独立の形態として捉える傾向の由来も、そうした享受の仕方の影響によるのかも知れない。

もっとも現時点ではさすがにこの曲はちょっと聴くのがしんどい。正確に言えば、聴き始めてしまえば 寧ろ4曲通して聴いてしまうのだが、なかなか聴いてみようとする気が起きない作品なのだ。 いわゆる「若き日の歌」に含まれる歌曲であれば、子供の魔法の角笛による第2,3集ばかりか 第1集もわりとよく聴くのに比べると、この曲集は多少敬遠しているのを否定することはできない。 恐らく理由は単純で、色々な理由でマーラー初期の歌曲はどれも「主観との距離のある」性質を 持っているのに対して、この曲集は一見したところ子供の魔法の角笛的な民謡調を装いながら、 その実質はあまりに主観的で、感情が直裁で生々しすぎるように思えるからなのだと思う。 それは肯定・否定のいずれの捉え方もできるだろうが。少しナイーブ過ぎると思う一方で、 その力の凄まじさには瞠目させられるのは確かで、要するにこの曲集が「傑作」であるが故に 敬遠しているという皮肉な捉え方すら可能かも知れない。



「子供の死の歌」

歌曲はなぜかレコードではなくテープで聴いていた。否、理由は簡単で、私の住んでいた地方都市の レコード屋にはマーラーの歌曲のレコードを置くだけの余地がなかったということなのだろう。 そのかわりカセット・テープが売られていて、私が入手したのはフィッシャー・ディースカウとベームのものだった。

だが、この曲の場合も他の歌曲同様、印象は自分でピアノ伴奏版の楽譜を読んだものの方が強い。 特にこの曲はピアノ伴奏版のピアノパートを良く弾いたものだ。第1曲の対位法や第2曲の和声など、 ピアノで弾いては感心した記憶がある。そういう意味では5つのリュッケルト歌曲集とならんで、 楽譜を読むことで親しむようになった曲集だと言えるだろう。

そしてこの曲は今も昔も非常に好きな曲で、その程度たるや交響曲にひけをとらないどころか、 マーラーの全作品の中でも最も好きな曲であると言える。だけれどもそれだけに聴いた時に 感情のコントロールができなくなる危険がとても高くて、だからなかなか聴けない。 これだけ交響曲が演奏されるマーラーも、歌曲となれば実演に接する機会は滅多にないが、 実演を聴くのも怖くて、いざチャンスに恵まれても躊躇するのは目に見えているが、その一方で 交響曲以上に聴いてみたいという気持ちも強い。間違いなく、マーラーに限らず、すべての音楽の中でも 自分にとって大切な曲の1つである。

現在所蔵している録音では、この曲もまた、ベイカー・バルビローリのものが決定的だと思うが この曲にも男声・女声の選択の問題があって、男声による歌唱を聴きたくなる事もある。 また、上述のような受容の経緯もあって、ピアノ伴奏版も固有の価値があるとは思うが、この曲集の場合は 管弦楽版があまりに素晴らしいせいか、ピアノ伴奏版の録音というのは非常に数が少ないのではないか。 私は前者はヘンシェル(Br.) / ナガノ, ハレ管弦楽団の演奏を、後者はゲンツ(Br.) / ヴィニョルズ(Pf.)の演奏を 所蔵しており、結果的にこれらの演奏を頻繁に聴くことになっている。 女声でピアノ伴奏のものとしては シュレッケンバッハ(A.)/モル(Pf.)の演奏があるが、ピアノ伴奏版の演奏がしばしばそうであるように、 この演奏もまた、ピアノ伴奏の雄弁さは特筆に価する。

だが歴史的録音まで範囲を広げれば、男声による録音のベストはもしかしたら1928年に録音された レーケンパーとホーレンシュタインによる演奏かも知れない。勿論、録音の質の制約はあるけれど、 CDに復刻されたその記録を聴けば、そうした制約を超えて、更には一般には時代とともに移りゆくものとされる 様式の違いを超えて響いてくるものがあることを感じずにはいられない。否、その様式がマーラーの生きていた 時代と地続きであるものゆえ、寧ろ、こちらの方が説得力があるのではないかと感じることも一再ではない。 私のような世代の聴き手にとってそれはノスタルジーでも懐古趣味でもありえない。バルビローリとベイカーの ものがそうであったのと同様、レーケンパーとホーレンシュタインの演奏も私にとっては「後から」発見したものなのだ。



3つの歌・リートと歌第1集

これは恐らくCDの時代まで聞いていない。ベーカー・パーソンズが最初だろう。 楽譜も私がもっているものにはさすがにこれらの初期作品は含まれていなかった。

では取るに足らない、つまらない作品と思っているかといえばそうでもない。 さすがに後の傑作と同列に置こうとは思わないが、私はこれらの曲を実に良く聴く。 寧ろ、まだマーラー固有の語法が充分に展開されていないということもあり、 ある意味では気楽に聴けるし、なじみが薄い分を取り戻そうという気持ちが 働くこともあり、実はしょっちゅう聴いている気がする。しかも「嘆きの歌」との素材の共有などもあり、 第1交響曲との関係も示唆されたりと、マーラーの作品中における位置づけに関しても 決して軽視できない作品が含まれていて、興味が尽きない。



リートと歌第2,3集・子供の魔法の角笛

「子供の魔法の角笛」歌曲集も「子供の死の歌」同様、最初はLPレコードではなくカセットテープで、 シャーリー=カーク、ノーマン、ハイティンク・コンセルトヘボウのものをずっと聴いていた。 リートと歌第2,3集は音源にめぐり合えないかわりに楽譜を持っていて、これまた 自分で楽譜を読んで発見した感じが強い。個別の曲について言えば、「私は緑の森を歩いた」はマーラーがピアノロールに残した 演奏を聴いていたこともあり、また「夏の交代」は、第3交響曲第3楽章との関係のせいで印象が特に強い。 「子供の魔法の角笛」歌曲集もピアノ伴奏版の楽譜を手に入れた。(ただし全曲ではなかったと思う。)

「角笛歌曲集」については、昔よりも今のほうが一層、色々なニュアンスが感じ取れるように なったと思う。昔から親しんでいたけれど、少なくともそのうちの幾つかはどちらかといえば大人の音楽だろう。 まだまだきちんと聴けていないように感じていて、寧ろこれからじっくり聴いていきたいと思っている。 その独特の醒めた感じやイロニー、そして意識的なアナクロニスムといった、角笛歌曲集に顕著な特性は マーラーを「意識の音楽」と捉える上で鍵となるものであり、また、マーラーによる歌詞の改変の様相が 最も顕著な形で観察できるのもこの曲集で、色々な意味でマーラーの持っている一面を窺い知る 格好の場であることは疑いないだろう。



5つのリュッケルト歌曲

歌曲はLPレコードではなくカセットテープで聴いていたものが多いのだが、この曲集もその例に漏れず、 子供の死の歌と併録されたフィッシャー・ディースカウ、ベームのものをずっと聴いていた。 カセットはレコードに比べて遙かに手軽なこともあり、レコードよりはFMをエアチェックした交響曲と並んで、 カセットで入手した歌曲集を聴く頻度の方が高かったように思える。ただしこの曲集は、いわゆるフィルアップの 事情でアバド・シカゴ交響楽団の第5交響曲のフィルアップに収められたシュヴァルツの歌唱のものを 持っていて、このLPについては第5交響曲より、この歌曲集を聴くことの方がはるかに多かった。

だが、これも他の歌曲と共通しているが、この曲集もまた、そうした録音よりも楽譜を弾いて見つけた作品と いった感覚が強い。さすがに交響曲を連弾で弾くというのは、そもそも楽譜も入手できなかったことも あってやらなかったけれど、ピアノ伴奏版のある歌曲集は、こちらは録音の入手の困難さ(地方都市のレコード屋 にはそもそも歌曲集のレコードなどほとんど置いていなかったのだ)に比べれば楽譜の入手は遙かに容易で、 それゆえ歌曲限定ではあるけれど、ブラウコップフが言う、楽譜からマーラーを知るような受容のあり方についても、 実感として理解できる部分があるのである。その薄く線的な書法、そしてこの曲集に特に顕著な繊細な和声の 移ろいをピアノで自分で弾いて確かめるのは、実に魅惑的な作業だった。

というわけで今も昔も親しみのある曲集で、親密さという点ではもしかしたら一番かも知れない程である。 非常に強い情緒的なインパクトを持つ他の曲集や交響曲と異なり、この曲集の作品はマーラーの作品の中でも その繊細な感覚が最も強く出たものだし、それは決して小品とは言い難い「真夜中に」や「私はこの世に忘れられ」に おいても基本的には言えるだろう。連作歌曲集ですらないことから、気軽に1曲、2曲と取り出して聴けるのも 身近さを増すのに貢献しているに違いない。

その顕著な例は「私はこの世に忘れられ」であり、この曲はウィーン宮廷歌劇場でマーラーの下で歌い、ミュンヘンでの 大地の歌の初演を歌ったシャルル=カイエ、1936年のワルター・ウィーンフィルの大地の歌のアルトであったトールボリ、 1952年のワルター・ウィーンフィルの大地の歌のアルトであるフェリアー、そしてバルビローリのバックで歌うベイカーと、 忘れ難い演奏を残した歌手による演奏を聴くことができる。こうしたことは他の曲では起きないことだし、この曲の マーラーの作品中における位置づけというのを良く物語っていると私には感じられる。




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(2008年5月作成)