以下に記載するのは、私のマーラーの聴体験である。私のような平凡な人間がこうした個人の経験を 残すことに客観的な価値があるとすれば、それは受容史の資料体としての役割に限定されるだろう。 受容史研究のアプローチは色々とあるだろうし、マクロで統計的な処理が必要となるような アプローチもあるだろうが、歴史学で言えばアナール派のようなアプローチもまた可能だろう。 勿論日記でもつけていれば、そちらの方が資料体としては貴重かも知れないが、こうした回想も 全く無価値というわけではなかろう。1970年代後半の日本の地方都市で、中学生になったばかりの 子供がFM放送で初めてマーラーを聴いたというのは、膨大な資料体の一部としてなら、マーラーの 受容史を編む上では役に立つこともあるだろう。
あるいはその一方で、出会いを語る衝動を抱くというのがマーラーの音楽の持つ特性の一つであるなら、 精神分析学か何かの資料体として使うこともできるのかも知れない。最初に聴いた瞬間を覚えている 音楽というのは確かにそんなに多くはないし、単に何を聴いたかだけではなく、そのときの状況も 覚えているというのは確かに、音楽の側にある何かを告げているのかも知れない。実際、出会った瞬間の 鮮明さに関してはマーラー以上に鮮明に「物語」を持つ作曲家はいないのだ。しかも最初の出会いだけではなく、 ほとんど全ての曲について、それぞれを最初に聴いた時のことを覚えているというのは、勿論 例外的なケースで、他の作曲家については起きない。
個別の作品について、どのように出会ったかとその後の印象に残る経験、そして現時点での主観的な感じ方と 現時点で良く聴く演奏について書くことにする。各演奏、あるいは演奏家についての感想は別のページにまとめる。 なお、「現時点」というのが動いていく以上、私的な受容に関するこのページは、少なくとも私が記事の更新を やめるまでは常にワーク・イン・プログレスの状態にある。
マーラーを初めて聴いた時のことは比較的はっきり覚えている。何を聴いたかだけではなく、聴いたときの状況や、 視覚的な情景まではっきりと記憶している。 中学生になった最初の夏の夏休みの恐らくは午後、確か、夏休みの宿題であった火災予防か何かのポスターを 作っている最中に、たまたまポータブルのラジカセをつけたら流れてきたFM放送で第1交響曲を聴いたのが最初であった。 その時に放送されたのは、小澤征爾指揮のボストン交響楽団の録音で通常の4楽章形態であった。
当時の私は既にフランクの晩年の作品を聴いて強くひきつけられ、更には何枚かのLPレコードでシベリウスの 音楽には親しんでいたものの、マーラーの音楽は全く未知の存在だった。音楽の教科書や、学校の音楽室の音楽史の年表の 上では、まだマーラーというのは「省略」されていたのだ。いわゆる「国民楽派」の作曲家としての シベリウスの方が「有名」な存在で、音楽の「現場」ではすでにマーラー・ルネサンスが始まっていた とはいえ、極東の地の地方都市においては、マーラーは今日のようなポピュラリティを獲得する前だったのだ。
フランクは父のテープ・ライブラリに交響曲、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲の3曲が含まれていたのを聴いていたが、グリーグは あってもシベリウスは確かなかったから、シベリウスが自分でLPレコードを買って発見した最初の作曲家ということになる。同様に バルトークやヤナーチェク、ストラヴィンスキーはあってもマーラーはなかったし、父がマーラーについて積極的に語ることはなかったから、 マーラーは本当に一から発見したことになる。
その頃音楽を聴く安上がりな方法は、FM放送を聴くことだったが、そのようにしてマーラーの音楽を 次々と聴くことになる。第1交響曲の次は、第7交響曲。クーベリックとバイエルン放送交響楽団の録音を FMで聴いたのだと思う。途中からの録音。天気が悪くて、ノイズがひどかった。 その後も特に第1楽章は、台風などの荒天、嵐のイメージと結びつきを持つ。 特にその第1楽章の響きの鋭さ、4度進行の累積がもたらす緊張感、音楽が「沸騰する」ような感じに強く魅せられた。 その音楽はそれまでに聴いたどの音楽よりも「前衛的」で、少し遅れて接した第10交響曲ともども、 その後新ウィーン楽派やアイヴズ、そしてクセナキスのような現代音楽を抵抗無く聴くことの準備になったと思う。
最初に買ったレコードは、大地の歌。ヨッフムが指揮するコンセルトヘボウ管弦楽団の演奏、ヘフリガーとメリマンのソロ。 理由は単純で、それが一番安かったからだろうと思う。聴き始めの時期に比較的まとめて聴いたのはクーベリックと バイエルン放送交響楽団の演奏で、LPで第3番、第6番、第10番のアダージョ、そして既に述べたFMで聴いた 第7番の4曲を聴いていた。
FMで印象に残る演奏は多くて、第6番ならインバル・フランクフルト放送交響楽団、ギーレン・ベルリン放送交響楽団、 コンドラシン・南西ドイツ放送交響楽団、第7番ならベルティーニ・ベルリンフィル、第9番ならバーンスタイン・ベルリンフィル、 第3番ならツェンダー・ベルリン放送交響楽団といったところを聴くことができたのは今思えばなんとも贅沢な 経験だった。ポータブルのラジカセで、カセットテープに録音しながらという音響的には貧しいものでは あったけれど。テープレコーダーといえば、マーラーの交響曲は長大なのでカセットテープの片面には収まらない。 演奏時間を調べて適当な長さのカセットテープを用意し、楽章間の切れ目でテープを急いで入れ替えながら聴いたのを良く覚えている。 レコードの録音をFMで聴く機会もあって、上述のクーベリック・バイエルン放送交響楽団の第7交響曲や、 レヴァイン・フィラデルフィア管弦楽団の第10交響曲のクック版などが特に印象深い。これらの曲はレコードの 入手が遅れたこともあり、私にとってはFM放送を録音した音質的には極めて貧弱なカセットテープが長いこと唯一の音源だったのだ。 その結果、概ねFMで聴くことができた曲(第6番、第7番、第3番、第10番など)は早くから馴染むことが出来た一方で、 そのチャンスがなかった作品は自分でレコードを早い時期に買った大地の歌などを除くと、親しむのが遅れた。 またクーベリックを除けば、レコードの全集盤を完成させていた指揮者(バーンスタイン・ショルティ・あるいはハイティンクなど)よりも、 インバル、ギーレン、ベルティーニ、ツェンダー、コンドラシンといった指揮者の方が私には馴染みが深い。
FMで聴いたものとしてはマーラー自身の演奏を記録したピアノロールもまた忘れることができない。 これも擦り切れるほど聴いたと思う。第5交響曲については何故かFMでも聴く機会がなかなかなく、 LPレコードを買うのも遅かったため、第1楽章についてはマーラーのピアノでの演奏が最も馴染み深い 解釈であった時期があったほどである。
地方都市で、自分のお小遣いを貯めて買うせいで廉価盤を買うことが多かったこともあるし、 またそもそも選択可能なレコードの種類が限られていて、結果として 今思えばかなりレアな演奏のレコードを聴いていたりする(第1番のラインスドルフ・ボストン響とか、第4番のスワロフスキー・チェコフィル、 もしかしたら、上述のヨッフム・コンセルトヘボウ管の「大地の歌」の演奏もそれに含まれるかも知れない)。 その後、アバドの演奏のLPを途中からはリリースされた順に6,2,4,1,5,3と聴いているうちに、CDの時代になって、 結局第7番以降は買わなかった。 LPレコードからCDへの媒体の変化の結果、結局、いわゆる全集として聴いたのはインバル・フランクフルト 放送交響楽団のものが最初で最後となった。その後、レコードの時代には全く接することのできなかった バルビローリの演奏を聴くようになるが、それまではアバドやインバルなどのすっきりとした造形の、しかも マーラー演奏に馴染んだオーケストラによる緻密で高精度の演奏を聴いてきた耳には、その演奏の良さと いうのはすぐにはわからなかった。名盤として知られているベルリン・フィルとの第9交響曲の録音すら、 最初は明確な印象を持つに至らなかったのである。勿論現時点では異なる見方をしているし、 こうして再びマーラーを聴くようになったのには、バルビローリの演奏を受容していく過程が非常に重要だったのだが。
クルト・ブラウコップフがそのマーラー評伝でマーラーの音楽の普及におけるLPレコードというメディアの重要性を述べているが、 その一方でそれ以前の世代―そこにはブラウコップフ自身も含まれる―のマーラー受容のあり方、限られた 実演を聴くチャンスを除けば、主として楽譜を通しての受容の仕方の独自の意義についても語っている。 我が身を振り返ってみると、地方都市の子供ゆえ実演に接する機会は全くなかったこともあって上述のようにLPや FM放送による受容が中心であったとはいえ、自分の場合に関して言えば楽譜の持つ意義は決して小さくなかったように 思われる。特にそれはLPやFMで接する機会が相対的には制限され、その一方でピアノ伴奏の形態が 存在する歌曲においては決定的であったように思える。つまり歌曲はピアノ伴奏版の楽譜で知っていった側面が強いのである。 特に子供の死の歌、リュッケルト歌曲集などは寧ろ、ピアノ伴奏版の楽譜を弾くことによってまず親しんで、 その後管弦楽伴奏版の演奏を聴く順序であったと思う。 一方、交響曲についてはどうかといえば、実はマーラーの交響曲にはピアノ連弾版があるのだが、 それらの存在を知らなかったこともあり、こちらは専らレコードとFM放送が中心だった。
交響曲の楽譜は全音から出ていたもののうち何故か第2番だけ、Universal版の第8番の赤い表紙のスコア、そして Philharmonia版の大地の歌のポケットスコアは時期的に早く持っていた。それらはやはり住んでいた地方都市の 楽器屋に偶々あったものを入手したのだった。マーラーの場合には楽譜を読むことでわかることが非常に多く、 有名な詳細を極める演奏指示もそうだが、それよりも、例えば拍子の変化の多さや、デリケートな音色の 変化を追及した管弦楽法、線的な書法(その結果、いわゆる「譜面づら」が大変に複雑なものになる。) を視覚的に確認できたことは、演奏を聴く時の聴き方に確実に影響を与えたと思う。
そのうち、いわゆるブームの到来と前後して音楽之友社から協会全集版を含むポケットスコアが出て、 それで持っていないものを補っていった。特に熱心に読んだのは第9交響曲、第6交響曲そして第7交響曲 であったと思う。とりわけ第9交響曲の第1楽章や第6交響曲の第4楽章、第7交響曲の第1楽章などの 譜面を読むのはそれ自体が魅惑的な経験だった。また、早い時期にクック版を聴いていたこともあり、 第10交響曲はクック版のスコアを持っていた。その一方で全集版のアダージョの楽譜には縁がなく、 結局現在に至るまで見たことがないままである。
私のマーラー受容はその音楽とともにマーラーという人間への関心を伴っていたので、早くから 評伝の類については読んでいた。とはいっても実際にはこれまた街の書店の棚に偶々あるものとの 出会いから始まる。当時のマーラーの知名度からすれば高校ならともかく中学の図書室に マーラーの伝記を期待するのは無理だったのだ。とはいっても、ブームの前に出版されていた マーラーの文献は限定されていたし、そのうちの先駆的なものは戦後間もなくの出版であったから、 逆に当時は手に入らなかった。というわけで書店の店頭に私が見つけたのは、折りよく出版された ばかりであったマイケル・ケネディのものの邦訳、アルマ・マーラーの回想と手紙、そして青土社の音楽の手帖の マーラーの巻だったと思う。それらは勿論、愛読書となり、文字通り擦り切れるまで読んだ。 そのせいもあってケネディの評伝はほとんど内容を覚えてしまったし、アルマの回想の主要な エピソードについてもほとんど記憶してしまったくらいである。
それ以外のものは買わずに、本屋で立ち読みした。ヴィニャルの評伝、クシェネクの伝記とレートリヒの 解説などが該当する。ブラウコップフの著作とアドルノのマーラー論はなぜかずっと目にするチャンスがなく、大学の図書館で ようやく見ることができた。ワルターの回想はこれも大学に入学してから古書店で入手したように記憶している。 その後もマーラーに関連する書籍を目にするたびに極力目を通すようにしていた。もともと私は自分が興味を持った音楽が あれば、それを書いた人がどんな人で、どんな背景があるのか、その音楽がどのような力を持ち、どのように私に働きかけるのかを 詮索しないではいられない性質で、マーラーに関してはそれはまさにお誂え向けのものだったと言って良いのであろう。 一方で、マーラーと出会うことでマーラーの聴取にとっては自然な聴き方が自分の中では標準になってしまい、 他の作品でも同じような聴き方をするようになったという側面はあるかも知れない。聞こえてくる音自体ではなく、 音楽そのもの(だが、それを境界づけることは本当にできるだろうか)だけではなく、音楽を取り囲むさまざまな事象に 拘る私の聴き方はしばしば奇異の眼で見られ、あるいは半ば呆れられていたのだが、未だにそうした聴き方を脱することが できずに居る。その結果が所蔵CDの枚数より多い所蔵文献の数で、そういう点では私のマーラーの受容の仕方は あまり変わっていない。(所蔵文献とCDのそれぞれの絶対数と両者の割合、そして所蔵楽譜と所蔵CDによる その作曲家の作品の被覆率を組み合わせれば、その作曲家の音楽に対する接し方の傾向のようなものが測れるかも知れない。)
まともなコンサートホールのない地方都市では有名なオーケストラの地方公演の機会もなく、ましてやマーラーの実演に接する機会は 皆無だったが、大学が都心にあったこともあって、ようやく大学時代になって実演に接するようになった。 とはいっても片道2時間をかけて4年間通学したので、大学時代に聴けた演奏はほとんどなく、ほとんどは就職後になるのだが。 就職後も自由にコンサートに通えるような環境にはなく、その後実演を聴くのを止めてしまうまでに接した実演の回数は10回にも 満たない。事前に買ったチケットをふいにすることもあったし、体調が思わしくなくて音楽に没入できないこともあり、コンサートは 当時の私には全く割に合わないものだった。その一方でマーラー演奏はいわゆるブームになってしまい、いわゆるマーラー・ツィクルスが 幾つも行われるような状況となって、かえってコンサートから足が遠のく結果になった。
実演を聴くのを止めてしまったのは時間が自由にならないせいも勿論あったのだが、実演で感動できたのが寧ろ少なかったことが 大きい。実演で説得されたのは記憶している限りではわずかに2回、曲目は6番と8番だった。6番は2度聴く機会があった唯一の曲だが、 2度目に聴いた、基本的には自分の嗜好からは遠いスタイルのメータ・イスラエルフィルでもそれなりに感動した。 コンサートという場は私にとっては幾つも厄介な側面を備えている。もともとコンサートホールで聴くために作曲された音楽であるにも関わらず、 こうした反応が出てくるのは、LPレコードによってマーラーを受容した世代ならではの「倒錯」と考えるべきなのだろうが、 とにかく実際問題として、感情のコントロールの難しさや「独りで」聴くことができないことや、終演後の拍手、特にブームの時期の マーラーのコンサートゆえに一層耐え難いものに感じられたのかも知れないが、時折居たたまれない気分になる演奏会場の雰囲気など、 コンサートの公共性との背馳があまりに大きく、未だにコンサートに行くには非常な決断が必要なのだ。
マーラーブームという言い方が適切かどうかはわからないが、1990年前後の期間に、マーラーの交響曲のツィクルスが幾つも行われ、 テレビのCMにマーラーの音楽が使用され、それに応じてマーラーに関連する書籍やCDが急激に増えたことは確かだろう。 コンサートの盛況に関しては、当時はいわゆるバブルの最盛期でコンサートホールの新設ラッシュが相次ぎ、また海外のオーケストラの 来日も大掛かりなものになっていたという背景があるのだろう。だが私にとっては、流行は疎ましく感じられたし、その理由などどうでも いいことで、とにかく自分にとっては今なお思い出すのも忌まわしい時期だった。
実際には1974年に製作されたケン・ラッセルのマーラーに関する映画が日本で上映されたのもその時期、1987年のことだったらしい。 私も一度は見たものの、もともと映画にほとんど関心がないこともあり、これまた一度だけ見て辟易したヴィスコンティの「ヴェニスに死す」 同様、ラッセルの作品に対しても強い違和感と拒絶反応しか覚えなかった。もっとも私は、マーラーにちなむ作品(思いつくままに挙げれば、 上記映画やドキュメンタリー、ベジャールのバレー、ベリオのシンフォニア、ルジツカの幾つかの作品など、、、)には関心もないし、 感銘を受けたこともないのだが。私にとってはそうしたあからさまな主題化、引用よりも、例えばヴェーベルンの作品6の方が、あるいは ショスタコーヴィチの作品のうちの幾つかの方が、遙かにマーラーその人の精神との連続性が感じられ、好ましいものに思えてならない。
ブームを目の敵にする態度は、自分のマーラー受容に とってそれなりに重要な意味を持つ経験、つまりインバルのCDによる交響曲全集と若杉・東京都交響楽団のツィクルスがその当時の ものであることを思えば、自分が受益者たることを忘れたお目出度い態度であるとの糾弾を免れないかも知れない。だが、今なお 聴き続けているインバルの演奏はともかく、若杉・東京都交響楽団のツィクルスは、一方で自分が聴いたマーラーの実演のうち 最高のもの(第6交響曲)が含まれているけれど、他方では、自分がコンサートという場で得られるものが如何に少ないか、 コンサートにチケットを買うことが自分にとって如何に非効率なことであるかを確認する機会でもあった。全く鳴らないオーケストラに 驚いた第1交響曲のハンブルク稿初演の後、第2交響曲の第1楽章として演奏された交響詩「葬礼」の日本初演を最後に この企画に足を運ぶことも止めた。第2交響曲の第2楽章が始まる前にサントリーホールの客席を後にした私は、だからその後の 演奏がマーラーの指示の通り5分間の休憩の後に開始されたのかどうかも知らないのである。現在の私にとっては、これも素晴らしい 演奏だったシェーンベルクの5つの管弦楽曲を聴けたことや、期待したヴェーベルンの作品6の演奏が、マーラー同様、失望しか もたらさなかった苦い思い出、そして今でこそ始めから疎遠であったベルクと同様の距離感を感じる作曲家になってしまったものの、 実演に接した経験では間違いなく卓越した技術を持った作曲家であるツェムリンスキーの人魚姫や詩篇23番の日本初演に 立ち会うことができたということの方が印象に残っているくらいである。
その当時のことを窺う格好の資料として、丁度その頃あいついで出版された桜井健二さんの著作がある。桜井健二さんは、当時の 私にとってはまず、短期間ではあるけれど自分も会員であった日本マーラー協会の事務局長だった。私が会員であったのは ほんの数年のことに過ぎず、しかも会員証も会報もその後すべて処分してしまったため、手元には何も残っていないのだが、 それでも、その後間もなく会長であった山田一雄さんが亡くなられ、桜井さんが事務局長を辞められ(これらの前後関係は 詳らかではないし、現在の私には確認する手段すらない)、あっというまに協会の活動が麻痺してしまったのを記憶している。 地方都市に住み、会費と引き換えに会員証を受け取り、時折届く会報を読むのが会員としての全活動であった私には、 どのような経緯があったのかなど知る由もなく、一度、会費の納入を忘れたことを詫びた手紙を事務局に送ったところ、 その返信で協会の活動が実質的に休止していることを知ったのは印象に残っている。桜井さんの著作のうち最初のものの後書きには 日本マーラー協会の活動が誇らしげに書かれているのに対し、3冊目の後書きには後から読めば事務局長辞任の予告と取れる ような文章を見出すことができるのを確認するたびに、当時の状況が思い出され、複雑な感慨に捉われる。 もっとも、私は桜井さんにお会いしたこともなければ、山田一雄さんの演奏を聴いたことがあるわけでもない。山田一雄さんに ついては、その若い時分のことをつぶさに知っている知人からさんざんアネクドットの類を聞かされてできあがった先入観に 災いされてか、書かれた文章を読んでも、桜井さんの著作に含まれる対談を読んでも、共感のようなものは感じない。 想像するに桜井さんが日本マーラー協会を「再興」して、私のようなものまでが会員になるまでにするには、とてつもない 熱意と実行力、そして時間が必要だったに違いないし、そうしたことは桜井さんの著作を通しても読み取れるのだが、 にも関わらず、会員として積極的に活動にコミットしたわけでもない私は、その著作を寧ろ時代の証言のようなものとしてしか 読むことができない。そしてその時代の空気を思い出すことは私にとって快い作業ではないのである。
だが、私がマーラーを聴かなくなったのは勿論、直接にはブームのせいではない。寧ろその頃の私にとってはマーラーは、かつての アイドルの位置から転落して、寧ろ謎めいて疎遠な存在に感じられるようになったのが一番の理由である。基本的には その謎は今でも未解決で、だからこそこうして文章を書き続けているのだが、当時の私は、その謎が自分にとってオブセッションで あるということに気づいてか気づかずか、一旦マーラーから遠ざかることにしたのだった。手持ちの全ての音源、楽譜、マーラーに 関する書籍、日本マーラー協会関連の資料などを処分して、マーラーなしの生活をすることにしたのである。 このあたりの経緯については別に雑文を草したことがあるので繰り返さない。マーラーを聴かない間、音楽を聴かなくなったわけではなく、 マーラーと同時代から現代に至るまでの、概ね決して著名とはいえない色々な作曲家の作品を渉猟していた、 というのが最も端的な要約になろうか。最初から親近感を抱いていたヴェーベルンや、その頃既に自分にとって重要な作曲家であった ショスタコーヴィチは並行して聴き続けていて、それは今日まで続いている。私はいわゆる現代音楽に全く抵抗がないが、その接し方は 原則的に、完全に同時代の、しかも文脈の共有部分の非常に大きな活動としてコミットしている三輪眞弘の場合も含め、 いわゆるクラシック音楽に対するそれと区別がない。三輪眞弘やラッヘンマンの音楽は「現代音楽」であり、クラシックではないだろうという 見方もあろうが、そういう言い方をすれば、寧ろ私は「クラシック」としてマーラーやらヴェーベルンやらを聴いていないのだ。 シベリウス、ショスタコーヴィチにしてもそうで、どこかその音楽は自分と精神的な地図の上で地続きであると感じられる限りにおいて 現在でも聴きつづけているのである。
マーラーを並行して、あるいはマーラーの替わりに聴いてきた作曲家のうち、特に集中して聴き、かつその音楽について 書くべき何かを自分の中に持つことになった何人かについては、雑記帳や過去の記事に記したが、それ以外にも、現在は時間の 制約があったり、そもそも関心の外になったりしたが、関心を抱いて聞いた作曲家は何人もいる。そうした作曲家達の音楽も勿論、 マーラーを聴くための地平を構成しているのであって、その影響は決して今でもなくなっているわけではないだろう。
そうした私がマーラーを再び聴き始める契機の一つとしては、バルビローリのマーラーとの出会いがある。私が読んだ最初のマーラー伝の 著者マイケル・ケネディはバルビローリやデリック・クックと親しく、それゆえ、バルビローリのマーラー演奏が優れたものであること、 スタジオ録音は一部しかないが、それ以外の曲にも優れたライブ演奏記録があることを早くから知識としては持っていたにも 関わらず、バルビローリのマーラーはなぜか聴く機会がなかったから、それは再会ではない。最初に聴いたのはあの有名な ベルリン・フィルとの第9交響曲なのだが、丁度バルビローリの生誕100年を迎えるというタイミングの不思議な巡りあわせもあって、 その後間もなくしてBBCを中心にバルビローリのライブ演奏が次々とCD化され、それらを耳にすることができるようになっていった。 バルビローリの演奏は私がマーラーに熱中していた頃に聴いた演奏よりも 前のもので、オーケストラはマーラーを弾きなれていないこともあって技術的には最高のものとは言えないが、そのかわり近年の演奏には ない、確かな手応え、独特の質を備えているように思われる。バルビローリだけがそれを具現しているとは言わないし、それ以外にも ケーゲルやコンドラシンといった指揮者の演奏や、戦前・戦後すぐの歴史的録音は今でも聴くのだが、それでもバルビローリの演奏から聴き取れる マーラーは、現時点での私のマーラーに対する姿勢からすると、非常に自然で、かつ核心を突いたものに感じられる。 (未定稿:2008.5.24,27, 2009.10.29, 12.20, 2010.10.3)
近年の私のマーラーへの接し方について、まずマテリアルなレヴェルでインターネットの発達の影響は非常に大きなものがある。多忙のせいもあって お店に足を運ぶ時間がない私は、CDもほとんどはインターネット経由で購入することが多いが、CDの蒐集に対する関心は希薄なため、 それよりも文献と楽譜へのアクセスに関する恩恵の方が遥かに大きいだろう。特に文献は新しいものではなくて、過去の基本的な文献に 接するのに、まずもって時間的に困難なばかりではなく、専門の研究者でない市井の愛好家に過ぎない私のような人間にとって 図書館のようなところに足を運ぶことは非常にハードルが高いのだが、インターネットで古書を探すことが容易になったことで、そうしたメディアが なければ到底アクセスが叶わなかったであろう文献を手元に置いて参照することができるようになったのは大変に有難い。特に洋書の古書の 入手については、以前は想像もできなかったような恵まれた状況にある。ほんの一例に過ぎないが、1910年刊行のマーラー生誕50年記念論集、 アルマの「回想と手紙」のオリジナルの形態やアルマが編んだ書簡集、バウアー=レヒナーの回想の初版、パウル・ベッカーの研究などといった文献は、 私が生きていない過去、だがマーラーが生きた時代とは確実に繋がっている過去の記憶そのものであり、そうした書籍を市井の一愛好家が 手元においてリアル・タイムにアクセスできることは、CDのような記録手段によって歴史的演奏にリアルタイムにアクセスできることと並んで、 21世紀初頭のマーラー受容のあり方を特徴づける状況ではないかと感じられる。その後の文献にしても、例えば「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993) の文献リストに載っている研究文献のかなりの部分をそれを職業にしている研究者や評論家でもない、さりとて時間と資金とをそれにふんだんにつぎ込むことが できる立場にある訳でもない、平凡な市井の愛好家が手元に置き、必要に応じて参照することができるのは、考えようによってはかなりアナーキーな 事態とさえ言えるかも知れない。そういう意味ではこのWebページの所蔵文献や所蔵録音のリスト自体が、受容史の資料となるのではないかとさえ思える。
残念ながら文献については未だその途上にあり、だが恐らく今後はそうなることと予想されるが、楽譜については著作権の問題がなくなったものは デジタル画像に変換され、オンラインで入手できるようになっており、それによって出版譜の異同の確認ができるようになったことの恩恵も大きいだろう。 個人的には今後最も期待しているのは世界中のあちこちに散在して収蔵されている自筆譜ファクシミリのデジタル化、オンライン化で、これができるようになれば、 マーラーの「音楽」が本当の意味で市井の愛好家にとって手に届くものになるだろう。こうしたことを書けば、「猫に小判」「豚に真珠」という声が聞こえて きそうだが、私個人についてはそうした評価を甘受するにしても、その恩恵に浴してマーラーの研究に画期的な貢献をするような研究が出てくるのは 間違いがない。技術の革新による処理時間の短縮は、作業の内容を変え、質を変えることになるのは疑いないことで、マーラーの音楽の受容のあり方も 必ずや変容していくに違いない。
もう一点、技術革新に対する期待を書いておくと、現在進んでいる楽譜の画像のデジタル化、オンライン化とは別に、楽譜に書かれた情報のデジタル化の 進展に期待したい。楽譜を再現するという観点からは既にxmlの規格が存在している(ある規格のサンプルに、「さすらう若者の歌」のピアノ伴奏版終曲の 最初のページが取られているのをご存知の方もいられるかも知れない)が、ここでの期待はそれよりも、そうした音楽を構成する情報を 構造的に蓄積することで、作品の分析に対してドラスティックな変化が起きることに対するものである。楽曲分析は分析者が楽譜を読むことによって 行われてきたし、今後もその基本は変わらないにしても、より大量のデータを効率的に分析することができ、検索や抽出、比較や照合が容易に行える ようになり、その結果自体を保存することができるようになれば、楽曲の分析の仕方も大きく変化することになるだろうし、楽曲を分析するための 語彙もまた変わっていくのではなかろうか。アドルノがマーラー論冒頭で批判する楽曲分析の限界は、それをなくすことは原理的にできないにしても、 限界をずっと遠くに押しやることは可能になるだろう。例えば、かつては時間をかけてコンコーダンスを作成することによって行われてきた哲学文献の 用語法の分析などは、現在はテキストコーパスの利用によって全く様相を変えつつある。例えばの話、遠い将来、クックが第10交響曲に対して 行った作業をコンピュータが行うといった事態だって全くの空想とは言えないだろう。これはいわゆるSFの作品の中での話しだが、レムの 「ビット文学の歴史」の中で、コンピュータがドストエフスキーの「あったかも知れない」作品を書き上げたり、カフカの「城」を完成するのに失敗したり といった話が出てくる。ここで私が挙げた例は、対象がマーラーの音楽になっただけで、別段独創的な部分などありはしない。勿論、この半世紀ばかりの 人工知能研究の歩みを考えれば、そうしたことがすぐに可能になるとは到底思えないが、しかしそれがいつの日か可能になるというのは私の個人的な 放恣な妄想などではない。
私は別のところでシュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の書評において、 「もしある別の星に住む高等生物が地球人の性質をごく短期日のうちに調査しようと思うなら、マーラーの音楽を素通りするわけにはいかないだろう。」 (酒田健一訳)と述べているのに対して、その文章に含まれる様々な予断を批判しつつ、だがそれを詩的な比喩か修辞のように、あるいは芸術家の 誇大妄想として受け流すのではなく、逆にその不十分さを補って、もっと先に推し進めていくことによって限界を認識することによってこそマーラーの音楽の 今日的な射程は見えてくるのではないかと書いたことがあるが、それはこうした受容を支える技術的なレベルの進展と無関係ではあり得ない。 そして強調したいのは、現時点でマーラーの受容史を書こうとしたとき、技術的な環境の変化がどのように受容のあり方に影響するのかという分析なしには その作業は不充分なものとなるだろうということ、そして最終的に、「マーラーの場合」の個別性を扱いえないだろうということである。事実問題として、 マーラーの受容は「常に既に」技術の発展と並行して変容してきたし、今日ますますその連関の度合いが増しているのは、私のような市井の一愛好家の 受容のこうした記述だけからでも明らかだし、同時に、私のような市井の一愛好家の己の受容についての振り返りからも明らかなのだから。
なお、最近の私個人のマーラー受容の具体的な様相については、雑文集に収められている幾つかの文章に記述がある。また、自分の受容のあり方と 近年盛んになりつつある、戦前以来の日本におけるマーラーの受容についてのいわゆる「受容史」が告げるあり方との関係、あるいは無関係についても やはり雑文集の中に主題的に扱った文章があるので、ここではそれらの内容を繰り返すことはしない。 (初稿2010.10.3)
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(2008年5月作成)