春の自然の目覚めの音楽であるはずの第1交響曲の導入部分が、私にとっては、この曲を初めて聴いた、 と同時に、マーラーの音楽に初めて接した、あの夏の日の記憶と今なお結びついている。夏の早朝の、 まだ色々なものが目覚めて動き出す前の静けさが持つ、確固とした「広がり」の感覚が、この序奏の 持っている空間性に結びついてしまったのだと思う。もっとも聴いたのは夏休みの宿題であるポスターを 描いているときに偶々付けたラジオから流れてきた午後のFM放送でだったと記憶しているけれど。 今日では良く知られていることだが、実はこの曲の現在演奏されているヴァージョンは、若きマーラーが 書いたそのままの姿ではない。かつて、初稿に近いハンブルク稿の日本初演を聴いたことがあるが、 ―不慣れなヴァージョンを弾くオーケストラの戸惑いもあったのかも知れないし、一緒に日本初演された ツェムリンスキーの「人魚姫」の管弦楽法の巧みさとの対照もあったのかも知れないが―、あまりに 「鳴らない」音楽に、ひどく驚いたのを記憶している。
だが、FM放送で初めて聴いたその音楽は、それまでに聴いたことのない透明で清澄な管弦楽法、線的書法の 優位、そして自然そのものの音が響きわたる確かな空間性、何よりも意識の流れのような音楽の脈絡に よって、私を魅了した。 最初に聴いたFMのエア・チェックで流れてきたのは小澤・ボストン交響楽団の1回目の1977年の録音だった筈である。 この録音はその後「花の章」を挿入した形態で流布したが、その時に聴いたのは4楽章形態のものだったと 記憶している。
最初のレコードはラインスドルフ・ボストン交響楽団。住んでいた街のレコード屋にあった唯一の廉価盤が これだったという理由なのだが、決して悪い演奏ではなかったと思う。 ただしその後入手したアバド・シカゴ交響楽団のLPが素晴らしい演奏で、私のスタンダードは長らくこれであった。
実演は上述のハンブルク稿を若杉・都響で聴いただけ。1989年10月20日、サントリーホールで、 これはCDにもなったツィクルスの一環で、個人的には間もなくマーラーを聴かなくなる間際のことだった。 永らく疎遠であったこの曲の持つ力を久しぶりに感じたのは、ようやく近年になってCDで復刻された バルビローリ・ハレ管弦楽団の演奏の特にフィナーレを聴いた折だった。 更にバルビローリが1959年に「古巣」のニューヨーク・フィルハーモニックを指揮した演奏は半世紀前にマーラー自身が アメリカ初演をした演奏を聴いたアルマがリハーサルと演奏会に立会い、賛辞を述べているというエピソードをアネクドットの 類を片付けるのを躊躇わせるような力を持った演奏であり、バルビローリが、マーラーがまさにその初演の際に若書きの 自作に感じ取った何かを掴んでいるのは確かだと思う。
また、この曲に関しては1939年に亡命直前のワルターがNBC交響楽団を演奏した記録を無視することはできないだろう。 コンドラーシンがその突然の死の直前にテンシュテットの代役で北ドイツ放送交響楽団を指揮したアムステルダム・ コンセルトヘボウでの演奏会の記録もまた、そうした事後的な文脈を偶然と感じさせないような瞠目すべき力を 備えていて貴重なものだと思う。
実演は2回。一度は朝比奈・新星日本交響楽団、二度目は「葬礼」のみ若杉・都響で。1990年3月30日のサントリーホール のことで、これは「葬礼」の日本初演であったはずである。ただし第2交響曲の第1楽章として演奏された筈だ。 もっとも私は「葬礼」のみ聴いて会場を後にしたので、第2楽章までに5分間の休憩を置くマーラーの指示が 遵守されたかどうかすら知らない。このあと、友人が譲ってくれたチケットで図らずも聴くことになった メータ/イスラエル・フィルの第6交響曲を除けば、自分からマーラーのコンサートに赴いたのはこれが最後になった。 この曲は、第1交響曲同様、実演の印象が頗る悪い。第2交響曲についても、上記の どちらも曲に入り込めずがっかり。特に一度目は全曲聴いたのに、置いてきぼりを食らってショックだった。 思うにこの曲の内容はあまりに個人の内面に関わるもので、皮肉にもコンサートホールでの演奏の 持つ公共性との間に齟齬を来たしているように感じられてならない。あるいは管弦楽法上明らかにナイーブな 初期稿を聴いたというのもあるかも知れないが、これだと朝比奈の演奏に白けた理由については説明になっていない。
LPは最初に聴いたバーンスタインの1度目の全集に含まれるものと、アバド・シカゴ交響楽団のものを持っていた。 後者は良い演奏だと思う。例によって最初に買ったバーンスタインのLPには主体的な選択は働いていない。 レコード屋にそれしかなかったのを買ったのだから。
ちなみにラトルの名前を知ったのはFMで第2交響曲の演奏を聴いたのが最初で、今思えばいかにもラトルらしい、 才気走った解釈に驚きと若干の疑問を感じたのを良く覚えている。 この曲については何故かスコア(全音版)を非常に早い時期に買って持っていて、舐めるようにして 読んでいたのを思い出す。第1楽章はほとんど覚えてしまったくらいである。
近年になってバルビローリの2種類のライブの記録をCDで聴けるようになったが、特にシュトゥットガルト 放送局の管弦楽団との演奏は傷が多すぎて、さすがの私も気になる。一方、ベルリン・フィルとの 演奏の方は、モノラルで音質には限界はあるけれど、こちらは圧倒的な演奏だと思う。 また1948年のワルターのウィーンへの里帰り公演の記録は、記録としての価値もさることながら、 その音楽に込められた感情の深さに圧倒される。更にシューリヒトが残した演奏記録もまた忘れることができないだろう。
この曲はある意味ではアドルノの預言どおり、最近ではかつて程の人気がないように思える。少なくとも 熱心なマーラー・ファンにとっては、寧ろ作風が確立する前の、こなれていない作品という見方すらあるようだ。 だが、私の場合には、他のほとんどの作曲家の場合と異なって、若書きの作品を一段下に置くことができない。 この曲は実演でも印象が良くないし、色々な演奏を聴いているわけでもないが、それでも私の身体のどこかに、 この曲に強く共鳴する部分があるのだと思う。例えば一度だけ自分がマーラーの交響曲を指揮している夢を見たのを 今でもはっきりと覚えているが、その時の曲は何故か第2交響曲だった。終楽章のあの行進曲の部分あたりから 以降最後までは確実に含まれていた。私は時折音楽が鳴り響く夢を見ることがあって、 一度など、あまりの美しさに起きてから書き留めようと思ったのに、書き留めようと思うと夢の中での恍惚には 程遠いものしか書き留められず、ひどくがっかりしたことすらあるのだが、他人の作品がここまで明確に 長い部分、夢の中で再現されたのは一度きりである。
クーベリック・バイエルン放送交響楽団のLPが最初のレコード。その後アバド・ウィーンフィルのLPを入手した。 後者は勿論精度も申し分なく、磨きぬかれた素晴らしい演奏だが、決して平均的な演奏ではなく、 特に中間楽章ではアバド独特の管弦楽のバランスが顕著で、些か作り物めいた感触のある演奏。 (アバドはこうしたバランス感覚を、例えばショスタコーヴィチにも適用する。その結果は、予想もしないような 意外な音響によるリアリゼーションで、これに抵抗感を示す人は恐らく多いに違いないのだが、実際には マーラーにおいてもあまり違いはない。マーラーの場合には様式的に違和感が少ないだけである。)
FMで聴いた演奏では、ツェンダー・ベルリン放送交響楽団、ベルティーニ・ウィーン交響楽団(1982.6.5)、 そしてハイティンク・アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団のものが記憶に残っている。特に 1981年8月21日にNHK FM で放送されたツェンダーの演奏(自由ベルリン放送大スダジオでの1980年10月6日 の演奏とのこと。アルトはキルブルー、合唱は聖ヘドヴィヒ教会の聖歌隊)は95分17秒という演奏時間から予想されるように、 特に第1楽章のテンポ設定が独特で、場所によってはカオティックにすら聞こえる、超現実主義的な「夢の論理」を強く感じさせる 圧倒的な演奏だったと記憶している。
実演は1度だけでベルティーニ・NHK交響楽団(1987年2月12日 NHK交響楽団第1014回定期演奏会: アルト/伊原直子 合唱/国立音楽大学 国立音楽大学付属小学校)。すでにFMで素晴らしい演奏を 何度か聴いていたベルティーニの指揮ということでとても期待して行ったのだが、 NHKホールの席が悪かったせいか、遠くで鳴っている音を呆然と聴く100分で、 その後NHKホールには行っていないし、今後も恐らく行かないだろう。 場所によるのかも知れない(もっともそんなに安い席ではなかった筈だ)が、 こんなホールでクラシックのコンサートをやるというのに些か呆れてしまった記憶がある。 NHK交響楽団も最近はさすがにその後はより音響の良い他所のホールでも定期公演を するようになったが、未だにこのホールを中心に公演も続けているようで、これが放送受信料を 徴収している公共放送のオーケストラ、日本を代表するオーケストラであることを思い合わせると 全くもって感心する他ない。まあ、クラシック音楽なぞ所詮は他所事に過ぎないからどうでも いいのかも知れないし、私には直接は関係ないからどうでもいいのだが。 勿論、この経験はコンサートから足を遠のかせる大きな動機の一つになった。
この曲についてはスタジオ録音が残されていないバルビローリに優れた演奏録音があることを、ケネディの著作によって 早くから知っていたのだが、それを聴けるようになったのはごく最近のことである。だが現時点では バルビローリ・ハレ管弦楽団の一種独特の感触をもった演奏を最も良く聴く。ちょっと聴くと アンサンブルの精度が悪く、はらはらするばかりで落ち着いて聴けないのではと思われるかも知れないが、 マーラーにおける「対位法」というのがどれだけ伝統的なそれと懸け離れたものであったか(伝統的な 技法の熟達という視点では恐らくシュトラウスの方がよほど上手だろうし、シェーンベルクもまた マーラーより遥かに秀でていて、こうした面ではシェーンベルクとマーラーの音楽の間にはほとんど関連を 見出すことはできないだろう)を考えてみると、寧ろこの演奏こそ、マーラー的ポリフォニーの理想的な 実現ではないか、という気さえする。バルビローリの意図がオーケストラに浸透しているという点でも ベルリン・フィルの演奏と比較しても遥かに勝っているように私には聞こえる。デリック・クックの評価は 私には留保なしに同意できるものだと感じている。
この曲は現時点では一般的に非常に評価の高い作品で演奏頻度も、録音頻度も決して低くないようだが、 私は寧ろ昔のほうが良く聴いた。とりわけ終楽章の主題が最後に再現される部分では自分の時間意識が ある種の変容を起こしているように思えて、一体そこで起きているのは何なのか、なぜそのようなことが可能なのか、 どうしてもそれなりに納得の行く説明が欲しくてあれこれ考えていた。勿論それは現時点でも課題であり続けている。 一方で、この曲に関して必ず問題になる世界観の表明などの標題に纏わる問題が私にはひどく 煩わしいものに思えて、それもあってこの曲に対する距離感が生じているのかも知れない。 例えばこの曲に「円環的」な構造を見出そうとする意見があって、それを支持する日本人によるコメントを 読んだことがあるが、具体的にどこに「円環的」な構造を見出しているのかをあたってみれば絶句してしまう。 ソナタの再現部、舞曲のような3部形式、第6楽章における第1楽章の素材の侵入などをもって「円環的」と 呼べるのであれば、それは第3交響曲固有の特徴ではないだろう。少なくとも構想の時点では言語的な 形態をとっていたこの音楽の標題から出発して、ある種の世界観がこの音楽の構造にも反映していると 言いたげであるが、その根拠が上述のもの程度では少なくとも私には何の説得力も感じられない。 かえってそのような「言いがかり」に近い議論によって、第3交響曲をある種の世界観のある仕方での 反映とする、それ自体は別段誤りというわけではない見解自体を、そうした説を吹聴する人間同様 胡散臭いものと感じさせかねないのではなかろうか。きっとあるに違いない内容と形式の密接な 連関を見出そうという努力が、そのような皮相な観察が書物のかたちで流布することで大手をふって 撒き散らされることによって妨げられることを懸念すべきではないかとさえ思われる。
この曲は何回かすれ違いを経験している。 最初に友人の家でFMでこの曲をやっている時間に無理にお願いして聞かせてもらったことがあるが、 勿論そういう状況ではじっくりと曲に没入することはできなかった。 次は、ある年のクリスマスに迷った挙句に買ったショルティのLP。これを自宅の貧弱な再生装置で 再生すると音とびがしてしまうため、買ったお店に相談して、返品させてもらってかわりにショルティの あの第8交響曲の名盤を購入することになったという思い出がある。勿論差額は払ったのだが、 音とびの原因の少なくとも半分は私の持っていた貧弱なプレイヤーとかなり劣化していた 針のせいであったに違いないことを思えば、対応してくださった店員さんの寛容さには今尚、頭が下がる。 シベリウスやマーラーのLP(今ならCDだが)をなけなしの小遣いをはたいて買っていく中学生の数は 今も昔も、恐らくそんなに少なくはないと思うが、当時の私が住んでいた地方都市では、 きっと同情を買う程度には珍しかったのだろう。
そんなこんなで聴けずにいた作品だが、最初のレコードは、そのレコード屋にあったスワロフスキー・ チェコフィルの廉価盤だった。この曲はなぜかFMでも実演でも接する機会がなく、私が良く聴いたのはその後買った アバド・ウィーンフィルのLPである。一方で、この曲の終楽章はマーラーがピアノロールに残していて、寧ろ それを聴いて親しんだ感じがある。その後の歴史的な経緯もあってヒストリカルな録音に恵まれた曲であるが ゆえに、例えばメンゲルベルクの戦前の演奏や、近衛の演奏などさえ耳にする機会があったにも関わらず、 この曲については結局、楽譜を入手するまでは疎遠な音楽であり続けたように記憶している。 ただし、世界初という事実以上のものを聴き取ることのできない近衛の録音と生前のマーラーの信頼厚く、 マーラーと演奏解釈や楽器法についてのやりとりも頻繁にあったメンゲルベルクの演奏を同列に置くことはできないだろう。 メンゲルベルクの演奏は確かに時代がかった様式のものだが、実はその解釈は情緒的というよりは、際立って明晰な 形式的把握に基づくもので、寧ろ曲の構造の理解においては、細部拘泥の傾向のある近年の演奏よりも 遙かに説得力が感じられると私は思っている。
そして他の曲とは些か異なって、この曲は寧ろ現時点の方が遥かに親近感を持って聴ける 数少ないマーラーの交響曲である。(例えば第5交響曲はかつても疎遠だったが、その後、いくつもの 優れた演奏に出会ったにも関わらず、現在に至るまで距離感が埋まったわけではない。) 第4交響曲については、マーラー自身のピアノ・ロールによる「天上の生活」とメンゲルベルクの1939年の録音という ヒストリカルな記録を除けば、インバルとバルビローリの演奏がそれぞれ秀逸であると思う。 それぞれやり方は違うのだが、この曲のちょっと捻った、醒めた側面と、にも関わらず根底には 信じがたいほどの(にわかには信じられなくて、謀られていると感じた人間の顰蹙を買うほどの、 と言い換えても良い)素朴で純粋な感情の奇妙な共存を浮かび上がらせることに成功しているように 思える。
実演でも結局聴く機会がないままなのだが、そういうわけで現時点ではかつてよりも興味が増している曲 なので、一度実演で聴いてみたいように思っていて、もし今後マーラーを実演で聴くことになるとすれば 最有力の候補の一つである。この曲も第4交響曲同様になかなか聴く機会がなく、おまけにLPレコードでも廉価版すら手に 入れる機会がなく、アバド・シカゴ交響楽団のものが最初だから、ほとんど最後にLPを 入手した曲であることになる。(アバドの演奏は、結局第7番以降は入手せずにCDの時代になり、 結局、あの「懐かしい」インバルがあっという間に完成させたCDによる全集が、私が入手した唯一の 交響曲全集なのである。)FMで聴く機会も少なく、強いて言えばベルティーニ・ウィーン交響楽団の演奏 (1983.4.12)が記憶に残っているくらいか。
実演も聴き損なってしまっている。とにかく私にとっては馴染みの薄い曲で、第4交響曲同様、 寧ろマーラーが残したピアノ・ロールの演奏で第1楽章だけは早くから親しんだほどである。 上述のアバドの演奏は、技術的な精度も高く、実に明快な演奏なのだが、正直なところピンと 来ずに、皮肉にもフィルアップのリュッケルト歌曲集ばかりを聴くLPレコードになってしまったほどで、 この曲が、マーラーブームの中でまるで代表曲であるかのように次々と取り上げられていくのを 怪訝な気持ちで眺めていた。
長いことこの曲は演奏よりも楽譜の方が印象が強く、そういう点でも交響曲としては例外的だったのだが、 この曲の場合には何といってもバルビローリ・フィルハーモニア管弦楽団を聴いたことが決定的であった。 特に第2楽章のコラール以降、後半の演奏の説得力では随一で、特に第3部を構成するアダージエットと ロンド・フィナーレは、この演奏でやっと音楽の実質に触れることができたように感じられた。 もっとも初めて聴いたときには、アンサンブルが危なっかしく感じられてはらはらしたのを覚えているのだが。
というわけで、あえて距離感を測れば、私にとっては最も疎遠なマーラーの交響曲だということになる。 バルビローリの解釈を除けば、第7交響曲以上にこの曲のフィナーレが説得的であるとは私にはどうしても思えないし、 第1部は非常に好きであるにも関わらず、3部構成のまとまりも第7交響曲以上に良いとは思えないのだ。 もっとも、疎遠な感じというのはあくまでもマーラーの交響曲の中での比較に過ぎず、この曲を、 例えば他の私が聴かない作曲家の作品同様に考えているということではない。実際、では聴かないかというと、 決してそんなことはなく、他の作曲家の音楽に比べれば、頻度が低いとは言えないのであるし。
バルビローリ以外の演奏では、コンドラーシンがソヴィエト国立交響楽団を指揮した録音が素晴らしい。 とりわけ第2楽章末のコラールの解釈は卓越していて、この作品の備えている質、ベクトル性を把握していると 感じられる。インバルの演奏もまた特に第2楽章の音楽を紡ぐ呼吸の深さにおいて比類ない。 個別の部分のみを取り出すのは演奏について述べるときに適切でない場合が多いが、この演奏に関しては、 特に再現部の練習番号22に至るまでの音楽の持つ呼吸に聴くたびに圧倒されることをどうしても書き留めて おきたくなる。
私にとってマーラーがかけがえのない存在になったのは、この曲を聴いたことによるのだと今でも思っている。 最初に聴いたのは比較的早く、インバル・フランクフルト放送交響楽団の1979年の演奏のFM放送。 その後もギーレン・ベルリン放送交響楽団の1982年の演奏やコンドラシン・南西ドイツ放送交響楽団の 1981年1月18日の演奏など、素晴らしい演奏にFMで接することが出来たし、LPレコードもクーベリック・ バイエルン放送交響楽団、アバド・シカゴ交響楽団の演奏を聴き比べることができた。 アバド・シカゴ交響楽団の演奏は優れたもので、CDの時代になってあまり評判が良くないのが腑に落ちない。 一方で、それゆえインバルの全集が出て、その後あっという間に代表的なマーラー指揮者と見做される ようになったのには感慨深いものがあった。 音楽之友社からポケットスコアが出たときに真っ先に買った曲の1つでもあり、楽譜に馴染んでいるという 点でもマーラーの作品中でトップクラスの作品となっている。
実演も複数回聴いている。最初はサントリー・ホールで行われた若杉・東京都交響楽団のツィクルス の1回(1989年1月26日)で、2回目はマーラーを聴くのを止めたあと、友人に譲ってもらったチケットで、 メータ・イスラエルフィルの演奏を東京芸術劇場で聴いたことがある(1991年11月23日)。 実は実演で複数回聴いている唯一の曲である。(2番も2回という見方もできるが、 うち1回は交響詩「葬礼」のみ聴いてコンサートホールを出たので、私自身としては「別の曲」 と見做しているので。)
ということで最も親しんでいる曲ということはできると思う。そればかりでなく若杉・都響の演奏は、 実演のマーラーで最も感動した演奏だった。(もっともこのときは、一緒に演奏されたシェーンベルクの 5つの管弦楽曲の方も素晴らしい演奏だったが。)メータの解釈は個人的にはあまり共感しない タイプのもので、従ってイスラエル・フィルとの演奏も最初はあまりにゴージャスなサウンドに白けていたのだが、 さすがにフィナーレなどは自分にとっては疎遠な解釈であっても感動的なものだった。
この曲に関しては、現時点では3種類あるバルビローリの演奏があれば充分である。いずれも素晴らしい演奏だが、 フィルハーモニア管弦楽団との演奏では、スタジオ録音よりもプロムス・ライヴの方がバルビローリの演奏の特徴である、 見通しの良さが感じられる。ベルリンフィルとのライブも印象的。明らかにオーケストラが曲に馴染んでいないのがわかるし、 傷も多い演奏で、おまけにモノラル録音だが、第2楽章にアンダンテが置かれた演奏として圧倒的な説得力を持つ。
バルビローリ以外ではコンドラーシンがレニングラード・フィルを指揮した録音が素晴らしい。既述のとおり、 私はコンドラーシンが南西ドイツ放送交響楽団を指揮した演奏をかつてFM放送で聴いたが、ここでは レニングラード・フィルの信じがたいほどの演奏技術の高さ、合奏能力の高さもあって、その非常に早いテンポが 無類の説得力を生み出している。インバルの録音もまた、かつて聴いたそれを思わせるこの曲の理想的な演奏の 一つだと思う。
マーラーの交響曲の中で最も求心的で緊密な作品。ある意味ではマーラーらしい破天荒さを自分で封印した 感じもあるが、その結果伝統的な形式の持っているポテンシャルを極限まで解き放った、例外的な傑作となったと 私は考えている。個人的な嗜好の観点から言っても、恐らくマーラーの作品中で最も馴染み深い作品で、 無茶な想定だが、1曲選べといわれたら多分この曲を選ぶのだろうと思う。実演で聴いた限りでも最も外れがなく、 色々な意味でマーラーの作品中、最も優れた作品であると思うし、かつまた最も好きな作品でもある。
従って現在でも聴く頻度からすれば第9交響曲や大地の歌、第10交響曲と並んで最も多い方に属する。 かつての実演での印象が例外的に良かったこともあって、機会があればまた聴いてみたいようにも思っている。 もっとも恐らく起きるであろう情緒的な反応をコンサート会場でコントロールすることを考えると、躊躇いを感じないでもない。 何しろ、ふとした折に楽譜を取り出して、音楽を追っているうちに涙がぼろぼろこぼれてしまうことすらあるのだ。 特に第4楽章の再現部は私が聴いた音楽の中で最も自分の心を強く揺すぶるもので、ジャンルを問わず、自分の 狭く貧しい経験の中で、幸運にも出会うことのできた最高の価値を持った存在のひとつにこのマーラーの第6交響曲を あげることに些かの躊躇いを感じることがない。楽譜を読み、音楽を聴くたびに、こんなにも素晴らしい作品を 創り上げることのできた人間がかつていたこと、そして様々な偶然によってその存在を100年後の異郷に居ながらに して知ることの出来たことそのものが、自分自身にはたいした価値がない私にとっては何か貴重なものに、僥倖とすら 呼びたいようなことに思えるほどなのだ。マーラーがアルマにこの曲をまずピアノで聴かせ、二人してその音楽に圧倒された というエピソード、あるいはマーラー自身が初演を指揮するにあたって自分の感情をコントロールできなくなることを 怖れたというエピソードすら、時間と空間の隔たりを超えて、気質や能力の絶望的なまでの隔たりをすら超えて、 自分の経験とどこかで響きあうものであると思えてならない。こうした感じ方は大袈裟で品のないものであるばかりか、 更に悪いことには度し難いお目出度さを伴った勘違いによる錯覚によるのだ、という批判があればそれは甘受せざるを 得ない。無価値な存在にとって価値ある経験というのはナンセンスだ、お前のような存在にとって貴重な経験である といってそれが一体何の意味があるのだという問いに対して返す言葉を私は持たない。だが、だからこそ私は、自分が 経験したことを自分の中に抱えたまま、自らとともに荼毘に付され、墓の中でともに朽ちるに任せるのに耐えられない。 こうした文章を書いているのは、私と私の経験自体は無価値でも、ここではジャンケレヴィッチの気休めを 甘受することさえ厭わずに、ただ事実性のみが頼りでもいいから、マーラーの作品の価値について自分の外部に 何かを残したいという止むに止まれぬ衝動にかられてのことなのだ。
一度聴いて魅了されて、今なお最も好きな曲の1つであるが、聴いた時期も非常に早く、 恐らく第1交響曲と「大地の歌」の直後に3番目に聴いたように記憶している。 クーベリック・バイエルン放送交響楽団のレコードをFMのエアチェックで聴いたのが最初で、 この曲の第1楽章に相応しく、天気が非常に悪かったため、電波の状態が悪かったこともあり、 カセットテープに録音したものの、最初の数分は聞き取れなかったような思い出がある。
この曲も第6交響曲同様、FM放送で優れた演奏に幾つか出会う幸運に恵まれていて、 これまで聴いたこの曲のすべての演奏中最も優れていると思うのは、FMで聴いたベルティーニ・ ベルリンフィルの演奏(1981.3.28)である。また恐らく1980年に聴いた ミヒャエル・ギーレンのオーストリア放送交響楽団との 演奏もまた劣らず素晴らしいものだった。だが、何といってもバルビローリのライブ(BBCからリリースされたハレ管・ BBCノーザン響の合同演奏の記録)がリリースされたのが大きく、現時点ではこの演奏で充分だと思っている。 思いつく限りでもクレンペラーの演奏やツェンダーの演奏など、他にも色々なアプローチの優れた演奏はあると思うが、 それでいて全曲を通して説得力のある演奏というのはなかなかなく、結局、上記のベルティーニの演奏か、 さもなくば(意外に思われるかも知れないが)バルビローリの演奏がその点では最も納得がいくものだと思う。 (ベルティーニについてはそういう経緯もあって、その後リリースされたCDも聴いたのだが、個人的な印象では ベルリン・フィルの演奏には遠く及ばないものでひどくがっかりしたのを覚えている。)
だが第6交響曲の場合と対照的に、この曲は専ら上記のFM放送のエアチェックテープで満足していて、 LPレコードは結局買わなかった。交響曲でLPの時代に持っていなかったのはこの曲と9番と10番のクック版だが、 この曲に関してはアバドのレコードでの全集のリリースの順序とタイミングが関係していて、シカゴ交響楽団との 演奏がリリースされた時期にはすでにCDの時代が始まっていたのではないだろうか。その後CDでアバドと シカゴ交響楽団との演奏を聴いたが、私には第5交響曲の場合と同様、アバドの解釈はこの曲に私が 聴き取っていたものと方向性がずれているように感じられる一方で、既に聴き込んで馴染んでいた インバルとフランクフルト放送交響楽団の演奏の素晴らしさは際立っていて、結局アバドの録音を聴くのはLP 時代に聴いた6曲で終わりになってしまった。
音楽之友社からポケットスコアが出たときに第6、第9とともに真っ先に買った曲の1つで、楽譜でも馴染んでいた だけに、実演で聴くのが楽しみであったが、その唯一の機会であった若杉・東京都交響楽団の 1989年のサントリーホールでの演奏は、残念ながら全くといっていいほど入り込めない惨めな経験となった。 このときはヴェーベルンの作品6(勿論オリジナルの4管編成版)との組み合わせで、当時の自分にとっては ほとんど最高のプログラムであったにも関わらず、マーラーだけでなく、ヴェーベルンの演奏も全く感動できず、 悄然としてサントリーホールを後にした記憶がある。若杉・東京都交響楽団のツィクルスはその後、 第1交響曲のハンブルク稿(交響詩「巨人」)の日本初演、交響詩「葬礼」の日本初演と足を運んだが、 どちらも全くといっていいほど感動できず、むしろツェムリンスキーの作品の方が良かったくらいで、 結局、最初の第6交響曲を除くと、私個人としてはフィアスコと呼ぶような壊滅的な経験となった。 それゆえ、その後の演奏に足を運ぶこともなく、その後リリースされた公演を記録したCDも入手することも なかったのは勿論だが、それだけではなく、そもそもマーラー自体を聴かなくなり、その一方でCDでは 聴き続けた他の作曲家の作品についてもコンサートホールで聴くこと自体をほとんどしなくなってしまった。
この曲はマーラーの交響曲の中でもリニアなストーリー性が最も希薄で、組曲のような遠心的な構造を持った 曲だと思うが、それゆえ個別の楽章を取り出して聴くことはあるが、そうでなければ全曲通して聴くことが多い。 良く問題にされる第4楽章までと第5楽章との分裂というのは私にはよく分からないので、 第4楽章で終わりで、第5楽章を聴かないというのは私の場合にはないのである。早い時期から親しんで 来たこともあり、特に好きな曲の一つといっても良く、マーラー・ファンの中には第7交響曲の熱烈なファンが いるようだが、個人的には共感できる。一方で、アドルノ以来のフィナーレの解釈にはずっと疑問を感じていて、 それは今でも変わらない。上で述べた「全曲を通して説得力のある演奏」というのも、従ってここでは アドルノ的な解釈に対抗できるような演奏ということで、こうした観点では、最高の演奏は恐らくバルビローリの 演奏ということになるのではないかと思っている。
バルビローリ以外では、この曲もまた、非常に速いテンポを採用しているコンドラーシンの演奏が素晴らしい。 レニングラード・フィルを指揮したセッション録音と、コンセルトヘボウを指揮した演奏会の記録の2種があるが、 解釈は一貫している。演奏の精度や個性の点では、レニングラード・フィルの演奏の方がより印象的で、 第1楽章の後半など、あまりに素晴らしさに言葉を喪ってしまうほどである。また、問題視されることの多い 第5楽章の説得力という点でもコンドラーシンの演奏は比類ない。
この曲はさすがに実演の機会がそんなにあるわけではなく、従って海外でのコンサートを放送する FMでこの曲を耳にする機会はなかったということもあって、この曲との出会いはショルティ・シカゴ交響楽団の かの有名なレコードを通してである。これはいわゆる廉価盤ではなく、正規盤を奮発して買った初めてのLPレコード だったと思う。
一方でこの曲については、楽譜についても奮発してUniversal Editionの学習用のスコア(赤い表紙の、 ポケットスコアよりは大きな版型のもの)を買って持っていたので、楽譜にも早くから親しんでいた。 何より規模が大きく、しかも歌付きであるため、歌われている内容を確認するためにも、繊細な 管弦楽法に親しむためにも、総譜は非常に役に立った。
実演は一度だけ。サントリーホールのこけら落としの1986年10月18日の若杉弘指揮東京都交響楽団の演奏、独唱は ルチア・ポップ、豊田喜代美、佐藤しのぶ、白井光子、伊原直子、ベルンハルト・ヴァイクル、フランツ・マイヤー、 ペーター・ザイフェルト。一見したところ良く似た作品だと見做されることの多い2番とは正反対で、 この曲は実演の印象がすこぶる良く、これは圧倒的な経験だった。普段、マーラーを聴きなれない聴き手が 多かったゆえか、第1部のコーダが鳴り止んだ後、拍手が響いたが、それは全く場違いな感じがしなかった ばかりか、極めて自然な反応に思われたのを今なお鮮明に思い出す。この曲は編成の大きさと、器楽法の 繊細さの両方の理由で実際にコンサートホールで聴かないとわからない側面が特に大きいように感じられる。 私にとって、この音楽は決してこけおどしの空疎な音楽などではない。寧ろマーラーが恐らくそう願ったとおり、 情緒や感性といったレベルを超えて、人間の心の奥底に光を投げかけ、人間の存在の有限性と儚さを、 その営為の限界を強く感じさせる力を持った音楽だと思われる。勿論、己の経験が普遍的で、客観的に 正当であるとして、他人にそれを押し付ける気は全くない。第2交響曲の実演に関して私がそうであるように、 この曲の実演に接して「置いてきぼり」を食うことは如何にも起こりそうなことではあると思う。それもまた、 この曲の持つ或る種の危うさに対する正しい反応なのかも知れないのだ。
実はかつては非常に好きな曲だったのに、今では私にとっての最大の躓きの石となっていて、その程度たるや 第2交響曲の比ではない。だが私はこの曲全体がアドルノのいう「突破」の瞬間に等しいものだという認識を かなり前から抱いていて、この考えは今なお確かなものだと思うが、その一方で「突破」の契機が比較的素直に 具体的な音楽に具現していた初期の交響曲にはあった媒介をこの曲だけは欠いていて、それゆえ 受け入れるのは一層難しいように感じられる。他方において、かつての実演の経験からもこの曲が持っている 凄まじい力を否定することもできないでいる。この曲の批判者の代表格のように言われるアドルノも 実際にその論調を読めば、思いのほか微妙なためらいを見せていることがわかる。ベンヤミンならいざ知らず、 アドルノがカバラ的な用語を持ち出すといった異様な光景が見られるのも、この曲を論じた末尾の部分だし、 「救い主の危険」という言い回しさえ出てくるのである。そしてそうした両義的な姿勢に、私は共感を覚えずには 居られない。ぎりぎりのところで否定できない、勿論なかったことにするわけにはいかない、厄介な存在。 あるいはそこにマーラーが好み、そしてアドルノもまた「パラタクシス」によって結びつくヘルダリンの詩篇 「パトモス島」の一節、「危険のあるところ、救いの力もまた育つ」という詩句を突き合わせることもできるかも知れない。 ともあれ、この曲こそは私にとって決着をつけるべき最大の問題の一つであることは確かなことなのである。
この曲に関してはほとんど聴くことがないので、ミュンヘン初演を聴き、アメリカ初演を成し遂げたストコフスキーの演奏と インバルの全集に含まれる演奏の2種があれば私は充分である。前者の歴史的意義は疑問の余地はないが、 それ以上にこの曲がかつて持っていたアウラ、単に祝祭的なだけではない、そしてマイヤーの批判にも関わらず 決して装飾に縮退することのない、アナクロニックといっても良いような或る種の「姿勢」のようなものに支えられた 雰囲気を感じ取ることができるように思える点の方が私にとっては貴重に感じられる。インバルの演奏は あまり評価されることがないようだが、私が実演で聴いた印象に最も近いということ、歌詞を踏まえて考えたときに、 管弦楽と合唱のバランス、両者を併せた上での各声部間のバランスが卓越していると感じられること (特に混沌としやすい第1部のコーダ、Gloria Patriより後、末尾に至るまで)が私には大変好ましい。 第2部もこの曲の備えている独特の時間性を的確に実現している点で理想的な演奏だと思う。
第9交響曲については、伝説的なあのバーンスタイン・ベルリンフィルの演奏をFMで聴いたのが最初かも知れない。 他の演奏を知らないままにこの演奏をカセットに録音して繰り返し聴き、じきに音楽をすっかり覚えてしまったので、 この演奏の「異様さ」というのを客観的に把握するには随分と時間がかかった。他の方がどうかはわからないが、 私はマーラーの場合に限って言えば、楽譜をほとんど持っていることもあり、またその音楽の脈絡をかなり記憶していることも あって、CDなどを聴いても、実際には自分の頭の中にある音楽を確認しているだけのことがしばしばあったし、 多少の距離感をおいて接することができる今ですら、その傾向は残っている。だから良く聴いて、馴染んだ曲ほど 演奏解釈の違いというのに無頓着な傾向が強く、そのせいもあって、いわゆる聴き比べのようなことに興味がない。 否あったとしても、細かい違いを気にして聴くことがそもそもできる自信がないのである。さすがに極端なテンポ設定や アゴーギクの違いには気づくし、明らかなミスは頭の中の音楽と比べることで容易に検出できるのでわかるし、 場合によっては使用している楽譜の版の違いにも気づくことがあるが、それはあくまでも自分の頭の中に納まっている ものとの違いによってに過ぎない。もしかしたら、コンサートホールでの実演に感動することが少ないのは このことと関係するかも知れない。マーラーとかヴェーベルンのような、「身に付いた」音楽ほどその傾向が強いのは、 多分そのせいなのだろう。もっとも第6交響曲のような例外もあるから、そればかりとは言えないと思うのだが。
というわけで、第9交響曲もまた、実演を聴いた印象は極めて希薄である、というよりほとんど聴いたという 事実以外のことは記憶にないというのが正直なところで、これでは聴いても聴かなくても同じことなのだが、 その実演とは井上道義・京都大学のオーケストラのサントリーホールでの演奏(第140回定期:1987年1月)で、 音楽が全く自分の内側に入ってこず、周囲の空間を素通りしていくに驚いたこと以外これといった印象がない。 学生オーケストラの技術は非常に高くて、技術だけとれば決してプロに 見劣りすることはないだろうが、この曲はプロでも下手をすれば楽譜をなぞるだけで終りかねない 難曲であり、恐らく、何かが伝わってくる水準の演奏ではなかったのであろう。学生オーケストラの 演奏会は第一義的には演奏する学生のためのものだから、その出来を云々するのはもともと 筋違いなのだろうし。だが、例えば別の機会に接したショスタコーヴィチの学生オケによる演奏では、些かユニークでは あっても作品に対する共感を感じる演奏であり、その演奏に私もまた充分に共感できたことがあるから、 これはマーラーの音楽が、普通に思われているより遙かに今日の日本人にとって遠い存在であるということを 告げる徴候のようなものとして考えることができるかも知れない。あるいはこの作品の持つ極端に私的な性格 (そして逆説的に、それこそが普遍性への通路になっているように思われる)と非人称的な客観性(これは シェーンベルクがかのプラハ講演で指摘した事柄と恐らく関係する)の共存に起因する部分があるのかも 知れない。
FMで聴いたベルティーニ・シュトゥットガルト放送交響楽団(1984.1.20)の演奏も素晴らしく、ベルティーニは FMで第3、第5、第7、第9と素晴らしい演奏を聴いていたのだが、第3交響曲の項で書いた通り、実演で 聴いたときの経験があまりにも不幸なものであったこと、ケルン放送交響楽団との来日が、丁度いわゆる マーラーブームの頂点の時期で、その時には私はマーラーから距離を置き始めていたという巡り合せの悪さも あって、ベルティーニが東京都交響楽団のシェフであった時期も結局一度も実演を聴くことはなかった。
LPは、ジュリーニの演奏がずっとレコード屋の店頭にあったのを記憶しているが、あいにくそれ以外の廉価盤が なかったせいもあって、とうとうレコード自体を買いそびれてしまった。CDの時代になってからは、かつてカセットテープで ベルリン・フィルとのライブをさんざん聴いたこともあり、バーンスタイン・コンセルトへボウの録音やインバルと フランクフルト放送交響楽団の演奏も一時期聴いたが、 結局のところ、ようやく聴くことがかなったバルビローリとベルリン・フィルの演奏に落ち着いた。
だがこの曲には他にも優れた演奏が多く、マーラーの作品中、色々な演奏を聴くという多様性の点では 他を圧して一番のように思える。ワルターとウィーン・フィルの1939年の演奏は、録音の悪さを超え、 もしかしたら演奏のクオリティだけで語ることが不完全であるかもしれないような時代の証言としての重みがある。 このような記録で、音楽をその音楽が演奏された状況と切り離して論じることは妥当ではないと私は思う。 コンドラーシンはモスクワ・フィルとの演奏でセッション録音と、日本初演の記録があるが、いずれも圧倒的な 説得力を持っている。ザンデルリンクの解釈はユニークでありながらこの曲の持つ別の一面を浮かび上がらせている ように思える。ジュリーニの演奏は評価が高いが、私はこの演奏を聴くと非常に具体的で現実的な風景が 見えてくるように感じられる。特に第4楽章を聴くと、ドロミテの、現地でEnrosadiraと呼ばれる現象を 思い浮かべずにはいられない。バルビローリもベルリンでのセッション録音の他に、トリノの放送管弦楽団との ライブ、ニューヨーク・フィルハーモニックとのライブがあって、それぞれオーケストラの個性により少しずつ違った 質の演奏になっている。インバルの演奏は、曲の持つ「記憶」の再現の克明さという点で卓越した演奏だと 私は思う。
この曲は楽譜に比較的早くから親しんだ曲の一つでもあり、音楽之友社からポケットスコアが出たときに 真っ先に買ったのがこの曲と6番、7番であった。(それ以前に持っていたのは、「大地の歌」と第8交響曲の Universal Edition版と、第2交響曲の全音版。)
この曲をマーラーの交響曲の頂点と考える人は多いだろうが、私は(これも昔からよくある)第1楽章の 出来が良すぎて、後続の楽章とのバランスが悪いと感じる方である。第2楽章以降の出来が悪いというのではなく、 個人的な嗜好では第1楽章があまりに素晴らしいのだ。それ故自宅でCDを聴く場合など、 第1楽章で終わりにすることも非常に多い。この曲の楽章構成がユニークなものでありながら、極めて 巧妙なものであり、あるいはまたこの曲の遠心的な構成の方が第6交響曲などよりマーラー的なのだとは思っても、 マーラー特有の叙述の分裂に同調できないことも多い。 結局私はほとんどの場合音楽をムーディーにしか聴いていないということの証なのだろうが、どうしようもない。 全曲聴くぞと思って聴かないと、全曲聴きとおすのが難しい場合が多く、そうした傾向は実は昔から現在まで 一貫して変わらないのだ。要するに、知的で分析的なレベルでは楽章構成に難をつけることはできないけれど、 実際に音楽を聴いてみると、第1楽章で音楽が完結してしまっていると感じることが多く、これは寧ろ 心的なダイナミクス、精神分析的な意味合いでの句読点の問題に違いなく、私の個人的な心的な機制の 問題の反映なのかも知れない。例えば、この曲を精神分析的な視点から解読した文献として、Holbrookの 著作があって、これは非常に面白い本だけれども、そして、そこに書かれている楽章構成の解釈に一定の 説得力は感じても、プライヴェートな聴取の次元では第1楽章で終わりにすることが多いという事実には 変わりがないのだ。もしかしたらそれは、私がこの曲を聴くに値するほどまだ人間的に成熟していないという ことなのかも知れない。大地の歌の方は、その巨視的な構造がもたらすメンタルなプロセスにすっかり馴染んだのに、 この曲については、まだ難しい瞬間があるようだ。
もっともそれでは中間楽章が嫌いかといわれればそんなことはない。第2楽章のイロニー、第3楽章の 暴力性ともども、それは自分の心象には寧ろ親和的にさえ感じられる。個人的には(こういうロマン派的な 聴き方自体を問いに付すことはとりあえず棚上げにしてしまえば)よりポピュラーなロマン派の音楽を どう聴けばいいのか寧ろ戸惑いを感じて、白けてしまって聴いていられないくらいである一方で、 病的な心象風景という見立てさえあるらしいショスタコーヴィチのカルテットや後期交響曲は私にとっては ごく自然な音楽なのである。それゆえ、マーラーの第9交響曲の第2楽章、第3楽章もまた、 それをロマン派的な通念で捉えたとして、そういう音楽が書きたくなる気持ちは良く分かるように思えるし、 ムーディに聴いたところでこういう気分はよくわかる。第3楽章の「極めて反抗的に」という演奏指示は確かに 異例のものかも知れないが、その音楽の風景には何ら異様なところはないように私には思える。 それゆえ、私はこの曲が何か特殊で例外的な心理の表現であるという意見には全く共感できない。 そういう意味では100年前の異郷の人間であっても、マーラーは私には随分と身近なメンタリティの 持ち主であると思える。
それと関係があるのかないのかはこれまた定かではないが、一つ気づいたこととして、どうやら、中間楽章、 特に第2楽章を聴くことの(勿論、私のとっての)容易さが演奏によって異なるらしいということがある。 手元にある5種類の演奏は、それぞれ優れた演奏だと思うが、例えば中間楽章の面白さという点では 違いがあるようなのだ。
いずれにせよ、この曲の第1楽章は本当に素晴らしい。否、単に素晴らしいというだけではなく、 あるタイプ演奏で第1楽章や第4楽章を聴いていると、マーラーがその中に立った風景が、 その時のマーラーの「感受」の様態が、そのまま自分の中に再現されるように感じることがある。勿論勝手な 思い込みだが、私にはマーラーが見た風景が見えるような気が、マーラーが感じた印象が 自分の中にそっくり再現されるような、言ってみれば私的な筈のクオリアの伝達が可能になっている ような気がするのだ。クオリアの私性と共感とは一見したところ論理的に両立しないように 見えるが、それは知的な概念化に伴う単純化に起因する誤謬であるに違いない。 勿論、私の心の中で起きる事象はマーラーの心の中で起きたものと同じではなく、何らかの 変形が生じているのは間違いがない。それを言い出せば昨日の私が聴いた時と、今日の私が 聴いた時にだって違いはあるだろう。けれども、何か不変なものがそこにはある。それは言語化し 概念化すると、その時に生じる歪みにより大切な部分が揮発してしまうようなデリケートなものであって、 従っていわゆる言語的なレヴェルでの「標題(プログラム)」と同一視することはできないに違いないが、 言語化できなければ何もないというのもまた、知性の犯す誤謬なのだ。
昔のマーラーに熱中していた私がマーラーを必要としていたのも確かだろうが、それとは少し違った 意味合いでマーラーの音楽が本当に必要に思える時期というのが、今の私にはある。 それはその音楽が優れているか、その音楽が好きかというのとは少し異なった位相での音楽との 接し方で、そしてその切実さの度合いは、寧ろかつてよりも今の方が深いかも知れない。 そしてそうした切実な必要に応えるのは、子供の死の歌であったり、大地の歌であったり、 この第9交響曲であったりすることが多いように思える。こうした聴き方は、治療の手段として音楽を 聴く方にとっても、自律的な音楽の価値を追及する方にとっても中途半端であったり不徹底で あったりする問題のある聴き方かも知れない。そうであれば申し訳ないとは思うけれど、でも、 私にはそうした聴き方が必要な時がやはりあって、どうすることもできないのだ。そして、そうであれば これは非常に不遜で身勝手な感じ方だということになるのかも知れないけれど、私にとって マーラーその人が、その音楽ともども最も身近に感じられる瞬間というのは、そうした聴き方と 無関係ではありえないのも否定し難いのだ。かつて実演を聴いたコンサートホールでこの音楽が 素通りしていったのは惨めな経験だったけれど、だからといって、このような聴き方をするようになった 現在の私がこの曲をコンサートホールのような場所で聴くことが適切なことであるかといえば、 率直に言って自信がない。
非常に早くから親しんだ。いわゆるマーラー協会全集では第1楽章のアダージョが出版されているが、 これはクーベリック・バイエルン放送交響楽団の演奏が6番のフィルアップに入っていて、繰り返し聴いた。 クック版はレヴァイン・フィラデルフィア管弦楽団のレコード(1978, 80年録音で第3稿第1版による。) をFMで諸井誠さんの解説で聴いた。
一時期はマーラーのすべての作品で最もよく聴く曲だったし、1曲選べといわれたらこの曲を選んだほど。 その後ザンデルリンク・ベルリン交響楽団、インバル・フランクフルト放送交響楽団と、CDでクック版を ずっと聴いていて、私にとってはこの曲は未完成だけど5楽章の交響曲である。 例えば第9交響曲に比べてもこの曲の構成は私にとっては自然で、5楽章版で聴くのが 極めて自然に思える。スコアについても、クック版は早くから入手して持っていたのに、全集版の アダージョは未だに未入手の状態。(手元にあるクック版は正確には1989年の第3稿第2版である。) もし完成したら、マーラーの作品の頂点の1つとなったことを私は疑っていない。 例えば中間楽章については第9交響曲よりこの曲の方が私には遙かに面白く聴ける。 クック版でも、その素晴らしさは充分に感じ取れる。昔も今も最も好きな曲の1つ。 残念ながら実演は聴いたことがないが、これも機会があれば一度は聴いてみたい曲の一つである。
ちなみにこの曲ではシャイーの演奏の評判が高く、私も、ツェムリンスキーなどの演奏で注目して いたこともあり大きな期待を持って聴いたのだが、何故か感動できなかった。 たっぷりとしてよく歌う、美しく演奏なのだが、波長が合わないのだろう。(第10交響曲に限らず全般に、 私はシャイーの演奏するマーラーには違和感を覚えることが多かった。)
ザンデルリンクの演奏はクック版をベースにしてはいるが、かなり管弦楽法に手を入れて、 響きの上で厚みのあるものになっている。これはクック版があくまでも補筆ではなく、演奏可能な 形態にすることを目的としたものであることを考えれば、寧ろ妥当な姿勢と言うべきで、しかも ザンデルリンクの追加は、バルシャイ版などがマーラーの音楽ではなくなっていると感じられるのに比べれば 私にとっては遙かに違和感が少ない。
一方で、クック版以外の補筆版については、 一度スラットキンが録音したマゼッティの第1版(これはのちにロペス=コボスが録音した第2版とは別の 版である)を聴いたのみ。これは単なる私の嗜好なのだが、マゼッティ第1版は私には違和感が大きく、 繰り返し聴く気が起きなかった。ザンデルリンク版はそんなことはないのだし、私は別にクック版原典至上主義では ないのだが、それもあってより饒舌で編曲者の恣意が強く反映されているという噂の他の版を聴く気は 起きないでいる。金子さんが言うようにマゼッティが「マーラー的な語法を逸脱しない範囲で、より雄弁な スコア化を目指した」と言いうるか、私には判断しかねるが、素直な気持ちを言えば、それは否であると いう他なかった。もし金子さんの言うとおりならば、自身半ば認めているように、第2版でマゼッティの作業は 実質的にそうしたアプローチの自己否定に近いものがあるに違いなく、だが私はそのマゼッティの逡巡が わかるような気がするのである。
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(2008年5月作成)