グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言


吉田秀和「マーラー」(1973--74)より(「吉田秀和作曲家論集1」p.151)
「(...)
 そういうこととならんで、というより、それよりもまず、私は寿命が数えられたと知ったときの人間が、生活を一変するとともに、新しく、 以前よりもっと烈しく、鋭く、高く、深く、透明であってしかも色彩に富み、多様であって、しかも一元性の高い作品を生みだすために、自分のすべてを 創造の一点に集中しえたという、その事実に感銘を受ける。
 こういう人間が、かつて生きていたと知るのは、少なくとも私には、人類という生物の種族への、一つの尊敬を取り戻すきっかけになる。死を前にして、 こういう勇気をもつ人がいたとは、すばらしいことではないかしら?(...)」


このマーラー論は、私にとっては、日本語で書かれたものとしては最も感銘の深いものである。どういう点に感銘を受けたかについては、 参考文献の紹介のページに既に記したのでここでは繰り返さないが、 「自分がまだやれる間に、私の今の力が許される限りでのマーラーとの決着をつけておく」(p.126)という 決意のもとに書かれた50ページ近いマーラー論は、その決意に見合っただけの充実したものであると感じられる。
上の文章は、その中でマーラーの後期作品―「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲―を巡って書かれたものであるが、特に最後の一文、これには 付け加えるべき言葉が思いつかない。
引用した部分のみを読まれた方は、あるいはこのような「主観的な」発言が評論のかたちで為されたことに、留保をつけたくなるかも知れない。 そういう方は、どうかこの「マーラー」論の全体をお読みいただきたいと思う。決して、ひとりよがりに思いつきで情緒的な発言をしているのではないことが おわかりいただけることだろう。私としては、1973年の時点―私は、まだマーラーに出会ってすらいない―で、 既に日本でこうした発言が為されたことを、それをごく最近まで知らなかった不明を恥じる気持ちとともに、銘記しておこうと思う。
勿論、この「マーラー論」で展開される各論について個別に異論を唱えることは可能だろうし、すでに30年以上の歳月を経た今日では、 また別の視点が可能だろうとは思う。だが、作者は自分の立ち位置を明確に意識し、マーラーとの距離感を正確に測りながら、 それでも自分をひきつけてやまない対象について、自分の経験に忠実に語っている。 そして恐らくはそれもあって、その内容は今日でも意義を喪っていないし、その説得力もまた些かも損なわれていないように思われる。 否、マーラーが「当たり前」になった近年の方が、かえってマーラーをこのように語ることについては困難になっているようにすら感じられる。
私は私なりに、マーラーとの決着をつけたいと思っていることもあって、この文章に非常に大きく勇気づけられた。たとえ拙いものになってしまっても それでもなお自分なりの結論を出し、それを自分の言葉でまとめることこそ意義あることのように思えるし、それがこの「マーラー」論に対して、 そして何よりマーラーの人と音楽に対して自分が為しうることなのだと思う。そしてまた、そうするにあたってこの「マーラー」論は、ふらふらと彷徨いがちな 自分にとっての貴重な参照点になると感じている。(2007.7.2)



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