マーラーを語る上で、生誕100年を記念して出版されたアドルノのマーラー論を取り上げないわけには
いかないだろう。いわゆる専門的な研究を志すわけではなくとも、マーラーについて何かを語ろうとした時に、
この著作を読まずに済ませることは困難だと思う。しかも今日では素晴らしい新訳(「マーラー 音楽観相学」
訳:龍村あや子、法政大学出版局)により日本語でその内容を、比較的に容易に理解する手段が
用意されているのである。
アドルノの文章は難解だと言われるが、幸いにしてあまりにかけ離れた言語である
日本語に翻訳するにあたって充分に意味の通る翻訳がなされるため、訳者の解釈の助けを借りながら内容を
理解することができるという、逆説的ではあるが恵まれた状況に我々はあるのだと思う。「否定弁証法」しかり、
「認識論のメタ批判」しかりである。
とりわけ現象学批判の後者は、個人的には一層理解しやすいものであるが、それと同様かそれ以上に、語られている
音楽に親しんでいるマーラーについての著作であれば、尚更とっつきやすい。私のように、熱狂的なファンでは
ない、どちらかといえば距離をおいた聴き手ですらそうなのだから、多くの熱心な聴き手の方にとっては
決して難解であるとは思えず、ややもすると今なお敬して遠ざけられがちであることは驚きである。
もっとも、そうはいっても意味が通りにくい部分も散見するし、私見では、はっきりと誤りではないかと
思われる場所もなくはない。わかりやすい例を一つだけあげれば、III.性格的要素の章の出だし、訳書57頁
(Taschenbuch版の全集13巻では190頁)のアプゲザングの例のうち第3交響曲第1楽章の対応箇所について、
訳者は362小節~368小節であると補足しているが、私見ではアドルノが考えているのは明らかに練習番号28
(351小節)以降である。それはIV.小説の末尾(訳書108頁、原書228頁)の原注26において、まさにその
アプゲザングへの再度の言及があり、そこでははっきりと練習番号28がアドルノによって指示されている
ことから明らかであるように思われる。聴取の印象からいっても練習番号28からの箇所の方が「充足」に
相応しく、訳者の指定箇所は(アドルノもそう表現しているが)寧ろ「崩壊」であろう。少なくとも
聴く限りでは「充足」として機能しているようには私には感じられない。
(幾つか気付いた点のうち、特に第4交響曲に関する部分については、
別にまとめた(「アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について」)
ので、興味がある方はそちらをご覧になっていただければ幸いである。)
しかし旧訳(私が知った時には既に絶版で、図書館で閲覧することしかできなかった)に比べれば、 その訳の素晴らしさは一目瞭然であると思われる。これなら移動時間の電車の中でも読めるという くらいこなれた訳であり、画期的なことだと思う。
なお、これらとは更に別に、青土社「音楽の手帖 マーラー」には、深田甫訳による、第4章の更に部分訳が 収められている。これは一見して非常にこなれた訳なのだが、とりわけ哲学的な概念操作が内容の抽象性の高い部分に なると途端に首を捻る文章になる傾向がある。(この点では龍村訳の方がずっと違和感がない。) マーラーが曲をつけた詩の翻訳でも著名な訳者の手になるもので、日本語としての読みやすさは群を抜いているとは思うが、 踏み込んで補った部分がアドルノの意図を捉えているかどうかは、また別の問題なのではなかろうか。
もっとも、深田訳に関しては、歌詞の翻訳でも―語彙の豊かさ、表現の多彩さに驚嘆するとともに、 日本語としてこなれていることは認めても―そのあまりの自在さに当惑することが多い(しかも詩によっては複数のバージョンの翻訳があって、 そのバージョンを比較すると、その違いの大きさに再度驚くことになる)のだが、 これは私に文学的な感受性が欠如しているせいなのであろう。まあ、世の中には誤訳だらけの歌詞翻訳があふれていると仄聞するので、 それに比べれば、深田訳の質の高さには議論の余地はないのだろうとは思うのだが。
かつて、このアドルノの著作を評して音楽が行間から聞こえてこないタイプの著作である、という評もあった (「音楽の手帖 マーラー」(青土社)の中の川村二郎さんの文章にそんな記述があった)が、BGM的に マーラーの音楽を思い浮かべながら読むことはできないという意味ではその通りではあっても、実際には寧ろ、 アドルノのこの著作ほど具体的にマーラーの音楽自体に迫ったものは読んだことがない。その記述は至るところ 音楽の具体的な部分への言及に溢れていて、その音楽に慣れ親しんだ方ならば、これほど音楽を思い浮かべ ながら読み進められる著作もないのではないかと思う。もしかしたら専門の研究者にとっては、40年以上前の この著作は最早、参照に値しない「歴史上の文献」になっているのかもしれないが、充分にその内容を 咀嚼することすらまだできていない私にとっては、まだまだアクチュアルな著作である。
とはいうものの、それはアドルノの主張に全面的に賛同できるということではない。「アドルノ以後」の 多くの論者がそれぞれ少しずつ異なったニュアンスで留保をつけているが、私もまた、アドルノの主張の 根本の部分に首肯し難いものを感じる。独自の概念装置を用いたマーラーの音楽の具体的な分析は 素晴らしいと思うが、その社会批判的な部分には必ずしも説得力を感じない。寧ろ、予断された歴史的な 図式に現実を当て嵌めるかのような強引さが感じられる。それが他のアドルノが評価しなかった作曲家に 適用された時の恣意性を思うに、その所説のある部分(もしかしたら、それは根幹をなす部分かも 知れないし、ことマーラーに関しては―文脈を共有する者が持つ「クオリア」の反映ゆえの―それなりの 説得力を感じないでもないのだが)に対して留保をつけざるを得ないように感じている。
というわけで、アドルノの著作があればそれだけでも充分過ぎるほどなのだが、それ以外に挙げると すれば、本来はドナルド・ミッチェルの生成史的な研究(私の知る限り、現時点で3巻)、 アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの浩瀚な伝記(私が参照しているのは、フランス語版の3巻本である。 その後、内容の改訂・増補を伴う英語版も出ている。)、そして必ずしも評価について一致を 見ているわけではないようだが、コンスタンティン・フローロスの標題音楽的なアプローチによる 大部のマーラー論(これまた3巻本)の3つを挙げるべきなのだろう。
しかしミッチェルの研究はその一部の翻訳が出たきりだし(「マーラー さすらう若者の時代」喜多尾道冬訳, 音楽之友社,品切、「マーラー 角笛交響曲の時代」喜多尾道冬訳,音楽之友社)、 ラ・グランジュについては幾つかの論文の翻訳をまとめたものが出版されているに過ぎない (「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」船山隆,井上さつき訳,草思社)。 フローロスに至ってはようやく最近英語版からの翻訳で第3巻のみが出版されたばかりである。
ちなみに個人的には私はフローロスの立場にはほとんど関心がない。マーラーがいわゆるハンスリックの意味での 「絶対音楽」ではないのは明らかであるにせよ、だからといって直ちにフローロスのようなアプローチを 正当化することにはならないと思う。アドルノを批判する姿勢を明らかにしているフローロスの立場がアドルノのいう 標題音楽的な解釈として批判の対象になりうるかについても議論があってしかるべきだろうが、 いずれにせよ一読した限りではアドルノの著作ほどの刺激は感じない。 私は幸い研究者ではないので、義務的に読む必要性に迫られることもない。 主要な文献の大部の翻訳が出たこと自体は歓迎したいが、それゆえここでは特に取り上げることはしない。
また、マーラーの音楽をドイツ・ロマン派の汎神論的な自然哲学的世界観の表現として捉えようとする立場と しては例えば国内でも岩下の説があるが、これにもまた同意しかねる。もしマーラーをそうした思潮の中に 位置づけること自体目的であればそれなりに妥当な側面もあるとは思うが、それはマーラーの作品の「環境」の一部 を明らかにするものではあっても、決してマーラー「について」の議論ではないし、マーラーの特異性を明らかにすることは ないように思われる。そもそも岩下の論では第9交響曲が(そしてまた第10交響曲も恐らく同様に) 全く扱えない。マーラーの作品を俯瞰するという観点からすれば、すでにこれのみをもって、その論には致命的な 限界があると言わざるを得ないのではないか。第8交響曲と大地の歌、第9交響曲との間に広がる溝こそ、 そこに矛盾や破綻を見出したり、伝記主義的な裏づけをもった変化を認めるのでなければ、まさに説明が必要な 「躓きの石」であるのは、ワルターの指摘を引き合いに出すまでも無く明らかなことのように思えるのだが。
更に言えば、仮に世界観や理念についての議論に限定したとして、岩下の説で扱われているのはせいぜい
ニーチェまでであって、マーラー自身が強い関心を抱いていたより近代的な思潮、
フェヒナーやロッツェといった自然科学の発展の準備をした人たちの考え方に全く触れないのは不可解だし、同様に
マーラーその人の軌跡を辿るなら、エドゥアルト・フォン・ハルトマンを素通りすることにも困惑を覚えざるを
得ない。期待して読み始めた人間は、恐らく肩透かしを食らった気分になるだろう。
私のような文化史的な知識の
無いものが、造詣の深い専門家に対して何を言うかとお叱りを受けそうだが、結局のところここで為されているのは、
例えば構造主義的な歴史観におけるような同時代の関連する諸潮流の運動の同型性の抽出ということですらなく
(もっとも、そうだとしても尚、私にはあまり関心はもてないが)、結果としてその所説は、所詮は素材に過ぎないもの、
到達点ではなく、出発点をしか指し示さないように思えてならない。
到達点の特異性は紛う事なきマーラーその人のそれだろうが、出発点を渉猟することがマーラーが
実現したことをどれだけ明らかにするのか、素人の私は判然としないし、所説そのものが説得的だとは全く感じられない。
それでいてマーラーがそれを知っていたという実証的な裏づけを示すことなしにカールスの思想を
持ち出すのは如何にも唐突でその意図を測りかねる。フローロスですら手続きは原則としては実証的であり、
寧ろ彼の研究の意義はそこにあるとする見方もあるというのに、その実証性にすら拠らずに議論を進め、その一方で
自説の拠りどころとして、繰り返しパウル・ベッカーの業績―その価値は疑いないものであっても、
寧ろ今日においては、それ自体がマーラーの同時代の受容のあり方として批判的検討の対象にすることが
妥当かも知れないというのに―を引き合いに出すのは、どういう方法論的な根拠によってなのだろうか?
残念ながら私は文学研究の方法論には疎いし、恐らくはきちんとした学問的な手続きにそって組み立てられている
議論についていけないのだとは思うが、いずれにせよ私の様な「一般の読者」には説得力も感じられなければ、
それを今日論じることの意義も理解できない。フローロスの場合と同様、深い学殖に裏づけされた説であることは
伺えるだけに残念ではあるが、致し方ない。学問的には立派な業績に基づいているのだろうが、
恐らく私にはその価値が正当に理解するだけの知識も能力もないのだろう。
研究のアプローチで行けば、私はマイヤー(Leonard B. Meyer)の言うところの「絶対的な表現主義者」の立場
に共感を覚えているので、そうした方向性の分析には抵抗がない。無論、マーラーの場合には、もっとも控えめに
考えても歌詞の問題があるから、最低限それに対する分だけは「参照的」である必要があるだろう。
それ故「絶対的」な立場で終始するとは思っていないが、その一方で、標題にせよ伝記にせよ、文化的・社会的な
背景にせよ、あるいはもう少し作品内在的には引用の問題にせよ、マーラーの場合には他の作曲家と比してなお、
そうした側面の重要性が大きいことを認めるに吝かではないし、そうした情報を背景にして音楽を聴くことが、
音楽の聴き方を変え、豊かにすることを否定しはしないものの、それらは最終的には参照先の詮索に過ぎず、
マーラーの作品自体の持つ固有性には結局のところ辿り着かないような感じを抱いている。また、
マーラー程の傑出した天才ともなれば、作品はおいて、マーラーその人の人間に対する関心というのがあるのも
理解はできるが、結局のところ私個人について言えば、何と言ってもこれらの作品が遺されていればこそであって、
最終的に作品自体に辿り着かないのは本末転倒に感じられるのである。
そのような背景もあって、かつてのブームの時代に夥しく出版された書籍のほとんどが楽曲案内の類か評伝的なものであり、 勿論それぞれ個性もあり、価値を否定するわけではないが、今振り返ってみればブームの時の持て囃されぶりの 割には後に残ったものは大したことがなかったのでは、という思いを禁じることができない。もちろん中には資料的に 貴重なものも含まれていたのだが、そのほとんどが現時点では入手不可能となっていることを考えれば、 ますますその感を強くする。現在入手が可能な書籍に限定してしまえば、そもそもこうした紹介自体が ほとんど不可能になってしまうのである。もっとも、このこと自体はマーラーのみの問題ではないかも知れないが。
そのなかで事典という体裁をとった2冊の日本人の著者による著作が注目される。 「ブルックナー・マーラー事典」(東京書籍)のマーラーの部分(編:渡辺裕)と、 長木誠司「グスタフ・マーラー全作品解説事典」(立風書房、絶版)の2つである。後者は絶版のようだが、 豊富な譜例を収めた丁寧な分析であり再版を強く望みたい。前者を単なる曲目解説と片付ける 向きもあるようだが、その解説は実際には綿密な調査と分析に基づいていると感じられるし、 コラムも興味深いものが多く、極めつけは詳細を極める文献案内で、(今となっては些か古い かもしれないが)同時代の文献から執筆時点までの研究史の俯瞰もできるこの文献案内は 大変に貴重なものだと思う。
邦語文献としては他には、柴田南雄「グスタフ・マーラー 現代音楽への道」(岩波書店)は、 新書の体裁ながら、作曲家の視点からの楽曲に対する分析・評価、そして20世紀音楽への影響についての 記述に加え、国内の、特に戦前における受容についての情報を含み、貴重である。
作品解説で入手しやすいものとしては、「作曲家別名曲解説ライブラリ第1巻 マーラー」(音楽之友社)が
あげられるだろう。ただし、この本はその成立の経緯から複数の執筆者による分担のかたちをとっており、執筆者による内容の落差が
大きい。特に歌曲では執筆者によっては示唆に富む指摘が含まれる部分もあるのだが、書籍全体としては内容に明らかな間違いや
疑問のある記述が多く見られるように感じられる。
そうした問題は本文だけでなく巻末の資料にも及んでいるし、巻末の資料と本文との間に不整合が
あったりするケースも散見される。そればかりか同一の執筆者による筈の生涯の記述と作品の解説の間にも記述に矛盾が
あったり、一見したところ意味不明の記述があったりという具合で、到底信頼のおけるものとは言い難いように思われる。
交響曲に分類されている「大地の歌」や歌曲の解説でも、作品解説のあり方に関して疑問に思わざるを得ないような
記述方針のものが一部に見受けられ、入手のし易さだけからこの作品解説が参照されることに些かの違和感を禁じえない。
事実関係に誤りがあるのは論外だが、そうではなくても、主観的なコメントを除いてしまえば音楽を聴けばわかるような情報しか書かれていない
作品解説に一体何の意義があるのか私には判然としないし、推敲不足なのか構文的におかしな文章が見られるに至っては
内容以前の問題であり、別にけちをつけるために読んでいるわけではないのだから些かがっかりもしてしまう。
もっともそれはマーラーの巻に限ったことではなく、同じ執筆者の執筆になる他の作曲家の巻や書籍についても言えることで、
マーラーの場合と異なって資料として手元においておく必要を感じていない作曲家のものについては、あまりのひどさに処分して
しまったものもある程なのだが。勿論、人によっては私が気にするようなことは大したことではなく、多少事実関係に間違いがあっても、
日本語として論理的におかしくても、まさにそうした内容なり、文体なりを評価する人もいるかもしれない(事実、そのような
コメントを目にすることもある)から、あくまでもこれは私の主観的な評価に過ぎないが、一方で、一読して私と同じ思いをする人もまた
いるであろうと思われるので、参考までにコメントをしておく次第である。
そんなものを読むくらいならCDを1つでも2つでも余計に
聴いた方がましだという意見があったとしても、コスト・パフォーマンスを考えればあながち批判もできないのは残念なことだが
仕方ない。一方で、上述のように作品解説にも優れたものはあるわけで、そうしたものが今度は読まれずに軽視されてしまうとしたら、
これもまた残念なことだと思う。
評伝の類は数多いしその優劣を論じても仕方ないだろうが、いわゆる一次文献にあたる 妻のアルマによる回想と書簡集、そして角笛交響曲の時代の同伴者であったバウアー=レヒナーの 回想録は、伝記的な背景を知る上では欠かすことができないだろう。ちなみに前者は、回想の部分のみ 文庫でも出ているが、私がかつて熱心に読んだのは白水社版の翻訳「グスタフ・マ-ラ- 回想と手紙」 (訳:酒田健一)である。5年ほど前に改題して復刊されたようだが、書簡にせよ回想にせよ、 これも際立って優れた訳だと思う。とかく疑惑の目をもって見られがちなアルマの回想ではあるが、 一次文献をこのような達意の訳文で読むことができるのは貴重なことだ。
一方でバウアー=レヒナーの 回想録(「グスタフ・マーラーの思い出」訳:高野茂、音楽之友社、絶版)は現在は入手が不可能のようであるが、 こちらの再版も期待したい。特に本書はオリジナル自体の入手が困難なようでもあり、この重要な著作の 翻訳が刊行されている価値は非常に大きいのではなかろうか。また、指揮者マーラーの弟子と呼んでいい、 ワルターやクレンペラーの回想もまた、貴重なものだろう。ワルターの方はモノグラフとして出版されていて、 かつては邦訳もあった(「マーラー 人と芸術」村田武雄訳、音楽之友社、絶版)し、 クレンペラーの回想は「マーラー頌」に収められていた。更に「音楽の手帖 マーラー」(青土社)の中では 両方を読むことができた(ただし、前者は一部のみ、後者は「マーラー頌」所収のものとは別の文章)。
いわゆる評伝で私が最初に読んだのは、マイケル・ケネディがDent社の叢書のために書いた
「グスタフ・マ-ラ- その生涯と作品」(訳:中河原理。芸術現代社、絶版)であった。
バルビローリ伝の著者として有名な著者によるこの本はイギリスの読者のために書かれているから、
イギリスにおける受容やエルガーやヴォーン・ウィリアムズとの比較の記述が目立つのは当然であるが、
そのおかげで最近ようやく全貌が明らかになったバルビローリの演奏についての記述があったり、
同じくイギリス人であったデリック・クックによる第10交響曲の補筆についてのかなり詳しい記述が
あったりして、少なくとも当時としては貴重な内容を含んでいた。
また、詳細な年表がついていたり、散逸した初期作品を含む作品の一覧があったりと、資料面でも
興味深いものであったと思う。
ケネディの原著は注も完備されたしっかりとした体裁のものだが、その後、1990年に第2版が出ており
大幅な加筆がなされている。2000年の再版に際しても追補がなされており、初版以降の研究の進展、
受容の展開がきちんとフォローされていて、文章の読みやすさ、入手のし易さなども含めて、
ハンディな入門書としては非常に優れたものだと思う。なお現在の出版社はオックスフォード大学
出版局である。
しかし現代的な評伝の嚆矢ということであればクルト・ブラウコプフ「マーラー 未来の同時代者」 (酒田健一訳、白水社)を落とすわけにはいかないだろう。音楽社会学者によるこの著作の特徴は、 マーラーの生涯を記述するにせよ、その後のマーラー音楽の受容を記述するにせよ、その社会的な 背景に対する考察が含まれている点であろう。こうしたアプローチは今でこそ当たり前のことのように なっているし、ことマーラーの場合には、ユダヤ人であることや文化史的な文脈との関係を重視する 立場の文献はその後多くあるのだが、この本はその先駆けのような位置にあると思う。なおかつ、 幸いなことに復刊されていて、入手することができるという点でも貴重だ。
ちなみに、私のようなそれほど熱心ではない普通の聴き手にとっては、マーラーの伝記的事実の詳細に 拘泥するような情熱も根気も持ち合わせがない。例えば上述のドナルド・ミッチェルの研究の第1巻は、 ラ・グランジュの伝記と独立に構想されたため、膨大な伝記的情報を含んでいるのだが、 かつて一読した経験では、残念ながら私にとってはそうした詳細な事実の集積と音楽との間に、 寧ろ溝を感じる結果になったのを記憶している。たとえバイアスがかかっていようとアルマの手に よって描き出された壮年のマーラーの姿の方がよほど違和感がない。もっともそれとても、時間的にも 空間的にも遠く隔たったものであるという感覚を強く持たずにはいられないのだが。そもそも マーラーのような桁外れの能力を持った人間のことなど、うまくイメージしようと思っても、 平凡な生活を送っている能力的にも平凡な人間に容易にできる話ではない、というのが偽らざる 実感である。
ちなみに、これらの評伝の多くは翻訳だが、その中にはひどく読みづらいものや、はっきりと誤訳と
断定できるものが数多く含まれるものも残念ながら含まれる。
古い文献の場合には、そもそも
原文に事実誤認が含まれる場合もあるし、アドルノのマーラー論のように原文が大変に凝った
文章で書かれている場合には仕方のない部分もあると思う。
自分でやってみればすぐにわかるが、
1冊の著作を翻訳すれば意味を取りかねる箇所が幾つか出てくるのは止むを得ないことと思われるし、
裏づけの調査にも色々な限界があるのは仕方ないことだろう。校正もれというのもなくならないもので、大意には
影響しない誤字脱字の類にけちをつけるのはあまり生産的なことではなかろう。
しかし、日本語でも入手できる先行文献に
あたって確認すれば防げそうなものや、作品を実際に聴くなり、楽譜を確認すれば―それどころか作品を
聴いたことがありさえすれば―私のような素人ですら間違いようのなさそうな取り違いが夥しく含まれるものや、
そもそも日本語としてこなれておらず意味を測りかねる文章が散見されるものもあるので、注意が必要だろう。
個別の翻訳を批判するのは本意ではないので、詳しくはとりあげないが、それでも「目に余る」と感じられたものを
幾つかあげれば、ピーター・フランクリンの1987年出版の新しいマーラー伝(ピーター・フランクリン「マーラーの生涯」
宮本貞雄訳, 青土社, 1999)は、原文がかなり凝った文体を持っているとはいうものの、
思わず首を捻りたくなるような訳文が頻出する。校正不足と思しき、日本語としておかしい部分も多いが、
それだけでなく内容上の誤解も夥しく、気になるところをチェックし出すと、ほぼ毎ページ毎に見つかるような
按配である。
この著作は新しいだけに、内容上、それまでの研究の蓄積を前提とした部分が多く、それだけに
調査不足は致命的のように思われる。だがそれだけでなく、マーラーの音楽に多少とも親しんでいる人間なら
そもそも思いつかない類の間違いも多く見られ、熱心なファンの方ならずとも一通りマーラーの音楽を知っている
私のような人間ですらストレスを感ぜずには読めないような訳文である。
残念ながらこの文献に関しては、
もし英語が読めるのであれば直接原著にあたることを奨めざるを得ないし、最初に読む邦語文献としては
到底薦められない。内容的には興味深い指摘も見られるだけに、非常に遺憾なことであるが。翻訳作業の
大変さを思えば批判は出来る限り避けたいと思うものの、この場合については手にとって読まれる方々の
困惑が容易に予想されるゆえ、一言言及せずにはいられなかった。一読された方であれば必ずや同意
いただけることと思い、敢えて批判的なコメントをさせていただいた次第である。
さすがにそこまでひどいケースというのは他には思いつかないが、上でも触れたワルターの著作(ブルーノ・ワルター 「マーラー:人と芸術」村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)も時折、おやっと思う部分にぶつかるので、 原文や英訳と照合すると、その多くは日本語訳の問題であることが確認できる。だがこちらはほとんどが容易に 推測がつく類の間違いであり、内容の貴重さや翻訳当時のマーラー受容の状況を考えれば、先駆的な邦訳に 取り組まれた功績を大とすべきであろう。
なかなか興味深い編集方針に基づく、クリスティアン・M・ネベハイの「ウィーン音楽地図」(白石隆生・敬子訳,
音楽之友社, 1987)の第2巻には、マーラーに関する章が含まれる。著者の専門があくまでも美術にあることが、
常とは異なった視点での記述になっていて興味深い点もあるのだが、残念ながら、恐らく原著に含まれると
思しき間違いもかなりあるので、注意が必要である。
一方、翻訳者の責に帰するべき明らかな間違いというのは
あまりないが、校正もれや、一般的でない訳語の選択が散見されるほか、意味不明の訳者注―原著者が
引用しているバウアー・レヒナーの回想にある、ウィーン宮廷歌劇場での「ローエングリン」上演についての
マーラーの言葉の伝聞について、その意図を推測しているようなのだが、引用された部分だけでなく、
原文の文脈を参照しさえすれば、こういう読み方はできないように思える―があるかと思えば、その一方で、短い
文章の量を思えば、かなりの割合になる明らかな原文の誤りには全く触れないというのは、方針としては
不可解に感じられる。
更に言えば、ここで触れられているのは、実は指揮者としての就任公演についてであって、
監督就任の公演ではないし、マーラーがヤーンから受け継いだ地位は普通「監督」と呼ばれており、支配人は
マーラーの上司にあたる地位である。ブダペストでは監督であったと書かれているので、ウィーンにおける地位だけ支配人と
するのは明らかにおかしい、といった調子である。
原書を入手して一読した限りでは、これはかなり「自由な」翻訳―それを
翻訳と呼ぶとするなら―であることがわかってきた。ここで逐一詳細を書くのは控えるが、少なくとも原文通りには訳されていないし、
事実関係では原文よりも詳しい記述が(注釈なしに)補われていることもあれば、そもそも原文には全く存在しない文章があったりという具合である。
まだ全てを照合したわけではないが、少なくとも「忠実な」翻訳でないことは確実なようだ。もっとも、訳者は著者と知己で
ある旨訳者後書きに記されているから、あるいはそうしたことも了解済みでなされているのかも知れないが。
ちなみに、この本にはヴェーベルンの章もあるが、こちらも原著に含まれていたのであろうひどい間違いが何箇所かある。
もちろん原則として、翻訳者が原著の間違いについて責任を持つ必要なんかないだろうし、全ての作曲家についての
事実関係に通暁しているべきだなどと言いたいわけではない。
だが、
この本については、間違いの多くは信頼のおける文献に一つでもあたればわかる類のごく基本的なものであり、
折角音楽を専門とされている方の手によって翻訳されているのに、こうした誤りが放置されているのは些か残念な気がする。
というわけで、(まさか読者の勉強のためにそのようになっているということはないだろうが、)この本については読者が
自衛する必要があって、基本的な事実関係については、他の信頼できる文献で確認をとりながら読むべきであろう。
1980年代後半のブームの前の時点ではまだ数えるほどしかなかった日本語で読めるマーラー文献―その当時の状況は、
例えばマーラー生誕120年の1980年に刊行された上述の「音楽の手帖 マーラー」の巻末の文献表に伺える―に
マーラー没後70年の1981年に加わったのが、みすず書房刊のクルシェネク/レートリヒ「グスタフ・マーラー 生涯と
作品」(和田旦訳)であった。これは、すでに翻訳のあるワルターの著作の英訳版に付けられたクルシェネクによる略伝に、
ケネディの評伝によって独立した巻を持つ以前にデント社のシリーズでマーラーを扱った巻であった、レートリヒの「ブルックナーと
マーラー」の第8章から第14章をつけて1冊の本として翻訳したものである。
このような合本を編む意図については、訳者あとがきで述べられていて、確かにいずれの文章も短いながら興味深い
視点に満ちており、その意図は理解できないこともないのだが、とりわけ「楽曲解説」をなすべく部分訳されたレートリヒの
著作の扱いについては、幾つかの点で注意が必要である。
まず、レートリヒの著作のオリジナルにあたってみてすぐにわかるのは、マーラーを紹介した後半で生涯を扱った部分は
第4章で終わっていて、楽曲解説は(第8章ではなく)第5章から始まっていることである。レートリヒは個別の楽曲の解説に入る前に、
第5章でマーラーの音楽をロマン主義の系譜に位置づけ、第6章で旋律・和声・対位法の特徴を、第7章で
形式・テクスチュア・管弦楽法の特徴を譜例を交えて紹介している。訳者あとがきには、こうした事実の紹介は全くなく、
翻訳のみを読む人間(かつての私はそうだったのだが)は、レートリヒによる興味深い作品解説のいわば「総論」を
欠いたまま各論を読んでいることに気が付かない。
訳者のあとがきにある「楽曲解説」は、個別の作品の解説のことだと考えれば、こうした行為を一方的に不当だと主張することは
できないかも知れないが、オリジナルを知れば、レートリヒの意図を損ねた紹介になっているのではという感覚は抑え難い。
しかも楽曲解説としてみた場合、一層興味深く、かつ、その後判明した事実による見直しの影響を受けることの少ないのは、
寧ろ「総論」の部分なのである。それゆえ、このような翻訳が編まれた意義は認められても、実現した形態には大きな不満が残る。
更に言うと、この翻訳の日本語はこなれていなくて、非常に読みづらいが、そればかりでなく、控えめに言っても、レートリヒのオリジナルの
文意が捉えられていない文章がかなり見受けられる。レートリヒの文体は平明なものではないが、かといって格別に凝ったものという
程でもなく、その意図を汲み取るのは決して難しくないのだが、翻訳の方は、直訳調であることをおくとしても、日本語として読んだ時に
不自然に感じられることが多く、原書を読んだ方がわかりやすい部分も少なくない。
ついでに言えば、訳者は「以後の研究により明らかになった事項については、訳文で訂正を行っている」とあとがきに記載しているが、
これについても不可解な点が多い。レートリヒの著作は1953年に執筆され、1963年に改訂されたものであり、訳者も書いている通り、
その後明らかになった事実関係の誤りが含まれているのは仕方がない。問題なのは訳者が行った訂正が、明らかに不徹底なもので
あることだ。訳出する際に参照した書物もまた、あとがきに掲げられているが、それらを参照しているのであれば当然為されていてよいはずの
訂正がなかったりして、かえって混乱を招く危険すらあるように思える。訳者が訂正を行っていると主張しているだけに一層その危険は
大きなものになってしまっており、翻訳の日本語のわかりにくさ同様、非常に残念に感じられる。
いまやこの邦訳自体が古いものになってしまい、あえてこの訳を手にする人も少ないだろうが、訳者の意図した「内容的にも充実した
手頃なマニュアル」として使おうとする場合には、注意が必要だと思う。私見では、レートリヒの意見には今尚耳を傾けるべき点が
多くあると感じていて、この著作を現時点で(歴史的な相対化を行う必要はあるだろうが)参照する意味もまたあると思っているので、
あえてここでとりあげておくことにした。
あるいはまた、マーラー事典(立風書房1989)に含まれるシノポリへのインタビューの翻訳も幾つかの明らかな 誤訳が確認できるが、このインタビューについては、それがもともと含まれている原著の翻訳がある (ヘルムート・キューン/ゲオルク・クヴァンダー「グスタフ・マーラー:その人と芸術、そして時代」岩下眞好他訳・泰流社,1989) ので、そちらを参照した方が良いだろう。最後のケースのように複数の翻訳がある場合も含め、総じてマーラーの場合は 比較対照する文献には相対的には恵まれていると言って良いだろうから、それらを照合しながら読んでいけば、 多くの場合には疑問は解消できるように思われる。また、過去とは異なって、現在ではWebで原書を取り寄せることが 格段に容易になっているので、それを利用しない手はないだろう。
いわゆるアンソロジーとしては、上述の「音楽の手帖 マーラー」(青土社、品切)はアドルノもあれば、 テオドール・ライク(精神分析)もブーレーズもバーンスタインもあり、ワルターやクレンペラーの回想も あれば、シェーンベルクの講演もありという、今思うと錚々たる著者によるもので、現在でも(録音の 紹介などは歴史的な記録になってしまうかもしれないが、それはそれで別の意味で貴重だろうし、) 充分に価値があるものだと思う。復刻が望まれる。強いて難を言えば、翻訳は実は部分訳であるものが 多いのに、それと断っていない場合がままあること、日本人の手になる文章、とりわけ書き下ろしの中には、 恐らくは時間に追われて書いたのではないかと想像したくなるようなものが含まれることだろうか。 いわゆるコラム的なものであればさほど気にはならないが、一見、解説論文的な体裁をとっているものの 場合には、情報の提供という点で一定の価値はあっても、著者の所説の展開についてはちょっとついて いけないと感じられるものもある。
一つだけ例を挙げれば、それ自体は大変に刺激的なハンス・マイヤーの論文を
下敷きにした深田論文は、著者の論理を追って細かく読むと不可解な部分が多い上、マイヤーの
所説の切り取り方も大胆なもので、この文章だけ読むとマイヤーの主張が持つニュアンスを誤解しかねない
ように思われる。無論、そうした切り取り方自体は別段批難されるべきものではないが、マイヤーの主張に
大幅に依拠しつつ論を進めながら、「簒奪者」という規定の一面のみ取り上げて、「自家培養者」という
自己の主張をそれに繋げるばかりか、取りようによってはマイヤーとは正反対とも考えられる主張に、そうと断ることもなく
繋げてしまうので、マイヤーの元の主張を知るものは思わず目眩に襲われかねない。しかも
その後半の「自家培養」という規定に沿って展開される議論は、私の様な文学的な想像力に欠ける人間には、
ついていくのに苦痛を覚えるほどの飛躍に富んでいて、おしまいには唐突に「徒らに生まれてきたのではない、
徒らに闘ってきたのでもない。」という一文で結ばれるのである。
恐らく文学研究の世界では、こうした飛躍が
問題にされることはないのだろうが(それどころか、もしかしたら、賞賛されるのだろうか?)、一般の読者が
読むには少々高尚過ぎるように感じられてならないのは私だけなのだろうか。そればかりか意地の悪い観方をすれば、
時間に追われて、マイヤーの所説を「簒奪し」、自分の知っている文学史上の、あるいはマーラーにまつわる事実を適当に
混ぜ合わせて、思いつき同然の連想によって文章に繋ぎ合わせただけなのでは、という疑いさえ引き起こしかねないとさえ思うのだが。
そもそもマイヤーはカフカの日記の言葉を引いて、マーラーにおける音楽と文学との関係が19世紀の典型に
従った心理学的なものだったといっているのか、そうではなくて、そこに表現主義の先駆となる心理学の否定の
事例を見出しているのか、どっちなのだろうか?
あるいはまた、恐らくそのことと全く無関係ではないのだろうが、
「大地の歌」では、文学だけでなく、音楽の面でも自家培養がなされているという主張を、突然何の説明もなく、傍証もなく
つきつけられて納得できなければいけないのだろうか。 情けないことだが、音楽における「自家培養」ということで深田が指しているもの
が何なのか、私には全くわからないことを白状せざるをえない。
更にまた、いわゆる付加6の和音で終結するその末尾を、何の補足もなく
「大地としがらみをなす調性から」の「解放」と言われて納得しなくてはならないのか?
マーラーのエロスを主題とした
書簡を取り上げて、「これをゲーテ流の汎神論と見做すことは容易だが、そのようなトラディショナリズムを撥ね
つけるまなざしが獲得しているものは、エロスが愛という語に置き換えられようが、憧憬とされようが、郷愁とされようが、
事情に変わるところはない」と言われて、理解できなければならないのだろうか?
「そのようなトラディショナリズムを撥ね
つけるまなざしが獲得しているもの」が一体何なのかくらい、自分で考えなさい、ということなのか?
これが自家培養と
どう関係するのかも、自明でわざわざ書くほどのことではないのか?
そして繰り返しになるが、その後に、
「徒らに生まれてきたのではない、徒らに闘ってきたのでもない。」という一文が来て終わるのを、どう理解せよというのか。
また、これは劈頭で主張されていた「エクメニカルなものへの志向」とどう関係するのか?
挙げれば切りがないのでもう止めにするが、私には残念ながらどれ一つとしてわからないのである。
まあ、時間に追われたやっつけ仕事だというのは多分、一般の読者に過ぎない自分の無能力を棚に上げた
責任転嫁なのだろうから、つくづく自分が文学とは縁の無い人間、想像力の欠如した人間であるということを
思い知らされて、嘆息するしかないのである。残念ながら、この文章の「行間」を読むことは私の能力の限界を遥かに
超えている。
私にとっては、是非はおくとして、マイヤーの主張の方がはるかにわかりやすい。否、深田の文章に比べれば、アドルノのあの文章の方が
まだその論理を追うことができるようにさえ感じられる。
(ちなみに「音楽の手帖」には深田訳のアドルノのマーラー論の一部も
掲載されているが、既述の通りこの訳文もまた要注意である。大変にこなれた日本語になっているのだが、内容が概念的で
抽象的な部分になると、首を捻る文章につきあたることになる。だから、アドルノの文章の方がまだその論理を追うことができるというのは、
深田訳を読んでのことではない。誤解のないように念のために補足させていただく。)
一例を挙げれば、上記のようなケースのあるとはいうものの、それでもこの「音楽の手帖」の全体としての密度の高さは、 その後「マーラーブーム」の只中で編まれたムックの類に比べて、際立っているように思われる。
ブラウコプフの評伝およびアルマの回想と手紙の訳者である酒田健一が編集した「マーラー頌」 (白水社、品切)は、マーラーを巡る「証言」を網羅的に捉えることができるという点では、 更に徹底しているだろう。1890年代の同時代のものから1970年代までの、地域で見ても オーストリア・ドイツは勿論、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ロシア・ソ連にわたる73の文章の 翻訳を収めたもので、その中には貴重な証言、重要な論文が数多く含まれる。
私は現時点では色々な演奏の聴き比べにはあまり関心がなく、リンクに掲げるような熱心な聴き手のページで 公開されているような的確な評を読めればそれで充分であると思っているので、職業的な音楽評論家の書いた 演奏評(LP・CD評含む)にはあまり関心がなく、それゆえ存在を知りながらも素通りしてきたところで、 そうしたWebページの一つで好意的に評価されていたのを見たのがきっかけで手にとり、一読して、 これは読んでみてよかったと感じたのは、「吉田秀和作曲家論集1 ブルックナー・マーラー」(音楽之友社, 2001)である。
といっても私が感銘を受けたのは、やはり個別の演奏評(LP・CD評)の部分ではなく、むしろ最初におかれた50ページを超えるマーラー論 とでもいうべき文章で、これが1973年~74年に書かれていたということに驚くとともに、この文章に言及している文献というのに心当たりが ないことを些か訝しくさえ感じた。(もっとも、これは私が不勉強なだけなのだと思うが。もしご存知の方がいらっしゃれば 教えていただければ幸いである。)
音楽学者ではなく音楽評論家の文章であるとはいっても、では、私のような市井の愛好家が入手できる範囲で、これだけ音楽自体に
踏み込み、音楽史やマーラーその人の個性にも配慮したものがあったかといえば、あまり記憶にないように思う。
更に(この点は特に素晴らしいと思ったのだが)、自分のマーラー受容の「立ち位置」を明確に意識して書かれたものは更に少ないように思う。
受容史を主題的に論じるのは別に、自分の個人的な距離感を自覚し、はっきりとそう語りつつ、それでいて自分の
マーラー経験に対して忠実であろうとする姿勢が感じられて、私には新鮮で、かつ親近感を抱いた。
(逆に音楽学者のものや、あるいは文学研究者としてマーラーにアプローチするケースの方が、その時期の音楽学者の世界の
トレンドや、自分の文学における研究領域や関心という前提に対してに無自覚―もしかしたら自覚的で、でもそうとは言わずに
黙っているだけかも知れないが―に従っているようにすら思える。)
勿論、世代の差もあって、私は吉田に比べれば、ずっと抵抗無くマーラーを受け入れてしまった。
(実は自分の体質にそんなに親和的なものではなかったはずなのに、抵抗がなさ過ぎて、「まるのみ」
してしまったせいで、今になって苦労している感じすらあるが、、、)
けれども、それだけに、こんなにきっちりとマーラーについて考えたとは到底言えない、と、今になって感じている。愚かにも、いざ自分で
何か言おうとするまで気付かなかったのだ。(まあ吉田秀和のような高名な評論家と自分を比較しても仕方ないのだが。)
一つ難を言えば、これは無いものねだりのような気もするが、マーラーの音楽を完結し、完成したものと捉えすぎていて、
それを自分が(であってその時々の日本の「世相」なりなんなりが、ではない)どう受け止めるのか、どう生かすのかといったスタンスが
希薄な点は、やはり音楽を評論する、という立場上、仕方ないのかなとも思うけど、残念な気もする。
もっとも、マーラーが「過去」の、「異郷」の音楽であることも、その音楽が非常に高い価値を持つものであることも、
はっきりしているわけで、そうした距離を踏まえ、作品の価値に敬意を持って接するのであれば、そうなって当然ではないか、と
言われれば、それはその通りなのだが。
(この文脈では音楽学者には―音楽に対するアプローチの点で―一般論としてはほとんど期待できず(職業としてやっている
んだから当然なわけで、これは勿論非難ではない)、寧ろ、作曲家や演奏家、あるいは―文学研究者ではなく―
文学者や画家といった人たちの言うことに耳を傾けるべきなのかも知れない。
もっとも、吉田にとってマーラーが占める位置の方が、今度は必ずしも中心的ではないかも知れないことを考えれば、
これもまた、あまりにマーラーに偏した意見なのかも知れないが。)
それでもなお、よくわからないながら、強い力によってひきつけるマーラーの音楽が、吉田個人にとって何だったのか、もう一度、
―個別の演奏評やCD評ではなく、できれば一般的な「評論」の枠すら外して―話を聴いてみたい気がしてならない。
個人的な好みで言えば、同じマーラー論でシェーンベルクの講演とそこでの分析が中心的に取り上げられている点が、
何と言っても気に入っている。(この講演は何といっても群を抜いて素晴らしいものだと思う。)
また、私はバルビローリ贔屓なので、バルビローリの第9交響曲の演奏についての文章は、やはり興味深いものだったし、共感する
部分も多々あった。
更に、「マーラーの歌」「菩提樹の花の香り」は、マーラーの歌曲を
交響曲と同じだけ大事に考えている(そして、現実には歌曲が軽視されがちなので、寧ろ歌曲にこだわりを感じている)私にとっては、
印象的な文章だった。「菩提樹の香り」が普段の生活でもつ感じについては、日本で生まれて
日本で育った私にとってはどうしようもない部分がある。これはもう何といっても「限界」としかいいようがないものだ。
(仏教の世界では、菩提樹は、別のコノテーションを持っているし。もっとも、これはこれで、些か変わった角度でまたマーラーの菩提樹の
イメージにもう一度接すると言えないこともないだろうが、、、)
最後に入手が可能であり、かつ新しいという観点から、村井翔「マーラー」(音楽之友社)を
あげたい。かつての評伝の定型からは大きく外れ、分量や体裁を考えると際立って充実した
内容を持った著作で、読み応え充分なのだが、著者自ら記している通り、生涯にしても
楽曲解説にしても、どちらかといえば何冊目かに読んだ方が面白く読める内容であると思う。
最初の一冊として読んだらどうなのか、というのは残念ながら判断のしようがないが、
ありきたりの評伝を読むよりは、遥かに価値があると思う。
一方で、楽曲解説から第2交響曲、
第8交響曲を略してしまったことは、分量の問題や著者の立場を考えれば止むを得ないとはいえ、
最初の一冊とした場合には問題かも知れない。否、入門書としての体裁にこだわらずに言えば、
なぜその2曲が「選外」になったのかについての解説というのがあっても良いのではないかと
すら思える。
勿論それは嫌いな作品に対する誹謗中傷にはなりようがない。例えば興味深い
生成史を持つ第2交響曲が、何故「うまくいっていない」のかを書くのは、それなりに
マーラーの音楽の特質を浮び上がらせることになると思われる。
尚、個人的には歌曲、特に
二つの連作歌曲集の重要性は交響曲に対してひけをとることはないと考えているので、
楽曲解説の選に漏れたのは残念だが、これは立場の問題であり止むを得ないだろう。
ついでに言えば、ここまで充実しているのだから、参考文献についても著者の選択したリストを
拝見したかったと思う。その一部は本文や後書きから伺え、多くは我が意を得たりというように
感じているだけに、これもまた残念である。
(c)YOJIBEE 2005--2008
(2005年5月作成)