グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(1)語録
リヒャルト・バトカ宛1896年11月18日付けハンブルク発の書簡にあるマーラーの来歴についての言葉(1924年版書簡集原書197番, p.213。1979年版のマルトナーによる英語版では185番, p.197)
(...)
Ich bin 1860 in Böhmen geboren, habe den größen Teil mainer reiferen Jugend in Wien verlebt. Seit meinem 20. Lebensjahre gehöre ich meiner
äußeren Tätigkeit nach, dem Theater an. Ein Jahr hindurch (85--86) war ich auch als Kapellmeister in Prag tätig, wie Sie sich vielleicht noch erinnern
werden. Als schaffender Künstler trat ich zum ersten Male mit der Ausarbeitung und Vollendung der "drei Pintos" von Weber vor die Öffentlichkeit;
ein Werk, das seinerzeit auch in Prag unter meiner Leitung in Szene ging.
Komponiert habe ich seit meiner frühesten Jugend alles, was man nur komponieren kann. -- Als meine Hauptwerke bezeiche ich meine drei großen
Symphonien, von denen die beiden ersten schon zu verschiedenen Malen, die letze (III.) nur mit einem Bruchstück -- eben dieses "in Schwung
gekommen" (Blumenstück) -- zu Gehör gekommen sind. (...)
この書簡はマーラー自身による簡単な自伝的紹介とともに、当時の自己認識が伺える貴重な資料である。
Willi Reich編の1958年のアンソロジーGustav Mahler : Im eigenen Wort -- Im Worte der Freunde (Die Arche)では2月18日付けとされている。どうやら
ローマ数字なのか、アラビア数字なのかの解釈の違いで2月説と11月説があるようだが、ここでは第3交響曲の完成時期(同年の夏)や第2楽章の部分演奏の
時期(同年11月9日、ニキシュ指揮ベルリン・フィル)などを考慮して、マルトナー版に従う。
宛先のリヒャルト・バトカはプラハのPrager Neue Musikalische Rundshauの編集者で、マーラーについての紹介記事を書くことを企画してマーラーに問い合わせを
してきたものに応じたのが上記引用を含むこの書簡である。
すでにブダペスト、ハンブルクとキャリアを重ね、前年末には第2交響曲の全曲初演を成功させたマーラーが、すでに10年近く前のにヴェーバーのオペラの補作と
自分自身による上演について書いているのは、この書簡の背景を考慮すべきであろう。
マーラー自身がこの時点で自分を交響曲作家として認識していることはその後に続く文章より明らかであり、第3交響曲をその夏に完成させ、
第2楽章の部分上演がつい10日前に行われたばかりの時期であることを考え合わせるとマーラーの意気込みが伝わってくるように感じられる。
この書簡では、この後に第3交響曲の全曲演奏への期待とともに、有名な「ディオニュソスの神、偉大な牧神を誰も知らない」という言葉を含む解説が
続くのであるが、それはまた別の機会に紹介することとしたい。(2007.7.7 マーラーの誕生日に)
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