グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


事実はどうであったのか?―楽譜の改訂経緯について調べてみて

この半年間の身辺の環境変化の激しさのあまり、昨年末には予定していた幾つかの重要なプランが実行できなかったりして、 自分の処理能力の不足にすっかり嫌気がさしてしまい、所詮は余暇の趣味に過ぎない事柄について優先度づけを改めて行って 絞込みを行う一方で、資料やCD類の処分を行い、Webページについても今後保守ができなさそうな部分を少しずつ整理・縮小したりして いるうちに5月も間近になってしまった。何たることか、何もしないでいるうちにもう1年の3分の1は終わってしまったというのだ。

音楽関連で言えば、同時代に、身近な環境に生きる人間としてのコミットメントに自分勝手な義務感を感じている三輪眞弘さんを除けば、 後は程度の問題だという気持ちを抑えられない。CDも資料も蒐集が自己目的化することの無意味さは明らかだが、そうでなくても自分が受け取った分を 「返す」ことができないのであれば単なる消費に過ぎない。返すためにはまずは一定の蓄積が必要だろうが、返す作業自体にも時間がかかる。私の様な 能力が不足した人間に贅沢は許されない。三輪さん以外については、とにかくマーラーについては仕掛り作業の山があるのでそれを崩していくことに 専念しようというのが直近の方針である。今の私を見て、昨年の私はほくそえんでいるに違いない。何しろ、仕掛りの山を作っておけばそれが済むまでは 続けるだろうと思って、意図して仕組んだ側面もあるのだから。

というわけで、やっとできた空き時間に、まずは所蔵楽譜の整理をやろうと思い立った。所蔵楽譜などといっても大したものではなく、マーラー・ファンなら 必須アイテムであろう、マーラー協会全集版もなければ、自筆譜のファクシミリがあるわけでもない。全集補巻である「葬礼」やピアノ四重奏曲、 嘆きの歌の1880年稿、大地の歌のピアノ伴奏版やらがあるわけでもない。音楽之友社から出ているポケットスコアのうち交響曲10曲とDoverから出ている 全集以前の版のリプリント、第10交響曲のクック版、リートと歌第1集、幾つかの交響曲のピアノ編曲、Webで入手できるIMSLPで公開されている楽譜で全てである。 だが、私程度の関わりしかマーラーに対して持っていない人間には、それらですら十分過ぎるほどであって、使いこなせているとは到底言い難い。 例えばの話、各曲の出版の経緯、改訂の経過などが頭に入っているわけではないし、ある曲について複数の版を持っている場合でも、その異同を 逐一把握できているわけではない。有名な改訂箇所の幾つかを確認するのに用いた程度で、実証性が重視される今日の学問の世界では、こんなことは 許容されるはずがない。全くもって趣味とは気楽なものだと自嘲するほかないのだ。

だがともあれ、複数の版を持っている曲についての整理をしてみようと思って始めてみると、これが思ったより遙かに厄介なのに気づいた。そもそもが楽譜の 出版についての情報が乏しく、あっても不完全なのである。初版の出版年すら資料によってまちまちで、どれが正しいのかわからない。ましてやその後の 改訂版の出版の情報を探すのはかなり骨が折れる。調べた結果は別のページに記載したのでここでは繰り返さないが、事典的な性格の資料ですら、 情報の網羅性については全くお話にならず、各作品についてのモノグラフ的な研究書で実証的なアプローチを採用しているものにあたらなければならなかった。 しかも結果は驚くべきもので、Doverの楽譜にあるソースの説明は第5交響曲までの初期の交響曲については極めて疑わしい、控え目に言っても、 出版の状況を考えればあまりに曖昧で情報としては不十分であるというのが結論である。

私見では、これは随分な状況だと言わざるを得ない。自身が時代を代表する大指揮者で、当然、初演を含む自作の指揮を何度と無く手がけた マーラーが初演後も改訂を繰り返したという話は非常に有名ではないか。死後出版の大地の歌と第9交響曲はともかく、第6交響曲の中間楽章の 順序やハンマー打ちの回数から始まって、呈示部反復の有無のような楽式論上の把握に関わる異同も含めて、おしなべて異稿の問題はマーラーに おいては主要なトピックの一つであるように見えるのに、出版譜についての情報がかくも乏しいのは或る種異様な感じがするほどである。

勿論、異稿の問題は第一義的には自筆譜の問題であり、特に初期の作品では出版前ではなく寧ろ初演前の創作プロセスにおける紆余曲折に 関心の中心があるわけで、だから出版譜の問題など副次的だという考え方もあるかも知れない。ブルックナーの場合とは異なって、マーラーは マクロな構造に関わるような改訂を初版出版後に行うことはあまりなかったから、出版譜の違いは主として器楽法上の問題になるのもまた 事実である。原典至上主義というのが現場の作業を軽視した空想の産物であるのも事実だし、マーラー自身、状況に応じて器楽法の 改変を許容していたという証言もある。だがマーラーがしばしば出版譜に書き込むことで行った改訂作業には、様々な理由の、様々なレベルの ものが含まれていたと考えるのが自然ではないか。実際に演奏してみたらうまく行かなかったので変えたというのが、作品の理念そのものの 不変性を常に前提としていたとは限らない。そもそもマーラーにとって器楽法は決して副次的なパラメータとは言えないだろうし、理念そのものが 動いていった可能性だって否定できない。否、こうした状況を把握するための基本的な情報として出版譜の状況、改訂経緯などをまず 押さえる必要があるというのは、実証主義的な発想からしたら当然のことなのではないかと思うのだが、、、

別に私は何か新規性のある説を求めているわけでもないし、そうした水準で批判を行う資格が自分にあるとも思わない。研究の最先端からすれば 周回遅れの愛好家が単純に「事実はどうであったのか」を知りたいだけなのだ。しかもことは創作のプロセスのように実証性が本質的に限界に つきあたる可能性があるような事柄ではない。 だが、私をとりまいているのは非常に乏しく、しかもそれでいてお互いに矛盾する情報なのである。もう一度、マーラー自身の作曲の経過や 改訂の経過そのものではないのだから、楽譜の出版や改訂版の出版は重要でない事柄なのだろうか。多くのマーラーについての著作や翻訳に それでも一応ついてはいる資料のうちの一項目に過ぎないのは確かだが、でもだからといってそうした書籍の校正の際にもきちんとしたチェックが 行われなくてもいいような瑣末な情報なのだろうか。私のこのWebページのような一介のアマチュアが勝手に書いている文章ではないのだ。 音楽学者、音楽評論家という肩書きの著者を持ち、正規の流通経路を辿る書籍における「事実」に関する情報なのである。

最後に何となく私が感じたことを書いておきたい。かつて日本でマーラーが社会的流行現象になった時期があり、それ以降今日に至るまで、 コンサートレパートリーとしても、CDなどの録音媒体のコンテンツとしてもマーラーは決して周縁的な存在とは言えないだろうと思う。 けれども今なお、ここではマーラーは所詮は余所者なのかも知れない、クラシック音楽の受容というのは一介の市井の愛好家の素朴な疑問すら 解消できない程度のものなのかも知れないという感覚を私は拭えない。マーラーの音楽が、マーラーの人が好きで、あるいは心からの尊敬の念を 持ってマーラーを研究したり、マーラーを論じたりしている人はこの国にどれくらいいるのかしら、という疑問が頭をもたげるのを防ぐことができない。 否、そうした人はいるけれど、それはおまえのような市井の愛好家とは関係がない、お前のような人間にはそうした情報にアクセスする資格も 価値もないのだ、ということなのか。海外の研究者のものも含めて、色々な文献をあたってみて実際には出版譜の問題というのはマーラーの場合、 少なくとも「解決済み」の問題というのは程遠いらしい、というのは感じられる。だけれどもそのことが日本国内における情報の偏在を許容する 理由にはならないだろう。再び、研究の最先端にいる人間にとっては、こうした「周回遅れ」の人間の不満などどうでもいいことなのは、自分が 職業として実務を行っている領域の事情を考えれば理解できなことはない。だが、その領域の状況と比べても、情報の流通のタイムラグや 質の落差があまりに著しいのでは、という感覚は拭えない。研究のことは良く分からないけど、少なくとも消費にかけては日本は世界的に 見ても一大消費地ではないのか。

私がそもそもWebページでマーラーの情報を取り上げるきっかけとなったのは、アドルノのマーラー論の翻訳をはじめとしたマーラーについての文章の 翻訳について疑問に思うことがあまりに多かったからだし、それが一時的なものでなく、継続、拡大することになったのは、「証言」「語録」の整理をしようと 思ったときに自分が経験した煩わしさを他の方がショートカットできたら随分と時間と労力、そして率直に言えば資料を蒐集するコストの節約に なるだろうと思ったことが大きく作用している。そして今回は出版譜の状況をちょっと調べようと思ったら、またしても、大した量でもないとはいえ、資料の中を 彷徨うことになって、こうした文章を書かずにはいられない気分になっている。要するに、マーラーについて何かちょっとしたことを知ろうとしたときに、 一体何を信じれば良いのか戸惑いを覚えることがあまりに多すぎるのだ。Web上には一体何が根拠の新説かと訝しがる他ないような疑わしい情報が あたかも「事実」であるような体裁で流布していたりもして、これらにもがっかりさせられる。もっともWeb上の情報は誰かがいつか訂正する可能性はある。 書籍は一旦流通したらそうした修正が容易に利かないので厄介なのだ。

他の作曲家の場合についてはマーラー以上に知っているとは言えないので比較することはできないし、もし同じようなことがあっても もっとそれを語るに相応しい他の方に委ねたいが、浅からぬ因縁によって、もはや支払いきれないほどのものをかつて受け取ってしまい、遺された時間を 少しでも収支の均衡に向けざるを得ない状況にあるマーラーについては、こうした気持ちをどこかに書いておかずにはいられない。たとえ自分には そうする「資格」がなくても、自分の中にとどめておくことに躊躇いを覚えるのだ。私は1世紀の時間と生きている文化的環境の違い、自分が 音楽家でも音楽学者でも音楽評論家でも、音楽を職業としている人間ではない、単なる愛好家に過ぎないという点には 頬かむりを決め込んで、マーラーに対してこう言ってみたいのである。 「あなたの作品の出版譜について疑問に思って調べてみたんですけど、事実がどうであったか、よくわからないんです。この国でもあなたに 関する本はたくさん出ていますし、情報はたくさんあるように見えるんですが、、、」かくしてさっぱり収支が改善される見通しがたたず、容赦なく 休日は過ぎ、途方にくれることになるのである。多忙を極める職業人であったマーラーなら、そういう気分を少しはわかってくれるのでは ないかしら、と思うのだけれども。(2009.4.30)



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