今更、どうしてマーラーなのか、という問いは二重の意味で現在の風景に馴染まない、アナクロニックなものに見えるかも知れない。 一方ではマーラーの音楽はコンサート・レパートリーの重要な部分を占めているし、マーラーの同時代の音楽は勿論、それ以後の過去の音楽 (20世紀に「現代音楽」と呼ばれたジャンルも含めて)も、逆にマーラーより前の音楽も、ある意味では分け隔てなく演奏が行われ、聴取が行われている。 アーノンクールが指摘するようにそうした風景が歴史的にみて異様なものであったとしても、「今更」という問いは、そうした展望の下では最早 相応しくないかのようだ。一方で、同時代性からの展望は全く異なるだろう。1世紀のうちに生じたパースペクティヴの変容によって、マーラーの音楽は 恐竜の如く、既に過去の遺物であるかのようだ。とりわけケージの名前に象徴される音楽の定義の見直しの後の風景の中で、マーラーの音楽は はっきりと過去の制度の制約をあまりに強く受けすぎていて、最早「使いみちのない」ものに見えるかも知れない。もっとも、断絶を強調するような こうした見方は寧ろかつて20世紀のある時期まで優勢であったもので、ポスト・モダンの今日は最早「何でもあり」なのだとすれば、最初の問いはもう一度、更に 三つ目の意味合いでナンセンスだということになるのかも知れないが。もっとも、上記の2つないし3つの「理由」は、一般論として思いつきはしても、 私にとって等しく説得力を持つものではない。私が特に関心があるのは、2つ目の立場、同時代性からの展望である。「マーラーの時代が来た」という声の 一部に恐らくは意識的に、あるいはまた無意識的に含まれるであろう、マーラーの音楽は最早時代を超越しているのだ、それは普遍的なのだというような 見方は私には到底受け容れ難いし、だからといって「何でもあり」の時代だからマーラー「もまた」いいではないかと思っているわけでもない。 クラシック音楽を自明とする立場にありがちな前者の考えこそ時代錯誤も甚だしくて、そうした距離感や自分の立ち位置の意識が欠落した評論、 解説の類にはいらいらさせられるし、その一方で私は基本的には偏狭な人間なので「何でもあり」の一つとしてマーラーに接しているわけではない。 寧ろ共感でき、戸惑い無く聴ける音楽は非常に限定されているといって良い。そもそも偏狭である以前に時間の制限や能力の限界もあって、そんなに色々なものを 相手にするのは無理なのだ。
私は音楽を職業としていないので、あくまでも自分の生業とのアナロジーによる想像に過ぎないが、例えば音楽の創作の現場に自分が居たとすれば、 マーラーの音楽に対して現実に今そのように接しているように接することはありえないだろうな、という気はする。端的な言い方をすれば、自分がもし 音楽を書くとしたら、マーラーのような音楽は書かないだろうということだ。マーラーは結局のところ過去の別の文化に属する他者であって、 同じ位置に自分を置くことはできない。だから、一見矛盾しているようではあっても、同時代の営みの中で私が関心を持つのは、マーラーの音楽とは 一見して全く関係の無い、寧ろ、そこからは最も遠く隔たっているかに見えるような類の試みなのである。自分でも何となく腑に落ちないのだが、 同時代の誰かがマーラーのような音楽を書くことに対しては明確な拒絶反応があるようなのだ。ほとんどナンセンスに等しい乱暴な仮定であることを 承知で言えば、もし現代にマーラーが生きていたら、彼が書いたのはあのような音楽ではなかっただろうとも思う。こんな仮定を積み重ねることに さしたる意味はないだろうけれど、今日マーラーのような音楽を書くことは、マーラー的なメンタリティに反するとさえ言えると思う。少なくともマーラーが 持っていて、その音楽として具現している或る種の志向、私にとって、そのためにマーラーを聴き続けている何かを現代の日本で展開しようとすれば、 全く異なった相貌の音楽になったに違いない。そういう意味では、時代の制約によって音楽が身に纏う意匠というのは、実は「抜け殻」(マーラー自身が 晩年のある書簡でこういう言い方をまさにしている)に過ぎないのではという気さえする。ありていに言えば、似たようなスタイルの全く異なった実質の 音楽が山とあるのは、多分いつの時代でも同じだろう。私には後期ロマン派の音楽が好きです式の括り方ができるというのが信じられないのだ。 (もっとも、現在からの距離感というのが存在しないわけではないから、後期ロマン派以前の音楽をどう聴いたらよいのかわからない、といったことは 起きるのだが、だからといって、後期ロマン派なら何でも良いことにはならないだろう。) 同様にアルゴリズミック・コンポジションなら何でもいい、あるいは力学系やオートマトンを使っていればいいというわけでもないのは当然のことである。 その結果、今度はミニマル系が好きですとか、ノイズ系がetc.の括り方に抵抗を覚えることになる。だがだからといって、意匠がどうでもいいかといえばそんなことはない。 与えられた環境、文脈に応じて、妥当な選択というのがある筈で、それが19世紀末のウィーンと21世紀の日本で同じであるわけがないだろう。
だが、だったらもう一度、今更、どうしてマーラーなのか、という問いに立ち戻らざるを得ない。今日の創作の現場ではありえない選択肢だと言っておきながら、 1世紀の時間と文化的な隔絶といった距離感を感じつつ、それでも何故マーラーの音楽がこのように力を持っているのか。今や、始まりと終わりがあること、 組曲形式、オーケストラという媒体を用いること、コンサートホールという場での演奏を前提としていることといった、ある領域の内部では自明と見なされている事柄すら、 より広い展望の下では最早とっくに自明ではなくなっているというのに。勿論、マーラーの音楽のプロセスはそれが下敷きにしている古典的な形式のそれではないし、 組曲形式の持つ意味もすっかり変容している。あるいはまた、今やそれはコンサートホールで演奏される「音楽」であるよりも多くCDのような媒体に収められた 「録楽」であるかも知れない(少なくとも私自身については)。最後の点に関連する点で最近よく思うのは、一時期よく言われた「マーラーの時代が来た」と言われた 時代の演奏よりも、それに先立つ時期の、演奏精度や慣れといった点では見劣りがするかも知れない演奏の方が、マーラーの音楽の持つ特性を (もしかしたら半ばは無意識にであれ)掴んでいるのでは、ということだ。勿論、例によってそれを時代による演奏様式の変遷のような議論に縮退させてはならない。 歌は世につれ、ということであれば、テクスチュアに徹底的に拘った今日の高精度な演奏こそ相応しいということになるのだろうし、そうした意見にも一理あることは 確かだろう。だが私個人にとってはそうした「現代的なマーラー」は 不要とまではいわないが、少なくとも「今更マーラーを聴く理由」に照らしたときに、興味を惹くものにはなりえない。歌は世につれならば、そもそも今更マーラーを 聴く理由など無いはずではないか、というわけである。だからといって懐古趣味やら刷り込みというわけでもない。そもそも自分が生まれる前の演奏、 自分が文脈の持ち合わせのない演奏に対してノスタルジーを抱くというのは矛盾だ。「伝統」のようなものが不可欠であるわけではないのはバルビローリの演奏を 聴けばわかる。だいたい20世紀後半の日本にいる一介の音楽愛好家が、自分の立ち位置を棚に上げてマーラーの音楽の演奏の「伝統」を云々するのは、 客観的に見て滑稽ですらあるだろう。そもそも私は文化史とか社会学的な興味でマーラーに関心を持っているわけではないから、マーラーの音楽をそうした 文脈とか背景に還元することには反撥こそ覚えることはあっても、納得することはない。一方で日本での洋楽受容史みたいな視点も最近はよく見かけるが、 今度は自分がその内側の末梢に位置しているのだろうとは思っても、そこに今更マーラーを聴く理由が見つかるとは思えない。近衛秀麿の第4交響曲録音が マーラー演奏の録音史上特筆されるべきことであると言われても、貧弱な音質のその録音に今更マーラーを聴く理由を見出すことは私にはできなかった。 歴史的録音の蒐集には関心がないから、例えばメンゲルベルクの1939年の第4交響曲の演奏記録と同列に論じることなど私には思いもよらないことなのだ。
だが、それでも今更マーラーを聴くことに理由がないわけではない。このように始まり、このようなプロセスを持ち、このように終わる音楽が他にないから。 主題があり、動機がある。それはイデーを拒否した音の並びの対極にあって、単なる音響であることができない。だがその一方でそれらが辿る履歴は 独特で、因習的な仕方でなく、変容し、解体していく。だが解体してもそれはただの音にはならない。断片に過ぎなくても、それは断片であることを 主張する。引用も、自己引用もそうした前提あってのことだ。プロセスもまた、因習的な構造を極限まで押しひろげながら、それを壊してしまうことは 決してしない。自己を消去し、一旦すべてをリセットしてやり直すラディカリズムはそこにはない。寧ろ矛盾しつつ、変容しつつ、彷徨う自己の遍歴そのもの なのだ。他者の声が介入したり、自らをエミュレートしたり、眠りにおけるように忽然と消滅して、また突如として生起したり、巨視的に見ればある法則に 従っていることはわかるが、微視的には隙間や穴がたくさんあって、挙動が予測できない。垂直的にも水平的にもその組織は複雑だ。多彩なテクスチュア があり、再帰的な構造があり、中間的なユニットが存在する。それらは蠢き、くっついたり離れたり、分解したり、別のものになったりして、 決して同じでいることがないが、全体としてのコヒーレンスは辛うじて保たれている。意識の挙動について語る時、神経系の挙動のレベルとは別の水準が適切なことが 多いように、その挙動もまた、一つ一つの音のパラメータの値とその変化の方向や大きさの記述をしただけでは適切に記述したことにはならないだろう。 そしてそのプロセスは自然現象よりも意識の流れに遙かに近いように思われる。もともとは踊りのための音楽の連鎖であった組曲も、 ここでは全く別のものになりはてている。ここでもマーラーは単一楽章への圧縮による論理の徹底という方向性はとらない。 彼の音楽は複数の異なる楽章の継起でなくてはならないのだ。多元性、複数の層の 存在がマーラーの音楽には欠かせない。複数の楽章が無ければ、異なる文脈での素材の引用といったことはそもそも起きようがない。逆算したわけではなくとも、 結果的に組曲形式はパースペクティヴの複数性を可能にし、筋書きを重層化し、ストーリー・テリングを厚みのある複眼的なものにしている。そしてその音楽の 背後には常に或る種の志向が働いていて、それは複数の作品を跨いでその音楽を単なる多様式主義の混沌と化すことを拒んでいる。世界がどのような 相貌を持っているかは、主体のありようと相関的なものだ。そしてその意味において、このような音楽を私は他には知らない。
その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の 練習番号156番におけるようなマーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。あるいはまた枚挙に暇がない、マーラーの音楽における「後戻りができないポイント」の存在。そしてそうしたかけがえの ない何かは、これまた一例に過ぎないが、1952年にヴァルターの指揮のもとフェリアーが歌った「大地の歌」の終楽章のコーダの始まりのような、 自分が生まれる遙かに前の演奏記録にはっきりと刻印されていることが多いのだ。今日のコンサートホールでそれが聴き取れるないと言い切ることは できないだろうけれども、時間的にも経済的にもそれは非常に効率の悪い投資に感じられてならない。ライヴかスタジオかといったことも取るに足らないことで、 決定的な瞬間はスタジオでだって起きる時には起きるのは当然のことである。注意しなくてはならないのは、マーラーの音楽においてテクスチュア、音自体の 質が重視され、セカンダリー・パラメータの機能が重要になるからといって、徒らにそこにフォーカスした演奏解釈が「正解」であるわけではないということだ。 そうした恣意によって喪われるものは少なくないだろう。今更標題についての詮索をしたところで、マーラーの音楽の出てきた背景を明らかにすることは可能でも マーラーの音楽に辿り着くことはない一方で、「純音楽的」と呼ばれるアプローチが、マーラーの音楽そのものが持っている質の把握を保証するわけでもない。演奏解釈に おける「音楽だけが問題だ」という立場は、それはそれで結局は人間の営みである音楽に対する或る種の態度決定で、その結果として現象する「音楽そのもの」の 実質に対してそうした態度が特権的な立場にあるわけではない。マーラーはフェルドマンやクセナキスではないけれど、ベートーヴェンでもない。なんなら人間の心の 外界との相互作用を力学系で記述することにしても良いのだ。標題的・文学的解釈でなければ物理的な音響がすべて、という二者択一は論じる側の記述言語や 語彙の貧困を対象に押し付けているに過ぎない。適切な記述レベルを探すのは論ずる側の仕事のはずである。まあ、もしかしたら「適切さ」についての 基準自体が動いていて、ある価値を最大化するには、そうした単純化をした方が都合がいいのかも知れないが。
(なお、私にとってマーラーの音楽がより多く三輪眞弘さんの言う「録楽」であることにもまた、もう少し別の見方がありえるかも知れないという気がしている。 確かにマーラーは、ミュンヘンでの第8交響曲初演をその一方の典型例と考えられるように、コンサートホールで演奏され、聴取されるためにその音楽を 作曲した。だが、100年後の今日、それが日本のコンサートホールで演奏されることの意味合いは同じものである保証はない。マーラーの音楽は、 しばしばそう思われているように、未来のコンサートホールの聴衆のために書かれたのだろうか。私にはそうは思えない。そして、それがはっきりと過去の遺物である という認識が「録楽」としてマーラーの作品を聴くこととどこかで繋がっているように思えてならない。そのとき「録楽」として聴くことによって、その音楽の現代的な意義が 見えなくなっているのではという嫌疑があることは認めるが、果たして作用の向きはそちらだけだろうか。マーラーに関してはかつて、コンサートホールでの演奏にも 何度か接して、交響曲については辛うじて過半の作品の実演には接しているのだけれど、その経験を踏まえてもなお、今更マーラーの音楽を聴きに、 時間の制約がきつくてコストばかりは決して小さくないコンサートに足を運ぶ気にはなかなかなれない。しかもそこでの演奏が、私が聴きとりたいと思っている志向を 捉えてくれているという保証はないのだ。否、もはやそうして志向を現在の日本のコンサートホールで確認することは望み薄で、寧ろ積極的にマーラーは 「幽霊」であって、それゆえ「録楽」こそが相応しいのでは、という気がしてならないのだ。ちなみに同時代の音楽だけでなく、ブルックナーやショスタコーヴィチと いった作曲家についても必ずしもそうは思っていないから、これは私のクラシック音楽の受け止め方一般の徴候ではなく、相手がマーラーの場合に固有の 問題である。卵が先か、鶏が先か、あるいはすでにループの内に落ち込んでしまっているから、今更どちらかを区別するのは実際上不可能なのかも知れないが、 マーラーと私の間に広がる100年の時間と、地球半周分の距離、そしてそうした量では捉えられない文脈の隔絶には、寧ろ「録楽」と、解読を待っている投壜通信の ようなスコアこそが相応しいのではという感じがしてならないことは書き留めておきたい。仮にコンサートホールに足を運んでも、そこで聞く実演の方が寧ろ「影」に 過ぎないのでは、という感覚すら私にはあるのだ。これまた「投壜通信」の媒体に他ならないCDに収められた過去の演奏記録に接する時の方が、 所詮は過去の異郷の音楽であるマーラーに接するには相応しくはないのか。どこかで否定したいとは思いながら、そうした考えを否定することができずにいるのである。)
その一方で、マーラーの音楽のそうした特徴を適切に記述する語彙はまだ確立されてはいないように思われてならない。マーラーの音楽は人間の意識活動も 含めた活動の結果であるだけでなく、その活動自体の或る種のモデルであるように思われる。それは活動そのものの複雑さ、多層性、多様性を備えている。 私が(不正確な言い方であることはある程度は承知で)「意識の音楽」と呼んでいるのは、音楽作品自体にその音楽作品を産み出す活動の影が映りこんでいる ような類の音楽を指していて、勿論、マーラーの音楽だけがそうであるわけではないし、連続主義的な立場をとれば、どんな音楽も何らかの形で、程度の差はあれ そうだということになるかも知れないけれども、マーラーの音楽こそが典型であると思っている。その特質は、静的な楽曲分析によっては記述できない一方で、 標題のような次元を幾ら渉猟しても言い当てることが出来るはずがないものだろう。あるいはもしかしたら、マーラーの音楽に刻印されたような意識のあり方自体が もはや現代では失われつつあるのだ、ジュリアン・ジェインズの言う通り、意識のあり方そのものが変化していくのだという見方が正しいのかも知れない。 だがもしそうだとしても、マーラーの音楽に刻印された意識の様態を過去の遺物だとは思いたくないのだ。それを普遍的なものであると主張することはできないし、 そうすることに興味があるわけでもないが、マーラーの音楽のようなものを生み出すことができるような生物の活動を私は価値のある、かけがえのないものだと 思っているのである。それを精神の営みと呼ぼうが、意識の営みと呼ぼうが、あるいはそういう言い方を拒絶して、ある非常に複雑な機械の活動と見なそうと 構わない。マーラーの音楽の(動的な側面も含めた上での)構造、そうした構造を産出することができる機構に私は関心があるのだ。
要するに、それを意識の音楽と呼ぶかどうかは一旦おいても良い。いずれにしてもマーラーの音楽のような複雑さと豊かさと、ある種の志向を備えた音楽を 私は他に知らないのだ。志向において通じる試みが今日為されていないとは思わないし、その達成にも端倪すべからざるものを認めることに吝かではないが、 マーラーの音楽の替わりを見つけることはどうやらできそうにない。今日の音楽がマーラーのそれのようでないのには必然性があるし、寧ろそうでなくてはならないのだろうが、 だとしたら喪われてしまったものは、少なくとも私にとっては無しで済ませられないほど大きなものなのだ。今更ではあるけれど、マーラーの音楽がなくては 私は困るのだ。それは或る種の価値の要石であり、そうした価値なくして私は到底やっていけないだろう。いきなり卑小な話になるが、休みの日の 数時間にこうしたことを書き付けることによって、やっと精神のバランスが保てているのだ。私というシステムを維持するのにそれは必要なのである。(2009.5.24)
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