以下は、主にロマン派に加え、ヨーロッパの民族音楽にも興味をお持ちで、ドイツの学生歌に大変深い造詣をお持ちの林邦之さんの
お問い合わせに応じて調査した結果に基づくものである。
もとのご質問は非常に専門的な性質のもので、私ごときの手に負えるものではなかったのだが、そのうち、以下については、何とか調査しご回答することができた。
いずれも手持ちの文献に記載の内容で、私が一次資料を調査したわけではないが、このテーマについてある程度まとまった情報を日本語で 目にする機会は恐らくなかなかないものと思われるので、公開する価値があると考え、その調査内容をここにまとめておくことにする。
この項に記載する内容は上記のような経緯に基づくものである故、この文章自体がご質問いただかなければありえなかった。 ご質問がなければ、このテーマについてまとめることはなかっただろうし、私としては非常に貴重な勉強をさせていただいたと感じている。 この場を借りて、林さんには深い感謝の意を表したい。
1「ゼッキンゲンのラッパ手」は、Victor von Scheffel作の韻文の小説(詩物語)である。 Scheffelは1826年Karlsruhe生まれ、1890年同地に没した作家・画家。 「ゼッキンゲンのラッパ手」は1853年に執筆、1854年に出版され、非常に評判を呼び、250版を重ねたということだから、当時としては 大ベストセラーだったのだろう。
今日でも同じようなことが小説と映画、テレビドラマ、演劇といったジャンルの間で行われることは珍しいことではないが、 当時もまた、このベストセラーに基づく翻案劇や、歌劇、それから「活人画」などが作成、上演されたようだ。 その中で最も著名なものは、Victor Ernst Nessler(1841-1890)による同名の歌劇のようである。これについては、歌劇場の指揮者 としてのマーラーとの関連もあるので、後ほど別に扱うことにする。
ところで、質問していただいた林さんがドイツ民謡集"Allgemeines Deutches Kommersbuch"所収の学生歌であることを突き止められた "Alte Heidelberg, du feine--"は、実はSchffelの作品の中に含まれているのである。Scheffelの原作は、現在Webでは Gutenberg-DE(ドイツのグーテンベルク・プロジェクト)で読むことができるので、 ご興味のある方は確認されたい。問題の詩は、"Zweites Stück : Jurg Werner beim Schwarzwälder Pfarrherrn" の中に含まる。(Jurg Wernerは、ラッパ手である主人公の名前。)
従って件の学生歌が"Lied des Trompeter von Säckingen"そのものを題名にしたことの経緯は別にして(それはそれで 調べれば興味深い事実が判明するかも知れないが)、それなりの根拠があるわけである。 学生歌や民謡は、常に匿名の伝承に由来するものとは限らず、このように比較的新しい時代に創作されたもので ありながら、原作が時代の流れとともに忘れ去られ、特に愛好されたその一部のみが、匿名性を持って流通する ということは珍しいことではないのは、例えば 梅丘歌曲会館の特に藤井さんがお訳しになられた詩についてのコメントなどを読めばわかる。 (その他にも、藤井さんがお調べになって判明した興味深い事実は―発見と呼べるようなものも含めて―色々とある。 まだご覧になっておられない方がいらしたら、是非、一読されることをお奨めしたい。)
一方、Scheffelの原作が更に、既存の伝説などに由来するものである可能性も否定できないが、こちらについては 残念ながら、マーラーに関する文献しか手元にない私には手に負いかねる問題である。例えば、実は事実はもう一度逆転し、 "Alte Heidelberg, du feine--"は、そのとき(つまり1853年時点で)すでに学生歌として存在していたものを、 Scheffelが取り込んだものである可能性だってないとはいえない。さらには、Der Trompeter von Säckingenの全体について それが下敷きにした伝説や民謡の類が存在するのかどうかについては何とも言えない。Scheffelの原作、 あるいはScheffelその人についての研究などがあれば(きっとあるに違いない)、それをあたるべきなのだろうと思うが、 私が憶測を重ねることは慎みむべきだと判断し、この点についての追求は断念した。
2.マーラーと 「ゼッキンゲンのラッパ手」との関係は、今日の我々にとってのマーラー、すなわち交響曲作家としてのマーラーについて 言えば、些か間接的なものである。それは第1交響曲の生成史と関わりを持ち、改訂により今日 一般に演奏される4楽章の形態になる際に削除されてしまった「花の章」と呼ばれる楽章が、実は、マーラーが1884年に書いた 「ゼッキンゲンのラッパ手」の「活人画」のための付随音楽に由来するという事実によるのである。
マーラーは、1884年6月22日付けのカッセル発の友人のフリッツ・レーア宛書簡で、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の 作曲を行なったことを述べていて、その翌日の6月23日、勤務先の劇場で「活人画」と一緒に上演されることになっていることを述べている。 ちなみに「活人画」というのが、具体的にどういうものであったかはよくわからないようで、少なくとも私の参照している文献では はっきりしたことはわからない。(ほんの100年少し前の事なのに不思議な気もする。あるいは、音楽の―わけてもマーラーの ―研究者が知らないだけで、演劇史研究の専門家の世界では、事情が違ったりするのかも知れないが。)
第1交響曲の生成史については既にご存知の方も多いとは思うが、関連する、成立までの過程について改めて簡単にまとめると、 初演は1899年11月20日ブダペスト、彼は当時、当地の歌劇場の監督だった。初演の時には5楽章2部からなる「交響詩」として演奏されており、 プログラムには各楽章のタイトルもつけられている。
作品の完成については1888年3月のフリッツ・レーア宛書簡がその完成を告げる資料として知られている(アルマ・マーラー 編の書簡集所収)。実はこの手紙は日付がなく、3月にライプチヒから出されたということしかわからない。 いずれにしても、この作品の創作の最終段階は、ライプチヒの歌劇場で働いていた時代であることは確かなようである。
一方、創作の開始についてははっきりとしないようだが、1885年頃、すなわちカッセルの歌劇場時代の末期、 「さすらう若者の歌」の創作時期まで遡れるのは確かなようだ。(よく知られているように、第1交響曲の素材には、「さすらう若者の 歌」と共通するものが数多くある。)
ところで問題の「花の章」だが、自筆譜を検討したドナルド・ミッチェルによれば、使用された五線紙などを根拠に、それが 直接「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽のスコアが書かれた時期、すなわち1884年まで遡ると仮定することもできるようである。 (この点については、異論もあって、例えば、金子建志さんは疑問を述べられているが。) ただし、ミッチェルも、「花の章」が、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽をそのまま転用したという決定的な証拠はない、と はっきり述べている。というのも、「ゼッキンゲンのラッパ手」の付随音楽の楽譜は、破棄されたか、そうでなくとも喪われていて、 少なくとも現時点ではそれがどのようなものであったかを直接知ることができないからだ。 (もっとも、ヨーロッパの歌劇場では喪われたと思われていた作品の楽譜が発見されたり、というのはよくあることのようなので、 今後、見つからないとも限らないが。)
にも関わらず「花の章」が、「ゼッキンゲンのラッパ手」と関係しているといえるのは何故かといえば、上掲のレーア宛の書簡以外に もう一つ、非常に重要な証言が残っているからなのである。それは、1920年(1930年としている文献もあるが、間違いの ようだ。Musikblätter des Anbruch II-7,8 (1920) Sonder-Nummber Gustav Mahler pp.296~。ただし元論文には私はあたれていない。 なおAnbruchには1930年にもマーラー特集があるので、上記の間違いはこれを混同したものと推測される。) にマックス・シュタイニッツァーが書いた論文で、著者が記憶している(!)、「ゼッキンゲンのラッパ手」の出だしのトランペットの旋律が 数小節記譜されており、それが「花の章」のそれと一致することが確認されている。 (もっとも、厳密には、シュタイニッツァーの論文のそれと、「花の章」では調性が異なるようで、これはこれで、マーラーが 第1交響曲を改訂した動機や、改訂の過程自体に関連した興味深い部分である。要するに、しばしば「花の章」の削除の理由として、 調的関係の相性の悪さが指摘されるようだが、その点について考える際に、この証言をどこまで考慮すべきかという問題があるように 思われるのだ。)
それでは、「花の章」の音楽は、「ゼッキンゲンのラッパ手」において一体どのような場面で用いられたものだったのだろうか? カッセルでの「活人画」の上演時には"7 lebende Bilder mit verbindende Dichtungen nach Viktor Scheffel von Wilhelm Benneck. Musik von Mahler"と告知されていたようだ。 ミッチェルの推測では、「花の章」はその最初の曲"Ein Ständchen im Rhein"であろうとのことで、それは 主人公のラッパ手ヴェルナーが、月夜の晩にライン川の対岸の城に住むマルガレーテのために吹くセレナーデだったようである。 またド・ラ・グランジュによれば、全曲はこのセレナーデの主題に基づき、その主題が変形されて 行進曲、愛の場面のためのアダージョ、そして戦闘の音楽に用いられたということだ。これは1970年の英語版でも、その改訂版である フランス語版第1巻でも、それぞれの作品解説で読むことができる。ちなみに、ラ・グランジュの著作に記載された各曲の題名は以下の通り。
また、自筆譜の存在については1944年の爆撃によって喪われるまでは、カッセルの劇場のアーカイヴにあったが、 爆撃により喪われたと想定されているようだ。(この想定は、上記のシュタイニッツァーの論文での証言に 基づいている可能性が高いと思うが。)
自筆譜について言えば、この作品は、1884年にカッセルで上演された後、マンハイム、ヴィースバーデン、カールスルーエで 演奏された可能性がある。これはレーア宛の1885年1月1日付け書簡で触れられており、これに基づき、ド・ラ・ グランジュが調査したところによれば、ヴィースバーデンは記録なし、マンハイムは爆撃で記録自体が失われ、 辛うじて、カールスルーエでは1885年6月6日に上演された記録があるとのこと。(1973年の英語版注による。 フランス語版の注では6月16日だが、これは誤植ではないか。というのも英語版書簡集のp.81には カールスルーエでの演奏の予告記事のコピーが収録されているが、この予告では6月5日となっているからである。 ラ・グランジュが確認した上演記録が、マルトナーが書簡集に収めた予告とは別のものであるかどうかはわからないので、 5日の予定が6日になったのか、それとも6日もまた誤植なのかを判断することは私にはできない。なお、マルトナーは英語 版書簡集に付けた注で、マンハイム、ヴィースバーデンでの再演は行われなかったと書いている。 ラ・グランジュの本は大部なせいもあってか細かい誤植がかなり目立ち、資料的に用いる際には困ることがしばしばある。) したがって、もし今後楽譜の「発掘」調査をするのであれば、例えばカールスルーエの劇場とかも調査の対象としては 考えられるのではなかろうか。
ちなみにマーラーは、自分が書いたこの音楽について、作曲当初は「Scheffelの気取りとはあまり重なっておらず、その世界とは かけ離れたもの」だと自負し、満足していたものの、その後否定的な考えを持つようになり、既述の通り、一旦は交響詩「巨人」に 組み込まれた「花の章」も、最終的には削除されることになる。「花の章」ではない、そもそもの 「ゼッキンゲンのラッパ手」の音楽自体についても、マーラー自身の否定的な考えは、すでに上記の1885年1月の書簡にも 現われていて、それ以上の上演が行なわれるように運動するようなことはしない、と述べており、そして、上記 3つ以外の上演記録が確認されたという話はないようだ。
以上、マーラーの書いた「ゼッキンゲンのラッパ手」に関して、私が手元にある資料でわかっていることをまとめてみた。
3.最後に、最初に予告したとおり、マーラーとNesslerの歌劇との関係について、若干補足したい。
このNesslerの歌劇はまさに問題の1884年に作曲、初演されたようだ。(初演は1884年5月ライプチヒで行なわれた。) この歌劇もまた、Scheffelの原作同様、非常に人気があったようで、現在でも、またしても典拠がわからないままそのうちの 一曲"Berüt' dich Gott, es wär' zu schön gewesen"が演奏されることがあるという記述がジルバーマンの「マーラー事典」にある。
ちなみにマーラーがScheffelの原作について否定的な意見を持っていたことは、既述の内容からも窺える通りだが、 このNesslerの音楽とマーラーの作曲とは勿論、無関係なもので、こちらについてもマーラーは否定的な見解を抱いていたことを 推測させる資料が幾つかある。 (作曲のきっかけとなった活人画の上演企画自体が、時期的に見てNesslerの歌劇の成功に刺激されてのもので ある可能性はミッチェルの言うとおり、充分にある。)
ただしNesslerの歌劇は当時流行の歌劇だったわけで、歌劇場指揮者であったマーラーは、演奏家としては没交渉で済ませることはできなった ようで、カッセルの次の勤務地であるプラハでの1885-86のシーズンに指揮をしたことが確認されている。 この上演については、有名なバウアー・レヒナーの回想に、マーラー自身の語った顛末が収められているが、そこでは Nesslerの歌劇についても、否定的な意見であったことがはっきりと窺えるのである。
更に後年、ハンブルクの歌劇場時代、イギリスに引越し公演をした際にも、プログラムには、Nesslerの歌劇が含まれている。 これは当時ドイツで大人気だったこの歌劇のイギリス初演で、それなりに注目を集めたことが当時の新聞記事などから窺えるようだ。 ただし、はじめからマーラーには、自分で指揮するつもりはなかったようで、フェルトという人が指揮をしたようだが。 (公演予定のパンフレットの写真が例えばブラウコップフの編集したドキュメント研究に含まれるので確認することが可能である。) まあ自分も同じ作品に作曲したことがあるわけで、作曲家としてのライバル意識のようなものが働いたということも考えられるのだが。
残念ながら、私はこの歌劇を聴いたことはないのだが、ちょっと調べてみると、何とCapriccio レーベルから2枚組みでCDが出ている ことがわかった。Amazonなどで検索すれば比較的容易に見つけられるようなので、ここでは詳細は記載しないが、マーラーの 評価の是非について関心をお持ちの方が確認すること、あるいはそうではなくても、この歌劇そのものに関心をお持ちの方が その内容を確認することは可能なようである。(2007.12.16公開, 12.18加筆修正, 12.26マンハイム、ヴィースバーデン、 カールスルーエでの再演に関して加筆修正)
(c)YOJIBEE 2007
(2007年12月作成)