グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


近藤譲を通して見たマーラー(2006.4 / 2008.6)

近藤譲が武満徹について書いた文章でマーラーに触れている。それはマーラーをジェスチュアの音楽の典型として捉えるという見解であって、 そういう視点では武満の音楽もまた、マーラーと同じ範疇に属するというような主張ではなかったか。私個人としてはその文章での主題であった はずの武満の音楽に関する当否よりも、マーラーの音楽の捉え方の方に関心を覚えたのを記憶している。 一つにはその指摘は大筋において正しく、それをジェスチュアという言葉に端的に集約した鮮やかさのためであり、それと同時に、実はマーラーの 音楽の個性なり固有性なりがあるとするならば、それがジェスチュアの音楽でありつつ、それを踏まえた上でそこからずれていくという点に存するように 思われ、その限りにおいて違和感を感じたからでもあり、そして何より近藤譲の音楽は、そうしたマーラーや武満に対する批判的な姿勢から 生まれているという主張が潜ませてあるように感じられたからである。実際には私は近藤譲の音楽の熱心な聴き手とはいえないし、その音楽の 比類ない質の高さには瞠目しても、身近には感じられない。にも関わらず、あるいはそうした親近感のようなものも含めて、近藤譲の音楽を通して マーラーを眺めた場合の展望には示唆的なものがあるように感じられてならない。

近藤譲の音楽を初めて聴いたときの印象は、それがこれまで聴いた音楽よりは、寧ろ抽象絵画に近いというものだった。音による抽象的なコンポジションとしての作曲。何かを表現しようとしたり模倣したりしようとするのではなく、構築することなく、音を並べ、組み合わせ、編み上げることによって生まれる抽象的な質そのものを享受する経験。西欧の音楽が蓄積してきた、それなりに強力な、いわば「手垢のついた」パターンに依拠することなく、音どうしの関係をオリジナルなやり方で作り上げていく。それが目的であったのかどうかはともかく、音のパターンが感情や情緒、気分を表現するための記号として機能することは避けられる。思想や人生観(なんなら、世界観でも宇宙観でも、、、)を伝えることもまた、意図されていない。ある文化的な伝統への帰属や、東洋と西洋の出会いといったことも問題になっていない。それらはある伝統の中で機能する語法なり、楽器なりを記号として使用することによって可能になるのだが、ここではそうしたレディメイドの記号の体系を利用することは避けられていて、そのような場合には素材であったり媒体であったりする音の動きは、余計な意味付けをされることなく聴き手の前に現れることができるし、自由に振舞うことができるようだ。

音と音の関係を見つける作業は、予め与えられた方法によらずにその都度手探りで行われるのだろう。既存のパターンに従うことはないから、それは創作の過程においても、結果として出来上がった作品を聴取する過程においても、或る種の冒険であり、新しさの経験が、発見がある。だが、繰り返される冒険はあてのない彷徨ではなく、試行錯誤は局所的には極めて論理的に一貫した意図をもって行われるので、結果的に、そうした試行を繰り返した後には確固とした方法が浮び上がることになる。法則性も語法も、そうした冒険の軌跡を後から眺めたときに現れるのだ。

勿論、こうした方法論自体がある文化の産物であることは事実だし、完全に無色透明な立場というのはありえない。近藤譲の音楽は、もしそれを音楽史的な観点で分類するのであれば、アメリカのケージ達の、なかんずくフェルドマンの実験主義の立場の正当な継承と徹底として位置づけられるだろう。だが、その立場が「実験的」なのは音と音の関係を扱う際のスタンスに限定されるようだ。音響面についていえば、異化効果としてであれ単なる新奇な音響としてであれ、特殊奏法に対するこだわりはあまり感じられないし、いわゆる電子音楽よりは伝統的な楽器を人間が演奏する際の奏者間の関係性への関心が勝っているようだ。音楽が制作される現場の制度に対する態度についても、制度的な問題を主題とすることはなく、寧ろそうした制度を所与としてその枠組みの中での可能性を追求する職業的な作曲家としての姿勢が意識的に選択されているようにうかがえる。作品リストを見ればわかるとおり、その作品はほとんど何らかの委嘱に応えるかたちで作曲されていて、おおむねコンサートホールという場所でコンサートという形態の枠組みの中で演奏されることを目的としており、そのことは作品の長さや楽器編成に端的に現れている。作品概念についての姿勢も含めて、結果としての作品のありようは実験音楽の中では寧ろ保守的といっても良いかもしれない。絵画にたとえれば、普通の絵具を用いて普通のカンバスに描かれた作品で、その実験性は描かれた内容にある、といった感じか。

音と音との関係を、伝統的な型によらずに探求する姿勢から産み出される音響は、ややもすれば現代音楽にありがちな、貧血症におちいった無味乾燥で退屈なものに聴こえてしまうかも知れない。しばしばアイデアの新規性に大きな価値をおかれがちで方法論やコンセプトで差別化しようとする前衛音楽の行きかたは、結果としての音楽の貧しさをどうすることもできない場合が多い。あるいは行為自体に価値がおかれ、あまつさえ失敗自体に価値を見出す立場すらありうるだろう。だが私見では、近藤譲の音楽はそれらには該当しない。寧ろ結果としての作品に定着された音楽の疑いようのない豊かさ、作品を聴く経験の新鮮さと興味深さが、その冒険の成功を告げている稀有な例であるように思われる。それを完成度と呼ぶこともできるかもしれないし、そういう言い方をするのであれば、完成度は高いのだろうが、時折、職業的な作曲家が大量の注文をこなす際に陥いるとして非難されるある種の自己模倣と似たような印象を覚えることもあっても、いわゆるマニエリスムとは無縁で、行き止まりの感じを受けることはない。それぞれの作品はその都度のとりあえずの結論であり、どこか安定し、定着しきれないような動性を帯びているように見える。その点は実験という言葉にいかにも似つかわしいが、それでいて決して中途半端な感じを受けることはなく、寧ろ、風通しの良さに通じているように感じられる。 1曲聴けば後は同じの金太郎飴ではなく、紛れの無い個性の刻印はあるけれど1曲1曲がすこしずつ異なっていて、次がどうなるのかが楽しみなのだ。まるで、予想もつかない何かが起きることはないが、どこに行くかはわからないという、作品の内部構造におけるの音と音の間の関係に似たような関係が作品と作品の間にも働いているかのようだ。それゆえ私には、近藤譲の音楽が今後どのように展開していくのか、興味が尽きることはなさそうに思える。

一方で、もしその姿勢を批判するとしたら、どのような立場からが考えうるだろうか。 例えば以下のような見方が可能だろうか。

近藤は美を再定義して、作曲する己自身にとっても「謎」であるものを美と呼ぼうとする。彼の音楽の抽象的な音の空間は、本人にとってもそれ以外の聴き手にとっても「謎」だ。しかもそれは通常音楽の持つ音楽外的なものへの参照、行為へのいざないの側面を、あえて遮断したものだ。ここでは音を手段とするのではなく、自由に振舞わせよう、音固有の価値を尊重しようという精神が存在する。だがそれは、ある種の自閉ではないか。音を手段とすることの拒否は、音を目的とする、芸術の自己崇拝によくにた構造をもたないか?もっともここには神秘主義もなければ、超越への衝迫もない。音楽を啓示の媒体であり高度な認識への道、手段と見做しつつ、同時に、啓示される超越的なものの表現、認識されるべき当の対象そのものの現れと見做す自己中毒もないのだが。そしてまた彼は美的な判断を作品以外のものに拡張することの危険を説く。確かにそれは危険だし、倫理的に許されないという主張は正しそうに見える。だが、それは結局美的なものの囲い込みではないのか?本当に、音楽は、美は倫理と独立の価値を持つのか。ここでは音楽をする行為の倫理性を問うこともまた禁じられているのではないか。その姿勢は美を自閉させ、結果的に倫理的に不適切な場面で美的な価値判断がなされてしまうような倫理と美学の分離の補強をしていることにはならないのか。

近藤の音が響く空間には、音の自律性を尊重する聴き手しかいない。そしてその聴き手というのは、トータルな意味での人間ではない。それは人間のある一部分。断片化された耳だ。世の成り行きの喧騒から遮断された防音室で響く音楽。だから、あるとき聴き手は、退屈する。それは近藤の音楽が退屈だからではない。人間は気が散りやすい動物なのだ。常に、自分が埋め込まれた環境のあれこれに意識を向けてしまう。もともと彼は音だけが存在する世界に生きているわけではない。だから遮断は時折うまくいかない。知覚はもともと環境世界についての情報を与えるものであり、反応を引き起こす信号の如きものではないのに、そうした側面を遮断するためにわざわざ環境を設定しているように見える。その環境の枠が曲であり、だからこれは認知実験に似る。それを聴く人間も抽象化されて「耳」に、あるいは実験の効果を測定する装置に還元されるかのようだ。実験音楽という呼称もむべなるかな。

確かにそれは、近藤の音楽だけの問題ではない。いわゆる西欧のクラシック音楽はコンサートホールで聴くようにほぼ決まっていて、結局のところ近藤の音楽はそうした伝統に属している。コンサートホールはいわば公的な防音室だ。そこでは演奏者がステージの上で作曲者の指示に従い音楽を演奏する。聴き手はそこに入るためにはお金を払い、音楽が始まって終わるまで沈黙を守り、身じろぎせずに狭い座席で己れを耳に還元し、終われば拍手をするきまりになっている。そこでは様々な時代の色々な美的価値観に基づく音楽が演奏されるが、結局のところ、音楽が提供される場の性格が、そうした多様性を超えてその音楽を性格づけてしまう。そうした防音室の中の経験が、その外の成り行きとどう関わるというのだろう。そこで提示されるのが「謎」であるのは、それが文脈をはぎとられ、外部の環境から遮断され、意味を剥ぎ取られていることの裏返しではないのか。 (実際には私が「謎」に向き合うのは、コンサートホールよりは寧ろ、自宅で、CDに収められた録音を聴きながらの方が遥かに多いのだけれど。) その「謎」はスフィンクスとは異なって、謎を突きつけられた人間を脅かすこともない。美術は美術館の中に、音楽はコンサートホールの中に隔離されて純粋培養される。それらは独自で固有の価値を持つものとされる。そうした考え方の極北が、抽象化された音や色彩、形態の組み合わせ。それは別に何かを変えるわけではない。いつもの風景の中に収まる。

だが、批判はある意味ではたやすく、制作の営みの行く末を見極めることは困難だ。また、こうした批判が想定できるにも関わらず、私にとってその音楽を聴き続けることを促す何かが、その音楽にあるのは確かだ。そして、結局のところ私もまたそれを、さしあたり「謎」と呼ぶほかないのである。

さて、そうした検討の上でもう一度マーラーを振り返ってみた場合の展望はどうだろうか。「謎」という点ではマーラーもまた私にとって「謎」ではあるが、 その理由は全く異なる。マーラーの場合の謎は、その人と音楽の関係のそれであり、寧ろ人間の営みの結果たる作品に析出したマーラーという人間の 姿勢なり態度に関する謎なのである。人間としてのマーラーを作品と区別して考えることは、作品を通じて人間についての 外挿を行う姿勢の持つ危険性に引き比べれば一見したところ遙かに優れた態度に見えて、実際にはありもしない分離を仮構し、 現実には不可分のものであった両者を抽象することに起因する具体性の履き違えの誤謬を犯しているのである。否、その音楽と人間との 結びつきそのものが「謎」の一面に他ならないのだ。

一方で、コンサートホールという制度への依存や音楽の自律性の尊重という点では、実際にはマーラーと近藤は決して疎遠な存在ではない。 勿論その音楽の実質は大きく異なる。要するに近藤の音楽は何かを表現しようとしているわけではなく、音自体の振る舞いに関心が集中しているのに 対し、マーラーにとって音楽は、そういう意味では決して自律的な存在ではなかったようだ。マーラーの音楽は音楽に纏わりつく脈絡やら文脈を 拒絶しない。しかしそれに対して意識的である点では近藤と一致していて、マーラーの場合はそうした脈絡に対する意識が音楽の中に投影される ことで、その音楽に微妙な陰影をもたらしているようだ。それはある意味では「世界観」音楽なのかも知れないが、マーラーの場合にはそれは 少なくとも出発点においては本人の意図ではなかったことに注意すべきだろう。音楽が先にあって、脈絡は後から析出されていくかのようなのだ。 シェーンベルクは第9交響曲を念頭においてスピーカーに喩えたが、第9交響曲のみならずマーラーの音楽にあって作曲家は音楽が現実の領域に 進入するための媒体であるかのようだ。音楽が「世界観」を作曲家が表現するために利用されるのではない。世界観の方が作曲家を媒体にして 音楽として己を実現していると言ったほうが良い。だからマーラーの音楽を典型的なロマン派の世界観音楽と見做したり、こちらもまた毎度おなじみの 標題音楽と見做す議論は、マーラーの場合を扱い得ないように感じられてならない。マーラーが音楽を世界と見做し、作曲を世界の構築と 見做した発言は、「文字通り」にとられるべきなのだ。世界観の表明、標題・プログラムの実現が問題なのではない。文字通り音楽によって 世界を構築することが問題であり、標題は常に後付けの不完全で色褪せた説明に過ぎない。

だからマーラーをジェスチュアの音楽であると捉える考え方に関してはこのように言いたい気がするのだ。確かにそれはジェスチュアの音楽だが、 私が関心があるのは、そのジェスチュアの背後にある意識の働きがその音楽に自らの影を落とすその有様なのである、と。意識の音楽という のはまさにそうした捉え方が可能な類の音楽のことである。そこでは対象自体ではなく、対象に対する態度、対象に接する経験の側に 注意が移動している。いわば反応や経験の情態性の記述が中心になる。無論、音楽を外からそのように読み取ることは一般に可能かも 知れず、近藤の音楽に対してすら可能かも知れない。だが近藤の音楽は、それが成功しているが故になお一層、生の経験や意識は 音楽の外部にあるのだ。それは意識の音楽ではない。

勿論、意識の音楽であるかどうかと作品の出来不出来は全く独立の事柄だ。だが、どちらにより一層興味があるかと言えば、私個人としては 興味は意識の音楽の側にある。その意味では近藤の音楽は、ちょうど自分の関心を裏から批判的にあぶりだすような位置づけにあるのだろう。 一方で、一旦音楽の内側からは表現や感性のごときものを徹底して排除した上で、もう一度人間の営為として音楽を捉えるようなアプローチも 可能であり、そういった方向にはこれはこれで強い共感を覚えている。そこでは「人間」そのものも相対化されていて、それゆえ他ならぬ人間の 営みとしての音楽は、もう一度その音楽が埋め込まれる脈絡や音楽の外部に対する価値といったものを引き受けざるを得ない。そこでは 聴き手すら耳に還元されることはなく、音楽をトータルな仕方で受け止めざるを得なくなる。かくして一見したところ懸け離れた存在である 筈の三輪眞弘の音楽とマーラーの音楽は、私の中では不思議な感じで、だが明確なかたちで同居しているのである。 (2006.4.3-8 / 2008.6.21)



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