グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


クルト・ザンデルリンクのこと(2002.4初稿, 2007.7.9改稿)

クルト・ザンデルリンクの聴き始めはショスタコーヴィチだと思う。第6交響曲と第8交響曲のCDをずっと持っていて聴いていた。この2つは際立って優れた演奏で、聴く頻度からいけばムラヴィンスキーより高いと思う。
ザンデルリンクはショスタコーヴィチの交響曲のうち一定の曲のみをレパートリーにしているが、これが私が聴きたい曲と一致しているのがうれしい。(海外のWebサイトで読むことのできる あるインタビューで、 poeticな曲の方がepicな曲よりも共感でき、印象的だと言っているが、その通り。)
遅れて聴くことになったショスタコーヴィチの第1,5,10,15番もまた、いずれをとっても素晴らしい演奏だ。特に5,15番が良い。ただし第15番の演奏は聴くのがかなりしんどいタイプの演奏。一方で今まで聴いてきた他の演奏が「手緩い」という評価もこれならやむを得ない気がする。

マーラーの第10交響曲のクック版も以前から持っていたCDで、これは録音自体が少なかったので貴重だった。 ザンデルリンクの演奏スタイルは、マーラー演奏としては少し異質な気がする。よく聴いていた時期には、演奏自体の良さよりも、クック版に加えられた変更が気になっていたのだが。今聴けば、ショスタコーヴィチにつながっていく流れを感じることができる。ただしそれはショスタコーヴィチから折り返された印象が強い。マーラーが大地の歌、第9,10交響曲だけ、というのはレパートリーとして興味深いが、このこともやはり、その折り返しの感じを強める。
そして、叙事詩的な側面よりも、詩的な側面をより重視するというショスタコーヴィッチでの傾向は、マーラーにもそのまま延長されているように思われる。標題性が強く、世界に向かって絶えずはみ出していこうとする初期の作品や、世界と主観との拮抗がいわばむき出しになっている中期の作品を取り上げないのも、極めて一貫した姿勢のように思われる。少なくとも、後期作品のみを取り上げることによって可能になってくる解釈というのが存在し、それが際立って説得力の高いものであることを ザンデルリンクの演奏は告げているようだ。
第10交響曲はクック版の他の演奏が少なかったこともありかなり有名だが、大地の歌および第9交響曲も演奏は極めて優れていると思う。第9交響曲は、例によって作為のない、淡泊な演奏なので、一般的なマーラー像からすれば、平板で単調、と感じる人も多いと思うが、初期や中期の交響曲ではなく、第9交響曲であれば、こうした演奏スタイルを私は首肯できる。(少し突飛かもしれないが、バルビローリがこの曲において選択した解釈を連想させるようなところもある。ただし勿論、似た演奏だと言っているのではない。)
また、何種類かの録音のある第9交響曲に比べて更に注目されることのない大地の歌は、私が今まで聴いた幾つかの演奏の中では、最も優れた演奏だと思う。音楽の流れの自然さが、この曲の場合には理想的に働いて、他の演奏では、交響曲として構築してしまうか、連作歌曲として解体してしまうかのいずれかになりがちなこの厄介な作品のまさに理想的なスタイルの演奏になりえていると思う。こうした演奏を聴くと、いわゆるマーラー指揮者として、初期や中期の交響曲を得意とする指揮者が、9番、10番はともかくも、こと大地の歌については、本当に的確な演奏が可能なのかと問い返してみたくなってしまう。逆説的なことだが、世界の現象の多様性の模倣からも、主観の、場合によっては自己陶酔的にもなる情態の表出からも遠ざかり、まるで、あの交響曲に関するシベリウスとマーラーの見解の不一致が解消されたかのように、音の有機的な秩序に自然に従うこと、ただし全体性を構築しようという志向はもともと希薄で、音の流れに対して介入し、整理しようとするよりはその流れを尊重し、それに従うことによって、大地の歌の詩的な内実の実現が可能になったかに思える。音楽の持つある側面をことさら強調する(こうしたやり方は、ことにマーラーには多いように思われるが)のではなく、何よりも自然な呼吸によって音楽が語ろうとすることを無理なく語らせているのが印象的である。

ザンデルリンクという人は、極めてドイツ的な演奏をする人という評価が多いようだが、私の聴いた感じは随分異なる。いわゆるドイツ的な演奏に比べずっと湿度が低く、空気が冷たい感じの演奏で、音楽の構成の仕方もずっと作為が少ない。繰り返しになるが、構築的であるよりは、音の有機的な組織の生成・展開の流れを重んじた演奏だと思う。それゆえブルックナーからシベリウス、そしてショスタコーヴィチへと伸びていくレパートリーが非常に自然なものに思われるのだと思う。
端的に一例をあげるなら、ブラームスの第3交響曲のフレーズのちょっとした切れ目に生じる間の豊かさは、むしろブルックナーのゲネラルパウゼや、マーラーの第9交響曲のあの漠とした空間を感じさせる経過部を思わせるような質を担っているように感じられる。こうした空間は、重厚か否かを問わず、歌に満ちた演奏においても、構築性に富んだ演奏においても生じる余地のない類のものであろう。そして同時に、意識して音の有機的な組織を構成し、流れを作り出そうとする、実際には主知的である意味では賢しらな態度からも遠く隔たっているというべきだろう。
ザンデルリンクの音楽の持つ、或る意味では「素朴」といってよい肌触りは、そうした抜け目のない知性の監視下で生じる完全な音響バランスの人工的な息苦しさの対極にあるのだ。もちろんここには執拗なまでの響きに対するこだわりがあるに違いないのだが、にも関わらず生成した音楽の呼吸が自然であることは驚異的だ。そしてその自然さは、音楽が孕む葛藤や矛盾を取り繕ったりすることはない。勿論、ことさらにそうした側面を暴き立てる露悪趣味の対極にはあるのだが、外から理念を持ち込むことによって、楽曲を整形しようしているようには見えない。寧ろ、多少ぎこちなくなっても音楽が自然に呼吸することを優先するのだ。ザンデルリンクはかなり管弦楽のパートを改変して演奏に臨んだようだが、その改変は、一般的な(したがってその音楽にとっては外的な)規範に照らしてその音楽に欠けているものを補うというよりは、個別の楽曲の流れに照らして、技術的な次元でうまく響かない部分を調整するという側面が強いように思える。 またそうした楽曲の生理を重んじる姿勢が、シベリウス、ショスタコービッチ、マーラーのような周縁的で、多かれ少なかれ、そして意識的であれ、半ば無意識にであれ、同時代の音楽の規範から逸脱する傾向のある作品をレパートリーとして持つことを可能にしているように思われる。私見ではブラームスですら、ブラームス本人の「意図」においては古典的、規範的たらんとしているのがあれほど明白だというのに、例外ではない。ザンデルリンクの姿勢はブラームスの音楽がもしかしたら意に反して持ってしまった余剰を決して整除しない。繰り返すが、勿論決して暴きたてもしない。そういうものとしてごく自然に提示するのだ。それは周縁的であるというより、寧ろ個別的なものに対する寛容さ、(不完全さも含めた人間的なものに対する)優しさのようなものとすらいえるかも知れない。そしてザンデルリンクの音楽のかけがえの無さは、この優しさにあるように思える。
そして、こうした意味で興味深いのはブルックナーの演奏、特に最近の第7交響曲の演奏で、これはいわゆるドイツ的な演奏からは遠く離れた、シベリウスが夢見たようなタイプの音楽ではなかろうか、と思えるのである。
またシベリウスの初期(特に第1)交響曲とチャイコフスキーの交響曲の演奏については、それらに関してしばしば言及される連続性をはっきりと感じさせる演奏だと思う。そして同様に、ブラームスの演奏との連続性もまた、際立っている。すべてを伝記主義的に生まれ育った風土に還元するつもりはないのだが、それにしても、 ザンデルリンクの出生地である東プロシアの地政学的な位置づけが思い起こされる。(上述の周縁的なものへの開かれた態度をこれに関連付けることも勿論可能だろう。あるいは方言周縁論との類比によって、周縁的であればこそ、今日ではもう困難になりつつある音楽に向き合うある態度のようなものが「残っている」のだ、という見方もできるかもしれない。)ここで鳴り響く音楽は主観的な情緒や個別的な感情の表出ではなく、世界への向き合い方、ある種の存在の様態そのものではないだろうか。あるいは病的なまでに強調されることすらある感傷的な情緒の氾濫はないが、それに対するしばしば強引なまでの拒絶にも陥っていないという、絶妙のバランスがごく当たり前のように実現されているのは驚くばかりである。

というわけで、私はザンデルリンクの熱心な聴き手というわけではなく、したがってその音楽の特質をバランス良く、包括的に紹介することなどできないのだが、上記のようなレパートリーの作品を聴いた限りで感じるのは、結局ザンデルリンクの音楽の「自然さ」はそれが等身大の、人間的(ヒューマニスティックではない)と呼ぶほかないような音楽の捉え方に由るのではないかということだ。それは何か超越的な規範を目がけることはないし、さりとて個人的な感傷に低徊するこもなく、淡々と、しかし過たずに音楽が語っているものを探り当てるのだ。そして生じる音楽も、自己耽溺的な主体のドラマでないのは勿論だが、それでいて確かな手ごたえと手触りのあるもので、スタイリッシュに外から音響を磨き上げた豪奢さが如何に完璧を極めようと持ってしまうあのまがいものめいた光沢とは徹底して無縁だ。
音の有機的な展開の運動を重んじる一見無作為にすら感じられる態度の背後には、主体の確からしさがあるのだ。もしかしたらその確からしさには、些か頑固な即自性がつきまとっているかもしれないのだが、寧ろかけがえの無いものかもしれない故、それを批判することはできないだろう。というのもpoeticなものを慈しむその音楽の包容力の大きさは、そのようにして確保された主体の確からしさから発しているもののように思えるからだ。
それゆえ、音楽が世界の模倣になりきってしまうことはない。その結果、もしかしたら人がシベリウスに期待する凍てつくような、眺めるものすらいない無人の地はここにはないし、あるいはブルックナーに期待される、宗教的な荘厳さや超越的、天国的と呼ばれるかもしれないある種の情緒とも無縁だ。そしてまた、後期のマーラーやショスタコービッチが、よりによってマーラー的、ショスタコービッチ的だとしてもてはやされることすらあるように見受けられるあの忌まわしい攻撃者との同一化によって客観の暴力の巷と化すこともないのだ。(2002.4初稿, 2007.7.9改稿)

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