グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


カルロ・マリア・ジュリーニのこと(2003年9月1日初稿、2007.1.11修正, 7.9改稿)

実際にその演奏の記録に接するまでのジュリーニに対する印象は希薄なもので、何よりもマーラーの第9交響曲の演奏の評判の印象ばかりが強かった思う。LP時代からその存在と評判は耳にしていたのだが、高価なLPはそんなに手軽に買えるものではなく、迷っているうちにとうとうLPでは第9交響曲の演奏を入手することなくCDの時代になってしまった。そうしたわけで、このジュリーニの演奏も永らく未聴で、録音されてから20年以上経過してようやく聴く機会を得たのであるが、それは全く「マーラー的」でない演奏と感じられ、率直に言って、衝撃的だった。誤解を恐れずに言えば、あまりに(若干強引なまでに)「普通の」音楽として演奏されていたことに驚いたのだ。未だに似た演奏は思い浮かばない、特異で例外的な演奏だと思う。場合によってはいらいらするほど均整が取れていて、表現主義的な表出性とは全く縁がなく、従ってここには没落の不安に怯える主観はいない。(シェーンベルクがこの曲を「非人称的」だと言ったのは、勿論、ジュリーニの演奏が実現しているような意味では断じてない。)そうした表現主義的で、ある意味では音楽外の文脈を切り離し、更に場合によっては単なる演奏上の技術的な指示ばかりではない総譜上の指示、あるいは音楽の経過が内包するプログラム(標題をつけるを止めたとはいえ、マーラーの場合にはそれは別段「秘められている」わけではなく、明らかであると思うが)を無視した上で、どのような音楽を作れるかという実験とすら言えるかもしれない。ジュリーニの演奏では、その第3楽章は、世界を買おうとして破産した主観の末期の心象ではないのだ。「極めて反抗的に」というマーラーの指示は、ここでは全く別の水準で達成されている。勿論、この演奏もやはりマーラールネサンスの時代精神に忠実な演奏ではないか、例えば、2つほど例を挙げれば、レヴァインやカラヤンのような場合とどう違うのか、という問いはあるかも知れない。マーラールネサンスの時代には「純音楽的な」演奏がもてはやされたものだった。曰く「健康な」「神経症的でない」マーラー、、、あるいはまた、今日のブーレーズのような「客観的な」解釈と比べたら?否、この演奏はやはり特殊なのだ。デジタルなわけではないし、分析的でもない。その音楽は純粋な音響体と呼ぶにはあまりに人間的で、それでいて個別性は拒絶したような演奏なのだ。いずれにせよ、これがマーラーの第9交響曲の代表的な演奏であったというのは信じ難い。演奏としての完成度はともかく、音楽の捉え方では間違いなく、例外に属すると思われるのだが。
こうして書くと、この演奏に対して私が否定的な印象を持っている、というように受け取られるかも知れないが、勿論実際は逆で、ようやく、この演奏をもって、(もしそう呼ぶとしたら)「純音楽的」でありながら説得力のある解釈に行き当たったのだ。「純音楽的」であるがゆえに何かが決定的に欠落した感じを抱くこともなければ、「純音楽的」でありながら一方で、というバランスの良さでもなく、徹底して「純音楽的」であるが故に説得力のある演奏なのだ。
唯一、音楽外的な連想として感じ取れるのは、マーラーが作曲を行ったチロル地方を ジュリーニは知っている(バルレッタの生まれだが、幼少時に南チロル地方で生活したことがあるらしい)という伝記的な事実だ。かつてこの曲を頻繁に聴いていたころ(その頃最もよく聴いていたのはインバルの演奏で、この演奏こそこの曲の代表的な演奏だと思うが)、特に第1楽章に、その生活圏の風景が見えるように強く感じられた。一方例えば、これもまた代表的な演奏であり、かつ同様にその頃聴いていたバーンスタインの2種の演奏、つまりベルリン・フィルとのライブとコンセルトヘボウとの演奏は、いずれもそうした風景を喚起させるような演奏ではなかったと記憶している。ところで、このジュリーニの演奏を初めて聴いたときまず感じたのは、その風景が見えるということだった、しかもそれはインバルの演奏のように、あるいはその後聴いたバルビローリの演奏においてよりはっきりとそうであるように回想する意識の裡にあるのではなく、今、そこに見えているものに感じられたのである。風景が現前していて、主体はその風景のうちにいるのだ。こうした直接性、そしてある意味では逆説的といえるかもしれない具体性は、この曲の演奏にあっては極めて例外的な印象であると私は考えている。そうした感覚的ともいえるような直接性こそ、ジュリーニの演奏の特徴なのだろう。
「大地の歌」についても、基本的な印象は変わらない。より室内楽的で色彩的な管弦楽法を持つこの曲の方が、直接性や克明さという点ではより明確かもしれない。歌つきにもかかわらず、あるいは歌つきだからこそ、楽音は主観的な情緒のフィルターや回想する意識を通さずに、すぐそこで鳴っている。ユーゲントシュティル様式や東洋趣味といった歴史的な文脈とも無関係に、いつぞやにも聴いた音、かつて眺めた風景を今一度耳にし、目前にする、といった風情なのだ。懐旧の念に囚われた感傷はなく、その音は繊細だが、決してくすまず、くっきりと聞こえるし、風景も涙にかすむことはなく、色彩に富んでいる。いくら性急な聴き手であってもこれほど直接に現前する音楽を自己耽溺的な主観の哀傷のドラマに取り違える事はないだろう。その楽音は繊細ではあってもきっちりとした実質を備えていて、感傷からも、表現主義からも程遠く、かつまた陶磁器のような人工的な儚さとは無縁なのだ。
もっと直接的な言い方をすれば、「私は山に行こう。故郷を、住処を求めて彷徨おう、けれども遠くにはいくまい」と歌った私は、ここでは故郷の山に辿り着いたのだ。最後の一節は、憧憬の裡に接続法的にではなく、今そこに広がる風景の美しさに対して歌われているのではないだろうか。そして更に、これは恐らく牽強付会だろうし、 ジュリーニほど伝記主義に相応しからぬ人はいないとは思うが、その「故郷の山」は子供時代を過ごしたドロミテの山々なのだ、という連想を禁じることができない。逆にそれゆえにこの音楽を感覚的に「感じる」ことができるジュリーニでなければ、この曲をこのように演奏することはできないのではないか、と思わせる絶対的な説得力がこの演奏にはあるように思える。

ジュリーニの演奏は、ヴィオラを弾いていたせいか、内声が非常に重要視され、響きが厚くなっていること、旋律線が隅々まで緊張感を保っており、その立ち上がりから消滅まで、曖昧さがないことが最もすぐに気がつく点であろう。その明晰さと充溢は、ルネサンス的であるといいたいような性格のものだと思う。 ジュリーニおいて明晰さは、歌う自由を束縛しない。それはまた、透明感やマニエリスティックな細部の透かし彫り、一糸乱れぬ精密さアンサンブルを意味することもない。特に異様と感じられるほど極端なのは、フレーズや音響バランスの「プロポーション」への拘泥で、あたかもきちんと歌えきれないことを拒絶するかのようだ。
ジュリーニの指揮の技術的な側面から言っても、そのタクトはリズムの正確さや、アンサンブルの精密さを要求するものではない。それは人間的な呼吸の生理に忠実で、寧ろ完全なプロポーションとバランスで歌えることが優先されているように思われる。
テンポの変化や強弱法も、旋律線や音響バランスのプロポーションを損なわないことを前提に設計されているようで、無理はないが、それは自然というのとは少し異なる、極めて綿密な計算を感じさせるものだ。歌うことの自発性を求める一方で、完全主義とマニエリスムが存在するのも確かであり、しかもその造形法は、削る、縮める、せきたてるのではなく、加える、引き伸ばす、ためることが中心であるように思える。
テンポの極端な揺れ、極端な強弱のコントラストは歌のプロポーションを損なうが故に拒絶されるのであって、実際にはその演奏を「インテンポ」というのは些か抵抗がある。カンタービレに由来する微細なテンポの揺れが其処彼処にある。息をつげないようなインテンポ、息をひけないような間合いはジュリーニの演奏には存在しない。そうした意味でジュリーニの音楽は極めて感覚的・身体的・人間的であって、その晴朗で均整の取れた様式はウマニスモ、ルネサンス的なヨーロッパ、啓蒙主義の典型(極限ではない。極限はもはや啓蒙主義ではないかもしれないから。)を思わせる。

ジュリーニの音楽は、マージナルではないが、しかし中心でも極限でもなく、典型なのだ。そしてそこにいつも人間がいる。人間中心主義はイタリア系の指揮者の生理という側面もあるかもしれない。けれども、例えばイギリスに生まれたバルビローリは同じように叙情的であっても、同じように歌に満ちていても、周縁的なものやバロックなものへの開かれた態度によって、 ジュリーニとは区別される。そしてまた、ジュリーニのそれは、新ロマン主義の先駆けではなく、むしろ古典主義(これは20世紀前半の新古典主義とは全く関係がない)的である。ただし秩序と規律を重んじるフランスの古典主義ではなく、あくまでもイタリアのそれだが。こういうスタンスは、怜悧な聴き手にとって、場合によっては中途半端で詰めの甘いものと移るかも知れない。あるいは人によってはこれを中庸と呼ぶかも知れない。実際、その演奏に何か刺激的なハプニングが起きるようなことはない。また、宗教的な感じはなく、その音楽には超越はない。それは自己充足的、内在的で垂直軸を欠いている。奥行きすら怪しいのでは?と思えるほどである。時間論的にも、過去とも未来とも縁遠い、けれども生成の瞬間の拡大(チェリビダッケ)ではなく、持続する現在の充溢とでも呼ぶべきものだ。音の向こう側にも手前にも何もない、何かを求めて眼差しがさまようこともない。今、ここに鳴り響く音楽の直接性で十分なのだ。しかも ジュリーニの音楽は、スピノザ的にそれ自体が世界であろうとするチェリビダッケのそれとは異なって、主体性を喪失しないまま、世界という契機を内在化しているようだ。
その音楽には静けさがないのではないが、空虚はない。叙情的だが情緒的ではなく、主観的な音楽ではない。これはバルビローリと異なって、意識の音楽ではないのだ。その音楽は、ある意味では経過毎に自足しているため、静的な性格を帯びる。コントラストが不足しているか、あるいは拒否しているのでは?と感じる瞬間すらある。場合によっては一面的な印象や奥行きの欠如を感じると言われるのはそのせいだろう。
例えばザンデルリンクのマーラーの第9交響曲はしばしば「平板」だと言われるが、実際にはその演奏は「自然」であって、その経過はそっけないほど淡泊なだけで、決して平板なわけではない。寧ろ「平板」というのはジュリーニの演奏にこそ相応しい。充溢する歌、隙間無くポリフォニーで埋め尽くされる空間。ここでは静寂、音と音との合間すら歌によってコントロールされているかのようだ、まさにここでは沈黙は歌の構成要素、一部なのだ。そしてまた、完璧を目指す歌は、即興性のようなものを喪ってしまう。その音楽の経過は物語の展開でも「意識の流れ」でもない。「作為的」ではないが、いわゆる「自然な」演奏ではなく、意識的に歌うのだ。そこにはザンデルリンクにおけるような音の自発的な生成展開はないし、ましてやハプニングはなく、フレーズは予定調和的に閉じられるのだ。

あえて言えば、不自然であることを意志的に拒絶する態度、実際には音楽自体が歪かもしれなくとも、それをあえて認めずに「あるべき」姿にプロポーションを矯正してしまう姿勢がジュリーニにはあるのではないか。ただしここでいう「あるべき姿」というのは、音自体の秩序が潜在的に欲している形態(ザンデルリンクはそのために総譜やパート譜をしばしば書き換えたらしい)、というのよりもっと強い意味合いをもっていて、個別の音楽という仮象を超えて、寧ろア・プリオリにあるべき理念的な秩序というのが想定されているようなのだ。しかし、ジュリーニの特異性はこうしたプラトニズムが、感覚的で身体的な直接性と結びついている点にある。プラトニズムとはいうものの、音は向こうからやってくるのではなく、あくまでも人間が歌うものなのだ。
結果として、隅々まで音楽はコントロールされ理想的な姿を纏うための追求がなされる。こうした意味でジュリーニの音楽はとことん主体による作為の音楽で、そこには主体の充溢がある。ジュリーニの音楽は演奏家の「個性」、演奏の個別性は主張しないが、音楽自体は客観的な音響体ではなく、スピノザ的な自己完結性(チェリビダッケ)を帯びることは無いし、一方でザンデルリンクの演奏のように音の自然な流れに身を委ねているうちにどこかに運び去られてしまうこともなく、フレーズの終わりまで正確に歌いきらなくてはならない。そしてそれは聴取のプロセスについても言えるようだ。聴き手もまた、揮発してしまうことなく、最後まで聴きとおさなくてはならない。
しかもバルビローリの場合と異なって、ジュリーニにおいては主体は遍歴した結果変容するということもなく、帰還するのである。つまるところジュリーニの場合、主体=人間の極は消え去らないし、本質的には変わらない。享受の極の受動性は、まさにその享受そのものによって補償され、主体は一層堅固になるかのようだ。聴くのが疲れると言われるのはその充溢のせいなのだろう。あるいはまた、曰く「立派過ぎる」演奏というのは、音の半ば自律的な運動に身を委ねるという、とりわけ享受の極では極普通に生じる態度を、ジュリーニの演奏が拒絶するが故に起きる息苦しさの表明に他ならない。聴き手は音楽を心から享受することはできても、圧倒され、どこかに連れ去られるようなことがあってはならないのだ。
徹底的な作曲者への無私の奉仕の姿勢が、隙間無く埋め尽くされた歌の充溢をもたらす。コントラストを欠いた経過は経過としての意味を喪う。これは、別の位相でだが、晩年のチェリビダッケに生じた事態と、結果だけとればよく似ているように思える。ただし、それをもたらす音楽に対する姿勢は全く異なる。チェリビダッケが西洋の音楽の理念の極限に達しえたのが、その周縁性によるのに対して、ジュリーニの場合、(弁証法的なアーノンクールとは全く異なって、大変に静的な性格を帯びているが)それは典型的にヨーロッパ的な存在様態ではないかと思う。それは「音楽は美しくあるべきだ」という立場での最高の達成なのだ。しかもそれは人間には聴き取ることができないピタゴラス派の天球の音楽ではなく、直接的で感覚的な身体性の位相で達成されている。そしてその身体性は、外界の事象を感受する感覚器の発達という人間のもつ生物学的な条件に忠実であるかのように、出来事によって変容を蒙った内部状態ではなく、変容を惹き起こした外部へと開かれている。主体の音楽といっても、内部事象への沈潜や、出来事を感受する界面へのこだわりはなく、ベクトルは外へと、つまるところ音楽へと向かっていくように思われる。ここでは音楽はまず感覚的なものなのだ。音楽を自らの身体と化すること、自分が音楽と一致することをめがけるその様態は「享受」のそれであって、それは現在の豊かさを味わいつくそうとする。それは瞬間の中に永遠を見る形而上学とは無縁で、寧ろ、持続する現在のうちで、その時間性の淵源である出来事の豊かさを、つまりはベクトル性の深さを享受するのだ。主体は決して消えてしまうことはない。
かくしてジュリーニの演奏に対する私の向き合い方はアンビヴァレントなものになる。強い抵抗感と、達成されたものに対する感嘆が相半ばするのだ。マーラーを聴くならバルビローリを聴くだろう。音の自然な流れに身を浸したければ、ザンデルリンクを聴くだろう。けれども時折、ジュリーニの演奏を聴いてみたくなることがあるのだ。 ジュリーニの演奏は私にとってはアンチテーゼとして万鈞の重みを持っているのだ。(勿論、実際には正統的なのはジュリーニの方であって、私が常には好む演奏の方が何らかの意味で周縁性を帯びているのだが。)そんなに頻繁に聴くことはないし、自分にとって親近感を覚えるタイプの演奏ではないのだが、こんなに完成度が高くて「典型的な」演奏は他にない。それは私にとってある種の規範であるといっても良い。そうした意味でジュリーニの演奏は特別であると思う。 (2003年9月1日初稿、2007.1.11修正, 7.9改稿)

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