アドルノ的な弁証法の枠組みのうちでは、おそらくは特異な楽器法や異化はちょうどラッヘンマンについて語るときそうであるように、マーラーを語るときに欠かせない「キャッチコピー」なのだろう。ところで、異化というのは文脈を必要とする。文脈を共有できるかどうかは実際のところ程度問題であるのだが、例えば一時期「モード」になったとまで言われた、かの「黄昏の地」における「形而上学の歴史の脱構築」とやらにしてもそうであるように、全く無関係であると言い切ることもまた困難であるにしても、ではそれが自分の喫緊の問題であるかといえば、自分が持つ文脈の頼りなさを思うにつけ、決してそうとはいえない、と言わざるを得ないのが正直なところだろう。ましてや対象領域は自分が専門的・職業的に関わっているわけではない音楽である。
特殊奏法というのも、「普通の奏法」というのがあって特殊が定義されるような捉え方をされる場合には、同じことが言えるだろう。例えば自分が演奏者であるならば、自分が習得してきた楽器の演奏法というのもあるし、それを抜きにしたとしても、指定されたやり方と物理的に格闘せざるを得ないわけで、そこに生じる抵抗というのが実現される音楽と不即不離なものであるというのは確かなことであろうが、現実にはここでは私は単なる享受者に過ぎず、せいぜいが実現された音響の新奇さを追っかけるくらいが関の山である。マーラーの音楽だって、ヴェーベルンの音楽だって、かつては随分と新奇な音響に満ちていたに違いないし、自分もまた、その新奇さに一度は魅了されたに違いないが、そうした新奇さは、異化がそうであるように摩滅してしまう賞味期限つきのものなのだ。
無論、賞味期限つきと割り切った聴き方があっても良いし、とりわけ同時代の音楽であればそれもまた大切なことではあるのだろうが、同時代であれば問題意識が共有できるとは限らない。賞味期限という意味ではとうに切れて、当時の文脈を再現することが覚束ない作品が「古典」として享受されるのは音楽だけに限った話ではない。そして実際のところ、同時代性が担保するかも知れない文脈の共有の頼りなさと比べたとき、そうした「古典」が持つ力の大きさは歴然としているように感じられる。私が同時代のものを積極的に渉猟する気になれないのは、それよりも、たとえ勝手読みでも誤読でも、そこから多くのものを得られる古典が幾らでもあるからだ。個人的な事情になってしまうが、その古典にしても、歴史的なパースペクティブを己のものとするように幅広くとか、あるいは演奏史や享受史を俯瞰できるほど深く、というわけには残念ながらいかない。時間にも能力にも限界がある身であれば、自ずと選択と集中が必要となるのであって、熱心なコンサートゴーアーの方々や膨大なコレクションを作り上げる方々を羨んでみても仕方ないと思うほかない。私にはそれだけのキャパシティがないのである。
もっともマーラーの場合には、特異な楽器法も、異化効果も、それとして意図されたものではない。マーラーは自分が表現したいものを表現する手段を探していて、そうした奏法や発想に辿り着いたのだ。予め弁証法的なシェマがあり、コンセプトがあってそれ自体を目的として異化が、特殊な奏法による伝統の相対化が、騒音と楽音の境界の再設定や、ひいては美と醜の弁証法的な運動が目指されているのではない。そうしたこと自体が目的として意味を持つようになるのは、もっと後のこと、まさにマーラーを歴史的に振り返って、自分達の先行者として位置づけることのできる文脈でのことだ。
だが、それは「私の」文脈ではない。私は音楽家ではないし、そこに微妙ではあっても決して瑣末ではない転倒を感じずにはいられない。誠実さを疑うわけではなくても、そうした転倒は或る種の袋小路に行き着くのでは、それは例えばヴェーベルンの後期の音楽に対してなされた転倒と良く似た構造を持っていないか、という疑念は拭い難い。音楽家であればこの疑念自体を己の課題としてしばらくそこで立ち止まることも意義のあることであったかもしれないが、私には結局、それに時間をかけるだけの意義は見出し難いということなのだと思う。私にとっての問題は、そうした表現媒体における弁証法的な運動そのものにはない。専ら、マーラーが見出した世の成り行きと「私」との関係、世界と私との関係の方なのだ。それとて文脈からは自由ではありえない、というのが冷静な見方なのかもしれないが、寧ろ、音楽を聴くことでそのような関係の様態を同化し、我が物とすることが可能である以上、文脈の相対性を声高に主張する賢しらさは、音楽が時代を超えて持つ力に対してあまりに無頓着に思われる。それですむならマーラーの音楽など聴かなければよい。マーラー自身もきっとそう思ったであろうと、マーラーに関しては少なからぬ「文脈」についての知識を持った上で、ある程度の確信を持って言うことができる。所詮はまだ、100年程度しか経っていないのだし、決してマーラーの生きた環境と、自分の生きる環境が共役不可能なほどに隔たってしまっているとは思えない。
だからマーラーとの関係は、幾重にも屈折したものとなる。文脈を共有できていないという面と、同時代性がとっくに喪われているという点で、マーラーの音楽の弁証法的な機能は私にとって疎遠なものだ。寧ろマーラーは私にとってははじめから「古典」なのだ。私にとっては、それはその音楽の側が持っていた様々な文脈を知らずとも、反省的に演奏史や享受史に己を位置づけることをしなくても、そして後になって、最初に抱いていた思い込みや誤解に気づくことがあったとしても、それゆえに自分の奥底まで届くような聴取の質が損なわれることはないような音楽なのだ。そういう意味でマーラーの音楽は、私にとっては自分の思いや気持ちをぶつけ、自分の問題意識を突き合わせることができる「古典」、自分にとって欠かすことのできない存在なのだ。(2006.10/2007.7)
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