グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集
ヴェーベルンからみたマーラー(2002.4)
ウェーベルンのことを考える上で無視することができない存在といえば、何よりも
まずマーラーだろう。勿論、師であるシェーンベルク、友人のベルク、晩年の
ウェーベルンの声楽曲に歌詞を提供したヨーネなどもいるが、マーラーはウェーベルンが
自分の生き方のモデルと見なしていたように見える点で、特殊な位置を占めているように
思える。
それにしても、この音楽は法外だと感じる。これほどの大管弦楽を用いて、しかも
1時間半にわたって表出される内容の私的な性質は、ある種の美学からすれば到底
許すことができない放恣として映るだろう。けれども、だからといってこの音楽の
私性を中和してしまうのは誤りだと思う。この音楽の巨大さはイワン・カラマーゾフが
大審問官を語る前にアリョーシャに語った「叛逆」に通じるのではないか?
マーラーはウィーンを去った後、「私の人生は盗まれた」と語ったという。
これを独りよがりと採る人には、同時にこの音楽も独りよがりの最たるものであろう。
けれども私は、彼がそのように語るのを不当だと断罪する気にはなれない。
才能も、能力もはるかに劣る人間でさえ、そうした、成し遂げようとすることに
対する感情的な妨害(それは大抵、別の理想との対決といったものではない、
単なる無意味な、妨害のための妨害に過ぎない)や、成し遂げたことに対する
狡猾な強奪(途を切り開くことは困難だが、その後をついて歩いて拾った落穂を
我が物顔で自慢するのは容易なことだ)に遭えば悄然とするであろう。彼は
疑いなく能力があったし、理想の実現のために膝を屈し、妥協をする実際的な
判断力もあった。けれども、自分の来た途をあるとき振り返って、そうした
犠牲の対価として得たもの、自分の努力の最終的な報いを改めて確認したときに、
「私の人生は盗まれた」という述懐をするのを誰が禁じることができるだろう。
「神の衣を織る」ことに価値をおき、そしてそうすることができた人間のセルフ・
ポートレートに対して、私は到底否定的にはなれない。
バルビローリの演奏は、同じように「成し遂げることが」できる人間、そのために
努力を惜しまない(そう、能力のある人間ほど努力もするものなのだ)もう一人の
指揮者による共感に満ち溢れているように思える。その度合いを超えて
個人的にはこの演奏以外で聴いてみたかったのは、本人を除けばウェーベルンの
指揮した演奏くらいのものだ。
かつてはシューマンがそうであったように、そして初演時のマーラー自身が
(あれほどのプロフェッショナルであった彼としては例外的なことに)そうで
あったように、ウェーベルンもその資質から、この音楽の実質に打ちのめされ
溺れてしまって、(しばしば実際にそうであったと伝えられるように)この
曲の指揮を冷静にし遂げることができたかが心配になるが、けれどもそうした
音楽の内実に対する深い共感が、バルビローリが成し遂げたようなぎりぎりの
均衡を達成できた時には、類稀な感動的な演奏になっただろうと想像される。
恐らくベルクが夕食を忘れるほど熱狂したあのウェーベルン指揮のマーラーの
第3交響曲の演奏が恐らくそうであったように。(2002.4)
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