マーラーの「音楽」。一見したところそれは自明のものに見える。だが、最初の曖昧さは「の」に存するだろう。「の」の曖昧さは それ自体が更に分岐し、それらのそれぞれについて答えるためには膨大な時間を要するであろう。それでいてそれらはそれぞれ独立の ものというわけではなく、もう一度マーラーと名づけられた或る種の「場」の如きものにおいて相互に作用しあっている。例えばそうした 分岐の一つはマーラー「にとっての」音楽と、マーラー「による」音楽の対立であるだろう。さらに例えば後者の意味でのマーラー「の」音楽は だがこれも一義的なものではなく、寧ろマーラーが生きていた時代にあっては、まずもっては指揮者マーラーが指揮した音楽の 「解釈」のことであったかも知れない。マーラーが生きた時代の制約でそれを没後100年の今、直接に(だが、直接性の定義は?)知る術は 無いとしても。これはこれで単独で扱っても際限なく問題は広がっていくだろうが、ここでは直接それを扱うことはせず、 マーラー「の音楽」のもう一方との関係においてのみ間接的に後でもう一度立ち戻ることにしよう。
そのもう一方とは、こちらこそが今日一般にそう思われているマーラー「の音楽」、作曲家マーラーの書いた音楽の「作品」の方なのだが、 これまた、一体それが「どこ」にあるのかという問いに答えるのはそんなに簡単ではない。既に完成されていた記譜法のシステムと 印刷術によって複製可能となった楽譜がマーラーの音楽なのか。それとも誰かがどこかでその楽譜を用いて演奏した時の音響こそが マーラーの音楽なのか。いずれをとっても更に問いは続くだろう。楽譜には校訂の問題が付き纏うし、音響の方は、まず演奏について まわる解釈の問題があり、更にその音響に接する媒体の問題がある。コンサートホールもそうした媒体の1つだし、レコード、CD、 ラジオ放送、テレビ放送と変遷し、更にMP3ファイルのダウンロード、Webでの演奏会のライブ・ストリーミングに至るまで、様々な 媒体の差異は「音楽」と無関係ではありえない。それに加えてマーラー自身が指揮者であり、解釈して演奏する立場であったことが、 「作品」にどう関係しているのかという問いをもう一度重ねてみることもできるだろう。複製技術との関連で行けば、ベンヤミンが映画の 製作の方法の演劇との違いに注目したのと並行して、録音媒体に記録されることを前提としたスタジオ等でのセッション録音のプロセスや いわゆる「ライブ録音」と呼ばれるものにも実際には介在する録音に対する様々な編集や加工といった操作に注目すべきだろう。
他方、マーラーが生きた時代が近代的な音楽史の確立の時期にあたり、過去の音楽に対する歴史的な展望を持ちつつ、 その一方で同時代の先行する潮流としてのブラームス派とワグナー派の対立、逆に同時代の後続する潮流としてのシェーンベルクの音楽、 あるいはドビュッシーの、アイブズの音楽の中でマーラーの音楽が作曲されたという当時の時代背景に規定される「音楽」についての了解が マーラーの「音楽」を規定している側面も留意する必要があるだろう。(だが勿論、直ちにこう問うことができる。その了解とは誰にとっての それなのか。再び偶然最初の分岐であったもの、マーラー「にとって」の音楽とマーラー「による」音楽のいずれがここで問題になっているのかを 改めて問うことができるだろう。)
かくの如くマーラーの「音楽」はマーラーが生きた時代の音楽を規定する様々な制度の制約を受けたものだが、100年の時と 文化の違いを隔てて存続しているに違いない或る種の制度的な連続性が今日におけるマーラーの「音楽」を可能にしていることは 確認しておいても良かろう。コンサートホールや歌劇場での演奏と享受の形態は勿論多少の変化はあるけれど、基本的には今日と 大きく変わるわけではない。それまではドラスティックな変遷を積み重ねてきた楽器、楽器の集合体であるオーケストラという演奏形態も同様に 今日なお廃れることなく、大きな変化もなく今日用いられている。
それと同時に喪われてしまった文脈の厚みを軽視すべきではなかろう。マーラーの音楽の周囲で鳴り響いていた他の「音楽」、音楽以外の音響は 今日のそれとは異なるし、既に述べた媒体の変化も一緒に考える必要があるだろう。更にそうした条件が作曲の現場を逆に条件づけ、 制約することにも留意すべきだろう。オーケストラ作品の作り方もマーラーの時代と電子的な音響の操作の経験が浸透した今日では 同じであろう筈が無い。オーケストラやコンサートホールそのものは大きく変わっていないとはいうものの、その社会的な機能や地位は 大きく変化し、今やオーケストラという媒体がもはや補助金なしで維持ができない「文化財」となってしまっていること、いみじくも「クラシック音楽」 という呼称が物語るとおり、媒体も作品ももはや過去のものであり、意識的な維持・継承が必要なものである点も決定的な差異だろう。 「芸術音楽」と「軽音楽」の対立そのものは既にマーラーの時代にもあったとは言いながら、その内実は大きく変化し、特に伝統を有さない 日本においてマーラーの音楽の「芸術音楽」からの逸脱を身体化された経験として受け止めることは困難であることは、例えばシュニトケの 多様式主義と対比してみれば否応なく認識されるに違いない。「民謡風」であることくらいはわかり、通俗性について漠とした感覚を 持つことはできても、その陳腐さの度合いを同時代の西欧人が感じたように意識することはできない相談である。
次にやって来るのが、マーラーとは誰かという問いだ。享受の経験において、まず初めに音楽があったとするならば、マーラーを規定するのは、 実は音楽の側、マーラーの署名のある音楽の総体がマーラーを規定しているという側面があるだろう。とりわけマーラーの音楽においては人と 音楽との関係が問題になることが他の作曲家、他の作品に比べて多く、それゆえにマーラーの生涯や気質についての伝記的知識が 作品の解釈に流れ込むかと思えば、逆に音楽の側から人間像が形成され、時として事実を凌駕しかねないといった事態が生じる。 こうした事態がとりわけマーラーにおいて顕著であるとするならば、要するに「の」が含意する内実はその都度、固有名毎に定まるもの なのだという見方さえ成り立つかも知れない。マーラー固有の事情ということであれば、既述の演奏家にして作曲家という点が既にそうで、 とりわけマーラーが歌劇場の指揮者であり、またコンサートの指揮者でもあったことが作品に与えた影響については、明らかに中傷や 誹謗のニュアンスを帯びたカペルマイスタームジークであるという生前からついてまわった規定から、しばしば作品の「意味」の解釈の 根拠として用いられる様々な他の作曲家の作品の「引用」の問題に至るまで、演奏者、なかんずく指揮者であることが作曲に 与えた影響について論じられるかと思えば、社会学的・経済学的な側面から、注文によらない道楽としての作曲、シーズンオフである 夏の余暇の作曲家といった側面が取り沙汰されることにもなる。そうした「作品」の外部がマーラーの署名を持つ作品を条件づけているのは 確かなことだろう。あたかもそれを問うことが自明であるかの如き、かの「標題」についての際限のない問い、ただマーラーという名の、 マーラーの署名のある作品の周囲をうろつきまわることのみしか念頭にないかのような徘徊は、「作品」について語ると見せかけながら、 その実、作品を取り囲む文脈についての詮索に過ぎず、「音楽」の側が呼び出す文脈には無頓着に、自分こそが、そして自分のみが 「正当な」作品理解のための条件を具備した特権的な立場を僭称し、その地位を恰も「作品」そのものが認めたかの如く偽っているに過ぎない。 署名された作品は、まさに署名されることによって、投壜通信にも似て、寧ろそうした特権的な文脈なしに漂流することになった筈なのに。
ところで、複製技術によってコンサートホール以外の場所で聴くことが可能となったマーラーの音楽は、「絵画」における複製のようなものなのだろうか。 自宅のパソコンにダウンロードされたマーラーの音楽のMP3音源は、自宅の壁に貼ってある絵画の複製のようなものなのだろうか。 ラジオやテレビで中継され、あるいは記録されて後、放送される演奏会での演奏は、(アドルノがシュピーゲルのインタビューに対して答えて 言ったように)「おこぼれ」に過ぎないのだろうか。だが、もともと放送目的で演奏された場合には、一体それは何の「おこぼれ」なのだろう。 いつの日か、「ピリオド・アプローチ」として、かつて存在した「コンサートホール」を復元し、もともとそうした場所で演奏されることを想定して 書かれた音楽を「復元」する作業が行われるようになるような時代が到来するだろうか。 一方で、印刷されて比較的容易に手に入るようになったマーラーの作品の「楽譜」は、これまた所詮はマーラー自身の書いた手稿の「おこぼれ」なのか? ワープロが手書きを駆逐しないまでも、一定の割合で手書きに変わったように、ノーテーションソフトの発達で楽譜を手書きすることなく作品を書きとめ、 それをそのままインターネット経由でダウンロードできるよう公開した場合、頒布された楽譜を含むファイルは一体何の「おこぼれ」なのだろう。 署名は複製されるが、もともとのオリジナルは本当に単一性を保持しているのだろうか。複数の草稿があり、仮にどれがどれのコピーかが判明したとしても、 ではどちらが「真」の作品なのか。マーラーの場合に固有な一例を挙げれば、第6交響曲の中間楽章の順序の問題のように、事実問題の水準での 蓋然性を限りなく高めていきつつ、だが、「作品」としては事実が指示するマーラーの「意図」なるものに反した選択をなおも許容するような事態が、 あるいは唯一の決定稿を、マーラーその人が(もしかしたらある一連の予定されていたプロセスの途中で、外的な要因によって中断された可能性 だってありえるのだが、そうした事情は無視するか、あるいは最小限の配慮に限定し)この世を去ったときに遺した形態に求める発想が、 もしかしたら便宜的で実用的な事情に基づく「現実的な妥協」であったかも知れない改変の価値を履き違えたかに見える「嘆きの歌」のマーラー 協会の批判版全集における稿選択のような事態が物語るように、「真正な」唯一の作品に辿り着くことが意味を喪うケースがあること、既に 起源自体が仮構である可能性が常に存在することに留意すべきだろう。
価値論的な判断はおくとして、記譜法のシステムといい、音楽を保存する媒体のフォーマットといい、それらを用いたときそれら自体のもつ 媒体としての制限が記録する対象を歪めてしまう。だが、記譜する「手前」にマーラーの「作品」を想定するのは事後性に基づく仮構ではないのか。 マーラーは作曲家であると同時に演奏家でもあったし、それゆえ自作品の解釈者でもあった。だが時代の制約もあってマーラー自身の演奏解釈の 記録は残っていない。コンサートホールでの演奏は繰り返し行われているが、ホールの音響的な条件がマーラーの「音楽」に相応しいものであるか、 オーケストラの演奏や指揮者の解釈がマーラーの「音楽」に相応しいものであるかは別の問題であるし、理念としての理想的なマーラー演奏のための アコースティクス、規範となる解釈を想定するのは、これもまた事後性に基づく仮構であろう。演奏の現場を知り尽くしていたマーラーは、自作の 「楽譜」すら絶対視せず、その都度の音響的な条件に応じた改変を認めていた。演奏が録音されるときに技術的な制約で情報が欠落してしまうことに 対する異議申し立てと、あるホールがマーラーの作品の演奏に適さないという理由で演奏をキャンセルすることの間に本質的で飛び越えられない ギャップがあるのだろうか。勿論、程度の差はあるし、その程度の差によってあるものは許容され、あるものは拒絶されるのだが、それは結局のところ 程度の差と見做して差し支えないのではなかろうか。
ここで再び「作曲家」マーラーの「改訂」の問題の展望の下で見るならば、マーラーが自分自身をも含めた「現場の判断」に基づく改変を許容したのは、 一部のパラメータに過ぎないことにも留意は必要だろう。既述のような絶えざる改訂のプロセスは楽譜が流通した後でさえ行われており、 「改訂」とその場限りの「現場の工夫」とを見分けることも微妙なケースがあるだろうが、それでも「演奏家マーラー」と「作曲者」マーラーの区別は 多くの場合可能だろうし、初期作品の複雑な創作のプロセスの経験の後、中後期の作品においては第6交響曲の中間楽章の順序の問題を 除けば作品の構造に纏わる変更はほとんど為されなかったと言って良く、不変とは言わないまでも、比較的安定した次元があり、それが 「作品」を実質的に規定しているのを軽視することは許されない。
マーラーを巡ってはコラージュ的な作曲法、多様式主義に繋がるような 通俗的素材の利用、晩年の無調的な響き、調律されていない特殊な打楽器の多用による騒音的な音響の導入などといった側面が 強調されることが多く、勿論そうした「傾向」はマーラーにおいて少なくとも萌芽的なレベルでは確実に存在したのだろうが、そうはいっても マーラーにおいては、既成の技法として取り上げられたのでなく、唯名論的に作品の内実の要請に従っていわば生み出されたのだと いいうることに注意しよう。それらが作曲された文脈ではマーラーの作品は「音楽からの逸脱」と見做されるような効果を備えていたことも 軽視すべきではないし、マーラーの音楽の唯名論的な、その都度形作られる形式にしてからが、ややもすれば単なる無形式と見做され 批判された事情も銘記すべきだろうが、そういう意味では変わったのは周囲の文脈の方で、マーラーの「音楽」は署名され、アーカイブに 保存されることによって、タイムカプセルに入れられたもののように変化せずに私の手元に届いているのだ。しばしば過去においては 新規な効果を持ったものが、今日では陳腐化して新鮮な効果を最早持ちえなくなっているといった言われ方をするが、ことマーラーの場合に 限れば、さしあたり今のところは、後から振り返ってみれば、相変わらずかつての同じ批判と同じ擁護が繰り返されているように 回顧されるのかも知れない。今日マーラーが生きていたら、作曲した作品が今遺されているものと同じものであったとは到底考えられないが、 その一方で、時空の隔たりを超えて残ったものを、あたかも骨董品のように陳列して眺めるがごとき受容の仕方は、最早受容とも継承とも 呼べまいし、マーラーの作品を通路にして過去の文脈の方に降りていき、時代の隔たりなどまるでないかのようにそうした文脈の中に 自分が入っていくような受容の姿勢も、マーラーの「音楽」を(勿論、そうした姿勢をとる人とってはそれこそ真正な聴取姿勢と 考えているに違いない)ある予断の中に閉じ込めるばかりで、それが時空の隔たりを超える力の在り処を明らかにすることはない。
いつの日か、マーラーの「音楽」が最早コンサートホールで、人間が楽器を演奏することによって 演奏されるのではなく、楽譜から直接、(自動的とは言わないまでも)音響的に合成されて再現されるようになったとしたら、それはもうマーラーの 「音楽」ではないのだろうか。それを聴くのは(シュトックハウゼンが想像したような)宇宙人ではなく、ロボットでもなく、人間なのだとしたら。 もしかしたら、その時の聴き手は、今日の聴き手と同じ「人間」では最早ないと言うべきなのだろうか。今、あなたはマーラーの「作品」の 「楽譜」を開き、楽譜を目で追いながらあなたの頭の中で音響を仮構するとする。最早空気の振動という意味での音響は存在しない。 その時あなたの頭の中を流れるのは、それでもなお、マーラーの「音楽」なのだろうか。熱心なあなたはじきに楽譜を覚えてしまい、 楽譜なしで頭の中に音楽を思い浮かべられるとしたら、その時には?楽譜は昇ったら捨ててしまえる梯子であると言い切ってしまって いいのだろうか。
「楽譜」以前にマーラーの音楽が「あった」のではないだろう。楽譜という記録のための補助具は、マーラーの交響曲のような長大で 複雑な作品の「創造」そのものにとって不可欠なもの、単なる外部記憶の媒体ではなく、作品の成立の条件をなし、プロセスを 構成する要素であるに違いない。とりわけパートタイムの夏の余暇の作曲家であったマーラーの場合、スケッチ帳からパルティチェルに、 それからスコアにという転記・編集の作業そのものが創作にとって極めて本質的なものであったに違いない。それはまた他者への伝達のために、 別の世代への継承のためにも必要だろう。それと同様に「演奏」なしでの伝達・継承もまた、ないだろう。仮にそれがアコースティックな楽器演奏に よる現実の空気の振動による音響の記録ではなくても、完全に電子的に合成されたものであったとしても、あるいは脳の中の音響像に 過ぎなくても、そうした合成や像の形成の前提をなすものとして、いわば「原」‐オーケストラの如きものの「演奏」があるのだ。
つまり、記譜され署名されてアーカイブ化される音楽は亡霊的であり、事後的に「再現」されるしかない。「再現」とはいうものの、 最初の1回は実は存在しない。作品が媒体に定着される過程、それは少なくともマーラーの場合は作品創造の過程に他ならないのだが、 イデアルな存在としての「音楽そのもの」、天才の頭の中に閃いた霊感の産物を抹消することにより、遅れて作品として生成する。自らが演奏家で あり、演奏を重ねながら改訂を加えていったマーラーの場合には、最初の演奏すら創作の過程を終結させる特権的な時点ではありえない。 だがいずれにしても、媒体への定着、それによる複写の可能性、再現可能性によって「作品」は成立する。楽譜は作品の不完全で部分的な備忘、 解読し、解釈することによる再構が求められている不完全な代補に過ぎないが、ことマーラーの音楽作品はそのようにしか存在しえないのだ。
純粋な、如何なるメディアをも想定しない透明なマーラーの「音楽」、いわばイデアの如きものとしてのマーラーの「音楽」は、それ自体が 事後性に基づく仮構なのだ。少なくともマーラーの「音楽」に限れば、それは予め、例えばマーラーの時代に存在した(そして100年後の 現時点でも存在している)楽器群に依拠している。サンプリングされた音響の合成の前提をしないという極端な仮定の下ですら、 それらの楽器の音響上の特性についての知識なしには、現実のオーケストラを不要とする音響の合成の前提が成り立たない。 楽譜に書かれている奏法指示の記号についても同じことが言えるだろう。更に、これまたマーラーの場合を特徴づける楽譜における自然言語での 様々な指示は人間の奏者、しかも特定の音楽文化の伝統に属する人間を想定して書かれていて、そうした背景なしにそれらを 音響上の効果に変換することはできない。更に一見したところ量的な変換が可能であるかに見える強弱法やアゴーギグなどの指示も、 実際には同様に特定の音楽文化の伝統に属する人間でなければ量的なものへ適切に変換することはできないのだ。 あなたは実演で聴いた、あるいはCD等の録音媒体で聴いた様々な演奏における楽器間のバランスやダイナミクス、テンポの設定等に 違和感を感じていて、自分の理想の演奏を別に頭の中で持っているかも知れない。だが、そのイメージを、何の媒介も無く楽譜に含まれる 記号や文字のみから構成したと考えるのは誤りであり、それらはマーラーが属する音楽伝統に対する様々な知識と様々な媒体による 聴取の経験(必ずしもマーラーの「音楽」のみのそれに限定されない)の上で初めて可能になっていると考えるべきなのだ。
転記や複写や記録は(作曲者たるマーラー自身による書き誤り・写し誤りも含めて)常に不完全なものだが、 一方で(ここでは人間の脳も含めて)マテリアルな媒体を介さない「音楽」はなく、ファイルのフォーマット変換のように、 SPレコードをCDに変換するように、ある記譜法を別の表記の体系に変換するように、変換をしつつでなければ「音楽」の受容も継承もない。 マーラーの「音楽」は、「本物」がどこか特定の媒体に結びついて存在するのでも、イデアルな存在として如何なる媒体とも独立に 存在するのでもない。(2011.6.11~14)
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