グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・備忘(2)


備忘(2002--2008):その2

はじめに:このページに収められた文章は、本来公表するには適さない、ほとんど日々のメモ書きに 過ぎないものであり、それゆえその多くがエスキスに過ぎないレベルであり、論理的な流れに著しく欠け、理解に苦しむような飛躍が多く、あるいはしばしば矛盾すら見出すことができるかも知れない。 さらには、あくまでも自分の備忘のために書き溜めたそのままの形態のものがほとんどであることから、明らかに前提の説明が不足しているものも少なからず含まれるものと予想される。
ただし、書き記した内容は―その少なくとも意図の次元では、基本的に現在の見解と齟齬を来たすものはないと思うし、一見矛盾に見えるものは、とりわけマーラーのような多面的で 複雑な存在が対象である場合には、しばしばその異なった側面を眺めたものが併置された結果に過ぎない場合も多い。
従って、とりわけこの項については今後随時手を入れて整理をしていくことになるが、それは見解の変更というよりは、それぞれの文章を本来の位置に配置する作業であると考えている。 とりわけ読書をして批判的な印象を書き留めたものについては、その批判を十分に説得力のあるもの仕立てていく必要があると感じている。まあ、所詮は素人の素朴な感想なので、 このままでも問題は無いはずだが。


交響曲

Nein, die Symphonie nuss sein wie die Welt.
Sie muss alles umfassen.

世界であろうとする―すると「世界」の縁が現れる?
すべてを含もうとする―すると外部が浮かび上がる?


楽曲の長さ。マーラーの場合は、しばしばコンサートを1曲で占有する長さ。
これは実は大変に重要だ。他の曲を聴かなくていい。

長さを可能にするもの。
長大な―30分を超える持続を可能にするのは?―「大形式」への志向
繰り返し、だが全く同じではない

反復すること、しないこと、絶えざる変奏、ロマンは、心理学的な展開は型どおりの反復を嫌う
ソナタの提示部反復、そして「再現」、ロンドにおける「回帰」
同じ音型が別の意味を持つ
意味が変容することが発展、展開
変化を支えるものと同一性を支えるもの―何が変わったから意味が変わるのか?
パラメータを区別すること

新しい要素の導入?多元論?それとも「外部」の存在を示唆?

多くの音楽は、理由は様々だが「一面的」だ。
それがある理想を目指せば、音楽から現実が抜け落ちる。
世界のようにすべてを包含するというマーラーの理念は、見かけほど単純ではない。
それは対立物も中に含み、世界のとの素朴な関わりを括弧入れすることを要求する。
要するに、媒介性が露わになるのだ。
純粋な客観も純粋な主観も虚偽であるということを告げている。


交響曲は世界のようでなくてはならない。
この発言は、決して、自明でも、普通でもない。ある時代、ある場所のある文化的・社会的背景で可能になった。
だが、いずれにせよ交響曲が世界である、というのはどういうことなのか、 世界という言葉で何が言われているのか。
そのとき、主体の地位はどういったものであるのか。
そうしたことを問い直す必要はある。

世界認識について、確かに解釈学的循環はある。
だがそれよりも、音楽を聴くこと、ある世界認識を知ることが、自分の世界認識の様態に及ぼす 影響を軽視すべきでない。
ミームとしての伝播。

認知心理学的な視点は、原子的・部分的すぎて具体的な体験に辿り着けない。
ある体験の連想etc...
世界に対する態度、気分、情動etc.

「私的な交響曲」というのは、考えてみればおかしな現象だ。 だが、マーラーあたりを基準にしていると、おかしさの感覚が麻痺してしまう。 むしろ社会主義リアリズムにおける「公的な」交響曲のあり方の方が、そのありようにふさわしい。 もっとも、交響曲の前身たるシンフォニアは、そうした機能とはまた異なった 機能を持っていた。それでも、いわゆる「私性」というのが無縁であったのは 同じだと言える。それはいわゆる公共の場で上演される劇に関係するもので、 従って、基本的に「私性」とは関係がない。
考えてみれば、ロマン派の交響曲は、そういった矛盾を(ベートーヴェン以来、 ベートーヴェンのせいで)抱え込むことになったのだ。(いや、ベートーヴェンは むしろ社会主義リアリズム的な「公的」な交響曲のあり方を予告したと言えるかも知れない。 私的な側面ということであれば、むしろベルリオーズの方が適切かも知れない。 ただし、ベルリオーズの物語は、もとは私的なものであっても、充分劇化されて いるともいえ、そういう意味ではベートーヴェンの第5交響曲のような類型の方が 「私性」はまさっているといえるかも知れない。この曲と、この曲と一見したところ 対照的な第6交響曲こそ、ロマン派交響曲の規範なのだ。)

絶対音楽という理念の成立は、それと対となる標題音楽、プログラムを持つ音楽という 考え方と不可分である。だが、絶対音楽にしてからが、結局、なんらかの情緒なり 気分なりを引き起こすものである、というレベルは否定されたとは言いがたい。 純粋に音の関係や運動に関心が行くのは、もっと後のこと、西欧音楽の伝統を 否定するいわゆる実験音楽まで待たなくてはならない。トータル・セリエリスムすら、 音楽の経過においては伝統的な音楽の枠組みを踏襲している。(そういう意味では 一面では伝統的な音楽への根本的な批判である実験音楽は、純粋音楽の 極限という点では、伝統の終端に位置づけられるのかもしれない。それは 或る種の臨界点なのだ。だが、いずれにせよマーラーの場所はそこではない。)
いや、古典派の音楽だって、情緒や気分の表現だとは考えられていたし、 それも、バロック期以前のクラングレーデが縮退したものである。この点でいけば、 実験音楽のような発想と絶対音楽の理念とは根本的に異質で、音楽が何かを 表現するものである、という点自体は、絶対音楽においても否定されているわけでは ない。少なくともある種の残滓として、絶対性の剰余としての表現というのはあった。 十二音音楽を準備する無調期が、いわゆる純粋な表現性というのを獲得しようと した時期であったのは興味深い。
私的な音楽といっても、それがプログラムとして与えられればベルリオーズのような 標題交響曲になるし、プログラムがなければ、あれほど主観的な表出性を持つ マーラーの交響曲だって、絶対音楽なのである。否、純粋な表現性という点では、 絶対音楽的な度合いが強い第6交響曲のような作品こそ、最も優れているという 見方さえ成り立つだろう。


マーラーが交響曲は世界のようでなくてはならない、と言ったとき、それは完結して調和のとれた閉じた時空として 思い浮かべられていた、ということはなさそうだ。Adornoのいう全体性に回収できない仕方、というのは、 多分正しいが、だがそれは世界が私にとっての世界であること、その結果それは事実上汲み尽くし得ないこと、 私は世界に対して単純に受身でも、能動的でもないことに由来するのではないか?
IIIのような、特にIIIの1や2のような「無機物」や「植物」を「表現した」と言われる部分も、それは描写である、 とは言い切れない。マーラーの陳腐なプログラムを大切にする必要はないけれど、「XXが私に語ること」のうち 大切なのはXXが何であるかよりは、それらがすべて「私に語ること」として感じられ、企図されていることに違いない。
まるで万華鏡のようにIIIは各楽章毎に異なる時間性を持つが、その時間性―聴取によって聴き手に語られること ―を聴き取ることが必要なのであって、それをプログラムに還元するのは見当違いも甚だしい。



歌曲について

うたの問題。認知の問題として考えること。旋律なり動機なりが存在すること。旋律を分解せずに ひとつの単位として扱うこと。(分割が可能なのはいわゆるフレーズ、動機のレベルまで) 旋律を変奏し、動機を展開すること。変化させ、場所を移し、あるいは組み合わせる。
マーラーの音楽を聴けば、そうした方法がどんなに豊かであるかがわかる。
戦略的にそれを否定することはあってもいいが、だからといって、そうした方法の豊かさは否定できない。
むしろそれが、合理的で強力で、ある程度の一般性があって、わかりやすいから、あえて否定するのだ。
それを利用することに伴う、危険を理由に。

テキストは素材、勿論、選択はある。
だがテキストがよければテキス自体を検討すれば良い。
結局、音楽がすべてだ。テキストのみでも音楽のみでもない。
(テキストの選択が好みに合わない場合を考えよ。)

*

マーラーの歌曲の「場所」。
Wunderhornの客観性。眼差しが眺めているその場所はどこか?
Rueckertliederの場所。「ここ」はどこか?

場所の感覚が、はっきりと聴き取れる。
マーラーは、どうしようもなく過去の人だ。
時代も場所も異なる。
けれども、何なら生物としての、といっても良い、マーラーが 感受したクオリアが、そっくり作品の中に封じ込められているように思える。

作品は独自の世界を持つ、と言われるが、それと対比される現実だって、 作品と同じように、ある認識のモードに従って読み取られたものなのだ。
そしてマーラーの場合については、作品の世界と、個体としてのマーラーの 感受のモードの間に、そんなに大きな距離があるとも思えない。

曲を書くこともまた、世界の感受の一様式なのではないか?
少なくともそれは生の営みの一部で、抽象はできない。

ある種の懐かしさ?
かつて自分が訪れたことがある場所を再び訪れる感じ?
つまり、それは自分にとって「他所」なのだ。
マーラーは他者なのだ。

歌曲の良いところは、それが断面を切り出すことができることだ。
横の流れ、小説的な脈絡はここでは省略できる。
勿論、連作歌曲というのがあるが、それは、そうした断片を並べることで、 全体を予感させるようになっている。

Um Mitternachtのような歌曲は、その内部に時間の、経験の流れがあるが、 だがそれは、1まとまりのものだ。
横の流れ、小説的な脈絡とは、異なった場所、異なった主体、異なった時間を 結びつけて、多元的な「世界」を組織する仕方なのだ。
つまり、そこには視点の多元性が含意されている。
マーラーの「世界のようでなくてはならない」という理念は、そうした多元性への 志向であって、誇大妄想的なものではない。

多分だからこそ交響曲の中に歌曲が埋め込まれるのは自然なのだ。

マーラーの作品は些かぎこちない仕方で「Xが私に語ること」と表現されたように、 複数の声の交響する時空間を組織することが志向されている。
語るのは私ではない。これは独我論ではない。世界は私の心の、観念の裡に しかないなどどは見做されていない。私には見通せないほど複雑な脈絡が 世界に存在することを、語りかけられている私は感じている。

「Xが私に語ること」という言い回しは、作品についてはほとんど何も 語らないが、世界と「私」の関係の証言にはなっている。



後期

後期様式
眼差しのあり様。「現象から身を引き離す」というのが「Mahlerの場合は」最も適切。
しかし、人により「後期」は様々だ(cf.ショスタコーヴィチ)

Webernの晩年とMahlerの晩年のアドルノの評価の違い。いずれも「現象から身をひく」仕方の一つではないのか?
こちら(Mahler)では顕揚されるそれと、あちら(Webern)の晩年にどういう違いがあるのか?

作曲年代の確認
LE 07~?08~?:実は異説があるようだ。

LE:1については、かつては違和があった。今のほうがよくわかる。こうした感情の存在することが。
そういう意味で(多分にnegative―そうだろう?―な意味で)これは成年の、否、後期の(晩年、ではないにしても)音楽なのだ。


Mahlerに関するSchoenbergの誤り。
いわゆる第9神話にとらわれたこと。M. Kennedyの方が正しい。第10、第11交響曲を考える方が正しい。
Mahlerは本当に発展的な作曲家だった。
だから第9は行き止まり等ではない。
確かに第10は「向こう側」の音楽かも知れない(これをIXより現世的と考える方向には組しない。)
けれどもMahlerは途中で倒れたのだ。
Mahlerの死は突然だったから本当に途中で死んでしまったことになる。

Mahlerの第10交響曲こそが最も近しく感じられる。
この不思議なトポス、だけれども、これは存在する、そうした場所はあるのだ。少なくとも残された者の裡においては。
それ自体、何れ喪われるものであっても、それは存在する。全くのおしまい、無というわけではない。
それは「喪」そのものかも知れないが、喪のプロセスは残された者の裡には存在する。
Mahlerがこの曲を、特に第1楽章以降を書いたのは、不思議だ。彼は確かに危機にはあったし、己の死を意識してはいただろうが。
でも死に接していたわけではない。
この曲の、少なくともAdagioに、早くから惹きつけられた。
Mahlerについて書く中で引用したのは、まさにこの曲だった。
他ならぬこの曲だった。

それを子供時代に聴くというのはどういう事だったのか?
否、「現象から身を引き離す」ことは、いつだって可能だ。
ただし有限性の意識はあっても、クオリアは異なる。
かつての宇宙論的な絶望と、今の生物学的な絶望との間には深い淵が存在する。

回想という位相。(かつての)新しさの経験。異化の運命。後期様式による乗り越え。
風景の在り処。現実感は希薄。回想裡にある。かつて現実だった?「だったはずの」?

確かにマーラーは何か違う。
consolationなのか、カタルシスなのか。Courage to Beという言い方に相応しい。
それを「神を信じている」という一言で済ませるのは何の説明にもなっていない。
その「肯定性」―それはショスタコーヴィチとも異なるし、例えばPetterssonとも異なる― について明らかにすべきだ。
救済はVIIIにのみしかない訳ではないだろう。マーラーは「約束で」長調の終結を選んだわけではない。
強いられたわけでもない。
とりわけXの終結が、それを強烈に証言する。
一体何故、このような肯定が可能なのか―マイヤーの言うとおり、これは「狭義」の信仰の問題ではない筈だ。
懐疑と肯定と。

Adornoのベートーヴェンの後期様式についてのコメントをマーラーの後期様式と対比させること。
案に相違してベートーヴェンの閉塞と解体に対して、マーラーは異なった可能性を示したのかも知れない。
Adornoのことばは、その消息についてははっきりと語らない。
一見したところ、両者の身振りは極めて近いものがある。
だが、並行は最後まで続くのか?
寧ろ―一見したところ厭世的に受け取られることの多いマーラーの方が「他者のいない」ベートーヴェンよりも、 異なった可能性に対して開かれていたのでは、という想定は成り立つ。→Greeneの立場とも対比できるだろう。

Holbrook
Adornoのles moments musicauxの邦訳のうち、ベートーヴェンの後期様式やミサ・ソレムニスについてはマーラーのLE, IX, XそしてVIIIと対照させつつ検討する。

Holbrookと大谷の「喪の仕事」(LEに関して)を組み合わせて考える。
個人的なLE―9番における普遍化というのは成立するのだろうか?

ところで、Holbrookの「結論」(p.213)はどうか?
多分正しいのだろうか―これは私の求めている答ではない。 では答はどこにあるのか? そもそもマーラーにあるのか? 勝手読みは(マイヤーの心配とは別に)必ず無理が来る 「感じ」が抵抗し、裏切るのだ。 頭で作り上げた「説明」は、どこかで対象からそれてゆく。 一見、ディレッタンティズムに見える―衝動に支えられた―探求の方が、より対象に踏み込めるに違いない。

あるいは、「実感」が追いつかない―忘れてしまった―否、そんなことはない。 まだ「わかっていない」だけかも知れない。 ここに「何かがある」のは確かなことだ。 自分が求めているものとぴったり同じではない可能性も否定できないにせよ自分にとって限りなく 重要な何かあがあるのは確かだ。


初期

嘆きの歌、馴染みの無さにも関わらず、自然さ。様式の問題。個性の確立?作品1? 「らしさ」が、パラメータが固有の特徴を示すアトラクタを形成しつつあるということか?

*嘆きの歌:バラード詩形について~Villon etc.の詩形とは無関係

・物語が読み込まれる、語り手は第三者
・登場人物の性格や独白よりも、動作や会話が強調される
・押韻、構文は単純
・反復句(リピート、ルフラン)が使われ、民謡や伝統音楽に近い。
・歌われる旋律は調的というよりは旋法的
・基本的に口承文化である。そのため作者不詳であり、時代ごとや伝播した地域ごとに寓話の内容や旋律に違いが生じる
・テーマは口頭によっては示されない
・事実や史実に基づく例も少なくない
・詩の結びに倫理的なオチがつくことがある。

だが、マーラーはこれを自分で書いたのだ。口承文化のパスティッシュ。「子供の魔法の角笛」が民謡のパスティッシュ同然であるように。
マーラーにパスティッシュという意識があったかどうかより、このような形態を借りて語ろうとする衝動の在りようの方が気になる。
「さすらう若者の歌」もまた、マーラー自身による(「子供の魔法の角笛」の引用・再編集作業を含む)民謡のパスティッシュだ。
例えば万葉調の長歌「もどき」を作る中学生がいた。彼はなぜ、万葉集の形式などを持ち出したのか? どのような衝動に基づいて?

第1交響曲
若書き。けれども違う。何が?(cf. Franz Schmidt)
ある種の痛み?
痛みも含めて、Jugentzeitにこの曲の感情を共有したもののみが、後年、 アドルノのいう後期作品の眼差しをもって、この曲をまた、回顧的に聴くことができる。

IとIIの1は近い。
また若者は角笛の世界に属するともいえる。
従って、I,II,III,IVで一まとめというBekkerの見解はおかしくはない。
強いて切れ目を探すなら、IIの1と2の間の休憩がその切れ目だ。IVはAppendix的だ。
I,II,IIIで「情熱の」3部作というマーラー自身のコメント(フランクリンp.121)
フランクリンの訳は時折訳し直したほうが良いと思える程ひどい。


テマティスム

伝記主義―作曲家
手紙、回想、ドキュメント
評伝
音楽的影響関係
文化的・思想的背景
環境や社会状況との関係
音楽活動と地域・都市
ユダヤ人問題
世紀末ウィーンの文化的状況
ボヘミアの民俗音楽
指揮者としての活動

引用、コラージュ、空間性、通俗性
自己引用に限定した引用集―典拠も?―楽章間の相互関係も含めて→楽章間と他の曲。組曲構成、サイクルの問題。作品という境界。
歌詞と音楽の関係、標題性、精神分析、病跡学
社会学的解釈

アドルノ 近代批判
作品内在的な議論

楽曲分析・フィナーレ論(崩壊の論理―Sponhauer)
Klangflaeche(音面)―AdornoのSuspension

交響曲と歌曲
標題性
歌詞の使用法(改変)
編曲・改作

各論

KL 森のメルヒェンのカットの問題
I ブルミーメ問題
II totenfeier 歌曲の問題
III 進化論、自然哲学
IV 第4楽章の「意図」
V ヴェニスに死す
VI 楽章順序の問題
VII フィナーレ問題
VIII 代表作問題
LE 東洋的諦観の問題、歌曲か交響曲か?
IX 楽章構成の問題 Courage to Be
X 成立史、クックの補作



組曲形式

何故IX2-3に居心地の悪さを感じるか? それは、「そういう音楽」だからだ! でも1,4と2,3のバランスの悪さは? いくつかの曲をつなげるという曲の構成法(組曲形式)の問題。 内部の小説的な脈絡と、曲同士の接続の分裂。 Webernはそれのうち特に前半を、Sibeliusと(多分)Petterssonは後者を問題にした。 Webernは叙事的な広がりを拒否したため、内部の構造の支えを喪った。SibeliusやPetterssonは 単一楽章形式に行き着いた。(恐らくある意味では晩年のショスタコーヴィチも。) Mahlerなら大地の歌はそれに成功している。恐らくIXよりも。

楽章配置、組曲的な構成と「ロマン」(必ずしも対立しない、カフカの審判の例を考えよ) ここでも連作歌曲と交響曲を同時に捉えること。 ミッチェル的な生成史も併せて問題にすること。

楽章数の任意性(III,IV,Iの改訂, KL, LFG)
楽章配置の任意性(V,VI,III)
作曲の順序(IIのケースとVIIのケース)
Teilの導入(III,V,VIII,IもIIも)
楽章の一部が歌曲として独立(III,IV,II)
楽章の一部が交響詩として独立(II)

マーラー:過去と歴史的(?)未来(己のものではない)。未来が非人称
ショスタコーヴィチ:歴史的過去と未来(到来するものとしての)。過去が非人称

アドルノの誤り、第10交響曲の「ゴング」と消防隊に関して。 ただしプルガトリオを閉じるゴングは、この世の営みや魚に説教するパドヴァの聖アントニウスに基づく第2交響曲同様、 死後の世界への到着を告げるものではあるだろうから、それ自体は正しい。誤っているのは消防隊の連想と、事実関係の誤認だけだ。

Tam-tam X-3(?), II-3, 大地の歌の告別?
越境?

X-3 ザンデルリンク版、最終音でゴングが鳴る。II-3との対比はこの版では間違いではない。


変形の技法

Variante-オリジナルはどれか?主題は最後にあるいは回顧的にのみそれを知りうる。
cf.原詩の扱い。原詩の改変とVariante技法との類比。

時間の流れの形成。Varianteによる主題の変容による流れの形成。
closure finale問題、エネルギー最小、カデンツにおける安定(解決)
だがclimaxでの終了は、エネルギーの最小化からすると「もともと」無理がある。
→XIIIを最後に、finale問題は消失。
ersterbend/morendoによる終了は、エネルギー最小の点からは、最も適切なclosureとなる。
マーラーはもはやfinaleの問題を解決しない。
LEの付加6の和音は?

変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではない
同じモティーフの


対位法

対位法、アドルノの指摘。対位法的発想と、伝統的な図式からの乖離。例えばフーガ。
ただし動機・旋律の拡大・縮小はある。つまり声部間の「模倣」の問題?
主題間の対比が弱まる代わりに、声部間の解離が大きくなる。(解離についてのアドルノの指摘を参照せよ。)


調性配置

Adornoのdur-mollの交代
dur-mollは、倍音列からすればもともと対称ではない。
下降転調と上昇転調。調配置の力学。

KL-6 a-a
I-VII 5(4)-5 D-C
II-VIII 5(2)-2 (c)Es-Es
III-LE 6-6 (d)D-a(C)
IV-IX G-D(Des)
V-X (cis)D-fis(Fis)


2.Darstellungsmittel bei Mahler ist die Tonalitaet insgesamt, und vorab der Dur-Moll-Dualismus, ...(p.175邦訳p.36)

3.seine Harmonik ist makrologisch. Rueckungen werden vor unmerklich - glatte Modulationen bevorzugt.
Die Idee makrologischer Harmonik wirkt bis in die Anlage ganzer Symphonien hinein. (p.176 邦訳p.37)

従って各交響曲の各楽章間の調的配置を考えることには意味がある。

*

構造―調性配置の「解説」―例えば、発展的調性―これは怪しいのでは?
例えばV, 3部でシンメトリーを見るか、序曲つきの4楽章ソナタと見るか、マーラー自身も分裂している。
2楽章が冒頭楽章なのだ、というのも正しいし、3部構成とした直観も正しいのだろう。
聴くとどうなのか?序(1)-2345とはやはり聴こえない?多分3部構成の方が優位だ。


長調=短調の間の揺れ、ユダヤ性との関係(cf.ショスタコーヴィチ)


調的配置、フレーズのclosure
モノフォニックかマーラー特有の層的技法か?
それとも、いわゆる対位法か?―マーラーの場合対位法は、
①ヨーデル風のうたい重ねに近づく(LEetc.)
②層的に動機がちらばる―背景の遠近法(III-3)
③かけ離れた二声の解離(IX-4の副主題)
④①に近い、二声の受け渡し―片方だけみるとclosureが曖昧(III-6 etc.)

いくつかのパターンに分かれる。
Greeneは言及しないが、Adornoのdurchbruch/Suspension/Erfuellungは認知心理的に読める (内在主義的楽曲分析への応用とも多少異なる。)

・発展的調性の問題(Dika Newlin)
これはGreeneでも他所でもいつも問題になる。



メモ


VIII Kuehn,Quander p.290~第2部についてのStephanのコメント
スコアの前書き(F.S.)
Mitchell―特に第2部歌詞
Silberman p.208
歌曲集~Silberman 詞に曲をつける、曲に合わせて詞を嵌め込む

*Es sungen drei Engel einen suessen Gesangの管弦楽版について

歌曲における調性:移調が容易に行われうる。元の調性は明らかなのか?管弦楽伴奏とピアノ伴奏。

VIの問題(特にAndante)-KindertotenliederあるいはRuckertliederの位相と同期?
VIIのNachtmusikの問題(こちらはWunderhorn)

最初の構想では「文脈」が付随する。改訂はそれを取り除く方向に働く。一般論としては多分そう。

完成判断の問題―初演の持つ意味

*Walterへの手紙―Keuhn & Quander p.206にある
1909/12 totenfeierからの引用に絡めて金子1 p.72にも引用されている
全体としてこの手紙の内容は興味深い。芸術家の二重生活についての文章。
cf. 第1交響曲フィナーレについてのgm自身の解説(Bauer-Lechnerへ?)
すべて典拠を書き留めないと、どこで書いたかわからなくなる!
(村井 p.195-6, バウアーレヒナー p.87)

何故IX2-3に居心地の悪さを感じるか? それは、「そういう音楽」だからだ! でも1,4と2,3のバランスの悪さは? いくつかの曲をつなげるという曲の構成法(組曲形式)の問題。 内部の小説的な脈絡と、曲同士の接続の分裂。 Webernはそれのうち特に前半を、Sibeliusと(多分)Petterssonは後者を問題にした。 Webernは叙事的な広がりを拒否したため、内部の構造の支えを喪った。SibeliusやPetterssonは 単一楽章形式に行き着いた。(恐らくある意味では晩年のdschも。) Mahlerなら大地の歌はそれに成功している。恐らくIXよりも。

楽章配置、組曲的な構成と「ロマン」(必ずしも対立しない、カフカの審判の例を考えよ) ここでも連作歌曲と交響曲を同時に捉えること。 ミッチェル的な生成史も併せて問題にすること。

楽章数の任意性(III,IV,Iの改訂, KL, LFG)
楽章配置の任意性(V,VI,III)
作曲の順序(IIのケースとVIIのケース)
Teilの導入(III,V,VIII,IもIIも)
楽章の一部が歌曲として独立(III,IV,II)
楽章の一部が交響詩として独立(II)

gm:過去と歴史的(?)未来(己のものではない)。未来が非人称
dsch:歴史的過去と未来(到来するものとしての)。過去が非人称


アドルノの誤り、第10交響曲の「ゴング」と消防隊に関して。 ただしプルガトリオを閉じるゴングは、この世の営みや魚に説教するパドヴァの聖アントニウスに基づく第2交響曲同様、 死後の世界への到着を告げるものではあるだろうから、それ自体は正しい。誤っているのは消防隊の連想と、事実関係の誤認だけだ。

Tam-tam X-3(?), II-3, 大地の歌の告別?
越境?

X-3 ザンデルリンク版、最終音でゴングが鳴る。II-3との対比はこの版では間違いではない。



個別性
--
Mitchell 1 1958/1980(rev.)
2 1975
3 1985
de La Grange 1 1973 (English ver.)/1979 (rev.)
2 1983
3 1984
Floros 1 1977
2 1977
3 1985

Blaukopfが30年かかったと言っている。(1969だから、startは1939頃?) その間に「筆者のマーラーへの愛にも起伏がなかったわけではない。 マーラーの音楽に背を向けた時期もあった。しかしこうして得られた距離― 一部はマーラーを誤解したこと、一部は自分の傾向に変化が生じたことによるのだが― は結果的に有益だった」と述べている。

まさにそうでなくてはならない。 1914年生まれのBlaukopfだから1939だと25歳のとき。 1969の出版は55歳のときだ。

Mitchellはもう50年近く、de La Grangeもまだ改訂を続けている。 時間をかければ良いというものではなくても、時間をかけることに何某かの意味はあるだろう。


交響曲の区分問題

Adornoが形式面からの分析によってその構造が小説(ロマン)に似ているという結論を引き出したのは 興味深い。Greeneさらには恐らくHopkinsの様な認知的分析と小説形式はどう関係する←構築的なもの、ソナタ形式
近藤のジェスチャーとしての音楽という指摘も考慮のこと。

散文であって、韻文にあらず。

LE 個人的/客観性→relativity(genre)
gm VIII⇔dsch XIV⇔gmLE⇔dsch X

sinfonie⇔lieder


Suspension/cesure
I-1?, III-1のsecion間
IV-1の「夢のオカリナ」
V-2の対主題提示
VI-1のSuspension(Cow-bell)
VII-2の展開部2
IX-1の提示部末尾

temporality flowの停止、方向感の喪失?
--
見出されるものとしての因果性―通常の意識は充分主体的ではない。
後からその様に自己表象する。
→Greeneの主張する そうであると思っている/実際にそうなっている の対立
説明の原理としての←(この場合は)楽曲の構成原理、実装の原理としての



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(2007年6月作成)