グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・備忘(3)
備忘(2002--2008):その3
はじめに:このページに収められた文章は、本来公表するには適さない、ほとんど日々のメモ書きに
過ぎないものであり、それゆえその多くがエスキスに過ぎないレベルであり、論理的な流れに著しく欠け、理解に苦しむような飛躍が多く、あるいはしばしば矛盾すら見出すことができるかも知れない。
さらには、あくまでも自分の備忘のために書き溜めたそのままの形態のものがほとんどであることから、明らかに前提の説明が不足しているものも少なからず含まれるものと予想される。
ただし、書き記した内容は―その少なくとも意図の次元では、基本的に現在の見解と齟齬を来たすものはないと思うし、一見矛盾に見えるものは、とりわけマーラーのような多面的で
複雑な存在が対象である場合には、しばしばその異なった側面を眺めたものが併置された結果に過ぎない場合も多い。
従って、とりわけこの項については今後随時手を入れて整理をしていくことになるが、それは見解の変更というよりは、それぞれの文章を本来の位置に配置する作業であると考えている。
とりわけ読書をして批判的な印象を書き留めたものについては、その批判を十分に説得力のあるもの仕立てていく必要があると感じている。まあ、所詮は素人の素朴な感想なので、
このままでも問題は無いはずだが。
時間性
マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、
それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。
(例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。)
音楽の研究者が「日常の時間」というとき、あまりに物象化されすぎた時間表象にとらわれすぎている。
―これは現象学が見出した領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との
区別は必要で、後者は自明でない。少なくともSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことに
あるのだから。例えば椎名の分析もそうだ。還元を持ち出す必要などない。音楽的経験の時間は日常的なそれと
異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については―Greeneの
transfigured同様―慎重であるべきだ。
勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに―
こちらでは真木悠介、木村敏、九鬼そして道元だ―様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に
貢献するとは思えない。
Greeneにせよ、椎名にせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために
利用しているのでは、という疑いを否定することは困難だ。
日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は
一体どういった扱いを受けるのか、日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに
特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることがあたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。
もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。
そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。
ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた
表象であることだ。
だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。
もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険。これは「時間性」を扱うといったときに
用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析を見よ。
一方で椎名の方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っている
ロマン主義の音楽、例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉で片付けてしまうのは、些か不当に
感じられる。意地悪な見方をすれば、実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ)
より単純で分析しやすい、それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。
実際のところどうなのかはわからない。なぜなら椎名の議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから。
Greeneの分析の結果の貧しさは、マーラーの音楽の時間性の貧しさではない。それは分析の手段の貧しさに過ぎない。
椎名の近代音楽の時間性についての議論がそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。
音楽記号学が(少なくとも、私が関心を持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについては
あまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽
についてどうなのだろうか。些か腑に落ちないものがある。
あるいは、近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の
貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここで
マーラーという近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。
実験音楽が切り開く時間性が、日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか?
一方で、マーラーの音楽の時間性が、ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、
「日常的時間と切り離された閉じたもの」ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の
方が日常的な時間性に対して閉じていると言えないのはどうしてなのか、、、
否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、
その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて
流通している点で何ら変わるところはないというのに。著者はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、
残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には実験音楽のありがたみはわかることはなさそうだ。
まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、
「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。
日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは
不十分だろう。演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の
議論をしなければ片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを
考えれば不十分なはずだ。(風呂敷を広げたのは論者の方であって、読み手の私ではないので、読み手の
私はすっかり戸惑うことになる。)否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論で
あり続けることができるだろうか。
*
音楽的時間論というのは一見したところ魅力的な領域に見えるが、そこでの議論のいい加減さにはうんざりする。
フッサールを、ベルクソンを持ち出して、音楽の時間はそれとは違います、というのが一体何の説明になっているのか?
音楽的時間論を具体的な音楽に適用して成功した例というのがあるのだろうか?(Greeneのような、その実何の時間論
にもなっていないような空疎なものは除外する。)いい加減な2項対立をでっち上げて、一方を非本来的だ、と批判して、
果ては、色々な哲学者の時間についての議論の摘み食い、というのがお定まりのコースのようだ。
これでは時間を直接扱わない心理学的な議論の方がまだしもだ。恐らくそうなのだろう。時間そのものを扱うのが
恐ろしく難しいのは、専門的な哲学的な訓練を受けた人間なら、身に沁みてわかっていることだろう。
結局、具体的な何かを手がかりにせずに時間を論じることはできない。にも関わらず、音楽学者というのは、自分だけは
特権的にそれができると思っているらしい。だったら、哲学者の分析を摘み食いせずに、自前でやればいいのに。
個別の音楽という具体的な検証対象を持っているのに、そのくせ具体的な分析はやらない。(いわゆる楽曲分析ではなく、
時間論的な音楽の個別分析というのが問題なのだ。もし普通の楽曲分析で済むなら、わざわざ哲学者を連れ出す
必要も、ことさら音楽の時間論をぶつ必要もないだろう。―Greeneの場合がまさにそうなってしまっているように見受けられるが)
だからたいていの場合には気の利いた比喩程度にしかなっていない。
そもそも哲学的な時間論は、私が多少はそれに関わった経験からすれば、具体的な適用において検証されない限り、
信用してはならない、とさえ考えるべきだと思われる。それを思えば、哲学的な時間論を、その時間論が論じられた
本来の狙いや意図もお構いなしに音楽という対象に引き込んで、しかも自分でも哲学者に劣らないほど抽象的なレベルでの
時間論を展開してしまう音楽学者の態度には全くもって感心してしまう。
(一部の哲学者がその思想との連関が全く明らかでない数学(もどき)を濫用した廉で、「知の欺瞞」という著作で
批難されたことは記憶に新しいが、音楽学者が時間論を展開する上で哲学に対してとっている態度の方は、批難されることは無いようだ。
連関は全く明らかではないし、哲学もどきである可能性だってあるような気がするのだが、、、まあ外部から見れば、
どちらも怪しげな学問(もどき)に過ぎず、とりわけ哲学者は自業自得だということにされてしまうのだろうが、とりわけ
いわば「踏み台」にされた一部の個別の哲学者にとってみれば、気の毒な話ではある。)
しかも、音楽的時間論においては作品の価値というのがどのように考えられているのかもわからない。時間論的に興味深い
構造を持つ音楽が「優れた」音楽なのか(だとしたらこれは美学と共犯関係にある)、あるいは無関係なのか(こちらは心理学に
接近するだろうか)、あるタイプの音楽を取り出すとき、その音楽の価値と、そこで議論されている時間性との関係は
全く明らかではないはずだ(少なくともベルクソンやフッサールにおいては、それは音楽の価値とは無関係だったはずだし、
そもそも彼らは「音楽的」時間を解明するために音楽の時間的な分析をしたわけではないだろう)。
だが、私にとって自明でないこうした溝は音楽学者にとっては自明のことらしい。あるいは断りも無く、いつの間にか、
ある時間性を体現している音楽が顕揚されてみたりして、読み手はあっけにとられることになるのである。
勿論、こうしたことはすべて、具体的な楽曲についての時間論的分析(とやら)を提示してもらえば済むのである。
実験音楽でもロマン主義の音楽でも何でもいいが、それらにおける凡庸な作品と優れた作品の違いは何か。それが
時間論的な議論とどう関係する(あるいは無関係なの)か。そうしてみれば貴重な筈のGreeneの分析は、しかし、
この観点からはほとんど何も得るものがない。結局のところ、それは分析ではなく、自分の貧困な(自称)時間論的図式の
マーラーの音楽への押し付けに過ぎないから。具体的な分析と、時間論的な議論は結局噛み合っていないようにしか見えない。
*
にも関わらず、具体的な場面についていえば音楽は時間論的な装置の適用可能性を試すための格好の材料になっているのは
確かなことのように思われる。(向きが逆になっていることに注意。寧ろ哲学的な概念装置の方が検証される仮説なのだ。)
例えばマーラーの作品における「決定的な瞬間」について考えてみること。
恐らくAdornoの聴取の類型論からすれば、こうした瞬間に拘泥する聴き方は軽蔑の対象になるのだろう。
だけれども、そうした瞬間があることは、Adornoですら否定できなかったに違いない。
勿論その瞬間の「質」を決定するのは、全体の脈絡であり、作品の構造的な全体の形態なのだ。
そもそもAdornoその人の「突破」もまた、そうした特異点を言い当てようとする類概念に違いない。
あるいはまた、XIIIの児童合唱の「ぞっとする」瞬間、、、
例えばIV-3のあの中間部分。
IX-4の弦による歌のフレーズの閉じる部分(その後はいわゆる「充足」にあたる後楽節だ。)
III-6の最後の変奏の回帰部分(コルネットで主題を弱音で吹かせる部分。)
「決定的な瞬間」を決定的たらしめている要因は何なのかを考えることは意味のないことではないだろう。
あるいは「時間の逆流」(ここではホワイトヘッドのエポック時間論のある解釈で見られるそれのこと。)
時間の逆流が見られるのはMahlerの際立った特徴である。他にはちょっと思いつかない。
II-5, III-6 LE-6 IX-1,4 否VIII-2すらそうした「恐るべき」瞬間を持つゆえにかけがえがない。
「構築する」「編む」というメタファー。
音楽的時間の流れ、経過は、その目的論的性格(とその否定)は、少なくとも、メタファーとして機能しうる。
IX-4のおける死、解体、停止。
Adorno的なDurchbruch / Suspension / Eefuellungは時間論的であると同時にほとんど心理学的な図式だ。
「心理的」音楽外事象とのアナロジー。
意識
意識のようなちっぽけで不完全なものに、祈り、語りかける相手、見守り、道を示す
存在があるだろうか?
ヴォルテールが主張した必要性ではない。(必要などうかでいけば、それは
「主観的には」必要なのだ。だが、視点を替えて、それだけのことをする価値が
意識の側にあるのかを問えば、その必要性は途端に怪しくなる。)
統計的な蓋然性でも多分ない。(その線ではかなり絶望的だろう。)
だが、そうした存在を否定することもできない。実際に意識は時に祈り、語りかける。
だから、それは存在しているのだ。少なくとも「主観的」には。
そして、主観的に慎ましく存在するそうした領域を否定することはできないだろう。
ショスタコーヴィチに、Xenakisに、彼らの姿勢に全く共感しながら、けれども、
FranckやMahler, Webernにある何かに対して否定しきれないのは、そのためだ。
それを非合理だとか、弱さのゆえに否定することは多分できない。
なぜなら、それは存在しているからだ。それが思いなしであり、客観的には無で
あったとしても。
意識というのはそうしたものなのだ。厄介な存在。
有限性の意識というのが存在する。
超越の拒否、天上的なものの拒否もまた。
アドルノの「地球」としての大地、天文学的な相対化、地動説、郊外としての地球すら不徹底?
永遠に回帰するもの、より大きな秩序としての大地もある(cf. ヘルダリンの後期断片)が、
有限性の意識は、そうした秩序に対する絶望でもある(cf. ショスタコーヴィチ)。
ショーペンハウアーの盲目の意志の現代版としての利己的な遺伝子?
大地の歌=irdische Leben?
それゆえMahlerは両義的だが、でも喪失の同調のみではないだろう。
甘美さはしばしばそれに近づくが、Mahlerは夢見ることによってであれ、抵抗のあり方を示している。
~例えばVIにしてもIXにしても、力に満ちた「前向き」の音楽であって、それは敗北主義的ではない。
喪というのも生の一部だ。けれども生きている以上は立ち止まり続けることは出来ない。
だとすれば、、、
マーラーのIIを本当に久しぶりに聴く。
この曲が或る種の「憧れ」をもった音楽であることは良く分かる。
たとえ多くの場合に最早ついて行けなくとも、この曲の持つ「真実」を否定することはできない。
よみがえりも、文字通りには私は信じていない。
信じていないものに感動できるという事こそ、音楽の持つ危うさではないか?
ただし、よみがえりを信じていなくても、全くの無だとは思っていない部分がどこかにあって、マーラーの音楽はその「再会」のtoposの音楽であるように感じられる。
IIもそう、III-6, IXもそう、Xもそう、大地の歌の6もそうだ。Kindertotenliederの終曲もまた。
いつかまた、会うこともあるのでは、という、あてのない、根拠の無い空想に、マーラーの音楽は響きあう。
それは不滅性とも違うかも知れない。本当に「子供達はちょっと出かけただけだ」
自己の経験に照らしても?
マーラーの音楽の不思議さ。マーラーも懐疑に苦しんだに違いない。なのにどうしてこのような音調を持つ曲が書けるのか?
あるいは懐疑に苦しんでいるからこそ、なのか?
ショスタコーヴィチでなくとも、Sibeliusでさえ、もっと無神論的で理性的だ。
あるいはXenakisのあの不思議なためらい。彼の言っていることは矛盾している。パルメニデス的存在を肯定し、同時に不滅性を否定する。
それは人間の有限性と「存在」―あのためらいはこの2つの間に調停できないものがあることにXenakisが気付いたからではないか?
いずれにせよ、II-5を聴いた、あの不思議な印象は、これまでにない様なものだった。
大地の歌やXならともかく、IIでこのような印象を抱くとは思っていなかったのだろう。マーラーの一貫性の証でもあるだろう。
私の中にはマーラーと異なる気質がある。それでいて私は、私の一部はマーラーの音楽でできている。だからなのか?
おお信じよ、と音楽が語りかける、その音楽に感動し、信じてしまうのであれば、これは自己中毒的な悪循環ではないのか?
無駄に苦しんだのではない?生きるために死ぬ?
記憶も、物質も、喪われる。
だが、しかし、、、
マーラーは何かを見たのではないか?
まだ私は全否定できないでいる。
意識の音楽、自我の音楽
意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。
だが、意識の「何を」解けばよい。
音楽は無力。だが、信仰もまた。
それは「私」しか救えない。
音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。
作ること、演じることは、役に立つ。
だが、聴取は他人には働きかけない。
それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。
信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。
だが、二人称の問題に対しては無力だ。
無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。
委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの
違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが
あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の
問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度が
なくても、存在するし、意識することができる。
意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。
二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。
ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで
扱わなくてはならない。
ベクトル場としての音楽。
運動(行為)が新たな場を引き起こす。
意識の音楽、自我の音楽を定式化すること。
マーラーの場合、多くの場合には常に自意識が働いている、目覚めている。だが、いつもではない。
単なる気分や情緒でなない、メタレベルの自己言及性が表現されている。
→皮肉、韜晦、二重言語、パロディが成立するレベルがある。これは文化的な方向付けの上での
解釈とは別次元で保証されている。そういったレベルは実在する。
可能世界意味論。
音と主体
主体とは、結局(自)意識のこと。自覚的システムのこと。
実験音楽が音を問題にするとき、そこでは(自)意識は問題になっていない。
ある抽象的な状態が問題。抽象的形式的な枠のみ与える。
そこから自意識への作用は聴き手にまかされている。表現の断念、拒否。
ある構えの呼び起こし―知覚
を考えたとき、その呼び起こしの中に、自己言及的なレベルを含むか
記憶の問題?
ある相互作用自体の呼び起こし?
津田一郎「複雑系脳理論」p.84のスマリヤンによる推論者の階層的定義に従って、意識の現われるレベルを位置づける。
0.命題なりパターンなりの呼び起こし
1.命題だけでなく、命題に対する志向的態度も呼び起こされること
/1a..志向的態度のみが呼び起こされること
2.命題に対する志向的態度に関する認識も呼び起こされること
2a.志向的態度に対する認知が呼び起こされること
シミュレーション能力:自覚的システム=自意識
*
意識と音楽、結局アドルノ風の観相学は有効。
ただしその社会批判的な側面は制限してよい。
観相学においても、作品にあらわれたものとしての(つまり結果としての)意識の現われについて語り得る音楽は
限定される。マーラー/ショスタコーヴィチ
それは世界に対する反応の、しかも反省を含めた(高度な推論者を含めた)記述でなくてはならない。
単なる情動、反応でないような認識の構え
屈折か、外性の意識が必要。
外と主体との「調停」ができていない方が関係の様相ははっきりする。
破綻の瞬間―アフォーダンス、存在の開け
倫理的次元の彼方、、、。
死についての意識。
外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。
そのように思われるのは、何によるのか?統一性、素材の節約の度合い。
コヒーレンスのようなもの
世界のあらわれの度合い?
主観の受動性?
可能世界。夢や空想、幻想、神秘的で非日常的な経験。
こうだった、こうでありえたかも知れない、という記憶や予期に彩られた現在。
そして、音自体ではなく、音を触媒に音以外の事象についての地平を、
フレームを浮かび上がらせる音楽は、やはりかけがえのない豊かさを持っている。
音楽が役に立つか、を問うならば、それもまた効果の一つであり、豊かな方が良い。
もちろん、抽象的な音の運動を浮かび上がらせる姿勢も一つの態度ではある。
だが、役に立つかを問題にしたとき、それは、結局のところ認知実験ではないのだから、
文字通り、「世界が限られている。」
Sartreの自我の超越―構成するものでなく、されるものとしてのEgo
物理学的描像―自我の構成についての説明というのは、まああり得るかもしれないのだが、
自我の構成する働きが消える訳ではない。
自我は構成されるものであり、かつ構成する機能を持っている。その間には二者択一はない。
そもそも矛盾などないからだ。
自我をinertなもの、クオリアの様なものとして還元するのは、自我を専ら機能的なものと考え、
自己感というクオリアを消去するのと同じにように間違っている。
幻想 幻想の否定もそれが主観の展望なり信念である限りは幻想に過ぎない。
救いもその否定も、主観の思いなしに過ぎない。志向的スタンスの問題に過ぎない。
ショスタコーヴィチが間違っているのではないが、より正しいという訳でもない。
だが、ミームの存続は?作品は?主体と異なる他者としての作品の存続は?
物語 幻想ということは結局は物語、fictionであるということ
1.どういう物語なのか?他者との関係は?物語の共有?交換?作品としての物語の存続、ミームとしての伝承
2.経験の質、クオリアによる計測、迫「真」性という測度の導入?
意味や価値を見出せない、という状態も、主体の状態の一つに過ぎない
それは何か特定の価値を信じる盲目を嗤うかも知れないが、だが特権的な位置に居るわけではない。
自分の背中を見ることができない、という点では同じなのだ。
何事も相対化してしまい、肯定的な価値を置いていたものの裏面に否定的な契機を嗅ぎ付ける態度は
批判的といえば聞こえはいいが破壊的だ。
そうした傾向は、主体が覗き込めない主体を支える無意識の、下意識のメカニズムに由来するのだろう。
一方で、生物学的な、神経科学的な「事実」というのは、目を背ける訳にはいかない。
有限性、儚さは事実だ。
否、多分、それはもう問題ではない。価値の多様性と相対性、価値の領域におけるダーウィニズムが問題なのだろう。
多元性に何故傷つくのか?
「自分」の眺望の意味は担保するものの、根拠薄弱は仕方ない
それがどうして己の行為の価値への疑いになるのか?
自然も、音楽も、思想も、己の価値の体系の中にあったものが、かつて程は自分をひきつけなくなっている。
それらの限界を、制限を無視できない。
「夢中に」なれなくなっている。
対象を信じられないのは、自分を信じられないのに対応している。
だが、それを知ったところでどうすればいいというのか?
表象(物語のイメージ「も」含む)―KleinのObject、表象についての論争にとって、どういう意味合いを持つのか?
世界認識のスキーマの有無?
「表象なしの知性」etc.の文脈―フロイトの動力学的な解釈は可能か?
記憶と表象の問題
客観的、現実的な対象、というときも実際にはあるスキーマを通しての認識だ。
経験によって獲得される後成的なネットワークがあるのは確かだが、―クラインならPositionと呼ぶのだろう。
生物学的に―遺伝的に、先天的に与えれる条件があるのも確か
タブラ・ラサは虚構だ。
*
どこまでさかのぼる事ができるのか、という問題なのだ。
Adornoの方向とHusserlの方向には大きな隔たりはない。
強いて言えば、遡及の途上を根源と見做して、基礎付けを宣言するのは誤りだ。
そして己の背中を見ることはできないから、内観主義的な方法は限界を持つ。
(それは説明されるべき経験の可能性自体であって、説明の道具にはならないのだ。)
だが、それに替わる方法に唯一正解があるわけではない。
Adornoの「その先」が、どんなに恣意的な物語であるかは、実際の適用―音楽に対する―を見れば明らかだ。
オリジナリティ、独創性と工学的な方法論(追試可能で、検証可能な)の緊張もあるだろう。
Husserlの還元もそう。
大言壮語は不要だが、すべてを否定することはない。
de La Grangeの「自分の魂の状態を表現する以上のことを求めた」(p.13)というのは全く正しい。
マーラーの音楽は、意識の音楽だが、それは内部状態の記述に終始しない。「超越」についての報告たり得ている点で
それはもはや主観的とはいえないのだ。
またマーラーは、自分を限定され、己の有限性の中に閉じ込められた存在とは考えない。まさに作曲を通じて
無限なるものへと通じていると感じていた(それが思い込みであったにしても―その疑いは、R. Straussが
H. Pfiznerが皮肉交じりにすでに指摘していた)
「失われた無限を求めて」というde La Grangeの著作の題名は、だから両価的だ。一方でそれは無限を問題に
する限りで正しく、他方でそれはそれを「失われた」―かつてあったものと捉える点で間違っている。
だが、無限なものとのつながりの予感は、唯物論的に、またミームの進化論の観点からも正しかった。
まさに彼は、作品を通じて「永遠」へと(ただし、非形而上学化された進化論的に限定つきでだが)
通じている。
(de La Grangeが後期様式について語った「永遠」観念的な、甘美なものとここでの永遠は何の関係もない。)
*では「大地の歌」のEwigはどうなのだ?de La Grangeではなく、マーラー自身とも無関係だというのか?
心理・音楽学(p.110)は興味深い。が、これが精神分析を方法論とする必然性はない。勿論、言われるところの
無意識を否定することはないが、まずもって必要なのは創作の謎ではなく、創作されたものの謎だ。
だからそれはまずは認知的なレヴェルにとどまらなくては創作されたものから創作への性急な遡行は
Adornoにも見られる(彼は精神分析にも否定的ではない)だが、まずもって謎があるとすれば作品だ。
精神分析の自然主義化が必要なのだ。無意識、エス、超自我、いずれにしても、それは脳内に後成的に
形成されたネットワークの構造に過ぎない。
*
マーラーの「反復」についての考えに留意すること(de La Grange p.129)
「反復や再現や後戻りは「偽り」(マーラーの言葉)であり、またまったく単純に作曲者の
脆弱さとその役割の放棄のしるしであった。」
二人ともAdornoが「非可逆行性」と呼んだもの、ふまり同一の足跡に戻ることは不可能だと
いう考えをやはり確信を持って表明している」
勿論、これはAdornoの言うヴァリアンテの技法に関係している。(古典的な意味での変奏ではない。)
「やはりアドルノの創案した用語を使って言えば、マーラーの「小説風交響曲」の起源は
まさにこのような点にあるのであり、そこではいくつかのエピソードが物語りのなかでの
ようにあらかじめ定められたプランに従わずに自由に連続し、登場人物たち(諸主題)は
discoursにそって動き回る。」
と同時にこのことはマーラーの音楽を「心理的に」意識の流れとして読むことを保証している筈だ。
一方で、本物の劇的展開―つまりオペラや劇音楽のうち、統合性の高いもの―との比較に
注意すべきだ。
つまり―例えばマーラーの内部に例を求めれば、KLやXIIIの2の様な部分は、まさにプロットが
音楽の流れを直接支配するが、これと上の意味合いでの心理的展開、小説としての流れとは
一致しないのだ。ソナタやロンド、変奏曲形式、なかんずく二主題の変奏曲形式のあるタイプが
むしろここではモデルになる。
その展開の力学は「物語」に由来するものではない。そうではなくてある意味では自律的な
法則を持っている。III-6やIV-1,3,VI-4, IX-1や4, X-1といった器楽の音楽が、その法則の具体化なのである。
音楽の持つ「効果」による「例証」。連続性、断続、充足、終結、あるいはAdornoのDurchbruch/Suspensionも含めて
心理的(フロイト派でも何でも)ではなく、せめて認知心理のレベルで意識の様相の記述と対応付ける。
音楽自体を記述の媒体として捉えること。
表現と記述。クオリアの再現が可能なある記述の体系なのだ。
(少なくともマーラーの音楽は)意識現象は様々なレベルと手段で記述できる、そのうちの1つとして位置づける。
―音楽は意識の流れ自体ではない。感情そのものではない。
それを「ひき起こす」側面のみが(表現の側面のみが)強調されるが、音楽もある仕方で、そうした流れや
感情の記述になっている。ロマンと対比される程のマーラーの音楽は特にそうだ。
それは外部事象の模倣(描写音楽)ではなく、内部事象の記述なのだ。
標題に、歌詞にひきずられずに音が記述するものを読み取る。
それを標題や歌詞とつき合わせてイロニーが判定できる。
アドルノ的な歴史のスキーマは一旦捨てるべき。勿論創作の極の「文化史」なり意識のありよう、
社会のありようがしかじかであったという事実はある。
だが、読み取るのは音楽が記述することなら、何が隠れているのかを事前に決めなくても良い。
西欧の社会の歴史を読み取らなくてもよい。
観相学は別の枠組みで機能させることも可能ではないか?
文化史は結構(フローロス)だが、アドルノはそれ自体を「素材」と見做しつつも結局、「文脈」に
戻ってゆく。創作の文脈の外にあるものは音楽からは聴き取れない。
だが音楽作品は別の文脈でも機能しうる。
相互作用も起きる。そうした文脈形成を、つまりはミームとしての存続を保証するのは作品そのものだ。
アドルノ的な文脈から離れて作品の認知的なスキームを記述すること。
所詮は文化依存のものとはいえ、「意識」レベルでの共時的な記述を試みること。
認知のレベルは一般的だが、「意識の音楽」という定式には限界がある。
マーラーならOKだが、他の作曲家がどうかは個別に検討すべき。
マーラーが中心、出発点の展望は自明でない。それに留意すれば、だが、その展望ならではのものがあるだろう。
しかもここではさしあたりマーラーの場合で十分なのだが。
*
自分の例えばバルビローリのマーラー演奏に関する評言を練り直すこと。
意識の音楽、主観の、世界に対する反応の音楽というのが、如何にして正当化されうるのか、の議論が必要だ。
形式的には、バルビローリについて演奏スタイルについてのコメント―聴くことをめぐる幾つかの視点を
書いたのが参考になるだろう。
あるいはショスタコーヴィチについて書いたときの論点をマーラーにapplyすることによって少なからず明らかになるだろう。
テンポの設定の問題も、意識の様態として考える際の重要なパラメタになりうる。遠近法(空間性)図と地、特に地の、
地平の存在はマーラーの場合これまた重要だろう。
過度に主観的に受け取ることについての異論が存在するだろう。それは歌曲の側から来る。
主観的な抒情詩の世界からはマーラーは遠い、ムソルグスキー、ヤナーチェクというAdornoの連想は多分正しいのだ。
一旦中期のRueckertの時期に主観性に辿り着いたという見方もあるだろう。
だが、多分中期においてすら、少なくとも交響曲では、いわゆる抒情詩的な主観性と異なるものがある。
要するに、意識の音楽は、主観の音楽は「主観的な」音楽ではないのだ。この点を強調する必要がある。
そもそも交響曲の構成原理は、主観的な叙情からはでてこない。よくマーラーの交響曲の形式は借り物だ、
と言われるが、だが、交響曲が「既存の」形式であった以上、同時代の誰にとってもそれは借り物なのだ。
要するに、交響曲の構成を支える要素は、世界の側に存する。マーラーにとっては、交響曲という形式
そのものが「世界」なのだ。
*
シェーンベルクの「メガホン」。書きとらされているというマーラーの証言。
Sibeliusの孤独、何と遠いことか。
あの主観と風景のあり様は、やはり例外的なものだろう。
単に人との交わりを絶って、ひとりになることはではない。
例えばMahlerのIIIが書かれた環境や、Ich bin der Welt abhanden gekommenを考えればよい。
それは主体の享受の相で捉えることができる。
IIIは一見、客観の力をほとんど制御せずに(IXでそうであったように)主体はほぼ媒体として機能しているように見えて、その主体の「形式」の
「形式化する」力はきわめて強い。
要するに、ここでの立場の違いは、世界を表現することと音の自律的な運動に身を委ねることの違いなのだ。
「メガホン」であることは、非人称性は、作品の無個性、汎個性を意味しない。(事実は全く逆だ。)
Selbstgefuehlという標題は興味深い
確かにこれを「うぬぼれ」と訳すのは妥当でなさそうだ。
しかも、この歌詞はマーラーの音楽の持つ「批判的態度」の典型的な例証となっている―ただし、自分の気持ちが
「わからない」というアイロニーの形をとってだが。
感情・表現について
1.表現の問題
i)Adorno邦訳p.29―ミメーシスの問題もあり。
p.169 Ihm zu begegnen erheischt Beesinnung auf den Ausdruck in Musik.
ii)門脇p.101 技能の「表現」、技能の形で含まれているものの明示的な確定
iii)Levinasの「表現」論?志向性理論
感情は「内面的な感じ」なのか、それとも「外」を指示する記号なのか?
後者の観点は興味深い。外というよりは―それは自己の把握も含んでいる、引数として自分の状態を含んでいるはずだ―
Heidegger風には世界内存在、つまり世界と主体の関り方のあり様そのものを示している、と言った方が良い。
そして、ここに「客観性」への「世界」への出口がある。
マーラーの音楽の「客観性」は劇伴の、あるいは描写音楽の客観性とは向きがまるで異なっている。
一方、マーラーの音楽を主観主義的に、心の、魂の動き表現として捉えるロマン派的見方も正確ではない。
叙情ではなく、叙事に近づくその仕方は、しかし、神話や童話に取材したオペラやカンタータ―マーラーも嘆きの歌で
は少なくとも表向きはそうした流れに属し、従っているようにみえる―とは異なって、マーラーの音楽は「外」から、
劇の展開される空間を覗き込んだりはしない。それはいつも―自分にとっては外的な事象を表現しているように
思われるところでも一旦自分の眼を通しているという意識を忘れることはない。
cf.劇音楽:シュトラウスやツェムリンスキーの様に、~を表現するというのが技術的な次元で捉えられる場合、~は「私」とは関係ない。
一方で、主観的、心理的な音楽というのが(多分、極限においてのみ、理念としてのみであろうが)考えられるだろう。
これらの問題は多分、上記の隠れた作者の問題と関連するが、同一ではない。
フランス革命以前の音楽を考えればよい。その修辞学を。マーラーの客観性は劇的/演劇的という軸で考えられるものとは、少し違う。
そういった観点では明らかに主観的であっても、それは自我の音楽ではない。だが、だからといって、「無意識」を簡単に持ち出せば済むわけでもない。
結局、作曲における作者とは誰か、の問題なのだ。
~を表現することに「私」を代入可能であること。これがロマン主義の定義ではあるまい。「私」を特権化する事にあった筈だ。ベートーヴェン以来、
マーラー,シューベルトはその様であろうとする。私でないXについての音楽であっても、そこには私がある、という仕方。
音楽が私を表現するのではなく、私の中で音楽が鳴る?
うまい言い方だが、レトリック以上のものがあるだろうか?
結局「表現」という関係の定義にかかっている。それはやはり私を表現していることにならないのか?(個性の発現とは異なる位相で)
集団的無意識、社会、個人の反映?痕跡?
インガルデンの言うところの「志向的対象」、志向性と意識、私性、クオリアの問題。
勿論、現象学(とりわけフッサール)では理念的なものをも、志向的対象と考える。
だから解釈の「正しさ」というのは、そうした志向の可能性が前提となって成立しているということになる。
Adornoのレトリックを翻訳して、定着させること。手探りは手探りに過ぎない。明晰でないことを顕揚すべきではない。
何とはなしに、掴めていると感じられているものの表現方法の問題でもある。
確かに「Expressivo」が「何かの」表現ではない、という指摘は興味深い。
一般に音楽が何かを表現する、と言われるのとは異なった意味合いで、「表現」というのが考えられる。
その二重性と、門脇の指摘する、前述定的領野と述定的領野の二重性が、どう関係するか?
Levinasの言語論、作品論を、志向性理論と関係づけて読むきっかけになるだろう。
要するに、マーラーの音楽は、「信念」や志向性のレベルに相当するものを持っている、という事があるのだろう。
或る種の身体性(行進曲、舞曲)についての注意。マーラーにおいては、逆方向を向いている。
芸術的に洗練されるのではなく、もう一度、身体性を呼び起すために導入されるのだ。
そこに「表現」が生じる。単なる異化作用の如きものではうまく説明できないだろう。
寧ろ、2つの層の間の関係の再考を音楽的に行っていると見るべきなのだ。
行進曲(Lea)
スケルツォ―レントラー
古典派において芸術として洗練されたもの
起源を再び想起する?
HaydnへのMitchellの言及―だが多分起きている事柄の向きは逆ではないか?
この点は吟味の必要がある―にも留意すること。
行進曲については、Krenekが16退場のところで言及していることにも注意。行進曲、葬送行進曲もまた。
マーラーVI-1
行進曲を「そのまま」持ち込むこと、特にソナタ形式の第1主題部において。
もともとそうであったものを、時間が経ってから、もう一度そのまま持ち込むことにより、形式を(少なくとも)批判する。行進曲も歌もそう。素材としてかつて備給であったものを、そのままの形でもう一度取り込むこと。形式の純化により背景(というより基層)にしまい込まれてしまった契機をもう一度取り出すこと。それはいわゆる普通の擬古主義とは反対だ。擬古主義は形成された上部構造のみを、いわば借りてくる。内容にあたる部分は、実質的で「あってはならない」。
ここでは逆のことが起きている。形式のほうが吟味されるのだ。実質のほうは?
だが、形式が形成されていたときの実質はそんなに立派なものだったのか?Adornoのあのノスタルジーはある意味では不可解だ。Beethovenの音楽だって、ああいった攻撃性と執拗さを、ある意味では強いられ、社会的に条件付けられて持つようになったのだ。
"純音楽的解釈"⇔ミメーシス的契機
マテリアルという捉え方は肌理が粗すぎる。
既成の形式が問題であれば、ミメーシスと純音楽的解釈の関係が「ない」とは言えない。
音楽「外」の素材?を区別する必要がある?
客観性について
Adornoが示唆し、Leaが検証したような、脱民族性を「外」から覗き込む立場を考えてみよ。
批判的機能を専ら問題にするというのなら、外側に居るのと内部にいるのとではその意義は異なるだろう。
少なくとも脱民族性についてのコメントを「文字通り」に受け取るのは知的怠慢だろう。
それは我々には関係ない、とは言えなくとも、全く異なった関わり方を招来するに違いないからだ。
「~について」という形式は(渡辺の指摘通り)看過できない。
「~」の部分のバナリテより「~について」という形式が主観的抒情詩からの背馳を示していることの方が
重要だ。客観性というのはそういう事だ。それは「私」のことではない。けれども演劇のような志向を持つ
音楽がそうであるような客観性と、ここでの客観性は似て非なるものである。(大地の歌をZemlinksyの
Lyrische Symphonieと比較すれば良い。)
主観/客観でいけば、、、
初期の歌曲(ただし3つの歌曲や若者時代の歌の1巻は除外する)の「客観性」グリム童話やWunderhornのアルカイズム、
少なくとも素材として主観的な抒情詩を取り上げていない。
むしろ民俗的なもの、叙事的なものへの傾斜が強い。
このことと、「自我」の音楽、「意識の音楽」との表面上の矛盾は説明されなくてはならない。
一方で、Rueckertはどうか(これは素朴ではあるが、とりあえず主観的なものといってよい。「民謡」ではない。
ただし、Rueckertは過去の詩人であるということに留意する必要はある。マーラーは決して同時代のものに詩をつけようとは
しなかったということは記憶されていい。)
それではベトゥゲを通してみた中国はどうなのか?
中間点としてのfahrenden Gesellen―全体として民謡調だが、自伝的(ただしフィクションでも可!)性格のために
主観的な色合いも強い。
・「バラード」という形式に注意
こうした歌曲の素材の選択は並行した時期の交響曲の「スタンス」とどのように関係しているか?
実際にはWunderhornは民謡ではない。Bethgeが中国の詩でないように。それらはどちらも「まがいもの」なのだ。
それから、非合理性。
集団的社会的なエトスと捉える必要があるのか?
それはAdorno的な観相学とある面では近いものになる。
むしろ「主観的」たり得ない点が問題だ。
この点についてはAdornoは正しい。批判的な意識こそがそこに見出されるべきなのだ。
客観性は、マーラーのあちこちに見られる。というか、それは「世界」であるのであれば、主観的なものではありえない。
主観は自らの媒介性を意識している。目覚めているのだ。
眠りにつこうとする意識に対する起床合図は外からやってくる。
注意すべきはその程度に変動があることだ。
マーラーの音楽を全体として捉えるのが必要なのは、それが一貫しているからではなく、それが一見して矛盾しているのでは
と思わせる程度に多様だからだ。
そして、その多様性もまた、「客観」の割合の多さと関係しているだろう。
いずれにせよ、マーラーの場合、世界と主体の間の関係は一様でない。
WunderhornとKindertotenliederでは、IIIとLEでは、様相は大きく異なる。
だから、ある一部分だけを取り出して、全体を評価しようというのは、少なくともここでは適切でないだろう。
Grenneへの批判
Greene, David B., Mahler, Consciousness and Temporality, Gordon and Breach Science Publishers, 1984
その音楽に関する分析の中で個人的に興味深く感じられる方向性をもったものとしては、現象学的な
アプローチからマーラーの音楽に迫ろうとしたGreeneの著作「マーラー、意識と時間性」(1984)が挙げられる。
その内容の詳細について同意できると考えているわけではないが、マーラーの音楽を聴いて感じ取る
ことのできる「質」を捉えようとする場合に、基本的に楽曲の構造に注目しながら、解釈のためのデヴァイスと
して意識の分析の成果を用いるという発想は、妥当な姿勢だと思う。より厳密に認知心理学的な立場に
たつことも勿論考えられるだろうが、ことマーラーの音楽についていえば、もう少しレヴェル的に上位の抽象も
あって良いと思う。
だが、期待に反して、具体的なその内容には失望を禁じえない。哲学サイドの議論については摘み食いにしか見えないし、
具体的な音楽の「時間性」(と呼ばれているもの)を分析する道具立てがあまりに貧困なため、それは分析というよりは
単なる主張の羅列、しかもあまり意味があるとは思えない主張の羅列にしか見えない。
以下は読書メモで、あまりに目に余った部分を備忘のために書き留めたもの。
*
①positiveであれnegativeであれ、他人を傍証に出すとおかしくなる。
p.166 Part2の出だし、IとII~VIの間の休止について、Bekkerをひいているが、この休止をIの終結性と結びつけるのはおかしい。
II~VUだって同じように完結しているのなら、休止をおくべきことがIの完結性の傍証にはならない。
少なくともこれは不適切だ。
しばしば、その分析は楽曲に従っている限りで正しいと思われるのに、そこから離れて何かを論じると間違いに陥るのは、結局方法論的には破綻している証拠だ。
②p.163もひどい。折角の楽曲の構造の分析をbanalなマーラー自身の譬えの例証にしか使えないとすれば、興味は薄れてしまうだろう。
標題的なもの以上のものを析出できなければ、単に事前に誂えられたプログラムという答えに合わせて分析を構成するだけでは、このような方法論の価値はない。
Greeneは自らの方法を裏切っているのだ。
③時間論といいながら、その時間分析のスキーマは貧しくないか?因果性と自由意志を繰り返して
用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として無意味なことが起こる。
それでいて突然、HeideggerのWiederholungを突然持ち出すのは不自然だ。
もしWiederholungを出してくるなら、予期/瞬視/忘却といったセット、
あるいは本来性、非本来性という点を踏まえなければ意味がない。
memory of memoryやfulfillnessから一息にWiederholungに飛躍するのは、
全くご都合主義的という他ない。(p.130)
認知に基づく例証理論
マクロな構造よりもミクロなアコーギグ?
また、音色、音量etc.のパラメータに言及せずに、時間性を語れるのか?
一面的―あるいは結局「内容の側」の説明―文学的なそれと権利上は同じもの―ではないのか?
p.232.
通常のループ、リニアの時間意識、というか、これは単なる時間の「表象」に過ぎない。
confusedかどうかはだから、表象のレヴェルだろう。時間意識はむしろ、整序をしようとする。流れを
反復を構成するのだ。
Greeneの説明はそんなに間違っていないのかも知れないが、ずれがある。
説明するものと、説明されるもの、例証するものとされるものの間の混乱、あるいは時間意識と
時間表象についての混乱。
例えばGreeneはHusserlの把持と記憶、想起、予期とのレヴェルの違いを理解しているだろうか?
認知理論風に言えば、LTM/STM、リハーサル、想起etc.といった機能レヴェルの違いを理解しているか?
聴取の意識から、Greeneの説明は離れすぎる。その距離は、examplifyの一言で乗り越えられる。
これはおかしい。
しかも構造の分析はしても、それはマクロに過ぎるのだ。ミクロな認知のレベルで起きていることを捉えずに
マーラーの音楽の持つ「質」が捉えられるのか?
Adorno風のミクロロギーをやりたくなる。構造の分析も、あまりに一足跳びに心理的(心理学的とはいえない)
なメタファーに依りすぎている。これではそのメタファーが楽曲の構造上のどのパラメータに対応するのかの
説明がもう1レベル必要になってしまう。
Greeneの議論においても、またもや因果性、自由意志の問題が生じている。
それが問題があるなら、因果性の定義を変えれば良いのだ。
因果性にこだわる必然性はどこにあるか?
更に言えば、因果性と自由意志との間の関係だって決着がついているわけではないのに、ここではそれは
素通りしてしまって、どちらでもない、confusedな状態と通常でないtransfiguredな状態が区別される。
groundnessが問題になるが、そもそも意識に受動性を認めない立場はありえないし、新しさを認めない立場もありえない。
だからGreeneのdeviceはあまりに杜撰なのだ。
Heideggerを引くのであれば、あるいはHusserlにしても、あまりに表面的に過ぎる様に思える。
方向性は多分正しいが、実現は全く不十分ではないか?
むしろ現象学的なアプローチを取るのであれば、そうした概念がどのように位置づけを得るのか、一般的な(folk psychologyでの)
了解との違いを明らかにした上で論じるべきだ。
また、狭義での認識の水準を超えたLevinasやHeideggerの方向性についても考慮すべきだ。
超越論的自我の問題をここで持ち出すのは適切だろうか?
一般にどのVersionの現象学を用いるのかを明らかにしないで単にHusserlやHeideggerの著作から都合良く利用できるところだけ
引用するのは安易にすぎる。これだから音楽学のレベルが低いと言われるのだ。
少なくとも―採用しなくても―現象学的還元に対する立場、自然的態度と現象学的記述が区別されるという点に触れずに、
Husserlをfolkpsychologyの変種のように捉えるのは不当だ。
自己言及性については、信念、信念の信念、、、というレベルを設ければ済む。多分一度やれば済むことだ。
またIIIでもVIIIでもいいが、Sartre的な即自存在を引き合いに出す意味はどこにあるのか?
体験の分析と、音楽で表現されている内容の「記述」のどちらなのか。examplify理論をIntroで援用した
割には、具体的な記述は怪しい。一見そうでないように見えても、結局Greeneの分析は、一方では
楽曲の形式の分析、他方では内容の(哲学的な概念を動員した)記述―しかもそれはGreeneが聴き取ったもので
一般性はないらしい―哲学者しかやりそうになり独我論に頗る近い―に過ぎず、両者を結びつける肝心の
部分はちっとも明確ではない。
部分的にフレーズの分析があってこれはこれで妥当かもしれないが、結論めいたことを述べる段になると
内容の記述が一人歩きを始める。記述に使った概念という、分析の道具や素材の側の論理で話が進んでしまい
音楽にはちっとも帰ってこない。
これがAdorno的であれ、非Adorno的であれ、社会批判、あるいは単なる文化史的なアプローチであれば、
そうした外部の論理を確かめることに意味がある―それが作品に何らかの形で投影されていると考えるのだから―
が、Greeneは内在的な形式分析から出発しているのだから、それは反則、ルール違反ではないか?
Greeneの分析は時折、単に既成の哲学的意識経験の概念の適用に過ぎなかったり、ややもすると
単なるメタファーになってしまっている。都合良く色々な哲学者の装置を(それらの間の関係に
ついての見解の表明無しに)アドホックに適用することは、事態を明らかにするよりも、混乱させている
ことにしかならない。
Greeneの分析が、楽曲の聴取の体験に基づくというのであれば、その結果はオリジナルなものであるよりは、
工学的に広い妥当性を持つものであるべきだ。だから個別の分析でGreeneが様々な評者のコメントを
否定しているのは(内容の当否はともかく)スタンスとして矛盾していると言わざるを得ない。
ある評者が―自らの聴取の経験から―ある内容を読み取った結果が、―それを間違いといいたてるなら―
何故「間違っている」のかを説明すべきなのであって、単に否定するのは自分の分析の一般的妥当性を
自ら否定することにしかならない。
体験の分析を行う際の様々な学説の「つまみ食い」もまた、Greene自身の分析の寄与のありかを
見えにくくしている。
transfiguredという言葉はそれを繰り返すだけなら空虚だし、自己撞着的な記述
(groundness/ungroundness, directedness etc.)は説明になっていない。
むしろ、それではなく、別の用語を使うべきなのではないか?
「~でもなく、~でもない」は、神学や形而上学ならいざ知らず、具体的な経験の分析では単なる怠慢であり、
不毛だ。
本来的自己に対するGreeneの解釈は正しいのか?
非本来的自己と自然的態度―folk psychologyを信じるものとしてのを単純に同一視していいのか?
Husserlの超越論的自我とHeideggerのDaseinを区別することは正しいだろうが、Husserlの読み方としてはこれはおかしい。
「反復」についてのGreeneの理解はどうだろうか?(p.129 etc.)
日常の自己が連続性について持っている仮定からすれば、マーラーの音楽はナンセンスになるというのは「おかしい」。
日常性、自然的態度、還元、その他についてひどい混乱があるのではないか?
・p.24における図と地の反転についての論も、少なくとも表面上はナンセンスに近い。
何故これがニュートン的な古典物理学的描像と対立するのか、不明だ。
マーラーに図と地のambiguityや反転があるのは確かだが、そしてこれがマーラーの特徴であるというのも多分正しいが、
そこから先の議論はでたらめにしか見えない。
少なくとも日常的自我とfolk psychologyの主体とを混同することが現象学の(そしてHeideggerの)批判の対象に
なっているのだが、Greeneはその点について全く理解できていないようだ。
・temporalityを問題にするなら、音楽の始まりと終わり、音楽の内部と外部を問題にすべきだ。
マーラーの場合ならersterbendの問題があるだろう。
あるいはKLやIの開始―主題の出現(Brucknerと異なって「生成」ではない?だがIXがある。)を音楽の経過に
持ち込むことも、同じように問題にされるべきだ。
一般にはベートーヴェン型の動機や主題の労作に対して、歌謡旋律の導入は異質のものだと言われる。
だが一方で、いわゆる楽段の4小節単位の構成というのがあって、それがさらに8小節の楽節に発展したのに対して
それに対する逸脱という形で特殊性が言われることもある。(cf.シェーンベルクのVI-3の主題の分析)
ところでそもそも、楽段はそれ自体、歌曲に由来する。
むしろ、歌曲の様な構成ではソナタは作曲できない、ということが無視されるべきではない
(シューベルトへの批判を考えてもよい。)
また変奏形式についても―こちらは主題は歌謡形式のものでも良い―そこで問題なのはマーラーにおける
形式をどう考えるか、どう特徴づけるか、ということだ。
楽節構成を韻律法的に読んでいくGreeneのやり方は、一つの方法ではあるが、あまりに一面的過ぎて
それだけで何かが語れるとは思えない。
方法論があまりにも貧しいので、議論はその方法の結果のみからは出発できず果ては哲学者の概念装置のつまみ食いになる。
フレーズの非完結性はそれ自体興味深いが、韻律法的な楽節分析とどう関係するかは少しも明らかにされない。
普通に素朴に考えればフレーズが完結しないで次から次へと受け渡されてゆくことは、マーラーのような大きな形式を
構成するのには自然に見える。何が普通で何が普通でないのか?
(動機による労作は、フレーズの完結性という観点からいけば、更に完結性が低くなる可能性があるのでは?
だとすると、歌謡形式がここでは暗黙の前提になっている?結局、予断が含まれるのだ。)
例えば、GreeneのBekker批判は人を驚かすようなものだ(p.32)
そこではフレーズの構成という形式的・統語的レベルの議論が、いきなり常識的な意識の概念からの
逸脱に飛躍する。その間の関係付けについての正当化は全く行われない。Goodmanのexemplification theoryが
あればOKなのだそうだ。
Adornoの弁証法と時間性の関係も、注で述べられているほど簡単なものではないだろう。
Adornoの弁証法とは、異なる時間性とは何か?そもそも、Adornoの弁証法の時間性とは何なのか?
groundlessnessが「不可能でない」―Greeneが良く使う言い回しだ―というのがAdornoでは全く考慮されていない
というのか?「新しい」「異なった」時間性、「変形された」時間性、という言い回しが頻出するわりには、
その実質はちっとも明らかにならない。
私の立場はAdornoとは違う、と叫んでいるだけにしか聞こえない。
ベートーヴェンをmodelとしてしまうことの危険。
実はAdornoはそうだし(中期ベートーヴェン)、Greeneについてもベートーヴェンを典型として
マーラーをそれからの逸脱とするような見方がある。
だが、例えばソナタ形式の「標準」があったとして、それが中期ベートーヴェンなのかHaydnなのかは
問題だ。何故ベートーヴェンなのか?そもそもソナタの「標準」とは何か?
とりわけ時間論的分析においての規範の意味は? ベートーヴェンの時間性の方がマーラーより分析しやすい
などということがあるだろうか?意識の流れに近い、小説のようなマーラーの音楽ならではの近寄りやすさ
というのはないのか?
マーラーをいつも逸脱として例外として捉えるのはどうか(対比自体がいけないと言う訳ではないが、
評価上、バイアスがかかる)
もっと(実際には多くの日本人がしているように)端的にその作品に接したらどうなのか?
意識の音楽、無意識の音楽の定義
Greeneによれば、III-3は無意識、6は意識なのか?
*そもそも意味不明だ。無意識を「描写した」ということ?6が意識の描写である、というはもっと
わからない。マーラーのつけた標題を密輸するから、こんな訳の分からないことになるのでは?
どういう点で、無意識の、意識の描写になりえているかの説明がせめて必要だろう。
Greeneの主張を救い出すこと
Heideggerはおくとして、反復を検討すること
Iの4における反復は有名だ(どちらの重点をおくかでAlmaが異議を唱えたエピソードがある。)
IIの5における合唱の入りも繰り返される(拍子が大きく変わっているが)
そしてVの5における反復。
より一般には「再現部」の問題が、各曲のソナタ楽章に存在する。勿論、文字通りの再現はないが、
だが、反復には違いない。反復はどういう意味合いを持つのか?
あるいは舞曲楽章のDa Capoも含めるべきかもしれない。
Greene p.14 音楽が現象学的還元をする、と考えて良い。意識の様相を自然的態度におけるドクサから引き離して
記述する―現象学とマーラーは並行している。
一方で、「ありうべき」―実際には体験できない意識を音楽が示しうる、というのは興味深い。
(cf. VIIIおよびIX)この主張については批判的に検討すべき。
ただ、私の経験していないものでマーラーが経験したものの表現と享受(伝達)は可能だし、音の流れの操作により
通常起こり得ない様態を「例証する」―シミュレーションに近い―ことは原理的には可能だろう。
一般論としては、充分に可能でナンセンスではない。
だからtransfiguredという言い方には注意が必要だ。
もっとも、もう一つの可能性がある。それは、感受の伝達(Whitehead的な意味で)しかも、不完全な伝達という考えに基づく。
だが、これはまだ作曲者の内部事象と音楽と聴取者の内部事象の3項図式に戻ることになる。
(これが間違っているとは思わないが。だが、感受の「結果」は音楽の「表現としての出来」だけでなく、聴取者の
内部状態にも依存するだろう。)
またGreeneは(実際にはよりマーラーに「近い」のかも知れないが)宗教的なものについての
自分の立場があるだろう。
多分妥当なのは、W.Jamesがとった様な立場なのだろう。
例えばハンス・マイヤーの様な読み取りは多分誤ってはいないのだろう。
だが、宗教性というのを心理的なカテゴリーとして捉えたら、マーラーの音楽がそうであることは
多分間違いない。だが、それが意識の様態としてどのようにであるのかを言わなければ
「~の気がする」というレベルに戻る。それこそマイヤーの言う装飾に目が眩んでついつい騙された、
ということになる。だからGreeneのいうtransfiguredというのの実質が問題なのだ。
それは「経験不可能」だが「可能である筈の」例外的な経験なのか?
ここにも「表現される対象」と「表現」の分裂があるようだ。
表現される対象としては「例外的な」ことがあろうが、表現は結局のところ可能なものの
範囲でしか可能ではない。それが「例外的」というのは日常ではそのような意識なり志向性なりが
生じることがない、という以上のものは無い筈なのだ。―それは他の音楽でも起きるだろう。
(また、アドルノの言う「ねえ、よくきいて」という叙事の姿勢も参照のこと)
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(2007年6月作成)