グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・備忘(4)


備忘(2002--2008):その4

はじめに:このページに収められた文章は、本来公表するには適さない、ほとんど日々のメモ書きに 過ぎないものであり、それゆえその多くがエスキスに過ぎないレベルであり、論理的な流れに著しく欠け、理解に苦しむような飛躍が多く、あるいはしばしば矛盾すら見出すことができるかも知れない。 さらには、あくまでも自分の備忘のために書き溜めたそのままの形態のものがほとんどであることから、明らかに前提の説明が不足しているものも少なからず含まれるものと予想される。
ただし、書き記した内容は―その少なくとも意図の次元では、基本的に現在の見解と齟齬を来たすものはないと思うし、一見矛盾に見えるものは、とりわけマーラーのような多面的で 複雑な存在が対象である場合には、しばしばその異なった側面を眺めたものが併置された結果に過ぎない場合も多い。
従って、とりわけこの項については今後随時手を入れて整理をしていくことになるが、それは見解の変更というよりは、それぞれの文章を本来の位置に配置する作業であると考えている。 とりわけ読書をして批判的な印象を書き留めたものについては、その批判を十分に説得力のあるもの仕立てていく必要があると感じている。まあ、所詮は素人の素朴な感想なので、 このままでも問題は無いはずだが。


アドルノの「聴取の類型論」(音楽社会学序説)をめぐって


1.エキスパート:
 完全に対象に適応した聴取を行う
   なに一つ聴き逃すことはないし、また同時にどんな瞬間でも聴き取ったものを確認している。
 例えばヴェーベルンの弦楽三重奏曲の第二楽章のように、しっかりした構成の支えをもたぬ自由な曲にはじめて出くわしても、その形式の各部を言うことができる人
 構造的聴取
 互いに連累しあっている部分部分(過去・現在・未来の各瞬間)を聴覚と通じて綜合し、そこから一つのまとまりをもった意味を析出させる。
 同時的なもの(複雑な和声・多声の錯綜)も明確に把握する。
 今日このタイプはある程度まで職業音楽家の範囲の中に限られる。
 自分の仕事が完全に理解できるのは自分の同類だけしかないと主張しがち。
2.良き聴取者:
 音楽全体のまとまりを自発的に理解し、承認し、その判断には確とした根拠があり、評判とか気ままな趣味だけに頼ることはしない
 作品中の技術的、構造的連累はその意識には上ってこないか、少なくとも完全には上って来ない
 勘のよい直接的な聴取の能力
3.教養消費者:
 このタイプの人は音楽を多量に聴く。状況が許せば飽くことなく貪り聴き、いろいろな知識・情報に詳しく、レコードの収集家でもある
 音楽を文化財として、自己の社会での評判のために知らねばならぬものとして彼は聴く。
 伝記と演奏家たちの長所に関した知識を集め、長時間それについて無駄話をして飽くことがない。
 作品の展開には冷淡で、聴取の構造もこま切れ的
 自分で美しいと思い込んでいるメロディとか圧倒的な瞬間とかを待ち受けている
 フェティッシュなものがある
 とにかく評価の好きな人間
 彼を感嘆させるのは自己目的と化した手段、つまりテクニックである
 論敵の対象の現代音楽に対しては大抵は敵対の立場をとる
 音楽文化財が彼らの管理の手にかかると次第に商略的消費財に姿を変える
4.情緒的聴取者:
 聴取の対象の本質からはさらに遠ざかっている
 自分の本能を解き放ってくれるのが音楽
 音楽の形態そのものへは大抵は無関心
 チャイコフスキーのようにはっきりと情緒的な音楽を実際はことのほか強く求める
 彼らに涙を流させることは困難ではない
 自分の生活とは無縁な領域に、ふだんは諦めざるをえない何かの代償を捜している
 構造的聴取に近づけようとする試みにはすべて激しく反撥する
 音楽は行動の節約のための手段にすぎない。
5.復讐型聴取者:
 感情禁止、身振りのタブーを避けて音楽に逃げ込むかわりに、そうした禁圧こそ自分たちの専有物だと宣言し、音楽上の構造の規範として学び取る
 古き時代への逃避
 秩序や集団自体が目的
 「作品への忠実性」
 自分たちが過去の時代の実地の演奏法―かなり怪しい!―だと思っている代物を杓子定規に守って行こうと励むことに重点をおく。
 誤った厳格さ
6.音楽を娯楽としてしか聴かない型:
 音楽は意味とまとまりのある全体ではなく、刺激の源泉であり、さらには情緒的要素、またスポーツ的要素の混入して一役かっているが、それらすべては音楽は快適な慰安の手段として要求されるため、平板化している
 喫煙との類似。
 ラジオをかけたまま仕事をする人間。集中力の欠如。
 自覚したロー・ブロウであり、自分が平均的な人間であることを徳と考えている。
 マスメディアとの関係。  奇妙な自我の弱さ。自己の評価に従い、商品の顧客としての立場で他者と連帯する覚悟はできている。
 現実のあらゆる支配機構に順応して生きて行くし、音楽に対しても同じような態度をとる。
7.無関心な者、非音楽的な者、音楽嫌いな者:
 幼児時代の過程が問題。
 粗暴な権威が色々な欠陥をもたらす?
 厳格な父親の子はしばしば楽譜の読み方が覚えられない

私は基本的に4.情緒的な聴き手だろうか。アドルノ的には随分と「情けない」聴取者のようだが、仕方あるまい。

あわせて、マーラーの通俗性について。 あるフランス人の問い。現実が悲しみに満ちているのに、なぜその上に悲しい音楽を聴くのか?
(今なら答える事ができる。「慰めを得るために。」)
品のなさ。安っぽい音楽。フランツ・シュミットの両価感情に満ちた発言。指揮者としての卓越と、音楽の「安っぽさ」。
あるいはアーノンクールの、チェリビダッケの拒絶。コンサートホールの様な「公共の場」で、はしたない、、、
日本人は能や文楽を観て涙することに抵抗がない。彼の地のことは、実は私には分からない。だが私にはマーラーの音楽はあまり抵抗がないのだろう、結局、、、
バルビローリの証言。ポルタメントをイギリスの楽団員に弾かせることの難しさ。 「別に不道徳なわけじゃない。」「それにどっちみち心配することなんかないんだ。どうせ批判を浴びるのは私なんだから!」

*

聴き手がおかしな劣等感に悩まされることはない。
聴き手は「聴き方」を産み出すのだ。
勿論、それは恣意的であってはならないが、かといって唯一の規範があるわけでもない。
少なくとも頭の良過ぎたAdornoが自身たっぶりに自分の好みを、それが規範であるかのように 正当化してみせ、それによって自分の好みに合わないものを断罪してしまったような愚は犯すべきではない。

理論は見方を変える。新しい聴き方を可能にするという点に価値がある。
逆にそのような聴き方を提案できるとき、ようやく聴き手は作り手と―あるいは優れた演奏者と―肩を並べることになる。
一方で、ここで理論と呼んでいるものが、例えば楽譜を参照しながら他人の分析を参照しながら聴くといったような聴き方の 延長線上にあるという認識も必要だ。結局のところ現実の聴取は様々なレヴェルでの文脈に規定されていて、 雑種的でしかない。実験室でしか可能でないような理想的で単純な聴取はあり得ない。
(実験室の中にさえ、被験者は自分の経験を背景を持ち込んでしまう。だからむしろ意図されたとおりの実験をやる事の 方が困難なのだ。)

同じように、伝記的背景、生成史的な研究は、作曲の現場を、ではないにしても作曲の環境を、経過を辿ろうとする試みだ。 それを知っているのと知らないのとではやはり聴き方が異なるだろう。
Adornoのような作曲の現場の重視―これは形を変えて高橋悠治などの、演奏者=作曲家にも見られる―は、或る意味では 正しい―「作者の意図」に少なくともより確実に寄り添うことができる。ただしそれは己も作者たることによって、 ということになるだろう―のだが、実際には、歴史的な文脈に強く拘束される。同時代に生きて問題意識を共有していない 場合には、そのようなアプローチは著しく困難になる。(高橋はそれで構わない。過去の作曲家の「使用価値」を 過大評価しないと考えているらしい点で、少なくとも一貫はしている)Adornoのどうしようもない偏狭さは、よく言えば その拘束性を意識していた証だが、他人に押し付けるのは筋違いだ。

Adornoの評言を、その批判的な意図を除いて適用すること。
Minskyの立場は、実はAdornoのエキスパートか良き聴取者である。
大きな構造連関の発見が問題になっている。
Meyerはもう少し柔軟で、エキスパートの立場―彼はそれを形式主義的な立場と結びつける―に一方的に 価値をおきはしない。寧ろ情動的なものに価値をおいているのは明らかで、「相補性」を強調している。 勿論、Meyerが想定しているのも、伝統的なヨーロッパ音楽だから、音の関係が重視され、音の内部に 入り込むような聴き方はここでは考慮の外だ。
マーラーは例えば、音色、しかも打楽器的、雑音的な音響の利用によって音の質の次元への配慮を占めし、 かつシェンカー分析の予断する図式が全く意味を為さないような調的配置を行うことで、こうした分析の 裏をかく。Meyerの分析では「予想に反すること」が情動を引き起こす、という立場だが、これは 標準的な図式とそこからの逸脱で情動を説明しようとしている。これはマーラーの場合には―丁度、異化の考え方が (Adornoがそう考えたように)伝統的図式の再利用という形で機能していると考えることが可能であると 同じだけは―有効性を持つかも知れない。
だが、「予想に反すること」=情動は多分間違っている。
純粋に示差的に情動の由来を考えるべきではなく、それが「基準」だろうが「伝統」だろうが、そうでなかろうが、 或る音型の持つ力というのを考える必要はある。差異では説明できない強度の次元があるのだ。
だが、音楽を聴くことが、何重にも社会的・文化的に規定され、個体のレヴェルでは学習と訓練によって 条件づけられていることをMeyerが強調することは全く正しい。

それでも尚、心理学的な一定の基盤を考えることは対象を限定すれば―つまりマーラーの場合とかにしてしまえば― 有効な筈だ。そうでなければ無条件で、規範としての音楽理論が幅を利かし、個別の経験の質は救い出せない。

もしNichlas Cockeの言っている事が正しいとするば―そしてそれは正しいように思われる―音楽を分析することは 新しい聴き方の創造であると言って良い。
様々な聴き方があり、場合によってはそれらに対して規範を持ち込むこともありえる。
(どの聴き方が「正しい」のか、という論争は、規範の導入によって生じる。)
もし、「作曲家の意図したこと」の再現であろうとするならば、その作曲家がどのような理論―これは伝統的な 「理論」である必要はない。むしろ個人的な文法と言うべきかも知れない。―を持っていたかを考えることは 意味があることだろう。
だが、ここで「意図したこと」には曖昧さが残る。つまり、彼が意識的に行った操作が作品のすべてなのか、 作曲者の明示的な意図がすべてなのかという問題が別にあるのだ。
個人的な文法というのは、意識的なものではないかも知れない。
そうした本人が気づかなかった規則性を抽出することは、それでは無意味な越権行為なのか?そんなことはあるまい。
作品の価値は作者の意図は超え出ている。「天才」ということが言えるとしたら彼は自分で思っているよりは偉大なのだ。
(勿論、技術的に「うまく書けた」と思うことがあっても良いが、それが全てではない、ということだ。)

Meyerの参照的表現主義と絶対的表現主義者の対比は事態の整理には役立つであろう。要するにマーラーの場合、 特に前者が幅を利かせるのに対し、後者の立場を強調したいというのが私の意図だ。そして私は形式主義者ではない。
形式主義的に音楽を聴いていないのだ。
勿論聴き方は色々あって良い。単に私はそのように聴かないと言うだけの事だ。

Adornoの聴取の類型について、理論―心理学(規範的―現象記述的)及び(参照的/絶対的)表現主義的/形式主義的という 観点からながめること。彼は結局のところ情緒的に音楽を聴く聴き手を貶めることによって彼がとっておきたかった 美的なものの「複合性」犠牲にしていないだろうか?



聴取について

聴くことの中に行為を持ち込める。単なる受動ではない。娯楽でも気晴らしでも、知的な遊びでもない。

音楽のうちですら、行為論と認知論との間には溝があるように思える。
享受の極の議論と、制作(作曲および演奏)の極はやはり別れる。
そして認知自体を論じるのか、認知される内容(音楽に表現されているもの)を 論じるのかの分裂もある。
もともとは後者がやりたかったのだ。だが、前者の比重も大きくなっている。
前者の方が、寧ろAIやプログラミングの問題と結び付けやすくなっている。
後者の内容の問題は、要するにクオリアの問題だが、これはなかなか結びついてこない。

さまざまな音楽。ある個体の受容についていうのであれば、いつその音楽に出会ったのか?
音楽には言語における母語と第2言語の習得のような差異はないのだろうか?
新しい音楽、異なるタイプの音楽に出会い、その仕組みを理解し、そこから何かを学ぶことはできる。
だが、それを表現の媒体とすることについてはどうだろうか?あるいは表現されたものを受容するという過程については?

一方で、可塑性を信頼する立場もある。何歳になったら言語の習得が困難になるのか、 母語・第2言語の差異というのは結局、一般には程度の問題ではないか(私の場合はそうではないが) 母語以外を表現の媒体とすることだって可能ではないか、と考えることもできる。

その一方で、あるシステムが他のシステムよりも合理的で強力だ、ということはないだろうか。
そうだとしたら、これはどちらを先に受容して、内部のネットワークを形成したか、という問題ではない。
今度は可塑性が力を発揮する。そして、あるシステムはその可塑性をより発揮させやすいシステムを持っている、etc.
あるいは、作品を作る仕組みとして強力であるがゆえに、より力を持つ作品が作られやすい。
ある文脈、ある目的のためでない音楽、というのが可能なこと自体、そのシステムの強力さを表していないか?

勿論、ある個体がそうした強力なシステムを受け容れるか、拒絶するかは別の問題だ。

*

悲しみを、怒りを、感情や気分を読み取るというとき、実際に悲しんでいるのか。
だが確かに悲しみの構え、枠のようなものは構成される。
悲しみが表現されている、というのはどういうことか?
志向的対象は明らかでない。悲しみを引き起こす原因は不定のまま。
悲しみの志向的な構えはある。が充実されるべき対象はない。
ある意味では逆向きの流れ、「型から入る」―文脈に応じて対象が見つかるかも知れない。
ある旋律を聴いてしかじかの感情や気分になる、というのは、タブララサではなくて、文化的伝統の枠組みの中で起きている。
幾分かは生理的基盤を持つが、概ね文化的なもの。
幾分かは記号なのだ。慣習的なコード。共有されている場が存在する。例えばショスタコーヴィチと私の間にそれは実在する。
それの如何にして、の部分はある種の模倣に基づいている。
喚起される感情と、表現されているとされる感情、ここでは専ら前者が問題。
形式や構造の把握―完全に知的なもの。だが、期待―充足のような図式がある。
期待―充足は行為に関わる構えのこと
クオリアは機能主義的に考えると、随伴的なものと言っても良い。
運動感覚、時間意識も結局そこで生じる構えのある側面に過ぎない。
感情や気分、情動の側面を抑制すると浮かび上がる。
要するに構えのどの側面を強調するかの問題。

背景を知ることによって音楽的イベントとそれにより生じる構えについて、ある解釈を することができ、それは作者の側で意図されたり、あるいは実際に生じていたものの モデルとなりうる。だがそれは副次的で二次的な構成に過ぎない。

悲しみの原因が(対象が)認知主体の側にあれば、悲しみの枠を用意する音楽が 本当の悲しみを惹き起こすかもしれない。
だがこのとき悲しみの原因は曲ではない、曲は対象ではない。
表現された怒りは怒りの指向のみが結晶して残っていて、対象は落ちている。
音楽とは空虚な志向、感情の抜け殻なのだ。

*

何度も聴くことは、一度しか聴かないこととは異なる。
ある「部分」を再度聴くことは、そこを「部分」として、全体の脈絡の中で聴くことなのだ。
更には他の曲の中に位置付けて、勿論、他の作曲家の作品の中に位置付けてという延長も可能だ。
聴き手の聴取時の文脈もあるだろう。
かつて聴いた時の文脈の想起もあるだろう。
これが中心になってしまえば、音楽を聴くのではなく、過去の経験を想起するトリガーとして(検索のキーとして) 利用されることになる。尤も、その場合にキーと内容の関係は様々であるだろう―ある情緒、感情の喚起という形を とるかも知れないから。

だが、作品の内部に文脈を限定しても、その部分はまさにその「場所」に位置付けられる。
一度そうした経過のうちで聴いてしまえば、その部分のみを取り出して聴いたらどうなるのかを考えるのは少なくとも 困難を伴う。
音楽自身が、再現するとき、過去を想起するのだ。
再現は同じものではありえない。
Da Capoは時間の静止を、中断された継起の再開を告げる。
それは時間の経過を「変わっていない」という形で告げ、ついで帳消しにする。
発展変奏の類における、あるいはソナタ形式の再現はDa Capoではなく、同じものではない。

それは非可逆の変化を告げる。
Da Capoは主体にとって外在的だ。それは主観的な時間の経過と「外側」の出来事の経過の不一致を告げる。

だがレントラーの三部形式をそのように捉えるのは、既にある立場を、それを単なる舞曲として、踊るための音楽として 考えないことを意味する。舞曲は一旦、直接的に身体的なものから、心理的なものに抽象され、更に、主体と外部との あり様を記述する現象学的な音楽になる。
だからこうした見方は、どこにでも適用できる訳ではないし、適用できてもそれはある種の誤読、少なくとももともとの 機能からかけ離れた読みだ。

ところで「もともとの機能」というのにこだわる必要は「作曲者」を記述する系の中に取り込むのでなければ、 全く無いことになる。
「作曲者」を記述する系の内部に取り込むケースはほとんどない。
だが、現象学的な音楽の場合、この場合については「作曲者」を内部に取り込まねばそうした記述が困難であるかの ようだ。
音楽の内容における「主体」は、勿論、作曲家自身ではない(寧ろ、聴き手であるといった方が良い)
劇音楽と異なって、叙事的な広がりを有するとは言っても、それは描写的な客観性からは遠い。
パースペクティブは主観の意識のそれで、観客のそれではない―そうしたパースペクティブが現象学的という 所以なのだ。

例えば、気づかれずに聴かれている動機の連関を意識すること、明らかにすることはどうなのか?
それは引用を知っている/知らないとは些か異なると言えるかも知れない。
少なくとも、それは無意識には聴かれていて、作品のコヒーレンスの認知にどこかで寄与している可能性が高い。
勿論、それを意識しなくても作品を聴くことはできる。(演奏の場合も多分同じだ。)
だが、作品が「何故」「如何にして」あるプログラムを表現していると言い得るかを説明しようと思えば、 どうしてもこうした連関を明らかにしていく他に方法はなかろう。それが、作曲者自身に気づかれていたかどうかすら 問題ではない。


病跡学

例えば、福島章1978「グスタフマーラーの想像と強迫反復」in「天才の精神分析」pp.61-74 新曜社,
阪上正巳1988「グスタフマーラーの病跡―強迫的衝動性とパラノイア性」病跡誌35 pp.39-51,
高江州義英1979「グスタフマーラー」病跡誌17,
福島章1983「マーラー初期作品の分析」病跡誌25,
福島章1989「マーラファンの精神分析」in「マーラー」サントリー音楽文化展'89


社会学・教育・文学

全面的に首肯できる訳ではない。総論反対・各論賛成に近い。
細部の分析は見事だが、Adornoの社会批判的立場はいただけない。
その評価は時としてあまりに恣意的だ。

美しくないモナド、星座
・gmにおけるAdorno的な視点。西欧的な視点の排去。ごく自然に100年後の日本に生きる人間の距離で。
伝記主義の中央突破(他の対象ではできない。)

サン・ヴィクトルのフーゴーの教育論における類型。
全世界を異土とする、というのは、マーラーの有名なことばを響きあうものがある。

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マイヤーのディレッタンティズムへの反論 それではディレッタンティズムでない読み方に何の価値がある?
勿論、「文学史」なり「文学理論」があっても良い。
だが、あいにく文学は―意図から言っても、結果から言ってもそうした学者仕事のためにあるのではない。
gmの音楽もまた然り。
音楽は少なくともここでは分析される「ために」あるのではない。

*Adorno
音楽形式を管理社会の比喩としてとらえ、一応既存の形式枠の存在を容認した上で、 それを打ち破るところにマーラーの音楽の脱近代社会的特質を見出そうとする 否定弁証法的見方(高野 事典p.271)

(Silbermann p.429)「~で虚しく試みているように、この作曲家を預言者的な社会批判者 に仕立て上げようと...」

(Hopkins/Meyer)Snyder p.203 で言及されているパラメータ及びクロージャ


多楽章の場合
(1)生成史的な視点(実証的に):どこから始めるか。e.g. LEは2から、Vは3から、VIIは2,4からetc.
(2)静態的な「作品」の動力学。どこが形式的な出発点か?(これは音楽の時間的な継起の順序とは別である。cf.小説における叙述の順序)

ex. LE 作品の順序(大谷説)と作曲の時間的順序(Hefling IIから開始)
どうせ人生と芸術の乖離を言うなら、実証的な論拠を示せるこちらの方がいいのでは?(cf.村井の議論)

美学において「普遍性」はまやかしだ。少なくとも種の限界を超えることはできない。
GMの素朴さ、純真さ。何故屈折一方の解釈が我が物顔でまかり通るのか。自然児。常にメタレベルではない。マルチレベルであり、より包括的であると言える。

affect 涙を流すこと、cf. 能、文楽 「上品さ」「慎み」という規範からの逸脱。いつも「ひとひねり」ではない。
音楽外経験の連想によるのか? (Xenakisのprotestを思い浮かべよ。)

客観性/主観性の極の逆転?
歌曲の場合 Wunderhornliederの客観性/fallenden Gesellen, Kindertotenliederの主観性?
Symphonieは客観的な筈?
だが、GMではそうではないのではないか。主観的・個人的・私的な独白としての交響曲
個人と世界との関係(そのいずれの項でもなく、関係性)
Heimat 社会や社会集団、他の「人」の介在/自然・孤独

外/内、ベクトル
超越の運動。
外に向かってはみだす。
外からやってくる。cf. AB,AW,JS。GMではVIII。別の仕方でIIIも。
天から降ってくる。←自分が昇ることはない。だが、GMでもIIは?
内面を降りてゆく。記憶の窓の外側に降りる。ABならVIII, JSならIV, GMではIX, X
両方ある。後者のみは?
CFは?だがそれは求心的でもない。内面に「空間的な」拡がりがある。MMも一緒に考えることができる。

toposの問題。世界と主体のどこで鳴っているのか。世界の側から?向こうから音楽がやってくる。
主体はどこにいるのか―「自分の」場所ではない。cf.IX-1のコーダ。ヘルダリン後期の詩篇。神話?―信仰?
作曲家とは? cf.シェーンベルクがIXについて言ったこと。

仮象性:宗教性に対する距離
素材としての形而上学的問題。不滅性etc.を超えることができるか?
「神経美学」的な基盤の下で、如何にして音楽が、快/不快や「効果」以上のものを持ちうると主張できるか

作品の不滅性の否定。
作品それ自体(個人の声ではなく)。だがGMの場合はどうか。アウトサイダー・アート的なもの
あるいは精神分析的な「体験」の語り。作る側も聞く側も。
聴くことの儀式性、聴体験を語ることの儀式性。

Holbrookの解釈(p.79)をVarianteの技法のSemanticsとしてみてみること。cf. idee fixのtransfiguration

意識の音楽
流派ではない
歴史的な分類や概念ではない
作者の意図とも別
主観性でも「描写」音楽でもない
或る種の捉え方
技法とのある向き合い方。一定レベルの「ゆとり」か距離が必要。或る種の熟達も必要条件(十分条件ではない)。
具体的に何が言えるのか?
何か特定の「意味」、具体的な説明はできない。歌詞は素材で音楽の「意味」ではない。
「意識」の様態―描写というより映されたもの、聴取による「感受の伝達」
意識とは言うが、常に意識が関与している必要は無い。
だが、意識の関与が見られる、その痕跡があるような音楽。
人により、曲により意図するかは別だが、勿論影響はある。意図せずにも勿論ありえる。

風景の問題。自我の音楽/世界の音楽のうち、前者には風景はない。内部の系の記述。 後者は風景、主体の動きはない。意識の音楽には両方の極が存在する。外界に対する反応の、界面の記述。 素材と内容のどちらに創作の極の関心の中心があるかが表現主義の問題だとすれば、これはそもそもここではナンセンスではないか?

印象主義のパラドクス。対象から認識様態への視点の変更はあるが、だがだからといって、それ以前に「風景」があったわけではない。 寧ろそうした視点の変更が「風景」としての対象というあり方を可能にしたのだ。 工房の、アトリエの中で描写は修辞学の体系の内側にしかなく、生の現実はなかった。生の現実なるものは、対象の「手前」の 発見とともに発見されたのだ。そしてこれは音楽についても同じだ。標題音楽や描写音楽には寧ろ、現実の端的な反映はない、 というべきなのだ。絶対音楽そのものではなく、それを借用して意識の流れ、無意識の、夢の作業を定着させる枠組みに 換骨奪胎することがマーラーの作業だった。既存の音楽はそれ自体、素材として用いられる。マーラーは、「見えたものを 見えたように」、「感じたものを感じたままに」定着できると思い込むにはあまりに哲学的な発想の持ち主だったので、結果は いわゆる狭義の印象主義を逸脱し、寧ろ「意識の音楽」とでも呼ぶしかないような多層的で内側に自己言及性を孕んだ構造を 作り上げたのだ。それは世界の描写でも世界を垣間見た印象の定着でもなく、むしろ、マーラー自身、ある時にそういったように 世界そのものの構築に近い。マーラーの音楽を哲学的と呼ぶべきなのはこうした点においてであって、決して素材として ニーチェを使用しているとか、ゲーテを用いているとかというのは何の根拠にもなっていない。

絶対性に関していえば、GMには或る種の逆転がある。歌詞があるときの方が、分裂していて客観的であり、 絶対音楽的な中期交響曲の方が主観的でさえある。cf.新ウィーン楽派特にWebernの初期の表現主義
歌曲が主観的であるわけではない。交響曲もpolyphonieであるからには、単独で孤立した主観の内側ではない。
だがクオリアは残る。クオリアを他性と隔たったナルシスティックなものと捉えるのは、クオリア自体の持つ「外性」、力を見落とすことになる。
そもそもなぜ「印象」として刻印されるのか、クオリアは外部からの力の痕跡なのだ。そういう意味では、クオリアは私的かも知れないが独我論的ではありえない。

GMの音楽は力学系としてみたとき、非自律系ではないか?
再現・変形の問題、外部が映り込む。

Absoluteness (Knapp)
metaphoricalだが作品自体の「自己」 -- 系としてならmetaphorではない(成立条件としてどのような構造を有している必要があるのか)
⇔Schopenhauer的Wille / Weltlauf ⇔Adorno的モナドに投影される社会・制度などとの関係
⇔Himmelの多義性少なくとも多価性
Durchburch:相転移として定義しなおす。
要件:複雑さ(感受しうるにはある程度の複雑さが必要):次元の数、パラメタの数のどちらか?
GMに起きえて例えばAWには起きないと言えるのはどのような根拠によるのか。

意識の音楽を支える根拠:
・外界の音に対する反応→音楽
・雷鳴・風の音etc. cf. ix/js/gm
・身体性、踊り ワルツ・レントラー・行進曲
・共感覚?:色・光の調子、湿度、明るさ、空間性

Reverse Flow of Time
III-6, VIII-2 etc.
(1)現象論的特徴
(2)gmのみ(何故? Romanのモデルから?)ab,aw,dsch,jsのいずれにもない。
(3)回想にあらず。経験された過去、記憶の想起でない、確かに類似はあるが。ノスタルジーとの関連。夢。
 夢は確かにgmの特性かも知れない。

GMはいつもlevel4の推論者ではない。
眠りへの接近
動物や植物
level間の往還がある。
だが、楽曲のある箇所が眠りのパートであるというのは何を根拠に言えるのか?
cf. suspensionは多分取り出すことができる。定義ができる。
levelの違いが楽曲のどこに現象しているのかを明確にする必要がある。

Franklが現象対決的なのに対して、森田は現象受容的(大谷)。
現象に対する態度が含まれることに注意。実は常に・既に含まれていると考えるべき。価値論的な世界の方が具体で 認識モデルは抽象に過ぎない。
更に態度が認識されている現象に映りこんでいる(従って態度によって風景は異なる)ことにも注意。

GMをAdornoから引き離す。日本では寧ろ自然なことのはず。Adornoは多分誤読されるほかない。異なった読み方しかできないのではないか。
多分Adornoの受容そのものが日本では特異なのだ。弁証法の持つ重みの違い。 日本人は否定弁証法的にGMを聴けているだろうか。 美の問題もそう。醜さ、グロテスクにしてもそう。Weltlaufを、現象を「受容」してしまう志向姿勢を持つ文化圏において、同じように聴けるはずはない。
だが、それはGMを誤解している、ということではない。GMであれば、そうした聴き方も可能なのだ。他の作曲家の受容では災いであるものが GMの受容の場合には福と転じる可能性がある。

Coockeの言う「音楽の言語」
文化依存だが、それでOK
歌詞の問題:GMの場合は寧ろわかりやすい。
受容についてあるレベルの誤差で論じることは可能。


イロニー・パロディ・異化

異化の微妙さ、異化の効果は文脈を前提にする。
もう一つ、表現主義の方向性は民族主義―コスモポリタニズムの軸とはとりあえずは関係しない。
文脈を知らずに文脈から身を引き離したことがわかるだろうか?
多分わかると思うのだが、、、(ある種の抽象性と具体性の混合として)

イロニーでも何でも、メタファーならメタファーで音楽の具体的な部分に、構造に帰着できなければ不可。
印象は不可。メタファーならば指示されるものと媒体が少なくとも存在する。
だから、急いでイロニーやグロテスク、パロディに飛びつくべきでない。
(もっともパロディはオリジナルが明らかならば、それを認めること自体は構わない)
だが、そのパロディの「意味」については慎重であるべきだ。(ショスタコーヴィチでも同じ。マーラーだけではない。)
具体的な音楽に即して記述すべきなのだ。

ドン・キホーテもまた、パロディーであった。
だが、ドン・キホーテを読むのに、パロディー元であった騎士道小説を読む必要がある、と言えるだろうか?
そうした文脈と、そうした文脈に即した受容、同時代における受容が、より本来的といえるだろうか?
否、決してそうではあるまい。いわゆるアイロニーなら、歴史的文脈を知らなくても、その文体によって 感じ取ることができるし、ドン・キホーテの感動的な部分は、そうした歴史的文脈を超えている。

マーラーに対しては、まだ充分に距離が取れない時代なのだろうが、マーラーについても全く同じだろう。
旋律が同時代の何かの引用であったり、パロディーであることを知り、そのように聴くことがマーラーを 聴く本来的なあり方であるはずがない。
文脈に対して無意識な子供が虚心に耳を傾ける時に響く音楽の方が、その作品の価値の核を 正しく聴き取っているのだ。

パロディ度数のようなものも興味深い。-もっともこれは演奏と受容の動的過程を考慮しないとだめかも知れない。
つまり、パロディには解釈者がいつも必要なのだ。だからパロディは原理的に不安定だ。(そうは受け取られない場合が常に存在する。-作品としては「不確定」である、と言っても良い。せいぜいが確率が与えられるくらいだろう。-特にマーラーの場合は、全てについて、そうした確率を付与して良い。パロディである可能性が原理的に存在しない作品はマーラーの場合にはない。


誤解・誤読?IVやVII-5の聴取、parody性について。
多分Kennedyの著作により可能性は認識した上で、Kennedyの意見に従って、(といっても必ずしもそれを絶対的な権威と見做したわけではなく、寧ろ、自らの聴取に照らして)それをparodyなしで受け取ったのだ。
II-3はどうだったか?VIのスケルツォは?VII-3は?IX-3,X-3,4は?
その鋭さを「そのまま」受け止めたと思う。
だが、VII-5やIVの陽気さもまた、「そのまま」受け止めた。II-5(多分4も、というより寧ろ4こそ!)やVIIIはどうなるのだ?
*宗教が装飾と化しているいるのでは、というあの嫌疑、Adornoの留保が適用されるのだろう。
VIII-1とVII-5―柴田1984のようだ―を連関させるとしたら、やはりVII-5はparodyでないか。それともVIII-1がparodyかのいずれかになる。
勿論、作曲家の意識の上では、VIII-1はparodyではありえない。

作曲家の意図についての解読(例えばショスタコーヴィチにおいて行われている様な)が、ここでも問題なのか?「彼」がparodyを意図したことが問題なのか?
それともここで、Adorno的に、隠れた作者を、主観でも世界でもない、表現されたものの主体でない作者を考えるべきなのか?

二重言語性について。
再び、文脈を全く共有しない子供が始めてマーラーの音楽を無心に聴いて受け取るもの。 多分、マーラーの場合とショスタコーヴィチの場合とでは異なるかも知れない。 もっともマーラーの音楽とて一様ではなく、程度は色々だ。つまるところ、こうしたことは 過度に一般化して語るべきではない。
二重言語性ではなくて、皮肉っぽい気分や諧謔は文脈なしでも感じられる。 皮肉や諧謔は音楽的語法として存在するから。別にmit Humorと書かれていなくても、 わざと調子を外した旋律線、奇矯なアクセントなどから、そうした気分は感じ取ることができる。 要するに、この水準であれば、音名象徴などとは異なって、あるいは発達した形態に おけるクラングレーデとは異なって、「通のみがわかっている」コード表なしでも、何某かは伝わる。 一方で、極端なケースでは二重言語であることを隠蔽するような在り方というのもあって、 この場合にはさすがに文脈なしではわからないだろう。
しかしこうしたことであれば、別にマーラーだけが問題ではない。寧ろこうしたことはバロック期に おいてはごく普通だったろうし、もっと洗練され手の込んだ仕方で行われた例もあっただろう。 秘められたメッセージとその解読は、それが音楽の享受のすべてではないにせよ、あちこちで 行われてきたことだ。(音楽だけではない。絵画もそうだし、言語を使ったジャンルでもそうだ。) もう一つ。マーラーとショスタコーヴィチの語法は他人の空似ではなく、ユダヤ音楽の語法を用いている という点で共通しているようだ。だが、多分、こうしたことは件の子供の聴取にはあまり 関係がないだろう。勿論、ユダヤ音楽の語法に含まれる、或る種のアイロニカルな悲しい 調子や、鋭さは伝わる。だかそれが何に由来するかは、少なくとも彼にとっては副次的な ことだ。

悪を醜さとして、音楽の中で表現すること。
人間的な音楽。思想や感情を音を使って表現するというロマン主義的姿勢。
一見、悪を表現する、醜を表現する、というのも普通に行われてきたように感じられる。
だが、例えばそれは、演劇的空間の中で、記号としての悪を表す修辞学が、 クラングレーデがあったということではないか。
一方で二元論はソナタ形式を支える論理であり、ソナタ形式のアレグロ楽章のその動性の根拠だ。 だとしたら、ここで善と悪との葛藤が表現されてはいないのか? 運命との葛藤、困難や苦難との闘争が、ベートーヴェン以来の英雄的なソナタ形式が 表現しているものだ。運命も、困難も、苦難も、原因は皆、外にある。 表現されているのは、悪との戦いであり、悪そのものではない。
そしてまた、ロマン派の音楽は美をその規範とする。それがフランス革命以降の、 前古典期の音楽に要求された「快適さ」を起源としているのではないのかという問いは おくとして、絶対音楽は美を依拠する唯一の価値とする。だから醜いものを持ち込む ことは、その規範からの逸脱だ。描写音楽なら、標題音楽という名目の下、限定つきで 認められていたに過ぎない。だが、それが社会的な要因であるかどうかはともかく、 それは常に忍び込み、その都度指弾を受けながら、時代を追う毎にますます 幅を利かすようになったように見える。調的言語の拡大は、不安や恐怖を 表現するために為されたかのようだ。
だがマーラーの場合には、悪そのものよりも、悪との闘争が前面に出ている。
ショスタコーヴィチの場合とは異なるのだ。
勿論、もはやそれは英雄的なものではなく、ごく私的な悲鳴に過ぎないかも知れないが。
マーラーは悪に対して、ナイーヴであったのではないか?
自分の中にあるそれに対しても、無頓着で無反省であったのではないか?
人間はそんなに立派な存在ではない。として、そうした醜さ、不完全さを告発することに意味があるだろうか?
例えばオペラやある種の演劇の様に人間を描く、それに意義があるか?個別の人間の不完全さを書くことに 意味などないのではないか。―マーラーはそれをしなかったとも言えるし、交響曲という形式を簒奪してやってしまった という観方をする人もいるだろう。


引用

引用に意味がないとは言わない―自己引用と、他者の作品の引用を区別することを完全に正当化することはできないだろう。 また、引用によって、作品の意味が―少なくともその一部が―構成される可能性、あるいはまた少なくとも作者の意図が 解読される可能性は否定しない。 だが、引用の解読は、引用された楽句が作品の中でどう機能しているか、どのような文脈が作品の側にあるかについての 議論なしでは、作品には辿り着かない。 自己引用は除いて―それは作品全体を一つの総体としてみる立場からすれば、どのみち考慮に入れなくてはならない― 引用というのを締め出してしまったとしても、それでマーラーの音楽の力が弱まるとは到底思えない。 何故、引用の知識が作品を理解する要件になるのだろう。 もしかしたら、それはそれである種の音楽の歴史のようなものになるかも知れないが、それには興味はない。

多分こうした限定には批判は可能だろう。だが、どこかで切断する必要はあるし、(しないなら、マーラーの音楽というのも 止めにすれば良い。中立的な作品の概念をとことん破壊した上で語って見せればよい。それをやらないで こうした作業仮説的な限定を批判するのは、批判のための批判に過ぎない。)結局はここではマーラーの作品を扱いたいのだ。 編曲はどうなる?編曲と創作に線を引くことは出来ないだろう、という主張も同じだ。それは程度の問題だ、という他ない。 少なくともマーラーの場合、(それがかなり創造的な局面を含んだとしても)編曲を創作の間に区別を持ち込むことを妨げるものは 無い様に思える。一般の音楽についての理論など必要としていないのだから、現実にマーラーにおいてある切断が、 限定が可能なら、それで充分なのだ。

作品と、せいぜいが歌詞、これに限定すべきだ。
勿論、それですらある文脈において聴かれるという限定から自由ではない。 だが、それから自由になるのは不可能だ。(宇宙人に人間の感情を伝えるのなら、、というエピソード は、実はこうした議論では真面目に検討すべきだ。多分、宇宙人にはマーラーの音楽はわからないだろう) だから、どういう前提に立つかが自覚されていれば、それでいいのだ。

引用を考えることの際限なさ。 例えば芸術音楽については、いくらかは(現代の日本に居ても)辿れるだろう。 だが、民謡やユダヤ音楽は?
一般に創作の極における社会史的背景を跡付けることは意義あることだが、最後は作品と無関係なところに 行ってしまう。
(Adornoの観相学にとって音楽は媒体に過ぎないのではないか、という疑問が付きまとうのはそのためだ。) 文化史的な意味づけ、音楽における「引用」も、同じことだ。 作曲者について「事実」どうかを問題にするにせよ、享受の受容の極で起きていることに限定するにせよ、 そうした関連付けが意味のすべてではない。認知実験的なレベルは抽象だが、そうした基層を除いて周辺を うろついても音楽を言い当てることにならない。 標題をさぐっても音楽そのものには行き着かない。
一方で音楽から読み取れる意味の方に熱中するあまり音楽そのものが消えてしまうべきではない。 (cf.川村のAdorno批判は、その意味ではあたっている。)


標題について

もし本人の意図が音楽のプログラムを傍証するならば、大地の歌やショスタコーヴィチのXIVは誤解の余地はないことになる。
でも多分、それは単純にすぎる。
ショスタコーヴィチのXVやMahlerのIXがそれを物語る。

実証的な検証:1896、標題性の放棄という観点からの転回点?(桜井3 p.141-2)
第3、第1のベルリンでの演奏~その他は?
嘆きの歌の改訂?
確認のこと。

文字通りに受け取る必要はないものの、標題性についても(何とマーラー自身は)それが素材なのではなく、 結論、出来上がったものが結果的にそう解釈できるという意味合いでの<説明>に過ぎないことを認めている。 従って、マーラーの場合はいわゆる素材としての標題の音による実現ではない限りにおいて、それを標題音楽と呼ぶのは 誤りである。(第2交響曲や第3交響曲、第4の生成史はそれを裏付けるだろう。) 実験ということであれば、何が表現されるかも、最後まで決まらない。表現されるべき内容があって、 その仕方の巧拙が問われるのではない。もし、成功/失敗があるとするならば、内容もひっくるめてである。 (Adornoが批判的にひいた「高貴なことを志したが、無慚にも失敗した」という評言は、Adornoの言うとおり やはり適当でないだろう。) つまりkennedy言うところの「実験」そのものについて成功/失敗が言いうるのだ。

IX-4:音楽図像学上の「昇天」?
物理的、身体的死の象徴化?
私には、どちらとも思えない。己の死は一度しか経験できない。
そのときには正誤の判断を残すことはできないだろう。
否、Mahlerはこの曲をいつもの夏に書いたのだ。死についての省察が含まれているとは思うが、 如何なる意味でも、死の描写(象徴的であれ)ではないだろう。
「について」という標題の陳腐さにも関わらず、そうした距離は存在する。異なるのはその距離の「間」で生じていることだ。

記号論はたいていの場合(楽曲分析と同じで)既成の図式に経験を整序することしかしない。
図式を作り上げる手助けをするよりは多く、単にそうした出来合いの図式を用意するに過ぎない。
だからつまらないのだ。
Xについて音楽が語る、というのはどういう事か?
マーラーの音楽はプログラムを持っている。本人も認めているし、それは否定できない。
だが、マーラーが与えた標題は「説明」に過ぎず、素材ですらないのだ。
何故ある曲がXについて語っている、と言えるか?
マーラーがそういう標題をつけたから、というのは答としてはナンセンスだ。
もし、そうだとしたら、それはマーラーの意図の説明で、音楽が語っていることではない。
それで良ければ、どんな凡庸な音楽ですら、いくらでも高尚な事を語りうることになる。
結局、音楽の構造から、形式から、そうした内容が「効果」として生じる、というで なければならない。生産の極に偏した研究が逃すのは、そうした聴体験のクオリアだ。
だが、マーラー自身が「直観」と呼ぶもの、クオリア以外に救い出すべきものはない。

マーラーのそれは「説明」に過ぎない、素材ですらないのだ。
だから、やはりFlorosの立場は(Straussになら正当化できても)正当化できない。
それは例えばScoreへの書き込みの類と同じように読まれるべきなのだ。
例えばVI交響曲のカウベルについての注記は、標題を示して、その後で撤回するという手つきと同じだ。
イメージを示して、でも標題音楽的に解釈するな、という。

IIIは意識の点でも(標題を密輸することで)意識の進化論、発展を論じる口実が与えられている。
だが、標題と音楽は一致するとは限らない。
「音楽が語ること」は何か?
そもそも「意識のレヴェル」を表現することと、音楽が認知的にある意識の機能を使うこととは (とりあえずは)同一視できない。
より低次の意識、前意識etc.を「表現する」と言われるとき、その「表現」は描写音楽や 標題音楽に帰せられる記号論的な機能とは異なるだろう。
Greeneの論は意識を時間性と読み替えることで、調的配置やフレーズのclosureの様態といった 楽曲の形態論を意識の様態と対応付けることに成功している様だ。
勿論この手続きは間違っていない―否、寧ろこの手続きこそが正解なのだと思う。
だが、Greeneの叙述も時折、予定調和的にマーラーが仄めかして消した(だが消したことがわかっている のだから、それを知ってしまえば何もなかったのとは同じではない)標題に合致するように 楽曲の構造を読んではいないか?
という疑いを一度は持つべきだろう。
果たして、その楽曲は標題が示すような階梯をなして(「表現して」ではない!)いるだろうか?
だが、例えばフレーズの開閉や連結、対位法の層の様相、音楽事象の密度、そしてマーラーの場合は 第10交響曲におけるまで一貫した調的配置の機能は、楽曲の認知的内容を形成するゆえに 信頼のおける根拠になりうる。
プログラム的な連想は排除できない―歌詞がまずもって侵入している。マーラーの内部に限っても 歌曲と交響曲の相互引用がある―文化的背景、巨大な引用元たる西欧の音楽の伝統を意識せずとも 「抽象的に音を聴く」のはマーラーの場合は(作曲者の意図はべつにしたとしても尚)不可能だ。
だが、印象批評を止めたければ、楽曲の構造に拠るしかないのは明らかだ。

標題といい、歌詞との関係といい、複雑な様相を示す現実を、 既成の概念と用語とで語ろうとすると、どうしても単純化がおきる。
媒体の肌理の粗さのせいで、現実をうまく捉えきれないのだ。
たいていの論争は、媒体となる用語の周囲を巡っていて、対象自体には届いていない。
だから、作曲者は分析されることを嫌うのだろう。



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(2007年6月作成)