グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


「意識の音楽」への準備(2002--2008:未定稿)

はじめに:ここでの立場

1.倫理・価値こそが意識に固有の領域であり、意識についての学ではなく、意識にとっての学としてのみ哲学は意義を持つ。 そして意識の自己運動たる哲学は原理的に喪われることはない。(勿論、ある種の宗教的な立場のように、あるいはもっと 無自覚にそうした営みを不要なものとして、意識の立場を放棄する選択肢はある。勿論自覚的である限りはそれ自体は意識の営みである。)
2.音楽を(1)演奏・享受におけるクオリア(2)作品、ミーム、制作行為としての作曲・演奏という2つの相で眺める。2つの相をここで区別したからと いってそれが本質的な区別であることは含意しない。何なら、「言い回し」の類と捉えてしまってよい。ただし音楽を自律的に捉えることはしない。 それが完全に意識的なものではなく、比喩的に「身体化」された、と言われる学習行為による神経回路網のパターン形成の結果としての技能に大きく依存し、 あるいは、そうした技能以外の部分での同様のパターン形成の結果、精神分析学でいう「無意識」の影響を強く受けたものであったとしても、 それは意識の営みであり、ここで扱うマーラーの音楽については、それは明らかである。

意識の問題は、マーラーの同時代であれば寧ろ哲学の領域であったであろう。 意識や音楽を脳神経科学やAIおよびプログラミングといった今日的な展望の中で考える時、単純なクロノロジーのレベルでマーラーは一見したところ文脈外 ということになる。そうした見方をするのなら、マーラーと例えばショスタコーヴィチは同列には扱えないことになる。

そもそも音楽自体がマーラーの時代と今日では変容している。例えば今日ではごく普通の関係である音楽とプログラミングの関係を考える場合でも、時代を遡るのは難しい。 音楽の領域の問題が、その時代固有のものであるので、それを扱うことは、それ自体を主題的に扱わない限り難しいし、困難に比べて意義が小さいのだ。 逆に同時代であれば、テクノロジーとしてのコンピュータは音楽の現場の問題だから、そうした点に関心のある音楽家に注目すればよい。

こうした視点に立つ限り、過去の存在であるマーラーとマーラーの音楽を今日受容することの意義は疑わしいものになってしまう。 だが、倫理や価値の側面との結びつきを無視することはできない。それも制作行為という実践のレベルではなく、作品のレベルでも考えたい。 前者はある意味では、自明だが、後者は謎だ。作品は抜け殻なのか?作品と創作主体の関係は?作品の享受は受動的で非生産的な行為なのか? 美学的な(「古道具屋」的な)享受とは異なる享受はないのか?そんなことはないだろう。 マーラーを聴くことがアナクロニーを含むことを踏まえつつ、そのアナクロニーをどのように考えるか、距離をどう測るかへの意識がないと、 時代錯誤な自分の立ち位置から、その立ち位置が己の同時代においてすら自明のものではないことに対しては無自覚なまま、 得意げに知識やら薀蓄やらをひけらかすことにより、そのことにより特権的な聴き手を僭称してみせる文学者によるマーラー論と変わるところがなくなる。 フェヒナーやロッツェを読み、物理学にも関心を抱いていたマーラーは今日の自然科学的な意識へのアプローチの揺籃期にあって、 その最先端への関心を怠らない姿勢を持っていた。そうしたマーラーを聴くときに、それを骨董品扱いすることが正当なこととは思えない。

それでは意識を扱うにあたって私は一体どのような立場をとればよいのだろう。 今日のおいてはマーラーの時代とは異なって、意識はすでに哲学の問題ではなくなっているかのように見える。 とはいえ、それは知識や認識に対する工学的なアプローチの可能性が追求された、人工知能研究の台頭によってではない。 だが、その当時の文脈に身をおけば、既に哲学の優越は喪われたとする考え方さえあり、例えば人工知能と意識の問題は、 人工知能がブームであった1980年代末には非常に近いと思われていた。

「伝統的な哲学的認識論の問題、すなわち認識にかかわる諸能力の構造と機能の問題は、これを純粋に非経験的な方法で探求する他はないというところから、 さまざまな経験科学が哲学から分離・独立して以後、哲学に真に固有なものとして残された唯一の領域として「学としての哲学」の アイデンティティの最後の拠りどころとなってきた。 しかし今や認知科学が、ここ30年ほどの間の情報科学の急速な発展を背景として、また特に、記述言語として情報処理言語(コンピュータ・プログラムまたは それを模した表現)を獲得したことによって、認識にかかわる経験科学としての条件を着々と整備しつつある。」 (野家「現象学と認知科学」)

だが、いわゆる記号表現の操作のレベルに限定した意味合いでの人工知能研究は、意識の問題に寄与することは、結果だけ見ればほとんどなかった。 それだけでなく、いわゆる記号処理ベースの人工知能研究、そうした前提をもったプログラムが、今後、意識の問題について何か寄与するかについては、かなり旗色が悪くなっている。 つまり、意識の問題については、方法論上、そのようなアプローチで何かがわかるということは望み薄のようなのだ。 今や人工知能は、認知科学の一翼ではなく、工学の一領域に収まってしまったように見える。 一方で、ニューラルネットなどのアイデアは、最終的には意識の何たるかを解明する方向性により近くはあるのだろうが、現在のところ、意識の問題とニューラルネットが簡単に結びつくようにも見えない。 意識の問題は、まだ工学的な方法ではどうすることもできず、神経生理学や脳科学が主として観察によって明らかにする事実の蓄積を待っているように思える。

人工知能研究のある意味での失敗、神経生理学や脳科学の進展に基づく意識現象に関する事実の蓄積、一方でそれと並行するように、 遺伝子工学の、遺伝のメカニズムの解明といった観点からの失敗(ゲノムの解読が終わっても、遺伝の、発生の具体的なメカニズム仕組みは 解明には程遠い状況だ。)といった状況下で、一体何ができるのか、何を言うことができるのか。

だからといって、主導権が哲学に戻り、非経験的な方法が復権したわけではない。ただ単に、当初の見込が外れて、意識の問題の解決が遠のいただけだ。 そして、それはある意味では当初から予想されていた通り、神経生理学、脳科学、ニューラルネット、カオス力学系といった分野にその問題は引き継がれてしまったように思われる。 哲学が全く貢献する余地がなくなったわけではないが、哲学的思惟が有効であるような領域は、そうした経験科学の研究者の仮説形成の段階に移動した。 勿論、現段階では意識の問題が経験的な方法で解かれたとは言い難いから、しばらくは、経験的な裏づけを持たない仮説の構築が 意味を持つこともあるだろう。だが、それらは結局、経験的な検証を俟って当否の判断が下されるのだ。

寧ろ、哲学の非経験的な固有領域は、経験科学的な方法論が基本的に相容れない領域、つまり、意識についての学ではなく、意識にとっての学に限定されるだろう。 規範的な性質を持つ広義での倫理の問題、意識にとっての生や死の問題など、従来から例えば宗教がより実践的な 仕方で扱ってきた問題、それに加えて文化的な領域は、そもそもその基本的な素材が生物・物理的なものではない。 これらは人間の生物・物理的な基盤に強く制約されたものであるから、その制約の有様を記述することには意義があるだろうが、 その基盤の上でその基盤とは別の次元を持つものであるから、基盤へ根拠を求めるのは誤った還元主義なのだ。 意識が解明されたとしても、意識にとっての問題が解明されることにはならない。

そして、意識がある以上、ほとんどの知的な営為は意識にとってのものだから、(いまや認識論にとって替わった意識の生物・物理的な解明も、意識の 無益な営みとしての存在論も、倫理や文化についての考察そのものを含め)その営みが、意識にとってなんであるかを問題にすることは可能だ。 哲学は意識の営みとして、寧ろ考察の対象になるべきなのだ。あくまでも実践的、価値論的領域における一つの行為として検討されるのがせいぜいなのである。 意識について問題にする限り、自分の背中を見るという無謀な企てに素手で取り組むという姿勢は無謀でしかない。 哲学者が古の知恵を軽んじないのは結構なことだが、そうであれば内観主義が(行き過ぎを伴って)行動主義に一旦はとって替わられた歴史も尊重すべきなのだ。 哲学が長いこと拘ってきた基礎付けの問題、実際にはこっそり「我々」を忍び込ませて読み手に語りかけながら、内容上は恰も独我論から出発する己の方法を 正当化しようとする方法論上の果てしない整備はほとんどは不毛で、意識の解明という具体的な問題の解明にとって寄与するところはほとんどない。 今や哲学者は意識にとって何であるかという実感に訴えるのを唯一の支えに、意識を自分達のためにとっておく望みのなさそうな、 そして実りのないことだけははっきりしている努力をしているように見える。 勿論、意識にとって何であるかは、意識とは何であるかが明らかになったところで、意味を喪うことはない。 だが、意識にとって何であるかをもって、意識とは何であるかを解明する営みに棹差すことはできない。 おとなしく結果を持ち帰って、それを実践的、価値論的に検討すればよいのだ。

意識の問題、しかも意識の内容の問題はクオリアの問題だ。 クオリアと行為がどう結びつくかという表現の問題は、辛うじて哲学の領域であり続けているようで、例えば現象学のフッサールの読み直しが手がかりになる 可能性だってあるのだ。哲学的な認識論が問題にし続けてきた、そして皮肉にも人工知能の領域でも繰り返し問われてきた表象ではなくて、表現が問題なのである。 正しく行為しうることこそが、知覚の志向性であり、その正しさは、そのように振舞いうることによって確認される。 世界にコミットする信念として技能のかたちで含まれているものを明示的に確定することが表現である。 そのときクオリアとは受動的な感覚質ではなく、身体的な振る舞いの可能性を感じ取ることではないのか? 行為へのいざないとしてのクオリア。そしてこうしたラインで、音楽を聴く時に受け取るものを考えることは興味深いことのように思われる。

意識と音楽という問いの立て方をしてしまえば、サンプルがマーラーである必要性はあまりないかも知れない。 いってみれば代表のようなものだ。マーラーを選択した理由は偶然的なものだと思えばよいのかもしれない。 だが、実際には順序は逆で、私が関心があるのは音楽一般ではなく、自分を惹きつけて止まない音楽を書いたある人の作品なのだ。 そしてその中で最も問題と感じられるのがマーラーなのである。

同じことが、このような文章を書く理由についてもいえる。それは結局、私的な衝動に過ぎないのだ。 何のために書くのか。それが有限で儚く、取るに足らない意識たる私にとって可能な抵抗の仕方の一つだから。 抵抗せずにはいられない。死別したものの追憶と、素晴らしいミームを遺した、過去の偉大な意識への敬意と、そのミームの存続に寄与したいという気持ちから。


1.意識についての幾つかのトピック

A.意識は進化の偶然の産物である

意識というのは進化の盲目的な実験がもたらした遺伝子の運搬体たる生物が備えた現象の一つに過ぎない。 それは進化の戦略の一つではあったし、恐らくそれなりに有効な戦略であったのだろうが、唯一のものではないし、意識をいかなる意味でも特権視することはできない。 意識は生物個体に随伴的であって、それは個体の死とともに消滅してしまう。否、個体の死を待たずとも、ある条件が損なわれてしまえば、意識は消滅する。

しかし、「意識にとって」の風景というのは存在する。意識にとっての領域は別に確保されるべきだ。それは意識を特権化することではない。 客観的にみてとるにたらないものであっても、「意識にとって」の視点というのは必要だ。 それなくしては、倫理も美的な価値も全く意味を喪ってしまう。 それらは「意識にとって」という限定つきではあっても、その限定の範囲内では意味を持つ。 例えば倫理学が存在論に比べて原理的に基本的かどうかという問いは、あまり価値があることに思えない。 なぜならば、その答えがいずれであっても倫理の意識にとっての意義に重大な影響があるとは思えないからだ。 仮に答えることが原理的に不可能であったとしても、意識にとっての倫理の意義は無傷のままだ。

一方で、皮肉なことに「意識にとって」の価値論的な空間は、もう一度意識を裏切る。 なぜならミームの空間は、主観を離れた社会的なものだからだ。 ミームの視点に立てば意識は、遺伝子にとっての生物個体と同じ程度の意義しか持たない。 意識はミームの運搬体なのだ。 だから、「意識にとって」の風景が存在するからといって、無条件に主観性が擁護されるわけではない。 主観性を擁護する立場もそうしたミームの一種に過ぎない。 だが、ミームの空間が存在すること自体は否定しがたい事実である。 それを何か別のものに還元することはできない。

意識の特殊性は、このように自分自身について言及することができる点に存する。意識にとって自分自身は所与であり、事実である。 だが、意識にとって自分自身は少しも自明ではない。その上に、意識は基本的に私的なものであって、他の意識を観察するということはできない。 それは原理的に存在が類推されるだけなのだ。だからといって、自己記述によって意識を明らかにすることには限界がある。自分の背中を見ることはできないのだ。 また、いわゆる論理の力で意識について何かが明らかにできるとは思えない。 思考実験は万能ではない。あくまで意識現象は事実であり、実証的な方法が必要だ。

かくして意識は意識自身にとっても謎である。意識とは何かの探求は、従って幾通りもの方法の複合によって進めるしかない。 そのなかで工学的な手法による探求は興味深い。

B.意識は物理プロセスに必然的に付随する

意識はなくてもあってもおかしくないものではない。 脳の中でしかるべき物理プロセスが起きれば「必ず」意識は生じる。 ゾンビは意味を為さない。ゾンビは「物理的に」不可能なのだ。 確かにクオリアは内部的な視点でしか語ることはできない。 だが、だからといって物理的なレベルと没交渉なわけではない。 情動を感受する意識の存在によって、生体の行動はそれがなかった時と異なったものになるだろう。 それは因果的なプロセスではない、と言うなら、そうした因果性の定義が不十分なのだ。 脳内のプロセスが閉じているからといって、ゾンビが可能であるのは、寧ろ不自然な仮定だ。 もしそれが可能なら、説明すべきなのは意識が可能なことではなくて、意識が生じないということがどうして可能なのかであるはずだ。

意識の発生するメカニズムは勿論、まだわからないが、その説明はしかじかのプロセスによって「必然的に」意識が生じ、クオリアが生じる筈だ、というもので構わないだろう。 クオリアの存在を否定する議論は馬鹿げているし、意識もクオリアも、機能主義的観点からいっても消去できないだろう。

消去主義は、意識については誤りだ。フロギストンのようなものとは質的に異なる。 勿論、意識が自分をどのように記述するのか、というのは可塑的で流動的なものだ。 (文化による相違だってあるだろう。)だが、そのような記述が可能であることを説明できる 必要はあるし、folk psychologyのうちごく基本的な部分は(志向性、感情その他)は残るだろう。 それは量子力学的描像が世界のありようについて修正をもたらした後も日常的な生活の中では「物」があり、物を単位に何かをするのと同じだ。 神経科学的な説明がされたところで一人称的な記述スタイルは残る。 意識がなくなってしまうわけではないからだ。 相対論が、あるいは神経科学が時間の流れについて、それが「常識的な」ものではないことを明らかにしても常識は残るのだ。

一方で意識というものの定義の仕方によってはそれはサールの言う自然主義的―生物学的基盤とは独立のものであってもよい。 例えば、機能主義的に人間の意識と等価な別の実装を意識と呼ぶかどうかは定義の問題だ。 クオリアの同型性を意識の要件に含めるかどうかは定義の問題だ。

ルールベースのパーザとニューラルネットの実現、同じ言語を処理する。一方は規則を実装しており、 他方は規則に「従った」振舞いをするが、規則を「実装」したわけではない。 だが、人間が仮に後者に近いからといって、言語のモデルが、文法が「存在しない」訳ではない。 言語を観察し、記述すれば、文法が浮かび上がってくるのだ。それは説明原理、動作原理とはならなくても 現象の記述、モデルとしての意味は十分にある。

上記のような事情から、私は意識に関しては消去主義はとらない。 素朴心理学は、実現したシステムが自己言及的に自己の振る舞いを解釈する様式である。 機能主義と同一説については折衷的な立場を取る。即ち、意識の認知的な性質は機能主義的に実現可能である。 一方、クオリアのような質的な側面については、物理的な基盤に依存する。 ただしこれは質的に同一のものを実現することに関してであり、クオリアの認知的な機能については、等価物は機能主義的に実現できるだろう。 知り方として意識にとっての内部観測の立場と、それを外部から記述する立場の区別が存在することは認める。 前者にとって固有の領域(実践や価値の領域)が存在することも認める。 概念のユーザは意識であり、意識を支える物理的なシステムではない。

機能主義的に実現されたシステムが意識をもっているかどうかについては、したがって、複眼的な視点、それを実現する構造の側面と、チューリングテストの両方を使用すべきであると考える。 内部観測的な視点が残る限り、独我論の問題が残るから、後者は不可欠であるが、後者だけでは不十分なのは明らかである。

従って、性質二元論については、その観念的な側面は否定するという立場になるのが自然に思われる。 結局概念は、物理的な基盤を持つ。 ただし、概念が複数の主体で交換され、継承されていく側面を捉えれば、それは物理的基盤に少なくとも依存はしていない。 脳内の記憶も含め、様々な媒体に記憶され、使用されていくが、媒体とは独立に存在すると考えてよい。

機能主義的な視点に限定した上で意識を実現する機構については、古典的な表象主義・計算主義の立場には懐疑的である。 だが、現実にはコネクショニストモデル上で意識を実現できる方法はわかっていない。 コネクショニストモデルというだけでは、単に古典的な計算主義とは異なる手法が提示できただけで、その上で具体的なモデルを提示できたとはいえない。

記憶を持つこと、フィードバックを持つことといった特長は、NeuralNetでなくても実現できる。 NeuralNetは広義の力学系の1種であるという見方が可能だ。 本当にNeuralNetでないといけないのか。NeuralNetであることというのは、条件が厳しすぎるのではないか。 一方で例えばElmanNetくらいのものでは不十分であることはこれまで得られた知見から、ほぼ明らかだろう。。 どのようなメカニズムが意識を生じさせるかモデルが必要で、「メタ認知」というだけでは機能主義者と変わるところがない。 メタ認知がどのような神経回路網のモデルによって生じるのかの手がかりなり方向性なりが示されないのであればほとんど何も言っていないに等しい。

C.ポパー、エクルズの二元論について

だが、それでは性質二元論は否定してしまって構わないのだろうか。ここで素材としてポパー、エクルズの二元論を取り上げてみる。 ポパー、エクルズの二元論はどうやら評判があまりよくないようだが、実際にはそんなにおかしくない。ただし性質二元論として見なせば、である。

物理的世界1
意識の状態からなる世界2
文化からなる世界3

1は3人称視点、2は1人称視点ということだし、3はミームの存在論的な地位を物理的なものとは分けて考えようという主張に他ならない。 2,3について1と同じような法則が成立する必要はないし、エネルギーのようなものを考えないといけない理由もない。 2についてだけなら、部分的にChalmarsの考えに近い。 ただし随伴現象的な立場はとらないし、ゾンビも認めない。 この3つの区別は2,3が1において実体を持たないということではない。 単に意識の内容はニューロンの働きとは異なる水準で語ったほうが良いし、文化的な作品は印刷された書物や音波とは別の水準で語った方が良いというだけだ。 だから現象学的記述のための領域というものは残っているのだ。 1の世界におけるエネルギー保存則を2,3が破るというような主張はナンセンスだ。 もし2,3についてエネルギー保存則が適用できるのなら、2,3は1に還元できるのだ。 但し、エクルズ自身はそのような相互作用を考えているらしいので(実体二元論)、それを弁護する必要はない。寧ろ同じものの3つの語り方くらいに考えるべきなのだ。 それはコンピュータの処理をシリコンチップの挙動のレベルで語る必要はない、というのと原理的に変わらない。 ニューロンの動きで意識の発生は説明できるべきだが、意識の活動の内容をすべて1に還元する必要はないし、意義もないだろう。

D.性質二元論は否定できないが随伴現象説はそれが実体二元論であるなら正しくない

ここまでの議論を整理すると、結局以下のようになる。これはチャーマーズの説に対しては対立する見解になるだろう。

性質二元論:○
随伴現象説:×
実体二元論×

物理的世界(1)が因果的に閉じていても構わない。 (2)のcounter-partは(1)に存在する。それは因果的な役割を担っている。 それを決定論と呼ぶかどうかは立場の問題だ。因果的に閉じてはいるが結果を簡単に計算できない程度のものなら決定論的カオスで十分だ。 勿論、単純な力学系で「意思決定」の状態を記述できるとは思わないが、決定論的でかつ因果的に役割を果たすようなものとして意識を考えることはできる。 そしてチャーマーズの「意識は存在しなかったとしても、、、」はやはり誤りだ。 宇宙の経過は同じではない。「論理的に」というのは少なくとも実際上、空虚だ。 (1)のレベルでもう、あるニューロンの状態が「必然的に」意識を生じさせるのだ。 (2)でXと「感じる」というメタ認知が生じるシステムとそうでないシステムは同じでない。 「感じる」ことには意味がきちんとあり、クオリアが生じることにも因果的な役割はある。 クオリアが生じるようなニューロンのパターンがあって、かつ、クオリアは生じないような過程は考える意味がない。 物理的にありえないが論理的に考えられるというチャーマーズの言い分自体は正しいが、そのような仮定には意味がない。 それは意識を解明するのに役に立たない。 その証拠にチャーマーズのこの二元論はサーモスタットには「差異を検出するメカニズムがあるから意識がある」という主張にとって必要不可欠なものではない。 チャーマーズの主張は控え目に言っても分裂していて、不可分な一体をなしている訳ではないようだ。

E.機能主義の限界

一方で、機能主義もまた、意識の解明にとっては限定的だ。 機能主義のモデルは結局、後追いの理屈だ。それは記号的AIに似ている。 自分で意識を勝手に定義できることになる。 しかも、実現については機能主義は語らないから、現にある意識とモデルとの差についても論じることができない。 だが、実際には実現方式こそが問題なのだ。飛行機を作っても鳥が飛ぶしくみを解明したことにはならない。 意識の解明は、さしあたり鳥が飛ぶ仕組みの解明だ。だから機能主義はせいせいサイバネティクス的に弱いAI程度にしか役立たない。

頭が痛いのでアスピリンを飲む。頭が痛いを脳の状態に翻訳する。 これだけでは十分ではない。 頭が痛いことの認知を脳の状態に翻訳する。 このとき痛みの「感じ」というのが伴っていることも含めて翻訳をすべきだ。 アスピリンを飲むと痛みが和らぐ、という「推論」なり事例の検索なりを脳の状態に翻訳する アスピリンを飲むことを欲するという状態を脳の状態に翻訳する。 脳の状態の遷移は因果的に閉じているかも知れないが、それはif-thenルールのようなものではない。 これを「自動的」というなら、すべては自動的だ。だから自動的というのは空虚な主張だ。 上の過程から「意識」を消すことはできない。「意識」を消したら対応する脳の状態も消える。 物理的に同じ状態ではない。

F.タイプ同一説とトークン同一説について

タイプ同一説とトークン同一説についてはタイプ同一説の洗練されたバージョンが必要なのだ。トークン同一説は自己破壊的だ。 C-繊維刺激は、タイプとして不適切なだけで「意識がある状態」に対応するあるニューロンのパターンの「タイプ」はやはり存在すると仮定すべきだろう。

「H2O=水」と「意識=あるニューロンの状態」を同一視する常識による反論はナンセンスだ。 意識がある状態と、それに対応するニューロンの状態を対応付けることは可能だし、心的な性質と物理的な性質の二元論で構わないのだ。 なぜこれが唯物論にならないのかわからない。 もしそうなら唯物論=行動主義になってしまう。 しかも、二種類の脳状態があるのではない。「脳状態」は後半の一種類だけだ。 機能に同一性をすりかえる「機能主義」についてはすでに述べた。 機能主義は答えになっていない。 少なくとも「意識」ということを機能主義的に定義してしまわない限りは、クオリアが存在することを機能主義的に説明することができるが、それは同じものではない。 クオリアなしでの実現が、今度こそいつでも可能になる(論理的にではなく、物理的にも可能である)。 飛ぶための方法は鳥のやり方が唯一ではない。 飛行機のように飛んでも良いのだが、それは鳥の飛び方の解明ではない。 機能主義は「心的状態」を追加した行動主義に過ぎない。

チューリングテストは行動主義的だ(機能主義的ですらない)。 これはテストとしては不十分だ。 記述のレベルにおいては問題はない。1,2,3の区分は、そうした記述のレベルと関連づけられるべきだ。 また同一説の単純な版は、記述レベルに無頓着すぎる。

多重実現可能性については、具体的な記述レヴェルを決めなければ何ともいえない。 機能主義との対応でいけば、その機能の「詳細度」次第だろう。 コンピュータ上でのシミュレーションということなら、どのようなソフトウェアだったらそうした機能を充たすのかを具体的に決めない議論は不毛だ。 どんなソフトウェアでも、しかるべき機能を実現できる訳ではないのだ。 トークン同一説はソフトウェアの仕様というのを甘く見すぎている。実際にはあるレヴェルでのタイプの同一性が必要なのだ。

そして、どのレヴェルで、どのようなソフトウェア仕様によって、というのが問題だ。 機能主義か否かetc.の○○主義と行ったり来たりするのは立場の確認には役立つが、それ以上ではない。 その意味では茂木の主張は正しい。結局具体的なモデルに基づく議論にしか意味はない。 哲学者は本質的な寄与はできない。工学者の方がまだしもだ。

脳が万能チューリングマシンだという主張は少なくとも意識の成立の如何にしてを論ずる際にはほとんど具体的な寄与はない。 そのレヴェルで脳とコンピュータの計算能力が等しくても、何かがわかったことにはならない。どんなプログラムが、というのが問題なのだ。

心的な記述のレヴェルは神経構造より高いレヴェルだから、タイプ同一説は不要、というのは間違っている。 それは意識をfolk psychologyの意味での心的な記述のレヴェルの仕様に限定したら、の話であって、それが可能なら意識は自らの背中を見ることができるということになる。 一人称視点と三人称視点の区別はないことになる。 だが、意識は自分の成り立ちをその記述のレヴェルでは記述しきれないことに気付いている。 「心的な記述のレヴェル」というのが、具体的には何なのか、機能主義を押し進めるのなら、そこでの「機能」とは具体的に何かを論じなければ仕方ない。 AIの失敗がある「心的な記述のレヴェル」では機能主義的にすら不十分であったことを告げている。 問題はどの立場で出発するかではなく、どちらに向かうのか、なのだ。

G.消去的唯物論や非法則的一元論について

消去的唯物論もまた、不毛な見解のように思われる。 別にタイプ・タイプ型の還元がなされないからといって、「信念」や「欲求」が無効になることはない。 そうした一人称的な「説明」ができるような意識を生じさせることが必要なのだから。 三人称視点で存在しないからといって、捨ててしまうわけにはいかない。(意識の問題の解決にはならない。)

非法則的一元論は「法則」の意味合いによる。それが正しいかどうかは多分あまり意味がない。 (哲学者にとって以外は) 一般に「法則がない」という主張は不毛だ。そこで探求を終わらせることにしかならないから。 合理性が物理学に反映されるかどうかは検証されるべき事柄であって哲学者が勝手に決めつけるような話ではない。 仮に厳密な意味での決定論的な因果法則が心理・物理間になくても(それは正しいだろう)だからといって、 心理的な記述レベルと物理的なレベルとの間の対応付けの「如何にして」の問題は残る。 結局タイプ同一説とトークン同一説の中間に答えはあって、かつ、具体的な如何にしてを提示しない議論はすべて不毛だ。

H.具体的な如何にして、としての脳と超越論的主観性の特殊性

脳の中に(例えばカントールコードとして)符号化されて形成される記憶は、実際に起こった出来事の連鎖ではなく、既に脳の中の活動の結果である。 つまり、それは感覚入力そのものではない。 脳の知覚・認識過程は、解釈の過程であり、物理量を情報に変換している。 勿論、脳の分類は必要で、感覚情報処理に関わる部分と自覚的な意味での推論などの高次機能に携わる部分を区別する必要はある。

real/idealという点でいけば、素朴に考えてもidealな対象は存在するからそれについての認識の理論が必要なのは明らかである。 idealなもの=表象と考えれば、コネクショニストを標榜する信原が「環境と身体と脳からなるシステム」に帰着させざるを得なかった経験の ある種類―表象なしでは不可能な類のもの―のための領野、その領野についての研究が必要ということになる。 超越論的なのは、―恐らくHusserlの分析の営為そのものも含めて―反省行為自己意識の作用のあり様で、そこでは記述対象と記述主体が、言ってみれば重なっている。 だが、重なっていたとしても、意識が自分の視座から眺める視点は限定されている―背後にまわることは、内観によってはできない― おまけに、そうした特殊な意識様態についてしか重なりは生じないから、意識一般の分析としては極めて部分的なものと言わざるを得ない。 つまり超越論的な主観とは、非常にlocalなあり様なのだ。

I.同一性の認知の問題、自己創出性

非局在説、動的な認知を考えた場合に、多分問題になるのは「同一性」だろう。 あるときに類別できた赤い四角の赤さと。別のときに類別できた赤い丸の赤さの2つの赤さが同じものであることは、どのようにして「感じられる」のか?

クオリアは「同じ」感じという同一性の認知に関わる。 同じということがどこかのレベルで判定されれば良いのだ。 クオリアが情報を相手にする限り―それが「生の質」を相手にしている、というのは多分違うだろう、何らかの抽象化の結果がクオリアとして感じられるのだろう― そこではある種の抽象化、価値付けのようなことが生じている。 既視感、ノスタルジーのような感覚は、寧ろ大変に肌理の粗いものではないか? 質感や、情動のパターンという側面と、「○○らしさ」という同一性、類似性の側面との両方を考える必要がある。

同一性の「感じ」の由来が問題だ。 過去からの因果的効果。記憶と想起。 自分であるという感じ。自己の境界の形成。 体性感覚、やはり因果的効果の伝達。 それでも表象はある。意識「にとっては」。 内部観測的な視点から、表象をもっていると認識するようなシステムでなくてはならない。

「絶えず更新されること」が自己創出性のポイントだろう。 中断はシステムの崩壊を意味する。 コンピュータプログラムと比較せよ。 走ることによって倒れずに済む。とまったら倒れるというたとえ。 プログラムに自己創出性を持たせるにはどうすれば良いのか。 NNのような力学系で、状態が収束することの意味。 収束性は工学的には重要な性質だが、収束性と安定性は異なる。 収束は死であり、振動もひきつけや痙攣のようなものだ。 カオス的遍歴や弱いカオスの縁の領域が問題になるのは、動性と安定性が両立する領域だからだろう。

意識は言語を生成した共感的領域での操作を通じて生成されるものとして捉えられる。 その意味で、言語は意識的思考に先行する。

ハイデガー的な了解を現象学的還元と並行して捉えた場合、どういうことになるか? 解釈学と現象学の関係? 「イデーンI」での現象学的研究の特性はほとんど何も言っていないように思える。

「観取的に解明しつつ、意味を規定しつつ、そして意味を区別しつつ事を進める。 現象学は比較し、区別し、結合し、関係付け、部分に分ける、あるいは諸契機を析出する。 しかしすべては純粋な観取のうちで行われるのである。 現象学は理論化や数学化は行わない。 つまり現象学は演繹的理論の意味における説明は行わないのである。」

意識に現れ出たものを記述する、ということであれば、それは例えば音楽を 聴いた印象を書きとることであり、それで認知の構造が明らかになるとは 思えない。(内観ですべて済むなら、認知心理学におけるような実験は不要だろう。) 現象学的な方法の可能性は、寧ろ表面に留まることなのだし、そこに固有の価値と意義を見出すべきなのだろう。

了解からさらにレヴィナスのイリヤの経験へ。 いずれも自然的態度の括弧入れ、道具的連関の破綻による存在者の現れ、自明な意味づけの喪失という点では共通しているのだ。 現象学的方法とは、単なる経験の様式なのか? 例えばある種の音楽を聴くとき、その姿勢をこそ現象学的というべきで、学問的な体系としての音楽の現象学というのは成立しないのではないか? あるいは意味の全体論。デイヴィドソンやD.ルイスなどの根源的解釈の全体論的性格。 具体的コンテキストの全体性、制度的枠組みの全体性。 既に文脈に埋め込まれてしまっていることとしての被投性。 開示性の契機としての情態性、語り、了解。了解とはほぼ技能的で非表象的な認知の ことであるといって良い。そこでは命題の感受は発生していない。被投性に直面させる 認知の様式としての情態性・気分。因果的効果に近い?

トラブルが起きた時に意識が必要になる。表象が必要になる。推論が必要になる。 自己表象が必要になるときもある。

J.表象主義の問題

では、表象は何だろうか?まず、表象といわず記憶と言ったらどうなるのか?を考えても良いだろう。 結局は表象とは記憶に過ぎず、記憶とは神経回路網のある状態の(補正可能なノイズを含んだ)再現のことに過ぎない。

言語は上述の意味での表象ではない。言語を表象と同一視することはある種の物象化であると考えてもよい。 寧ろそれはそうした活動の引き金、あるいはある状態を引き起こすためのアトラクタとして考えることができるだろう。 ラディカルなコネクショニズム(O'Brien & Opie)では言語をファシリテータとして考えていて、言語において考えるのではなく言語を使って考えるという立場をとる。 以下は間違っているのだが「こころのなかの状態をそのまま送れるのであれば言語のような不完全なものを介したコミュニケーションは不要だ。」 いずれにせよ少なくとも言語は推論の、思考の形式「自体」ではない。 勿論、言語を使って(あるいは数式などの記号を使って)考えたり、計算したりすることはできる。 だが、それは人間のやっている活動のほんの一部に過ぎない。そしてその一部については、そうした「道具」の助けを借りないと、正確にはできない、というのが、正しい。

外部からの視点では、システムは表象を使用していなくても良い。 あとから振り返って、あたかもそうであるように、内部観測者が思い違いをするのでいいのだ。 もっとも、心的表象があるかないかについていえば、内部観測的にはあるというべきだろう。 認知過程の記述の点からいけばそれは機能的な意味をもたない、ある種の随伴現象でしかない場合もある。 だが、そうではない場合もある。とするのなら、どのような場合にそうでないかをはっきりさせる必要があるか? 技能化が十分でない場合? 例外に対応する場合は、一体どちらなのか? 「気付き」その他の意識についての問題はどうなる?

チャーチランドの意識の7つの特徴は、いずれも内観的にその妥当性が保証されるものであることに注意すべきだろう。 意識の有無というのは、結局、(定義上)内観による確認に訴える局面があるのではないか?(だからチャーマーズのゾンビのようなものがでてくるわけだ。)

表象が「外部化」される、というのはどういうことか?内的発話と、エディタで書かれた文章とを比較すればよいのだろうか? 道具としての表象というのは正しい(例えば戸田山2004)。だが、外にあればそれは道具だし、内面化されていればそれを表象と呼ぶのだ。 人間は、道具を作るように、考えるためのメディアとして表象を作るのだ。 道具の作り方が文化的に伝承されるように、表象もまた、文化的に伝承される。 (これがいわゆるミームだろう。)

K.道具と表象

そうすると、ハイデガーの道具的存在と、内面化された道具としての表象の関係はどうなるのか? これまでは行為と認識を対立させるのが専らであった。 だが、こうなると、表象を用いた認識と道具を用いた制作が同じ水準にあって、ブルックスの昆虫ロボットのようなレベルでは、道具も不要なら表象も不要だ、ということになりそうに思える。

だがそもそも、表象というのは、内観によって覗き込むことで見出されるものではなかったか? 言語的な記号である必要はないかも知れないが、表象という概念自体が内観という「方法」と結びついている。 だから、表象なしで進行する認知のプロセスと、表象の助けを借りて行うプロセスがあるのだ、といえば済む。 表象はどこにあるのか、という問いはあまり意味がない。表象は、それを見出したと内観する主体が思った時には、主体のうちに存在するというべきであり、何らかの対応物が脳の中のプロセスとして存在する筈だ。 信原のコネクショニスト・マシンの上にノイマン型マシンが載っているというメタファーは正しいが(だがこれだけなら、デネットがとっくに言っているではないか) ノイマン型マシンが「外部にある」といってしまうのは、結局何を言っているのかを曖昧にしてしまう。 吉田が適切に批判する通り、脳と身体と環境からなるシステムの状態というのは、決して脳の状態のように明らかではない。 勿論、脳と身体と環境からなるシステムの状態、というのは正しいが、そう言ったからといって、何もわかったことになっていない。 単に出発点に居るだけで、一つも進んでいないのだ。 そもそも、脳と身体と環境からなるシステムの状態というだけなら、自然主義的に解釈された現象学者ですら言いそうなことではないか。(差し詰めハイデガーの世界内存在の認知版を思わせる。) だから、表象がある、というなら、それは脳の状態に対応づけられる、と言うべきだし、そうでなければ、表象はない、というべきだ。 多分、正しいのは、前者だが。

表象なしの立場に関する疑問として、例えばvan Gelderの力学系は、それ自体表象ではないのか?モデル化は表象によって行うのではないのか?というのは考えられないか? 別に定性的な記述だけが表象ではあるまい。

寧ろ問題は、外部化された表象と呼ばれるものだけで、認知が完結しないことなのかも知れない。 要するに、外部化された数字の羅列が、どのような操作がなされた結果か、あるいはなされることを想定しているのか、という解釈は、結局ユーザーである人間が与えなくてはならない。 機械に知能があるか、という問題は、人間がそこに知能を読み取るか、という問題にしばしば置き換えられてきた(チューリングテスト)。 要するにデネットのいう志向的スタンスの問題というわけだ。 同じように、紙の上に書かれた数字が、何を意味しているかを読み取るのは、あくまでも人間の側だ。 道具は、使い方を知っているものにとってのみ道具である、というのと同じこと。 脳と身体と環境からなるシステム、というのはそういうことなのだろう。 環境だけでは不可で、脳なり身体なり、ようするに心がなければそれは表象ではない。 繰り返しになるが、表象というのは、内観によって覗き込むことで見出されるものだ。

L.表象はある。だが内観は観測データに過ぎない

結局、批判され用済みにされた筈の、現象学風の内観の方法論が扱おうとした対象は、まだ手付かずで残っていることになる。 表象はない、というのは馬鹿げている。意識が表象を見出すことが出来る以上、表象はある。それを作り出す能力があるのだ。

すると問題は、そのようなものを生み出すことは「どのようにして可能になっているか」、になる。 だが、この問題は第一義には脳科学・神経生理学の問題で、哲学の問題ではない。 (私は「如何にしての解明」にあたっては自然主義の立場を取るので。) モデルの妥当性の検証はどうなるのか? そこで内観がもう一度審級を構成するものとして出てくるのか? (だが、あるモデルの妥当性の検証の困難は、すでに通常の心理学や脳科学、神経科学の実験でも存在していないか? 「実験の結果確認されている」、と言われれば、「証明された事実」だと考える短絡が良く見られる。 だが、通常、実験結果の解釈の妥当性は検証されるべきものである場合が多い。) 少なくとも内観は、データとして扱われるだろう。 勿論、それは学問ではなく、学問の対象にしかならない。

理論と実験の対ではなく、理論と実験と工学の三つ組みによる構成的な理解の方法というのは、要素に還元しないで全体がわかるための別の方法だろうか? 実験は、あることを証明するために、それ以外の要因の影響を除去するような人工的な設定をしなくてはならない。 実験をやるためには、そこで捉えようとしている事態の木目に応じた還元が必要なのだということだろうか? 構成的な方法であれば、その弊を逃れられるだろうか? 人工知能は優れて工学的なアプローチだ。作ってやってみましょう、というわけだ。それでは音楽はどうなのか? 作曲をすること、プログラムを書くこと、が理解の方法である、とは?


2.意識についての幾つかのモデルの瞥見

A.ヒンティッカ「志向性と内包性」をめぐって

フッサール現象学の修正
「我々の感覚印象はそれらが期待や記憶等によって組織化された場合にのみ志向的になる」
「我々の感覚の対象は瞬間瞬間に再同一化されるのであり、それは大部分はその対象に我々が帰属させる信念の連続性に基づく」
これらは不十分。

①.錯覚:思考における訂正と、知覚による訂正、錯覚に気付いている、気付いていない
 →信念とは独立に、真と偽が存在する。
  未加工の感覚印象はすでに範疇的に構造化されている
  これはもちろん過去の経験や未来の予期によって条件付けられた複雑な生理学的過程から生じる。

②.サッカーボール:(1)半球の表面を知覚(2)過去の経験を想起(3)残りの部分と合致するだろうと予期
  という統覚のシーケンシャルな過程は間違い。

志向性は世界の内部で成立する関係に関わるものではない。 志向性の本質は、さまざまな可能世界のあいだの比較に存する。(ゆえに驚きをもたらす。) 概念はそれがさまざまな可能世界からの関数であることによって、本質的に志向的なのである。

内包的対象を現実の世界への住人へと不当に物象化してはいけない。 志向性は世界内的対象にも世界内的関係にも物象化できない。 世界交差的比較である。

概念、意味=志向性=関数

世界線は人間がひく(所与ではない)。 ただしそれは物理的連続性、記憶の連続性などの様々な連続性原理に従うから、全く恣意的なわけではない。 世界線は2つへ分岐したり、1つに融合したりする。同一者の置換可能性は成立しない。

対象の超越性:信念の両立可能な可能世界の多様性。

2つの方法:
記述的交差同定:de dicto(言表様相)
 知る、想起する、見るなどの認知動詞を伴った従属的な「何」に関する疑問文の論理
面識による交差同定:de re(事象様相)
 同上の動詞による直接目的語の構成の論理。自我関係や身体性の役割が問題になりうる。

 de re/de dictoは個体の同定/事実の同定 ではない。
 対象のカテゴリーが違うわけではない。ノエマの爆発は起きない。

知覚による交差同定:何であるか、誰であるかを知覚するとは限らないが、それを見ないわけにはいかない。
 =直接目的語(対象)の構築

知覚的個体化は意識的に制御しえない要因によって規定される。 知覚的個体や知覚的与件は、記述的に交差同定される個体の構成に対する「質料」を提供する。 「質料」は可能世界の集合であって、感覚的な生の素材ではない。

B.チャーチランド「理性のエンジン、魂の座」をめぐって

チャーチランドによる意識の特徴(p.280)
回帰ネットワークが以下の要件を満たすと主張される。

思考・信念・知覚・欲求・選好などの状態が人間の認知の基本単位である。

だが、人間は言語を扱えるし、推論もできる。だから、以下のような立場に「翻訳」ができなくてはならない。 上記の立場の上で、以下のような立場の立論が可能であるかのような振る舞いが実現できなければならない。

文的・命題的状態間の推論が計算の基本単位である。―表象主義・計算主義。(ピリシン「認知科学の計算理論」)

機能主義に関する反論:「認知の主要な特徴は大部分、われわれが走らせているプログラムのゆえに生じるのではない。 それらは神経系の特異な物理的組織化のゆえに、また情報の特異な物理的コード化のゆえに、さらにそのまたその情報を変形する物理的に分散したやり方のゆえに生じるのである。」

機能主義では、クオリアの問題を解決できない。ネッド・ブロックの中国人民によるシステムは、アルゴリズム的には全く等価であっても、感覚的な質は欠如している。

チャーチランドの立場は、一方では、知り方は問題ではない、と言い(ネーゲルの「コウモリ」批判)、もう一方では、クオリアが生じるためには、 しかじかの物理的基盤が必要だ、という。 勿論ここに矛盾があるわけではない。 クオリアを生じるためには、しかじかの物理的な基盤が必要であるという仮説をのべているのであれば、それは全く問題ない。 だが、チャーチランドの主張は、人間には意識がある=このような構造と物理的基盤をもったシステムは意識があるだから、下手をすると一歩も先に進まないことになる。 条件を強く取れば、このような構造と物理的基盤をもったシステムは人間以外にはいないことになるからだ。 (勿論、それでも問題がなくなってしまうわけではない。人間において、どの脳のどの部位が意識に関わっているかを調べる課題の探求は可能だ。 その探求が進むにつれ、構造なり物理的基盤のどれが必須でどれが随意的なものかは明らかになっていくのだろう。) 要するに、意識をもつことについて、何か積極的に主張しようとすると、どこかで、条件を緩和しなくてはいけない。 物理的基盤のどこかは緩和しても、それを意識と呼びうる範囲があるのだろう。 だが、それがどの範囲なのかは明らかでない。 チャーチランドが、(お望みなら「大規模並列」つきの)回帰ネットワークの構造にどこまで意識を基づかせているのかは、はっきりとしない。 デネットの主張は(それが間違いであっても)その範囲を示している。 直列計算をシミュレートできる能力があるかどうかが、その範囲なのだ。 これは検証可能な仮説だ。 この点で興味深いのは、人間以外の生物が意識をもつと判定してよいかどうかについて、「十分な回帰性を備えたネットワークがあること」、そして上述の7つの認知的特長が確認できることを条件と考えているようである。 だが、この2つの条件の関係は、明らかでない。7つの認知的特長を、回帰ネットワーク 以外の方法で実現したら、どういうことになるのか? 回帰ネットワークが存在しなければ、それを意識と呼ばない(と考えているわけではないだろうが)のであれば、それは機能主義の一種だということになる。 記号処理の推論アルゴリズムが回帰ネットワークに変わっただけだ。 おまけに回帰ネットワークの定義すら明らかではない。ネッド・ブロックの中国人民によるシステムの例は、回帰ネットワークにも完全に適用可能である。

例えば、意識を生じるシステムにはしかじかの要件が必要で、かつたかだかそれだけあればよい、という仮説があったとする。 その仮説を検証するにはどうすれば良いのか? 意識があるかどうかを、クオリアの問題に、感覚質の問題に閉じ込めてしまうと、それは検証不可能になる。 外部から、意識をもっているのであれば、このような反応があるであろう、と思われるような反応を確認できるかが、判断基準になる。(チャーチランドの7つの知的特徴はそれに近い。)

内観的方法だけでは「満足できない」。それは記述に過ぎず、それがどのようにして可能になっているかが説明できない。

クオリアの問題は、デイヴィッドソン以前への退行なのか? 感覚の私性は行動主義や同一説の頃からの躓きの石であり、デイヴィッドソン以降寧ろ信念、志向性が躓きの石になったはずでは? 感覚を物理的刺激による結果として分析するスマートのような立場はハードウェアからの完全な独立性を主張する強い機能主義に立つから問題になる。 すると問題は質を分離した機能主義的モデルは意識のモデルとしてどの程度相応しいかという程度の問題になる。 サールの議論は強い同一説と、ハードウェア依存性に関しては同じ立場を取る。それが脳だけを条件にしているかどうかは副次的ではないか。 ハードウェア依存性について強い立場を取れば、身体についても、人間と同一のものしか認めないことになる。 人間にあるのが意識で、それ以外は意識ではない。なぜなら、物理的な条件が同一ではないからだ、などなど、となるわけだ。

意識の問題は、だから2つに整理できる。意識の構成要件は意識の定義をどう取るかに依存して変わるだろうが、どこまでを「必須」と考えるかについて、適当なコンセンサスを見つけること。 あまり強い立場は、同語反復に陥る。せいぜい、要件なり特徴なりを幾つか掲げ、それぞれを実現する条件が何であるかを議論するくらいが生産的な立場だろうか。 もう一つは、クオリアでも信念でもいいが、私的な質を「必須」要件に含めたときに、どの立場をとろうと、検証の可能性の問題が生じること。 私性を本当に問題にするのであれば、デカルトの自動人形にまつわる懐疑に戻ってしまう。 要するに、同じ人間でも自分以外の意識の存在を信ずる根拠はないことになってしまう。 もっとも、逆にクオリアや信念を要件としなければ、定義上「必須」と見なされる特徴を満たしたシステムは、自動的に意識をもつことになる。 今度は検証自体が意味をもたなくなってしまう。

だが、こうした議論は哲学者の暇つぶしだ。 サーモスタットに意識があるという汎心論は、それがホワイトヘッドの形而上学のような体系になっていればそれなりに意味があるだろうが、工学的には全く面白くない。 またチャーマーズが如何に主張しようとも、中国人民からなるシステムの意識を、常識的な意味での意識と同一視することに意味があるとは思えない。 機能主義的な立場にたったところで、そのシステムの入力は何で出力は何だろう。 サーモスタットにせよ、中国人民にせよ、結局のところ実際にそれらがもつであろう入力と出力は、比較するのがナンセンスなほど通常の意識とはかけ離れていて、比較は意味をなさないだろう。 そうしたシステムに対して意識があると主張することには、現実的な意味合いはないだろう。 逆に工学的には、それらしい振る舞いをするシステムを作ることをとりあえずの課題とするので十分だ。(それすら出来ているわけではない。) チューリングテストは、その意味ではまだナンセンスになったわけではないだろう。 問題が知能であればともかく、意識のような私性と結びついた性質を扱うのであれば、外部からみてそれらしければ良い、という判断基準は、 必要十分条件とはいえなくても、必要条件の一つに数えてもいいはずだ。

寧ろ、プログラムに意識をもたせる可能性を考えたときの困難さは、プログラムの入力と出力が、要するに主体が身体を介して環境に埋め込まれる その仕方が、生物としての人間とはあまりに違いすぎていて、そこで発生する相互作用についても、類似性を見出すことが困難であることに起因する。 機能とは、一体どの範囲について言われているのか。 世界に埋め込まれた主体について言われているのだとしたら、その埋め込まれ方で 決まる入出力のありようや、世界との間の相互作用の具体的な様態を離れて 機能を語ることができるだろうか?

素朴心理学が消去されるというチャーチランドの主張は恐らく強すぎる。 命題をモジュール的に扱うことには、あるレベルで、控え目にいって道具主義的な有用性がある。 そうしたレベルが全く道具主義的にいって価値がないのであれば、そもそも素朴心理学はないだろう。 確かにネットワークには命題は分散的に埋め込まれてしまっていて、そのレベルでは命題のモジュール性は成立していない。 だが、知的なシステムは、人間ができる程度には命題を用いた推論が出来て欲しいし、計算が行えて欲しい。言語を操れて欲しいのではないか。 ネットワークの挙動を観察しても、命題のモジュール性を擁護するような振る舞いは見つからないだろうが、ネットワークが自分の挙動を記述する水準では、 ネットワークは素朴心理学を信憑する、というのが、成功したシステムのもつべき振る舞いのはずだ。

そしてそれは、デジタルコンピュータをあるレベルで観察しても、記号の操作をしているようには見えない、というのと「半分だけは」状況を一にしている。 残りの半分は、そのデジタルコンピュータが自分のしていることを自己記述できて、そこで素朴心理学的な説明を(プログラマがそのように仕組むのではなく) 思いつくのでなくてはならない。 実際に実装されているレベルで素朴心理学的であってはならず、システムの自己記述のレベルで素朴心理学的であること、が、要件なのだ。 (これは後半だけみれば、チューリングテストの要件とあまり変わらない。)

チャーチランドの意識の認知的特徴は、チャーチランドの議論にとっては恐らく不要なのだ。 それは人間やその他の生物の脳や神経系を研究している研究者にとっては有効な手がかりになっているだろうが、 逆に回帰的ネットワークから意識をもつシステムを構築しようとしたときには、ほとんど何の役にも立ちそうにない。 チャーチランドは哲学者は、論理的な可能性が示せればいいのだというだろうが、同じような論理的可能性が、 回帰的ネットワーク以外にある可能性を否定するなり、回帰的ネットワークが特に優れている点を積極的に主張するのでなれけば チャーチランドの主張は少なくとも一貫性には欠ける。 先に回帰的ネットワークありき、なのだとしたら、それは哲学的ではないのではなかろうか。 現象学者が出る幕はないが、チャーチランドの出る幕もない。 哲学者の仕事はここでも残っていないのだ。 必要なのは認知科学者として、回帰的ネットワークの性質を経験的に研究することであって、 別に哲学者の応援(それは応援でしかないだろう)など多分必要としていないだろう。 チャーチランドの本を読んでいてひっかかるのは、彼が他人の褌で相撲を取っているように見えることだ。 哲学者として彼が一体、どのような寄与をしているのかがよくわからない。 まあ、応援団なら応援団でもいいのだが。

言語がなければ意識がない(例えばデネット?)、というのは間違いかも知れない。 だが、言語の定義が問題だ。例えば命題的感受が言語をもたない動物に生じていないとどうして言えるのか? 意識という主体的形式が成立しうる条件と、言語が発生し得る条件との間に平行関係がある可能性はないのか?

ホワイトヘッドにおける物的極と心的極の扱いを考えれば、チャーマーズの汎心論は、意識ではなく、心という言葉遣いをすべきだったということになるか。

C.ホワイトヘッド「過程と実在」をめぐって

既視感。堂々巡りの感覚。だが、展望は少し違う。少なくとも今度は。 少なくともホワイトヘッドの体系からは具体的なモデルは出てこないだろう。 だが、自分の位置を測ることはできるだろう。 ミクロな感受の理論(物的感受・観念的感受)とマクロな知覚の理論(因果的効果/表象的直接態)の分裂があることに留意。 ホワイトヘッドの言葉遣いで、音楽の聴取について語ることも可能だろう。 また、感受の理論は著しく認識作用に偏しているように感じられるが、行為との関係はどうなのか。認識論としてではなく、行為論として読むことはできないのか。

主体的形式:情動、価値付け、目的、好み、忌避、意識など

現実的存在の抱握、物的感受
永遠的客体の抱握、観念的感受
観念的感受と物的感受の統合が命題的感受を産み出しうる。 意識とはいかにして肯定―否定対比を感受するかということである。 肯定―否定対比には、諸々の現実的存在からなる結合体の感受と、その結合体の成員を論理的主語とする命題の感受とを、ある統一体に一つの与件として纏めることが伴う。 命題的感受は合生の第3の相で生じる。 命題的感受と意識を伴う事実との間の対比は合生の第4の相で生じる。
*ホワイトヘッドは内観主義の破産ではなくても、少なくとも困難を告げる。

肯定―否定対比

対比とは、複合的与件における幾つかの異なった構成要素からなる経験された統一体である。 肯定―否定対比とは、2つの特殊な種類の構成要素をある統一体においてまとめることである。 その2つとは(1)現実的存在からなるある結合体の感受(2)その結合体の成員を論理的主語とする命題の感受。 要するに、ある命題を思いついて、それが正しいかどうかを判断すること。
*命題的感受が可能であるには、ある種のメタレベルに立っている必要がある。  意識は命題に対する判断というか信念を持つこと、という定義になっている。

命題(自体を独自のオブジェクトとして定義する。)

命題は単純もしくは複合的な永遠的客体が、諸々の現実的存在からなる結合体。 あるいは1つの現実的存在と融合する混成的な種類の存在。 この融合において、そこに含まれている永遠的客体と現実的存在の双方が、自らの性質のあるものを失う。 永遠的客体は永遠的客体としてはただ、未決定の現実的存在の間の一般的な何かを純粋に指示するだけである。 しかし命題の構成要素としては、その永遠的客体(今やその命題の「述語パターン」と呼ばれる)はまさにそれが融合した現実的存在に限定される。 そしてそれは、全く一般的に指示することがなくなる。もっともそれは、現実的存在をただ可能的にのみ決定するという性格は未だ保持している。 またその融合に含まれる現実的存在は、完全に決定されたという性格を捨象される。 現実的存在が具体的に限定されなくなる。ただそれは依然として、個別的な位置を指定するという指示的な機能を保持する。 しかしそれを実際に性格付けている永遠的客体が削られ、その結果命題においては、それは単なる「それ」になってしまう。 すなわち、どんな割当られた述語パターンも受け入れる単なる可能性となるのである。 単なる「それ」として、そのような現実的存在を命題の論理的主語と称する。 世界における命題の機能は感受への誘因として働くことである。

象徴的指示:因果的効果の様態の知覚と表象的直接態の知覚との間の、相互作用であり統合である。

われわれの日常的な意識の様態は、象徴的指示である。 因果的効果は、過去の与件から感受を継承する。曖昧でずっしりとして分節化されていない。 主体の中へ他の事物を構成する―すなわち客体化する―作用である。 順応的感受でありベクトル的性格を有する。(客体から主体への力の伝達。) 表象的直接態は延長的連続体を前提とする。同時的世界(=因果的に独立)が延長的諸関係の 連続体として「意識的に」抱握される。

ここで、意識を仲介として、2つの理論が交差している。 また因果的効果のベクトル的性格により例えばアフォーダンスは取り扱える。 ただし知覚と命題の関係は明らかでない。

象徴的指示の決定的な点は、同時的結合体の領域を限定する感覚物が、表象的直接態の様態において与えられるのではなく、むしろ因果的効果の様態から贈られるのであり、 表象的直接態において明らかにされた同時的結合体に「投射」される、ということである。

ここから「錯覚」が起きる可能性が導き出される。投射はいつも正しく行われるとは限らない。 また、この議論から、現在が瞬間であることが構成された認識であること。 因果的効果により、連続性が保たれることがいえるのではないか。 いわゆる時間とは、ある種の整理の仕方で、それは最終成果物の持つ形式に過ぎない。

永遠的客体と現実的実質を、性質二元論として解釈する方向性がありそうだ。

D.津田一郎「複雑系脳理論」をめぐって

自己言及的階層:4つあれば十分(津田:スマリヤン「決定不能の論理パズル」による)

信念の度合いの変化に関するルールの導入
力学系の導入
結論から前提への置換の部分。
再帰的な命題の処理→推論過程は力学系
(ウカシェビッチ論理の連続値拡張):cf.レムの「ビット文学の歴史」

スマリヤン-津田の自意識の階層が正しいとしたら、「信じる」という述語はどのように実現されているかが明らかになれば良いことになる。 どのような事象がシステムで発生している時に、システムは信念を持っているといえるのか。 真であると真であると信じるとはどう違うか。真であると認識すると真であると信じるの違いは、スマリヤン-津田の階層にとって意味のある区別か? 信じるにしても認識するにしても、結局、行為と結びついた説明が妥当だろう。アフォーダンス的な発想だ。 そして、これはいわゆる機能主義的な説明とほぼ重なることになるだろう。 クオリアの方は、(それが何かの役にたっているという機能主義的な説明が可能だというのは多いにありそうだとはいえ)随伴的な 事象であるとしてとりあえずは考えなくてもいいだろう。

工学と芸術の共通点。構成によって理解する方法の採用。

cf.ミンスキーの心的活動の階層

スマリヤン-津田の階層と比較せよ。 (最後の4つは、表象・命題的感受が関与するといっていいから、命題的態度についての形式的な議論であるスマリヤン-津田の階層との比較は不当ではないはずだ。)

いわゆる道具的連関の中で、身体的な技能のレベルで無意識にできるのは、学習された反応のレベルだろう。 熟慮のレベルでは、意思決定が必要になる。

E.ダマシオ「生起の感覚 意識の形成における身体と感情」をめぐって

意識は、われわれが見たり、聞いたり、触ったりするとき、事象の感情としてはじまる。 もう少し厳密に言えば、それは、われわれの有機体の内部における視覚的、聴覚的、触覚的、内臓的など、 あらゆる種類のイメージの形成に伴う感情である。そして適切な文脈に置かれると、その感情は、 それらのイメージにわれわれのものというレッテルを貼り、それによりわれわれは、まさにその言葉どおり、 われわれは見る、聞く、触る、などと言う。

自己の種類

覚醒
対象の意味の検知
最低限の注意
イメージ生成能力

1.原自己:原自己は、脳の複数のレベルで有機体の状態を刻々と表象している、相互に関連しあった、  そして一時的に一貫性のある、一連のニューラルパターン。われわれは原自己を意識して「いない」

対象
対象のイメージ
原自己の変化
有機体と対象の関係の二次のマップ

2.中核意識(中核自己を含む)
 私が「中核意識」と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」に  ついての自己感を授けている。中核意識の作用範囲は「いま・ここ」である。  中核意識が未来を照らすことはない。また、この意識によってわれわれがおぼろげに感知する唯一の過去は、  一瞬前に起きた過去である。

 中核自己:中核自己は、ある対象が原自己を修正すると生じる、二次の非言語的説明の中にある。  中核自己はいかなる対象によっても引き起こされる。中核自己を生み出す機構は一生涯ほとんど  変化しない。われわれは中核自己を意識している。

 意識の束の間の主役。中核意識の機構を刺激するいかなる対象に対しても、産み出される。  そのような対象は永久にいくらでもあるから、中核自己は連続的に生み出され、それゆえ時間的に  連続しているように見える。  中核自己の機構は原自己の存在を必要とする。中核自己の生物学的本質は、いま修正されつつある  原自己の二次マップにある表象だ。

 中核意識は、あるイメージの安定した記憶の形成やそのイメージの想起に依存していない。  つまり、中核意識は通常の学習や記憶のプロセスに依存していない。また言語にも依存していない。  また、計画、問題解決、創造性といったプロセスの中で一つのイメージを知的に操作することと  同じではない。推論や計画の能力にひどい障害をもつ患者は延長意識の最上層がうまく機能しないが、  完全に正常な中核意識を示す。

強調された注意とワーキング・メモリ
コンベンショナル・メモリ
自伝的自己の記憶

3.自伝的自己と延長意識
自伝的自己:自伝的自己の基盤は自伝的記憶である。 その自伝的記憶は、過去と予期される未来の個人的経験についての多数の内在的記憶からなる。 個人的伝記の不変的特徴が自伝的「記憶の基盤を構成する。 自伝的記憶は生活経験とともに連続的に増大するが、新しい経験を反映するために部分的に改編することができる。 アイデンティティや人格を記述している一連の記憶は、必要があるときはいつでも ニューラル・パターンとして再活性化して、イメージとして明示的なものにすることができる。 再活性化された各記憶は「認識されるべきもの」として機能し、それ自身の中核意識のパルスを生み出す。 その結果、われわれは自伝的自己を意識している。

中核自己の経験の、永久的ではあるが傾性的な記録に基盤がある。 そうした記録は、ニューラルパターンとして活性化し、明示的なイメージに変えることができる。 その記録はさらなる経験により、部分的に修正される。 自伝的自己は、それが徐々に発達し始めるために、中核自己の存在が必要だ。 自伝的自己はまた、その記憶の活性化が中核意識をもたらすような中核意識の機構を必要としている。

言語
創造性
良心
他の創造

生命調節のレベル

文化はこれらの上に乗っている。 意識は認識の感情である。 機械が意識を持てるかについての立場は明快。

意識の形式的機構をもつ人工物をつくることは可能であり、たぶんそのような人工物には或る種の意識があるといえる。 一方で、感情のコピーについては否定的だ。従って、機能主義的にはYesだが、クオリアのレベルではNoという立場。 「人間的な意識の実現には、感情の存在が必要だからだ。「見かけの」情動ならシミュレートできるが、感情の ようなものをシリコンに複製することはできない。感情は、肉体が複製されなければ、肉体への脳の作用が複製されなければ、 そして、肉体へ脳の作用が及んだあとの脳による肉体の状態探知が複製されなければ、複製することはできないのである。」

これはいわゆるサールの自然主義的な立場に一致するのだろう。 だが、そうであれば、クオリアの「強い」同一性を盾に、機械に意識を認めないのは強すぎる。 人間の意識は人間以外には持てないという、同語反復的な主張をしていることになるからだ。 機能主義的な複製に付随する何か、人間でいけば感情の位置を占める等価物を、その機械なりの「感情」である(この主張は、機能主義的だ。) と言ってはいけないのか。 そして、機能主義的等価物を構成することには、充分な意味があるだろう。

いつも同じ過去の記憶が構成できるという安定性が、自己の連続性を保証する。逆ではない。 イベントループのイメージ。イベントに応じた状態遷移。リズムなりパルス。要するに或る種の不連続性、出来事の原子性。差分方程式的な記述があいそうだ。 これは力学系だ。

カントの二元論は形を変えて生き延びていると言える。 ただし切断は認識と実践の間で起こるべきではなかった。 この切断面のずれは致命的だから、理論はほとんど生き残らないのかも知れない。 でも意識にとっての領野が意識についての記述の領野と独立に存在することは変わらない。 たとえ意識が物理的な次元の随伴的な現象であり、その存在は後者に全く依存していることは認めたとしても、意識にとっての領野の独立性は侵害されない。 ただし、それは思い込むだけなら何だって自由にできる、といった意味合いに過ぎないが。だが、全てはそれにかかっている。無限の観念もまた。 「思考上の対象」というのが発生する条件を満たしたとき、後戻りができない逆転が起きたのだ。 因果的関係の説明としての二次的なマップ(感受の感受、享受に相当する)が中核意識を成立させるとしたら、 その二次的マップの成立を支えているのは、「思考上の対象」の成立だ。 それを可能にするだけの内部構造と、内部構造の感受(原自己)が必要だ。 ホワイトヘッドの感受の理論、およびレヴィナスの享受論を、ダマシオの仮説と対照させること。 表象は、やはり必要だし、実際に存在する。それはフォーダーのいう意味で思考の言語である必要は、このレベルではない。 (勿論、フォーダーの要請を満たす表象も存在する。それは、むしろ言語記号「そのもの」だろう。言語の意味ではない。 あるいは意味を表象の「媒体」と分離することは適切でない。) 結局、思考の言語の問題は、意識をもつためには言語と言語能力に依存する必要があるかうかの問題だ。 答えは明らかに「否」である。

二次マップの成立要件

原因的対象と原自己の変化を別々に表象する多くの神経構造のほかに、原自己と対象の 双方を時間的関係で再表象し、そうすることでいまその有機体に実際に起きていること

を表象できるような別の構造が必要。

意識的状態に含意されるメッセージ:「集中的な注意が対象Xに払われねばならない。」
志向性の成立。

中核自己は二次マップの「登場人物」であって、観客ではない。 対象が強調されるのに応じて、対象からの因果的効果を受容するものとして、浮かび上がる。 それは「認識の感情」を伴い、それが「自己感」の由来である。 だが、二次マップで構築されるパターンで支配的なのは対象のイメージであり、自己の方ではない。 このことが、しばしば「自己であるとは対象であることだ」(cf.津田「複雑系脳理論」)という表現の由来である。

中核自己は、常に特定の文脈に埋め込まれたものとして因果的効果の説明の中に現れる。 それは過去も未来も持たない。それは認識される対象が存在しているあいだだけ存在する。 「いま・ここ」に縛られていると同時に、「いま・ここ」を構成する働きをする。

「本物の」対象も「思考上の」対象も尽きることはなく、したがって中核意識と呼ばれる産物も潤沢で尽きることはない。 マトゥーラナの議論でもそうだったが、ここでは「潤沢で尽きることはない」という点は重要だ。 力学系的な描像もそれを要請する。連続性は、時間の流れの感じは、この潤沢さに由来する。 中核意識のパルスが「意識の流れ」を生む。意識の連続性は安定した意識パルスの生成によっている。

ところで、概念が成立することも、この過程で説明ができるだろう。 対象の1次的イメージ、自己の状態の変化、そのカップリングの説明としての2次的なイメージ。概念は後者に対応する。 そしてその説明こそが「意味」なのだ。x2←y(x1)の「記述」としてのyの概念。関数としての概念。 (cf.ヒンティッカ)ただし引数はこの場合、自己であることに注意。「対象の同定」の問題はまた別だ。 だが、自己の像ができるのに応じて対象の像もできるだろう。 だから、真の概念は、自伝的・延長的自己に対抗するレベルでしか論じ得ない。 f:x2←y(x1)を定義として、そのような効果をもつ対象を可能世界から返すz←Y(f,w)が定義されるのだ。 勿論、このような明確な(ホワイトヘッドなら表象的直接態と呼ぶ)表象がいつも必要なわけではない。 言語なしで、たいていの認知は済んでしまう。 言語が必要なのは、ウィノグラードの言うブレイクダウンが発生して、対象の事物性が明らかになるときなのだ。

マトゥーラナらの議論と同様、ダマシオの議論においても、対象が「本物」の対象であるか、「思考上」の対象であるかは副次的な問題とされる。 これは、内部表象の存在を含意する。 ただし、それは安定した記憶とは別のものであってよくて、単に内部・外部を区別する意味がないことを示しているに過ぎない。

音楽を思い出すことは音楽を思い出すことに留まらない。それに対する反応を思いだすことを含む。 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる。 音楽はその逆転をいわば利用し、その逆転の正しさを実証するといえないか?

F.ジェインズ「二院制の心の崩壊による意識の発生」をめぐって

①Jaynesのオデュッセイア解釈p.232「自己を目指しての航海の物語」
p.333「神のいいなりのジゴロから、流血の殺戮を果たして我が家の炉辺に君臨するライオンへと変身」
これは、どうしたってAdorno等の「啓蒙の弁証法」を思わせる。 これが西洋文明の原テキストだ、という認識は、それが「主観的意識」(Jaynes)の文明史である、と言っているに等しい。 おまけにJaynesはその出発点における混乱―神の喪失―詩篇を考える― 「野蛮さ」の理性との結びつき、神話と叙事詩の区別、内面の確立の過程を読み出す点は全く並行している。 すると、アドルノの主張の基本線は、Jaynesの主張と全く並行する。 比喩でなく文字通り、意識の様態が歴史的に変容していく様を、各時代の哲学のうちに、また同様に音楽の裡に読むことができる。 これはむしろ構造主義的な知の考古学に近いということになる。 自然主義的に改変された哲学史、、、

②オデュッセウス論における「メルヒェン」についての言及、叙事詩から更に メルヒェンへの移行。マーラーのDas klagende Lied他、彼の語りが多くメルヒェンの、小説の形態をとること。 小説の「反省」の、省察の契機は、主観的意識の相関物であることは疑いをいれない。 「概念」と「芸術」「省察」と「表現」の関係もすっきりする。

③「抑圧された自然」の「自然」の意味合いもまた変わってくる。 「神々の声」「ひらめき」勿論フロイト派的な超自我との関係も問題になるだろう。 もっともAdornoが考えるユートピアとしての自然と文明の宥和というのはブラックユーモアになってしまうが。 この自然をマーラーについて考えてみるのは多分興味深いことだ。

④延長意識の様態の可塑性、文化的な相対性 少なくともa prioriな議論はできない。universalではない。 ただし、意識一般ではない、中核意識は動物にもある。 (意識一般といったとき、それは哲学者の考える自己意識ではないことに注意)

⑤音楽―ひらめき、右脳の働き、二院制の心。
「内なる神」という認識との共通性、マーラーにおける「神様との電話」、Veni Creator マーラーは速筆だった。「霊感の人」だったのではないか?「霊感」ではなく、「技能」なのか? そしてまた、際立って「延長意識的な」内容であること。メタ音楽、グロテスク、、、 「霊感の人」だが、その一面で「延長意識的」「批判的」でもあった。矛盾が存在するのだ。

⑥マーラーについてはもう一つ、歌曲の問題がある。 勿論、文化史的には時代錯誤もいいところだが、「詩と音楽」の関係を認知的に捉える場合でも、このjaynesの視点はヒントになるだろう。

⑦AIとの関係はどうなるか?意識と「知性」「理性」との関係は? 延長意識なしの―本来的・歴史的ではない―自己

⑧レヴィナスのTIでも意識の発生論は、まさに実際に発生した過程である可能性がある。 神話の世界、そしてhypothese。jaynesのp.310以下を参照のこと。 もう一度、TIおよびTAの意識の発生論は検討してみる価値がある。 その際レヴィナスが現象学の立場を離れて或る意味では自然主義的な立場に立っていることは留意されて良い。 (勿論、それで正しいのだ。逆に後期の方が「おかしく」なっているという見方もできる 前期の方が素朴にみえて、素朴なだけにまっすぐ的を射ている。後期は意識的―ある意味では哲学的・現象学的でありすぎて―屈折が生じているようだ。)

これに関連して「根源的世界経験とは何か」を再検討することも可能だろう。

ただし、世界経験というのが意識の様態に応じたものであるというのは(多分、自明の前提となっていて)表立っては主張されない。 根源的か否かの価値付けをすることが問題なのではない。 だが、意識の相関物としての世界の開け方は多様だ。 もう一つ、レヴィナスの「神」「彼方」というのも、自然主義的に考えることが可能かも知れないということ。 レヴィナスの他者論が心理療法の現場での実践と近いものがあるという件があったが、それにも関連するか? いずれにせよ、自然主義化してみるのはやってみてもよさそうだ。 一方で、どこからil y aの経験は、比喩的にとらえるべき、という件があったが、これはそう考える必要はないのではないか? (レヴィナスの記述のスタイルの問題はあるだろうが)


意識の音楽について

音楽に意識―ダマシオの分類に従えば中核意識ではなく、延長意識がはっきりと見出されるのは、マーラーやショスタコーヴィチだろう。 逆にそうであればこそ、シベリウスは興味深い位置を占めると思うが。Adornoのシベリウス批判はAdornoの偏狭な歴史観を除去した上で、もう一度検討されるべきだ。 同じようにその後の音楽、ヴェーベルンが、クセナキスがそして同時代の三輪の音楽が、どのような立場にあるかを考える必要がある。

少なくとも延長意識の様態は、固定的なものではない、可塑的なもので流動的な部分が存在する。 意識「一般」の分析は成り立たない。 それはある文化のある社会において正常に機能しているとみなされているそれについての分析に過ぎない。 だからフッサールにせよレヴィナスにせよ、ハイデッガーにせよ、基礎付け主義的スタンスは行き過ぎ、それごと当の意識自身の傲慢なのだ。 いわゆる共同主観性は「本気で」問われるべきなのだ。ある文明・文化に制約された相対性、否、ある社会のある集団の特性に制約されていないとさえ 言い切れないのではなかろうか。例えば哲学者は哲学者としか話をしない。「意識」とは我らが哲学者の、現象学者の意識でないと本当に言えるのか?

また超越論主義についても考える必要があるだろう。 延長意識が音楽に入り込むことは、メタ音楽的な側面をもたらすことになる。 自己引用というものを意識的か無意識的か判別することは、この場合にはあまり本質的ではない。 異化、パロディ、グロテスク、いずれも規範からの逸脱、歴史的な文化的文脈に対する反抗のような「意図」の水準とは別に、作品そのものの構造の位相でそれが取り出せる筈だ。 少なくとも「延長意識」を持っている聴き手なら、そうした背景なしに聴き取れるような何かが。 どの音楽もそうした文脈をくっつけて聴く前の出会いがあった筈だ。 そして、その出会いのときに何かをつかんだからこそ、文脈への参照への意欲も起きたのだ。 音楽自体が同じ「延長意識」を持つ他者である私に示すものを記述すること、が課題だ。

それを社会と呼ぶか集団的無意識と呼ぶかの差は、共通性から比べたらずっと小さい。 意図せず語られるものが存在するのは確かだが、それを「社会」に還元するのは短絡だろう。 勿論、個人のかわりに社会が語るのではない。個人と社会の関係が、投影されると言いたいのだろう。 だがそれは、結局個人を消去しないはずだ。 そしてまた、技法の次元との関係も明らかではない。 恐らく技法も素材の1つに過ぎない、という見方は正しい。 だが、すると、各素材との関係の自覚的な面とそうでない面の錯綜をそれぞれ見極めた上で分析する必要がある。 それと聴こえてくるものとの間の関係は何だろう? しかも、そうした分析結果に対する価値判断には、聴く私の立場が更に投影される。 アドルノの虫の良さは一見―自分もまた作曲家であり、演奏家であるというエリート主義にのっとって―享受の極を嘲笑しながら、 音楽を価値付けする「自分の立場」の相対性についてあまりに不躾な立場をとった点にある。 どういう立場であれエリートであれ、作者の立場には立てない。 結局は自分の立場からしか発言できないのに、そのことを忘れたかのような独断を下すから、反発を招くのも当然だ。

前衛音楽、日常的な意味の剥奪という視点からマーラーの音楽を測定する。 レヴィナスのクセナキスのノモス・アルファに対するコメントを思い浮かべよ。 音は寧ろ意味付けされているのが普通だ、という考え方。 レヴィナスのイリヤ。 現象学的還元の意義。 あるいは、ハイデガー的な「もの」の現れ。配慮的行動にブレイクダウンが発生した時に、表象が発生する。それは派生的な現象である。 前衛音楽は、そうしたブレイクダウンを起こすことを狙っている。 では普通の音楽は?普通の音楽であっても、ある種の聴取の態度は、そのようなブレイクダウンを問題にする。 違いはそのブレイクダウンの起こし方と、起きたときに現れる世界の様態か。 あるいは、ブレイクダウンが起きた痕跡を音楽のうちに読み取るということか(アドルノの観相学)。 だが、それは追体験といったものではなく、まさにその音楽がその都度もたらすものだ。 そしてブレイクダウンを起こす意図と、実現は別問題な点で前衛音楽の姿勢は無条件で受け入れることはできない。 一方そのブレイクダウンは例えば宗教的な啓示、非日常的な経験、といったものでありうる。 だが、日常の中に潜むそうした亀裂を指し示す音楽はより興味深い。 それゆえ、マーラーの音楽は興味深い。 もう一度意味を問いなおす批判的な態度。バルビローリの解釈スタンスとして取り出したもの。 マーラーの音楽の「異化」はそうした機能をもっていると論じることは可能だ。 伝統的な様々な様式や語法を、再び「表情づけ」しなおすこと。 では、マーラーを聴くことは?表現の「真直さ」。皮肉や韜晦は、それ自体、真直ぐな気持ちの表現であるというパラドクス? 意味の剥奪ではない。別の意味付けの提示。世界観、人間観、死生観などなどといったものの提示? 批判というのも成立している。あるいは批判的態度が表現されている(表現が批判的なのではなくて)というべきか。 (一方バルビローリの演奏は表現が批判的なのだ。) 日常性を蔑んでみても仕方ない。頽落ということばは価値論的負荷を匂わせて好ましくない。 だが、私は結局のところ「親密さ」などに価値を置きたくはないのだ。 これは好みの問題であって、ある種の倫理的な価値基準での選択だ。 マーラーやはそうした好みに合致している。(と私は思っているがゆえに、そのように聞こえるのか?) 少なくともこの場合、音楽を聴くことは音楽だけを、音だけを聴くことではない。 歌詞も、作曲の背景もマーラーの人柄etc.といった文脈も、そうしたものをひっくるめて。 そしてそうした聴取のあり方は、その音楽がどのようなものかに一般に依存する。前衛音楽は、そうした聴き方を音楽自体がのぞまないだろう。

「心の理論」なき音楽かどうかは、主観的であるかどうかとは異なるし、「意識的」であるかどうかとも異なりうる。 意識的だが他者はいないかも知れない。(忘却されているかも知れない)。 他者がいるかどうか、だけでもなく、他者と私との関係が示されていない、「私なき」「描写音楽」になっているかも、あるいは私は神、あるいは傍観者であるかも知れない。 意識的でかつ、他者がいる―「心の理論」があるそこでは「自然」はどうなるだろうのだろうか?


おわりに:常に仮のものであり続ける展望から

意識ととりわけ音楽との関係で考えるとき、どうしても認識だけではなく行為の次元にも関わらざるを得ない。 それはカント的な言い回しでは実践理性の、倫理の領域である。ハイデガーの道具性の次元もまた行為と 関係があるが、レヴィナスが読み直したようにそれはまさに倫理的次元なのだ。

認識と行為という2つの領域には優劣はない。ただし倫理的次元はコミットメントや社会性の問題があるから意識の高度なレベルを前提とする。 一方でそれは情態性などといった生物学的に「古い」基層に由来するのはダマシオの議論などにより明らかだろう。

一方で実践の2つの次元はいずれも認識のスキーマからは遠い。 労働の現象学、倫理の現象学を考えることはできるが、実際には困難だろうし、それは現象学の方法論を基本的な枠組みをはみ出してしまうだろう。 もっともそれは現象学とは何かにもよるのだろうが。

folk Psychologyと現象学の関係について、例えばLevinasは対立するものと考えている。 folk psychoは還元前の自然的態度というわけだ。だが、内観による方法には限界があるのは明らかだ。 にも関わらず、クオリアを問題にする以上、現象学的―内観主義的方法は消去できない。 だがそれは最早分析の方法論ではなくて寧ろ説明すべき事実の側に属するといってもよい。 現象学的な態度が可能であること自体が、意識の特徴であって、そのような自己記述が可能であるような、 そのような態度が可能であるようなモデルであることが意識のモデルの条件となる。 いわゆる超越性もしかり。「還元」が可能であることも然りである。

たとえば存在論を行為・実践として考えたばあい、それは学問の領域というよりは(あるいはそうであるからには、というべきかも知れないが)、 それ自体、世界に向かう態度の一つに過ぎない。 しかも、興味の薄いひとつに過ぎない。それが特別なのは哲学者にとってだけで、自分の見渡せる範囲しか見ない、自分の見方を正当化し、 価値の中心におく我儘がそこには潜んでいるし、哲学者も存在論もその閉域を抜け出すことは原理的にできない。

自然主義と反自然主義・心理主義と内観主義

同様に、自然主義に譲歩したところで意識が問題になる限り、最後に反自然的にならざるを得ない剰余が存在する(cf. 門脇p.92)。 つまり人間が、意識が自らの視界の内に閉じ込められているという事実は残る。 外部に出ることは―そうした意識形態を前提にする限りでは、(そしてそれが文化的に相対的なものか、歴史的にローカルなものかどうかはどちらでも良い)― 出来ないのだということ、それが現象学が明らかにしていることではないのか? 価値や信念の領域は、狭義の心理主義、自然主義では扱えない―今ならこれにさえ留保がつくだろうか?超越論主義―超越論的主観性とは何だったのか?

アドルノのメタ批判、現象学が意識の様態そのものの「証言」であるとするなら、つまり現象学を可能にするような意識の様態を問題にする限りでAdornoの批判は―彼自身の 立場はおくとして―検討すべき点がある。 つまり意識の進化論の如きものとしてAdornoの批判を、いわば自然主義的に読み返すべきなのだ。

もっとも、自然主義的な読み直しをしてしまえば、アドルノの主張の「核心」であったはずの、価値論的バイアスがかかっている部分は全てナンセンスになる。 勝手に理性と自然の宥和のユートピアという物語を作ってみせたが、例えばロマン派の音楽は単に分裂を(雄弁なかたちではあるが)証言するだけで、 宥和とかユートピアとか、救い主の危険とかを読み取るのはアドルノの勝手な読み込みではないのか? 意識の構造は、確かに可塑的なものであるし、変化してきたから、それがどうであったかを歴史的に記述することはできる(考古学的レヴェルでは例えばジェインズの試みを思い浮かべれば良い)。 だが、それがどうなるかはともかく、どうなる「べき」かについて、哲学者が発言する資格などない。思い上がりも甚だしいのだ。 寧ろそれは「意識の進化論」のような形で自然主義的に扱われるべきだ。 ミームについての議論も、恐らく意識の側の可塑性と関連付けて論じるべきなのだろう。 (だがこれはあまり関心のある方向ではない。困難でもあるし。)

いずれにせよ、新たな意識の様態というのが論理的に可能であったとしても、今自分が閉じ込められている意識の様態から逃げ出すことはできない。 「この」意識のあり方を前提にする他ない。 どうあるべきかも、どうなるであるかも、結局「私」の問題ではないのだ。

今、この地点で宥和を試みることは、大きな危険を伴う。 変えられないものを変えようとしたり変えられると思い為したりすることによってしか、或いは、いわゆる「病的な」形でしか、そうした宥和は、脱出は可能ではない。 ―Deleuze-Gattariのスキゾ分析は、このように考えると、Heideggerのギリシア回帰同様、全くの見当はずれ、遠近法的には全くの錯覚に陥っている (彼らが未来と思ったものは、実は過去であったかも知れない。Heideggerの憧れの地は、実は野蛮でしかないかも知れない、というわけだ)。 彼等の方法は、実際には神話への退行と同じではないか?批判しているものと「自然主義的に」考えても同じ方向を向いているとしか考えられないのは何という皮肉か?

ミームもそうかも知れないが、むしろ脳の可塑性に基づく意識の構造の文化的相対性つまり脳の後成的な発達の方向性と度合いの相対性―これは「進化」ではない。むしろミームに よって方向付けられ、規定されるものだ―の方が重要ではないか? 津田の言う先行的理解は生物・物理的な水準のもので、これはかなり先天的に規定されていると考えて良いだろうが。 哲学者が―現象学者が内観で発見するとされる意識の構造は、そういう先天的なものという事はできないだろう―「超越論的主観性」というのは、 こうした自然主義的な議論と少なくとも直交するのではなくてはならない。 優越する、というのは間違いで、せいぜい、その都度、その場限りの理論上の概念装置として有効だ、ということでなくてはならず、 決して「超越論的主観性」を実体化、物象化してはならない―もしかするとHusserlは或る種の「自己啓発」のメソッドを考えていたのでは、とすら思える。

自然主義批判、実証主義批判、心理学主義批判については、一体何を救い出して、何を捨てることになるのかのリストを作成する必要がある。 また、現象学に対する批判についても、受容すべき点とそうでない点―現象学を擁護すべき点―を区別する必要がある。

恐らく現象学は、主観の側からの記述として、自然主義化されるべきなのだろう。 「原―」「根源的―」といった言い回しを尊重する必要はないが、それは自分の手前に到達しようとする努力を示していると考えるべきで、しかも手間に気づくには、反省が必要なのは確かだ。 (ただし現象学には都合が悪いことに、十分条件ではない。更に具合の悪いことに、批判の対象である自然主義も、実証主義も、心理学も、それぞれ自分の前提―仮説―を検証し、 必要に応じて修正することができる。フッサールの批判は、自分が批判したいサイズに相手を合わせて固定しているだけだ。 しかも自分の背後に意識が気づく方法としては、それらの学の方がフッサールの頑迷な現象学よりもはるかに優れているとさえ言えるのだ。)

ただし現象学に対する加藤尚武の批判のうち、先反省的な出来事に関する部分は、それがドイツ観念論を顕揚する意図を背後に持つものである限り、ほとんど言いがかりだ。 もちろん反省の限界というのは存在するし、そして、反省の限界を確認することにだって何かの役にたつことがあるかも知れない― それが文体だろうが、お話だろうが、そうした事が語れるような構造が存在しているという条件の提示にはなるだろう。 文体でしかない、という点については、ヘーゲルやシェリング等の観念論が、フッサールより安全なところいるとはとても思えないのだが、、、 絶対知などを先に設定することが何の役にたつのか?意識が一人二役ができるということの方が、意識を解明する上でよほど意味がある。 現象学は批判のネタになるが、今のところはヘーゲルやシェリングの意識論よりも反面教師としてであったとしても役に立っている。 現時点においては現象学の失敗の方が、―人工知能の失敗同様―ドイツ観念論より生産的なのだ。(弁証法的な思考の枠組みは使えるかも知れない。 だが、使えるのは枠組みだけで、内容はほとんど使い物にならない。それが物語であることにおいて、本質的にフッサールよりまし、ということはない。)

引き算で考えること

寧ろここでは引き算で考えること、例えば延長意識、自伝的意識がなければ、時間意識はどうなるか?etc. 自己がなければ世界はどのように立ち現れるのか?etc.を意識ありき、で記述する方法の方が、 意識の記述について批判するより、意識のうち、自己意識がない場合に何が残るのかを検討したほうが良いのではなかろうか。 しかもこれは例えばDamasio等で明らかなように、ある程度までは検証可能性を備えたアプローチだ。

一例として、ハイデガーの論点、時間の空間化、歴史性、自伝的自己、Sein zum Endeを取り上げてみよう。 実際には、自伝的自己が可能になったことが時間の空間化、計量を可能にした、と考えるのが妥当だ。 だとしたらHeideggerの言うところの「本来性」というのは、まるで転倒してしまっている。 ―どれを本来性と呼ぶか、も転倒している―寧ろ自伝的意識の「徹底」に方向付けをしている― がそれよりも時間論的な本来性と存在様態としての本来性の間に矛盾がないかどうかの方が問題である。 あるいは延長意識の徹底―時間の空間化の徹底―歴史(自我のも含めて)の成立、のラインは一貫させて、それを否定しようとしている? いずれにせよ、本来性とは大きなお世話だ。 まるで自己意識を持ってしまったからには、自分の背中を見る工夫をすることが「正しい」と言っている様だ。 もっともこれまたJaynes風にいけば、科学と同じ穴の狢、という事になるのかも知れないが。 その始原とは、Adornoが感じていたようなものに近いと考えた方がいい、あるいは「根源的世界経験」としては (佐藤真理人が比較し、的確にも批判しているように)それを調和的に捉えるのはあまりに身勝手だろう。 一体何が還元されるのか?還元の結果残るものは何なのか? それが延長意識の引き算ではなさそうなことは、Husserlの場合には少なくともはっきりしているように思える。 カッコ入れは寧ろ逆に(Heideggerの本来性同様)、反省によって、文脈を意識することの方向を向いているようだ。 だがそれはfictionを一層徹底し、自己の生み出すイリュージョンを洗練させることにしかならないのではないか? 必要なのは意識を引き算することではないのか? それ故、むしろ頽落態のほうが、Zuhandenseinの方が、享受の方が興味深いのだ。

結局Heideggerは全く見当違いだったことになる。(少なくともギリシア以前への遡行の意味するところに関して) 寧ろZuhandenseinや技能的、身体的な埋め込みの領野の発見の方が意味がある。 ―認知科学との接続を試みるドレイファスや門脇のアプローチの方が有効ということなのだろう。

いずれにせよ「表象なしの知性」というのは、延長意識を除去したときに何が残り、何が可能かによっては大いに意味がある。 表象は「外」になる。ノイマン型コンピュータを使う時に生じるetc.という表象を用いた認識を外部に追い出す―筆算、計算機―立場も意味を持ってくる。 Jaynesが(延長)意識の成立に言語が、とりわけ「書記」言語が介在していたと考えているのは興味深い。 要するに、外部に表象があって延長意識が可能になる、という訳だ。

Damasio, Denettの主張も更に検討しなおすことができるだろう。 特に延長意識がなくなったときに何が残るかについてはDamasioの知見を確認すべきだ(実証的だ)。 その上でDenettのMDの仮説がどの程度説得的か、またそれを批判するChurchlandの考えがどういう点で「粗雑」なのかを確認することができるだろう。

コミットメント・倫理・価値

内省する能力でなく、コミットメントする能力(ウィノグラード)が重要であるという最初の結論にもう一度戻ってみよう。意識はそのための道具というかメカニズムなのだ。

コミットメント主体としての自己には自己同一性の必要性がある。(デイヴィドソンやシューメイカーなどの議論を参照。) 倫理的な(少なくとも価値論的な)主体が優位にある。何故か? それはその主体が人間が存在する世界に埋め込まれているからだ。 少なくとも人間は自分をそのように理解しているから、その個体にもそうであるように期待する。擬人化はその現れだ。 強いチューリングテストとして以下のものを考える。システム自体に責任をとらせることができるか。 システムが法的主体になるのであればテストにパスしたといえる。

翻って、機械による作曲、あるいは知的な機械を考えてみよう。 機械が作曲の主体であることは、作曲した音楽が人間のものでありつづける限りは無理だろう。 コミットメントの問題があるというのは正しい。ありとあらゆる背景があって音楽があり、それを聴く。 機械による作曲の結果に対してならば、それはむしろ自己投影だ。 音響合成、音型構成アルゴリズムを前にすれば聴き手の自己がそこに現れる。 (フッサールの自己の移入による他我の構成の実験だ。)

もっともコミットメント自体が志向的スタンスであるといえる。 だから結局はその機械の「生き方」の問題になる。機械を擬人化できれば、それは作曲の主体だし、 コミットメントも生じる。だがそれを決めるのは他者なのだ。 アルゴリズムのみでは信念帰属の問題が成立するようなレベルにそもそも行かないだろう。 デイヴィドソンの根源的解釈の対象にそもそもならないのだ。

コミットメントの形成がフレームを形成する。パズルを問題として成立させる枠を構成する。 だから一方で、コミットメントがあるところではフレーム問題は発生しない。 無条件の世界というのは抽象に過ぎない。その意味合いでフレーム問題とは人工知能という領域固有の擬似問題なのだ。 個体はかならず、自分にとっての部分世界に住んでいる。 フッサールの他者論とレヴィナスのそれは矛盾しないし、両立する。しなくてはならない。 どちらも正しいのだ。フッサールの他者論が成立しなければ、レヴィナスの他者の他者性が言えないことになる。

価値論的次元についての理論は構わないが、理論が価値を決めてはいけない。 根源的という言い回しには危険が伴う。 価値については、結局机の叩き合いになることは免れないだろう。寧ろ、価値については机の叩き合いこそ「自然主義的にみて正しい」とすら言えないか? それが「適者生存」のための競争だったとしたら?声が大きい者が勝つのだとしたら? まさに机の叩き合いとは、ミーム間の競争のことではないか?

結局、自分の信じる価値を擁護するしかない。石を投じるのだ。私もミームを紡ぐほかない。 その命運は私のよくするところではない。 神の衣を織ることかどうかを、どうして私が知ることができようか? 否、その神はどこにいるのか?この自然主義的な展望のもとで。

(2002--2008:未定稿)


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