Nel mezzo del cammin di nostra vita
Mi ritrovai per una selva oscura,
Ché la diritta via era smarrita.
人生の半ば、私は暗い森のただなかにいた。
有徳の正道は、もはや見失われて。(ダンテ「神曲」)
まさにそのような感覚を持つ。多分それは普遍的な感覚なのだ。生きる力と衰えの均衡点に居ることの齎す停滞感なのではないか。
人生の半ばを過ぎたことは確かだ。書き留めておくべきであったかも知れないが、今から1,2年程前のある時期に、はっきりとそのような感覚を持った。 そして、自分には何も残すものはなさそうであること、未だ神の衣を織ることあたわず、夢のまま終わるのかもしれないという漠とした感覚。 実際には、そうあっさりと思い切れるものでもない。だってまだ半分残っているのだから。 けれども、それが「どこ」にあるのか、わからなくなっている。
それと前後して、ある種の整理をする欲求。けれども、それは既になにものかを成し遂げた人間の、あの転回ではない。 そうではなくて、寧ろ、これまでの自分の跡を消し去りたいという欲求に近い。 かつてそうした欲求をある友人が語ったとき、自分はそれとは正反対のこと、永遠性を希求していた。 (事実は逆でそういう私の希求に対する異論として、友人はそう語ったのだ。) それは私の前半生のオブセッションであったと言ってよい。 整理をする欲求の一部は、自分が出会った価値あるものをきちんと確認しておきたいというそれに違いない。 大量に本とCDを処分したのも半分はそのためだ。 ことにCDは結果的に、多分この数十年で初めて一旦100枚を切るか切らないかまで減らしてしまった。 勿論、かつてはこの上なく重要であったのに、処分されてしまったものも多くある。 棚卸をして再吟味の末、否定したものも多い。
けれども自分はそれらに及ぶべくも無い、自分には何も無い。 或る日、それに近いことを突然感じた。
けれどもその時には寧ろ、そうした価値ある営みも含めて、結局永遠性というのは観念のうちにしかない、という感覚に支配されていたのだった。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、 その時には寧ろ過剰な自信に支えられていた筈のその理由は、今もそのまま、ただし別のニュアンスで有効であり続けている。 「どんなに立派であっても」「ましてや私は」なのだ。それは寧ろ人間の営み「一般」に対する絶望に由来していた。 知性という点では、そもそも人間を絶対視するという事に対する懐疑がある。 これはAIを齧った人間にとっては当然だ。 例えばレムのゴーレムXIVの展望は違和感の無いものだ。 人間はあまりに不完全なのだ。(そしてこれはXenakisの展望とも一致する。だがMahlerもまた、ゲーテを通じて、もしかしたらゲーテ=ニーチェの 奇妙な混交を通じて、そこからの脱出を希求するという仕方で認識してはいなかったか?ファウストはある仕方で超人ではないのか?)
... , wo der Obstbaum blühend darüber steht
Und Duft an wilden Hecken weilet,
Wo die verborgenen Veilchen sprossen;
Gewässer aber rieseln herab, und sanft
Ist hörbar dort ein Rauschen den ganzen Tag;
Die Orte aber in der Gegend
Ruhen und schweigen den Nachmittag durch.
aus : Friedrich Hölderlin, Wenn aus dem Himmel
「・・・果物の樹は花咲きながらその上をおおい
甘いかおりが野生のまがきのほとりに漂う、
ひそやかな菫の花が咲き出でる、
だが、水はしずかに流れくだり
ひねもすおだやかにせせらぎが聞こえる、
しかし、あたりの村々は
安らかに憩い、午後の時を黙し続ける。」(ヘルダリン「天から」野村一郎訳)
だが、例えばHölderlinの詩集を手にして、「それでもこうして、200年前の人間の遺したものを私は手にしている。」 と思うとき、寧ろ感じるのは、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」という思いだ。 自分にはそれだけの価値がないから、跡を残すべきではない、という感覚に近い。 これはかなり絶望的な認識だ。何も成し遂げていない。理由とか経緯は一番最初に消えてなくなる。結果が全て。 そしてその結果は、いかなる観点からも(勿論「残す価値」という基準に照らしてだが)無に等しい。
中間点というのは数学的な意味での点ではない。それ自体がエポックなのだ。そもそも、中間点を過ぎたのか、まだその中にいるのかすら定かでない。
小鳥たちの死について。 永遠性に関する感じ方が変わったように思える。小鳥たちは聖書に書かれているように、何も遺さなかった。 けれども、彼らの存在は無ではない。もし残るべき何かがあるとすれば、それは私の生の行路の足跡などではなく、 小鳥たちが存在したことではないか、という思いに抗うことはできない。 その一方で、小鳥たちが何も遺さずに逝ってしまったことが、「私は跡形も無く消えていくしかないのだろうな。」 という感覚を抱くようになった契機になっているのだろう。
自分の世界が拡がることは、価値の相対化を生み出す。 今やレヴィナスを、ホワイトヘッドを尊重する人間も、ヘルダーリンを尊重する人間も、カラマーゾフの兄弟を尊重する人間も、周囲にはいない。 自分が「永遠性」に値すると考えているものも、所詮は相対的なものに過ぎない。 それは事実として認めるに吝かではないが、しかし、では生の価値は、何に見出せば良いのか。それとも、随分と希薄になったとはいえ、まだ執拗に残っている厄介な観念的な性向の残滓として、こうした問い自体を消去するようにすべきなのか。
哲学は不毛だと感じられる。 私が哲学を断念したとき、それが所詮は有限な人間の営みに過ぎない、という理由を持ち出したのだったが、その理由は全く誤っていないと感じられる。 モードとしての哲学、生活する手段としての哲学を私は見てきた。 私のかつての研究分野の脇で、モードとしての哲学が(正当にも)断罪されるのを見たし、ゴーレムXIVの哲学者への軽蔑もまた、正当であると感じられる。 人工知能への通路が、人間の営みの有限性に最も強く拘束された不毛な方法論を持つ現象学であったことは皮肉だ。 それにしても、この点については、私は哲学を断念するという行為を延々続けていくようにも感じられる。
時間がない、限られている。 にも関わらず何という関心の拡散。飽き易い、というのは何かを成し遂げる為には致命的な欠陥だ。 変な言い方だが、オブセッションに頼るほかない。それが病的なものであるかどうかなど分析しても始まらない。 とにかく自分のオブセッションに従うしかない。自分の中の他者の声。ジェインズの二院制の心。 それは(日常的な性質なものであっても)窮地に陥った時に聞こえているあの「声」と同じものなのだろうか? 超自我やエスといった精神分析的概念もジェインズの二院制の心と同じものを探っているのだろうか? 内なる「神」との対話、内なる「神」からの語りかけも、自分(要するに私=意識)を背後から動かす力もまだ健在なようだ。 オブセッションもまた。
多分器用過ぎて、かつ飽きっぽくて同じことを愚直に続けることができないのだ。 適応過剰でそれなりに状況にあわせてこなしていけるけど、その結果は純粋な消耗で、何かかたちあるものは残せない。 そのくせ自己批判ばかりは一人前で、気分が弱っているときには過去の自分のしたことに自信が持てなくなり、破棄してしまう。 あとで破棄したことを後悔するということの繰り返し。 そうやって時間を浪費していって、結局何も残さずに終わるのだろうか?
死を、有限性を怖れているのではなく、寧ろ、己の生が充実して意味のあるものでないことに対する絶望。 何も成し遂げずに無になることへの絶望だ。 その一方で、意味あるものでなければ、無に帰してもよい、寧ろ無に帰するべきだという考え。 神の衣は永遠性を獲得すべきだが、それを織れないなら、痕跡も何もなく、無に帰したほうが良い。 有限性の意識とは、無意識に無頓着にやっていても、何事か成し遂げうるだろう、という楽観の否定だ。 実際には、自分はそんなに大層な能力はなく、せいぜい、何をするか良く考えて、寄り道を避けなければ何も成し遂げられないだろう。 あるいは、それでも足りないかもしれないのだ、ということに突然気がつくことだ。
そこで、かつてはあんなに拘ったハエッケイタス、ジャンケレヴィッチの事実性は、ほとんど何の慰めにもならない。 かつて拾い読みしかしなかったときにはそれなりに価値をおいていたものが、ようやく通読できたときには慰めにならないというのは皮肉なことだが。 単なる事実性では、(傲慢なことにも)不足なのだ。 単なる事実性が永遠なのは寧ろ困る。 無価値なものまで、それが存在したという事実性が存続するから。無価値なら、事実性は不要。 価値があれば事実性では不足なのではないか。 そう、「実存もせず、実質もないものの永遠を拒否する」側に私はいるのだ。 「どのような生涯を生きてきたかとは無関係」な価値など、私に言わせれば価値ではない。 事実性を重視するのはレトリックでなければ、哲学者のおめでたさがなせるわざではないのか。
自分の能力を測ることの困難さについて。 生活の糧を得るための仕事は自分にとってなんであるか? それ以外のものに、それに勝る価値が見出せないのであれば、結局文句を言うべきではないのか。 このような仕事に、最終的な価値など認めることはできない。ある人は、それを己の成果として誇りもするだろうが、私は最終的な署名は拒絶するだろう。 それが自分の成果であるのは、糧を得るためのCVの裡でしかない。 それが自分なら、それしか自分の遺物がないのなら、私は何も遺さずに、忘れ去られてしまってよい。そんなものに意味はない。 少なくとも、この数年で、この世界がどんなに不完全で、理想というのがどんなに視点依存のもので相対的なものであるか、よくわかった。 そして別に私の周りだけがそうなのではない。 いつもいつも、世界とはこういうものなのだ。 マーラーですらそうだった。 彼の成し遂げたことの価値の大きさたるや、全く明らかなことであるように思われるにも関わらず。 彼がウィーン宮廷歌劇場監督を辞任するときに残したメッセージがどのような目にあったか。
人間の不完全さに対する苛立ち。 大人の世界は、かつて子供の自分にそうと半ば信じ込まされていたようには完全ではなかった。 寧ろ絶望的なほどに不完全なのだ。 人間たちが集まって何かをする、たとえば企業というのはなんと不可思議な組織か。 この数年で見たことは、この絶望に、そして絶望しながらも逃れ得ない現実として受け入れざるを得ないという諦念に繋がっている。 (子供の頃の、集団に対する反応。学級委員の思い出。 だが、別に大人の世界が、子供の世界以上に立派であることは、ついになかった。 レベルは変わらない。かつても今も、結局同じではないか。)
しかし、自分の能力もまた、大したものではなさそうだ、という予感。 もうここまで来てしまった。何も成し遂げずに来てしまったということへの焦燥。 きちんとした訓練すらしてこなかったが故に、これから何をしようとしても、成し遂げるのはもはや絶望的ではないのか? わからない。我儘になるべきなのか?
かつては私は人間を基本的に信頼しようとしていた。人間の世界は基本的に「良い」ものであると思おうとしていた。 その思い込みがどんなに観念的なものであったとしても。 でも実際には、人間はどうやらそんなに立派な存在ではないようだ。 ここ数年で、いやというほどそれを思い知らされた。 ある価値の尺度からしたら、私が未だに抱えている価値観など笑止の沙汰であろう。 「誰が私をここに連れてきたのだ」というマーラーの言葉は、比較するのも馬鹿馬鹿しいほど卑小な私のものでもある。 私がまだ捨てきれずにいる価値観は、今や場違いなものなのだろう。 物差し自体が限りなくあって、己の物差しの優位性を暢気に信じることはできない。 物差し自体が、或る種のミームとして生存競争を繰り広げていると考えるべきなのだ。 要するに、自分が正しいと思ったもの、自分にとってかけがえのないものは、 他者にとってはそうではなく、そしてそれに腹を立てるのは筋違いで不当なことですらあるのだ。 (ところで、レヴィナスの言う他者は、まさにそうしたものであるはずではなかったのか。)
まあ、簡単に言って、誰しも自分に一分でも理があると思っていなければ、到底生き抜くことはできないだろう。 だからといって、自分の物差しの優位を声高に主張することに何の意味があるだろうか? 混乱した論旨もそっちのけで、他人の論を曲解して批判し、それを踏み台にして自分の論の独創性を叫ぶことに、何の意味があるだろう。 でも多分そちらの方が正しい。 ミームの競争であれば、「声が大きい者が勝つ」のだ。 彼らは勿論、自分の物差しが正しいと思っている。 相対性を感じ、自分の物差しの正当性を懐疑したりはしない。 そんなことをするのは、彼等の物差しからすれば、間違いなのだ。 おまけにこうしたことは別に特別に例外的な光景でもなんでもない。 実にありふれた日常的な風景なのだ。
価値は多様であり、誰からも批判されない人間はいない。 マーラーでさえ。ヴェーベルンでさえ。 あるいは、ある価値にのっとってではなく、批判のための批判だってありうる。だから、他人の評価を気にするべきではない。 Marcus Aurelius?ストア派か?
苦い認識の記述。 愚行の記録。 漠然とした運命への、だけでなく、「人間」に対する。 他者は暴力を与えるものかも知れない。 それを前提しない倫理は「ほとんど」無力だ。 そこにいる弱者を救うことは出来ない。 どこかにある高貴さは、そこにはないかも知れない。 けれども「私のモラル」は残る。愚かさを愚かさと呼び、不完全であるという認識は、ある価値に基づく。 つまり、進化論と唯物論に包囲されても尚、何か、それに抗するものを持ち続けたいのだ。 それ自体がナンセンスに思えようとも、人間の認識の限界を超えられなくても。
才能がある人間なら、唐の詩人のようにそれを嘆く詩を詠み、あるいはショスタコーヴィチのように引き出しの中の作品で憂さ晴らしをすることができただろう。 才能のある人間は、それを嘆く「権利」があるのだ。 ヴェーベルンの嘆きと憤りは、その才能によって正当化される。 マーラーがあちらこちらの歌劇場で成し遂げたことは、彼の能力と、成果によって、十二分に正当化される。 でも、それがない人間は? 自分に対する自信のなさ、自分のした事の価値に対する懐疑というのは、結局才能の欠如の表れではないだろうか? 相対主義は何かを為そうとするにあたっては危険だ。 自分のやることの価値を始めから切り下げてしまい、成し遂げることへの執着を喪わせてしまう。 何かをするには、愚かである必要がある。少なくとも価値についてその場のみであっても<括弧入れ>判断停止が起こる 必要がある。自己批判からは何も生じない。自己への傲慢までの自信が必要なのだ。
何故分業が嫌いなのか? それが進化論的に「正しい」から。 「個」の「私」の地位が危ういから。
けれども、嫌であっても、それは正しく、有効であって、天才ならぬ個に抵抗の術はない。 アドルノの主観―客観図式にはもう関心があまりない。「自然」の優位、圧倒的な優位からくるニヒリズムが問題なのだ。
あまりの自己過信、選択の誤り? 否、選択は誤っていない。もし誤りがあれば、もっと前、自分が世界と拮抗しうるとの思い込みと、 諦念との間の振幅のうちにあった。いずれにしても途はなく、もっと愚直であるべきだった。 どちらにしても、傲慢であったのだ。 頭で決め付けたことには変わりはない。 気付いてみれば、神の衣を織る術はない。 自分が「何によって」「いかにして」神の衣を織れるのかわからない。
祝福と呪い、ではない。どちらも無意味であることこそ、耐え難いことなのだ。 寧ろ一貫性の方が稀である。不器用、奇人とみられたかも知れない一貫性によって、生き延びたのかも知れない。 大抵の営みには一貫性などない。
我が王国はこの世のものならず。 自分の中にあるものを破壊すべきではない。 折り合いをつけるという点では、自分の中にあるものも、例外ではない。
奇妙なあり方、呼びかける相手はある。それは自分を超えた何者か。 自分の内に在り、けれども、それを単なる幻影とは呼んでしまえない外性。 心理学的-生物学的には単なる投射ということなのか? けれども、それに還元できない何かがまだ残っている。
思いのほか変わらない、という見方もある。 かつてだってそうだった、、、孤立、外から来る知らせ、、、
自分の内側に何もない、遺すべきものはない、と感じられれば為すべきことはない。 もし、何かを表出する、刻みつける衝動を感じたら、それに素直に従うことだ、その価値を云々しても仕方ない。
そして、やすやすと成し遂げることができる人たちへの羨望。 自分の状況への苛立ち。仮に自分に能力がなく、我儘が単なる我儘であったとしたら、そのときは? 一体、何のために生きるのか?神の衣は?私には手が届かないのか?
自分の作品が匿名であることを望むことができる高貴さ、強靭さへの驚き。 何ということだろう。 確かに、自分にも、無に帰するという認識はある。 それは己の痕跡を消し去りたいという欲求と結びつく。 だが、それは何も遺さないということで、遺したものが無名のものになって欲しいというのとは同じでない。 何という寛容さだろう。 私は、そうであれば痕跡を、「私」のそれを残したいか、さもなくば無でありたいと願っているのに。 この件に関しては、私は寧ろ、苛立ちを感じる人間の心情の方がよくわかる。そこにある種の謙虚さのポーズを、 (無意識のものかも知れないが)欺瞞を感じ取ることだってできる。
我を離れた態度というべきか。 神の衣を織ることとは、そういうことかも知れない。 神の衣を織れぬ者は、ただ消え去るしかないのか?
ジッドの狭き門。多分読み方は異なっている。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。 「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み(これはその場を取り繕ったことばではない、と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。 書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに気づき上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。 マーラーの音楽の偉大さは、今や私を苛立たせるのだ。
こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる。 「神ならぬ者は、、、」
多分、神の衣を探しても見つかりはしない。 それは事後的にしかわからないのだ。 手に出来るかどうかは、わからない。 どこにあるかもわからない。 それはわかっているのだが、、、
私は結局立ち尽くしてしまう。 何も生み出すことができない自分に愕然として。 あの「知性」とやらは、対して役に立たなかったようだ。 神の衣を織るためには用いられず、取るに足らない営みに浪費されていく。 そこで多少うまくいっても、誰かの金ぴかの自己像の補強に役立つのが関の山のようだ。 またしても「私の生涯は紙くず同然だった。それは盗まれていた」というマーラーの抗議が身近に響く。 勿論彼のようにそれを言う権利は私にはないのだが。
一体、生きていることに何の意味があるのか? 彼らのとの価値観の競争など、私はしたくない。 邪魔をしてくれなければそれでいい。 目障りだから、どこか他所で自分の好きなようにやってくれれば最も良い。 でも、私自身には一体何の価値がある? 私の価値観には一体どういう意義があるのだ? 何かを生み出すことの無い人間が読んだ本、聴いた音楽は、どんなに立派な反応をその個体の内部でしていたと言い張ろうと、 その個体が消滅すれば、何の痕跡も無く消えてしまう。本をそろえ、CDを集めることになど意味は無い。 何が残せるかがすべてなのだ。 復讐のためにも、何かを残すことが必要だ。
だが今や己の歌の円熟に如何程の意味があるのか? 「歌」の領分はいよいよ狭まり、そして「歌」の価値を最早自らが信じられないでいる。 遺された本、楽譜が一体何を意味するか? それはとても不完全な仕方で、とても間接的に、ある人間の生を、その主観の眺めた星座を描き出す。 そこにはほとんど事実性以上の意味などありはしない。 そして事実性はJankelevitchがそう思ったほどには価値のあるものではない。 もしそうであれば、それは「記憶の人フネス」の認識したような世界の裡でであろう。 だが、そのようなことは現実にはない。 自分で抽象すること、自分で語ることが必要なのだろう。その抽象が個性なのだ。事実性は個性を救えない。事実性はすべてを平等に救うかに見えて、 まさにそれゆえに、何も救い出さない。Jankelevitchは間違っている。そして、自分のやっていることだって、事実性にすべてを委ねることからは程遠い。 あの際限の無いおしゃべり。物事を整理し、論理を通すことを蔑むペダントリー。折角の思惟を台無しにしてしまう。 それでいて、モラルについて諄々と説くわけだ、、、
まだ、諦められない。 そうして私は、神に問いかける。 問いかけることをやめることは少なくともまだできそうにない。 私は神に祈らずにいられない。 私を導き、何かを生み出す力を、あなたの衣を織ることに寄与することをお許しください。 私の生を不滅性に寄与することのできる、意義あるものにしてください。
私はまだ諦めることができないのだ。 歳をとり体力も気力も衰え、ますます時間の余裕はなくなり、不毛な時間の経過が早くなっていて、 絶望的になったりすることはあっても、完全に諦めることはできない。
Vorbei.
何かが壊れてしまう?止めることはできない。壊れてしまったものは修復できない。逆らってはいけない。区切りというものはある。 立ち止まってみる、という事なのか、但し、後ろを振り返ることなく、、、 私はどこへ行くのか?何をすれば良いのか?何をすべきかは、待ってみるべきなのか?自分で選ぼうとはせずに。
たくさんの文章、公開されているたくさんの文章。 何故公開できるのか?確信を己に抱けるもののみが遺すことができる、のだ。
無理をして背伸びをするのは少し控えるべきかもしれない。 周囲の動きの中で、気配を消すように、努めるべきかも知れない。 もう5年もやっているのだ。区切りというのはあるだろう。 現象から身をひくこと。我が王国はこの世のものならず。 世の成り行きに接していた面がひとつひとつはがれてゆく。 5年間の企ては結果的に貧乏くじをひくことにしかならなかった。 そして、それ以外の面でも、自分が作ったものの一つがその役割を終え、小鳥達、父、そして自分に価値を見出してくれた人たちの何人かが逝った。 だとしたら、ここで一息つくのもいいかも知れない。 まだしばらくは生き続けなくてはならない。 「知の人」の装いのもとに。そのためにも、一旦、休むべきかも知れない。
盗むものは盗むが良い。あるいは使えるものがあれば使うが良い。 それは、私のものではない、あなた方のものだ。 私は何も持たずに、何も残さずに、立ち去るだろう。
たくさんの誤解と無理解によって「歴史」は塗り固められてゆく。 Webernの傷は「歴史」によっては購われない。それどころか想像力の欠如した音楽学者達が批評をする材料にされてしまっている。 結局、「誰か」の視点しかない。そして声が大きい者が勝つのだ。言葉でなくても、音でも画布でも、何でも。 そして素材(媒体)と格闘しない純粋な思惟というのは、あり得ないのだ。あるいは素材の、道具の、記号の往還の無い思惟というのは。 多くの人が、一体記憶はどこに行ってしまうのか、と問う。 しかしそれは、脳が活動を停止してしまえばなくなってしまうのだ。 記憶もまた、他のものと同じく、物理的な基盤上に成立している。 H/Wの故障により、その上のファイルに格納された情報が読み出せなくなることと、ほとんど変わることはない。 記憶だけを神秘的に考えるのはおかしい。
つまるところ、外化して残さなければ如何に偉大な思想も無に等しい。価値は流通によってしか生じない。 価値は他者が与えるものだ。産み出すこと。 何を考えていたのか、書き残されたもの、遺された書物の示す緩やかで曖昧な布置以外に知る術がない。
お前がその脳の中にたっぷりと詰め込んでいるものがあるのなら、それらを吐き出して書き付けることだ。 お前が死ぬのを待つことなく、おまえ自身、その思考へのアクセスを喪ってしまうかも知れないのだ。
かつてある人に、(そのときの文脈は、むしろ言語の「不完全性」だったかも知れない)自分の頭の中にある思惟をそのまま伝えることができるなら、 言語等という不完全な手段に頼ることはない、と語ったことがある。 けれども言葉にして伝えなければ、脳の中の思惟は消え去ってしまう。
また一つ「世の成り行き」との接点が喪われる。 けれども歴史には勝者と敗者しかいない。敗者は忘れ去られる。細部は喪われる。脈絡も背景も前提も忘れ去られ、評価のみが残る。 全てを喪ってしまったこの5年間はただ、盗み取られ、己を喪うためにのみ在ったかのようだ。 まるで何かを残すことを禁じられたかのように、そこはお前の場所ではないとでも言われているかのように。
こうやって日々、楽観と悲観を彷徨う。あまりにあてどがなさ過ぎて、どこかに辿り着くかも定かでない。しかし、道は歩んだ跡にしかできない。 決定的な何かはその瞬間にそうと知られることはない。必ず、後からそうであったと追検証されるものなのだ。 だから自分のやることについて、思い煩うのは程度の問題だ。自己批判を欠くと言われようが、破棄されたものは残らない。 想念のうちに抹消してしまい、形にしなければ何も残らない。 批判の対象にすらなりえない。一方で、残すとなれば、恥をさらすことを覚悟せねばならない。 残らないことを懼れるでもなく、残ることに恥らうでもなく。ある種の愚かさ、愚鈍さが必要なのだろう。 すべてを相対化して価値を見失う聡明さよりも、己を恃む融通の利かない、尊大、傲慢と受け取られかねない頑固さの方が、まだまし、というわけか。 もう一つ。他人と接すること、外に対して開かれることが多分必要だ。少なくともある時期に、誰と接したかは、決定的に重要なのだ。 隠棲なり象牙の塔なりはその後なのだ。誰かの友人であったり、弟子であったりすることがどんなにか重要なことか。
~について考えること、は、それを眺めること、それをある形式の裡に結晶させることとは異なる。 大抵の場合、無意識の備給の方が価値を帯びていて、「~について」という意識的な部分については価値はない。つまり反省は邪魔なのだ。 ~について考えること、分析し、組み立てること、内なる声に耳を澄まして書きとるのではなく、作り上げること、それは作品を生み出すことではない。 知の人、頭の良さ、というのは実際には役になどたたない。もっともそうしたイメージとは異なって、自分はさほど論理的に物事を捉えてはいない。 知的な印象、冷たさは仕方ない。だが実際にはもっと感覚的、そして直感的だ。 そうした例というのは、例えばWebernやXenakisの場合がそうだが、無い訳ではない。だが、彼らはどうなのか? ノモスを探求しようという態度、それは役に立たないのか?
自分から多分最も遠い音楽、Mahlerの様な音楽(私はそういうものを作ることだけは出来ないだろう。 Mahlerの最良の部分は私に無い部分なのだ。それが今の私には良く分かる)は、一体何を提示しているのか?その魅力の源泉は何なのか? 私が書くものは、全て、主観的なものだ。その魅力とは、私にとってのそれだ。それを書くためには、どこから前提を既述すれば足りるだろう。
何が幸いするかはわからない。抽象的に考えることが出来るのか、出来ないのか?論理的に考えることができるのか? 大きな見地に立って考えることが出来るのか? だが、どのようにparameterを設定してみても、何かを産み出せるかどうかを計算することはできない。 それは神か、あるいは統計的な事象なのだ。 ただし、どのような媒体によってか、というのは多分、重要なことだ。 なぜなら、やはり技術的な次元は存在して、だから、何かに習熟すること、というのはどうしても必要だからだ。 何かを続けること、ある対象に没頭し、熟知すること、はどうしても必要なのだ。 それよりも必要なのは、過剰な適応から距離をおいて、自分が本当に何をしたいのかを見極めることだ。 探す必要があるなら探すしかない。自分の身の丈に合った対象を見つけるか、身の丈が合うのを待つか。 あせっても仕方ない。すべての時間をそのことに向けられるほど合理的に無駄なくはできていないのだ。 休むことも、時には必要かも知れない。無駄な寄り道よりは何もしない方がいいのかも知れない。 寄り道が無駄かどうかすら、知る術はないのだが、、、
これで終わりなのかどうかは、神のみぞ知る。仮にこの鬱状態が一時的なものであるとしたら、しばらくすればまた何かを始めるだろう。 だが一体、いつから始まったと考えるべきなのか?かつても、いわゆる収縮し、縮小することで自分を維持しようとすることはあった。 但し30より前では、否、つい5年前も、それは「変わる」、つまり別に何かに「なる」ということを目がけていた。 今回のそれは違う―違うかどうかはわからないが―いずれにせよ、「変わる」ために抑圧したものをもう一度評価しなおして、ある意味では中性化してしまった。 勿論、過去の自分に戻ることはできない。過去を振り返る自分は過去の向こう見ずな自分ではそもそも無い。 過去に評価したものが全て復活した訳でもない。けれども「変わること」に疲れたのかもしれないとは思う。
いずれにせよ、これでおしまいなのかどうかは神のみぞ知る。 今はじっとしているしかないのかも知れない。色々なものを、結果を出すことをあまり考えずに蓄積させるタイミングなのかも知れない。 多分、まだ、多少は力が残っている。結局まだ、諦め切れていない。 だが、何をすればよいのか、拡散し、散らばってしまった、どれも中途半端な断片のどれを拾い上げて、どれを捨ててしまっていいのかがわからない。 もう時間が無く、残されたリソースを考えれば、選択は必要だ。だが、自分で選ぶことはできない。選ぼうとして動き回れば、ますます混乱してしまうようだ。 自分にとって必要なもの、欠かせぬものを見極めること、この年齢(「不惑」も近いというのに)になって、何たること! けれども仕方が無い。あちらこちら道草をした報いというべきか。 いずれにせよ、これが続く―最後まで続く―のか、いつか終わりが来るのかはわからないが、しばらくは沈黙するしかない。
志向的対象の有無、感情と気分(Stimmung)気分は人間と世界の合一(ボルノー)cf.レヴィナスの享受 そして気分と雰囲気―後者の非人称性 感情―気分―雰囲気 Adornoにも「雰囲気」というのは出現していたことに注意。
詩もまたある認識の様態を伝達する。ジャム、ツェラン、そしてヘルダーリン。 とりわけジャムの詩の風景や感受の様式は、多分、かつての自分を強く捉えたものだった。 けれどもヘルダーリンの詩同様、ジャムの詩の世界もまた、随分と遠ざかってしまったようだ。 ある種の純粋さ、それを保つのは難しい。しかもその輝きは私の存在とは関係がない。 そして私はと言えば、信仰も持てず、神の衣を織る事あたわず、友もなく、沈黙するのみ。 信仰なき沈黙とは何か?それは日常だ。だが、それも仕方あるまい。
Jammes的な光景、風景への懐疑?光の調子、それは現実なのか? 否、現実とは、享受の様態により決まる。Jammesの輝きはWebernの後期作品等と同じものかも知れない。 或る種のdetachement。 それは幻影ではないかという思いと、それを否定しきれない気持ち。 一つには信仰の問題がある。現実の認識の変容。けれどもそれは自分の態度が変わったからだ。それは確実にいえる。どのようなスタンスをとるかによって、立ち現れる現実の様相はある程度変わる。
ではかつての態度の方が良かったというのか? ―恐らく、ある意味では。お前の「強さ」は、今や喪われてしまったかも知れない。 だが、かつての態度は「非現実的」―或る種の超然的な独我論ではないか? ―そうだ。それを批判するのは必ずしも誤りではない。だが、それにも価値はある。 今でも何かに没入したらお前はそうなるだろう。要は選択の問題なのだ。 かつても断念はあった。否、断念と妥協の繰り返しではなかったか。
かつての私には「他者」がいなかったのだ。強い観念的な世界の中で他者を見ていた。 実践的な働きかけの対象ではなかった。私は私の独我論の世界に居た。 祖母も、祖母の死後後を追うようにして息を引きとった犬も―それは大いに悔やむべきことだ。
音楽のなかった時代、光景のみが残っている。記憶のうちに。 これらは現実にはもう存在しない。街は変わり、風景は変わる。 私の見たもの、あの確かであった筈の現実は、今や私の脳の中に、不完全な記憶としてしか残っていない。
本を読み、音楽を聴く。 それは構わない。だが脳に蓄えられた写像は死んでしまえば喪われてしまう。 喪われることを拒むのであれば、更に変換を行うことで別の媒体に残すことだ。 いくら読む本を選び、聴く音楽を選んでも、死がその秩序を散逸させる。 形を与えることだ。それが残るかどうか、存続するかどうかは神様に委ねれば良い。 翻訳であっても良いかもしれない。或いは紹介記事であっても。いずれにせよ、己の外に出すこと、表現すること。
外への働きかけ、他者への働きかけ。行為の次元。「~のために」というLévinas的には倫理的な次元。 Lévinasの他者論を読んでいたときには、そうした事に心から納得しなかったことは皮肉だ。 しばしば論理的な一貫性というのは、何かを見えなくしてしまう。 とりわけ、哲学的な問題は、良く定義されている訳ではないから、論理的に一貫していると見えることが、単なる短絡に過ぎない、ということが良く起こるのだろう。
解決すべき問題、オブセッションとして纏わりついている問題が何であるかは分かっている。 回り道の余裕は もうない。
身体は死すとも、、、 しかし、精神も、心も同じだ。 それは身体に付随している事象に過ぎない。 だからそうした考え方、不滅性は或る種の転倒だ。 もし不滅性を考えるなら、別の形態を考える必要がある。 心、意識は、現象に過ぎないのだ。
私は結局、意識の問題にしか興味がない。 音楽もAIも時間論も他者論も、意識の問題の変形に過ぎない。 作曲家の生でもなく、音そのものでもない。 作曲の跡に見られる意識についての、認識というか、ある立場、ある存在の様態こそが気になるのだ。 音の向こう、あるいはこちらに、音をつむぐ手が、その手を制御する意識(あるいは無意識)がある。 機能的現象のみを説明すれば、意識の説明は終わったとする立場は誤っている。 少なくとも意識はそうした機能を果たすこと「のみ」をしている訳ではなかろう。何故か―しかじかの「ために」という説明は、誤用 (なぜなら現実に「本来の目的」から逸脱してる」)の説明にはなっていない。 つまりは意識を十全には説明しきれていない。 それが誤用であったとしても、あまりに多くの蓄積がありすぎる。
不滅性に頼ることなく、けれども意識を「まともに」扱うようなそうした思考が必要なのだ。後半生を生きるために。 私の意識が自分の為に、自己を正当化するために、自己の存在を正当化するために、それは虚しいと分かった上で。 いつか自分自身も崩壊してゆく。
生は死に取り囲まれている。死は決して例外的な現象ではない。このような認識は例えば時が経てばまた変わるのか? そうでもない様に思えてならないのだが、、、
(かつてそのように勘違いしたのとは違って)時間ではなく、意識の問題。 意識の問題である限りでの時間性の問題。 例えば宇宙論的な時間への関心は、結局副次的なものに過ぎない。 勿論、それが不滅性の問題を介して、実存の次元と関われば別だが。 (ホワイトヘッドの体系の中でなら、それは連続している。) 不滅性の問題。 価値ないし意味の問題。 人工知能に関与したのは無駄ではない。 そして、最初の動機を忘れてはならない。 結局、それ以外は自分にとっては副次的な問題なのだ。 ゴーレムXIVとデネットの解明された意識。 そして、その中心に時代錯誤を伴ってマーラーの音楽がある。 そのアナクロニーそのものもまた解かれるべき問題の一部を為しているのだろう。
しかし、本当にそれがお前の問題なのか? それについてお前が考えることに何の意味がある? お前にはどうせ解けやしない問題なのに。
イヴァンとアリョーシャの会話。 神はいるか? 不死はあるか? それは未だ、多分自分の問題でもある。
進化論的な陰鬱な展望を受け入れながら、私の心のどこかには、神に呼びかける部分が残っている。 他人はそれを心理的仮構物と分析し、自問自答や自己暗示の一種と見做すだろう。 否、多分そうに違いない。でも、だからといって、神と不滅性の問題が消えてなくなることはない。
意識を持ってしまったことの厄介さ。 自分の死を待たなくてはならない。 二人称の死もまた。何と過酷なことか。
生の領域にあって己の欲しているのはモラルだ。モラルなのか倫理なのか、恐らくその何れもだ。 いくら醜く、不完全であるといっても、それだけではない。それで終わりとは考えたくない。 私はドーキンス程楽観的になれないが、でも、どんなに頼りなくとも取るに足らぬものでも、人間の築いた「良いもの」を否定したくない。 絶望的なプロテストや声に出して訴えることも知らぬ、謙虚な心のために。
何かを残すというよりは、そうした気持ちを何かに振り向けるべきかも知れない。 倫理もモラルも必要なのだ。 根拠などの問題ではない。根拠が無くて、必然性がなくても、ある「べき」なのだ。 おや、これはVoltaire? Il faut l'inventerという訳か?
Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. と語り、 あるいは交響曲は全てを包括しなくてはならない、と述べたマーラーの気持ち。 私のみた風景。みること、書くことによって形作られる風景。私ではなく、私のなかの何者かが 私に見せ、私に書き取らせる風景。誰のためでもなく、だが誰かに向かって書かれ、構築される風景。 私はそれらを書き留めることができるだろうか?そうすることによって神の衣を織ることができるだろうか?
自分の考えていることを自分が納得のいく仕方で誰かに伝えること、それ自体が大変な難事だ。 不可能事と言っても良い。ある時以来、それをはっきりと認めざるを得なくなった。 だから最近は、現実には妥協をする。 自分が納得いかずとも、相手が行いにおいて自分の望まないことをしなければ良い、という様に。 モナドには窓がない、私の思いは私の闇の裡にとどまる。 だから他人への通路を、媒体を作り出す作業は消してtrivialではない。けれどもそれと私の痕跡とは?
恐らく皮肉なことに、チャーマーズ風の二元論の、実用上の有効性に思い至った。(チャーマーズの意図とは異なる。) ようするに、意識があるが故に、その意識の「ために」クオリアにこだわる必要があるのだ。 生物学的、物理的な「事実」以外に何も無い、というのは意識に「対しては」誤っている。 それは確かにあまりにもろくはかない。意識は、そして生命は、生物学的(医学的)、物理・化学的にはちょっとしたトラブルで壊れてしまう。 だが、意識にとっては意識にためには、そうした説明は何にもなりはしない。物理的には取るに足りない違いであっても、意識の有無は、決定的な違いだ。 だからといって唯心論には決してならないが、少なくともショスタコーヴィチの見方は、意識の立場からすれば、一つの(かなり悲観的な)アイデアに過ぎない。
勿論、私の意識がなくなれば(いずれそうなるのは確かだ)それは、私にとって消えてしまうが、だからといってそれは無意味ではない。 全く交わらない別の次元が存在する。 そして意識にとって「死」は単なる無以上のものだろう。あくまで意識にとって、単なる己の消滅以上のものだろう。 ただしそれはHeidegger風のSein zum Todeでは全く無い。 決意や投企とも全く無関係だ。 (それらは、あらゆる宗教的な言い訳と同じく、錯誤を錯誤と思っていない点で受け入れられない。) 二元論は残り、そのうちの圧倒的にもろい一方だ、ということを忘れてはならない。もう一方を消去したり否定したり、従属的、副次的なものと 見做してはならない。
意識にとって、意識が有限の基盤のものであるなら、その死はその有限性そのものであると同時に、その有限性に対する解釈でもある??? 意識の有限性を、その物質的な基盤を認めること、意識の消滅、そして死について認めること。その上で、意識にとっての、意味なり価値なりの領野を認めること。 それは独立していて、物質的な基盤を持たない。抽象的であろうと、そうした信念なり価値なりの空間は存在するし、別の仕方で(Dawkins風/Denett風には) 継承されもする。そうした価値の空間はチャーマーズ風の二元論の一方の領域、つまりクオリアの領域と関係を持つに違いない。
物質的な基盤を認めない信仰同様、この領域を認めない唯物論も同じくらい誤っている。唯物論とて、意識の自分自身に関する解釈に過ぎない。 還元不可能だが随伴的、意識「にとって」そうなのだろう。 だが、それ以外ではありえない、こうした分析じたい、意識の産物なのだ。
現象から身を引き離すこと。 アドルノの批判にも関わらず、(けれどもそれは多分に正鵠を射ている)フッサールのあの徹底ゆえの不徹底(意識にとらわれすぎたのだ本当は意識からも 身を引き離すべきだったのに。)
~のように見える。~のように感じられる。という「私」の身の丈に合った記述、世界の描像。 二元論の「私」向けの是認。場の量子論的な描像に対する「私」の反抗。 それは井の中の蛙、裸の王様の反抗だ。だが、その蛙は、王様は、己が井の中に裸でいることを知っている。
カントの「慎ましい」理性批判の度し難い傲慢さ。自分の限界を自分で知ることができるという前提に立てるお目出度さ。 フッサールの「厳密さ」の自己中心性。だがそうした企ての「気持ち」はわかる。あるいは進化論を、場の量子論を否定したがる人間の気持ちも。 勿論彼等のルサンチマンの行き場は誤っている。だが、クオリアに、クオリアの齎す効果に、ミームに逃避して何が悪い? 勿論、それは倫理―逆説的にAutreではなく、Autruiでなくてはならない。 でも良いのかもしれない。「私」の不完全さ、醜さの代償として。そして、それは「必要」だ。「私」が生きていくのには。 だがクオリアに、美的なものに拘るのは、そうした醜さとは別の可能性がある界面には存在するということだ。 それが「私」の夢、幻想の如きものであっても。(そもそも「私」自体が、同じレベルでfictionなのだから。)fictionの側に専ら実感があるという皮肉。 それはつまり、人間(私)にとっては、fictionこそが現実たるべく条件付けされ設計されてしまっているということに過ぎない。
意識と時間―予期記憶、過去―未来という認知様式の発生。記憶を持つこと、先読みをすることと意識の関係。 (考えてみれば、当然のことだ。)
一方でカントの設定した理性の限界は、カントが想像していた程手前にはない。 人間は自ら自分の「生活世界」における実感と異なる世界認識の道具を開発し、 そのことによって、(カントの思弁とは異なって、経験的な反証という仕方で)自分の素朴な信念の限界と相対性を明らかにしてきた。
要するに、私がうんざりしているそうした理論も、私―ただしこの私ではなくて、人間一般―の営みに過ぎない。 ただしそれは他者から、社会から与えられるものなので、私にとっては「自分のもの」になり切れていない? いずれにせよ、倫理や美学以外は哲学の役割は限定される。 哲学が、神の衣を織ることになるようには私には思えない。(だがWhiteheadの様な場合もあることはある。 それにしてもそういった哲学的思弁は、今や寧ろ物理学者にのみ許されるのではないか、、、 Whiteheadが数学者でも理論物理学者でもあった点を考えれば良い。)
二院制の心によって、内なる神との対話もまた、説明されてしまった。 あるいはフロイトの超自我でも良かったかも知れないが。 今や意識の問題は、第一に脳(と身体)の問題、つまり神経科学の問題である。 私は神経科学者ではないから、それに寄与することはできない。
偉大な作曲家たちの跡を辿ることに一体何の意味があるのか? 自分の脳の中に情報を溜め込むことになど意味はない。 (私的な意味など価値はない。) 死んでしまえば、それは喪われてしまう。 それがいやなら、何らかのかたちで表現することだ。 だが、それに何の価値があるのか?
そうした問い自体が滑稽なことだろうか。 それは普遍的な価値の序列があって、その中での位置づけを気にしているかのようだ。 だが、現実には、そんな普遍的な価値の序列はない。 であれば、気に病むことはないのだ。
多分、どんなに偉大な人間であっても、自分の生が無意味であるかもしれない、という疑念から逃れることはできないだろう。 そうした疑念から逃れることができるかどうかは、何を為したか、ではなく、どう見做すか、という志向的姿勢、信念による部分が多いのだ。 だから成し遂げたことがミームとして引き継がれることのないような存在であっても、それ自身としては充足して、 上記の疑念に囚われずに生を全うすることも可能だろう。
どんな存在でも多様な価値(遺伝子の観点での、あるいはミームの観点での)のプールの一角を占めるに過ぎない、という制約を逃れることはできない。 あなたの信念は相対的で、ある人にとっては無に等しいのだ、という可能性を否定することはできない。
意識が儚い存在であること、その認識能力には限界があることは明らかだ。 一方で、いかに意識の成り立ちを説明しようと、意識からの視点を解消することはできない。 意識の成り立ちの説明ということでいけば、まだ端緒についたばかりとはいいながら、例えば100年前と比べれば状況は全くといっていいほど変わっている。 そうした状況の変化を考慮せずに100年前の思想を追うのは、哲学史家の課題であって、それを自分の生活の糧にしている人間以外には意味がないことだ。 (一般に哲学史研究については、そうしたことが言えるだろう。 結局「本当はどうだったのか」という、生成のコンテクストを辿る作業は、不完全さを予め運命付けられているし、 大抵の場合、そうした作業はどこかでこっそりと二股をかけている。 誤読の批判を受ければ、「今日的意義」とやらを持ち出して逃げを打つのだ。) だが、実はそちらの側は問題の半分に過ぎない。 還元できない、解消できない意識からの視点、幾らその限界を認識しても、 結局そこから逃れ出ることはできない(クセナキスの「言い方」はとても的確だと思う)視点をどうすれば良いのか。
そうしたものは余計なものとして、滅却すべし、というのが1つの立場であることは明らかだ。 そしてそれが強力な解決方法であることも理解できる。 だが、それは結局、意識にとっては解決にならない。 生命についての議論との並行性があるが、ないものねだりではあるけれど、存在することを強いられている意識が、 何とかその存在の居心地の悪さをやり過ごすことができるような、ある倫理が欲しいのかも知れない。
せっせと音楽を書物を溜め込む人間。だが、死んでしまえば脳の中に溜め込まれた知識は失われてしまう。 脳の中の知識は「私」しかアクセスできない。 一体、そんな蓄積に何の価値があるのか? 他人にアクセス可能なように、変換をすること。出力をすること。 そうしなければ意味はない。意味とは、そのようにして生まれていくのだ。 勘違いしてはならないのは、ある作品が作者の経験のある消息を伝えていたとして、 価値はその消息の側にではなく、結局作品の側にあるのだ。寧ろ、取るに足らない消息を作品の方が価値付ける。
だが生産しなくてはならない、という強迫は、結局、経済の原理に支配されているのではないか? 確かにそうだ。結局は一種のプラグマティスムが潜んでいるのだ。publish or perishと、本質は あまり変わるところがない。 だが、ここではそれでもいいのではないか? 勿論、意識を否定する、という解決の仕方があるように、不毛を選択すること、経済性の原理の向こうにある、かの共通の原則に対して、 そのように反抗することも選択肢ではありうる。 けれども、ここでも私は、そうした立場はとりたくない。 意識を抱え込んだまま、どうにかやっていこうと思うのと同様、ここでは、そうした作品の価値を否定したくないのだ。 ただし単純な多産性が(多作)が価値の基準ではないし、同時代的な評価もまたそうではない。
ごく素直に言えば、自分が出会った、価値あると感じられるものを擁護し、自分もまた、そうしたものを生み出すことで作品によって記憶されたい、ということなのだろう。
マーラーを考える上での主題系
「人工知能」がマーラーの問題になりうるか、検討の余地はある。 だが「意識」と「人工知能」がそうであるように、今日の問題としてマーラーを引き受けたときの展望というのはあるはずだし、あるべきだろう。 一見関係ないことが自明だが、具体的に距離を測るべきなのだ。
一方「意識」の領域は現象学以外については余り広げるべきではないかも知れない。 進化論をどう扱うかも考えどころだ。まずもって、進化論のマーラーの受容の問題がある。それは今日のものとはかなり距離があって、 その距離を正確に測り、記述するのは容易ではない。(当時の思潮を取り上げれば済むというのはあまりに安直で、マーラーの音楽の 説明になりえていないのは勿論、マーラーの人の説明にさえなっていないが、研究ではなくて一般に流布している「マーラー論」のレベルは そういった水準を超えていないように思える。)一方で、そうしたマーラーの音楽を、今受容するという受容側の問題がある。 上述の、当時の思潮を取り上げてマーラーの音楽の「解説」をした気になる度し難いお目出度さには、今日の問題意識にマーラーを 突き合わせるという視点を全く欠いている。マーラー自身は物理学、心理学をはじめとする当時の先端の自然科学のトレンドにさえ 関心を示す人であったのに比べれば、マーラーを骨董品として受容するようなそのような姿勢は、マーラーが持っていたはすの、従って、 マーラーの音楽が持っているはずのベクトル性をあまりに軽んじている。もしマーラーの(例えば第3交響曲における)「世界観」を今日 問題にするなら、今日の進化論の展開、さらには遺伝的アルゴリズム他の進化論的方法や人工生命の方向性、あるいは 進化論の文化的な平面へのアナロジーとしてのミームの問題などを無視することはできないように感じられる。そうした「主題」の領域を 抜きにしても、進化論的ではなくても動態的な視点は必須だ。従って、横断時に出現することになるに違いない。
マーラーにおける自然の問題をヴェーベルンやシベリウス、あるいはクセナキスの場合と対比させること。 同時に主体の立ち位置の問題でもある。 19世紀末的な「自然」にマーラーとヴェーベルンは含まれる。シベリウスは少し違う? 実際には、その様態においてはヴェーべルンとシベリウス(と恐らくブルックナー)の方が近いのにも関わらず。 一方でそのような意味合いでの「自然」は、ラヴェルやフランクにはない。これは何故? 都市の音楽だから?当時のフランス音楽が都市のものだったから? 「自然」に対する態度の違い?風土や文化?音楽の「機能」の問題? ロシアにおける例外的とも言いうるショスタコーヴィチにおける自然の欠如。 ショスタコーヴィチはロシアではなく、ソ連の文化的・政治的文脈が優った音楽であることは否定できまい。 とにかく、彼は人間に関わらざるを得なかった。告発するために、呪詛するために、記憶するために。
あるタイプの作曲家―演奏家の倫理性は、作曲家―演奏家という自分の立場の外には出ようとしない。 それは音楽家の己のための倫理だ。 それを中途半端なアマチュアが批判すれば恐らくははぐらかされてしまうのがおちだろう。 勿論、それが間違っているわけではない。 だが結局、音楽家でない私にはそれは「どうでもいい」ことだ。 そしてそうした倫理性は、作品の享受の関心の担保にはならない。 多分演奏家にとっては興味深いかも知れないその作品も私の心には響かない。 寧ろ行為ではなく、音楽そのものに向き合う類の音楽の方が 一見自閉的に見えて作品としての豊かさを備えている。 無論、作品は開かれている(いる「べき」かどうかの問題ではない、事実 としてそうなのだ)し、豊かさは演奏家が与えるものだ、という立場は間違っていない。 だが、私はそれにもあまり関心がないのだろう。 作品を固定した、死んだものとして「鑑賞する」美学に対する反撥には大いに共感するが、 それに対する彼らの答には私は共感できない。
作品が完成品でないのは、作品を作曲家―演奏家―まさに彼らがそうである、 特権的にそうであるような―の中間領域に常に「手を加える」必要のある 状態に宙吊りにしておくことでなくてはならないとは限らないだろう。 それは彼ら固有の条件への自閉ではないのか? 作曲者―演奏家本人にしか実現不可能な作品―他者が再演することのない 作品とは一体何なのか?一見開かれた、伝統芸能で言う「手」の集積は、 しかし、芸の伝達のシステムが機能しない場合には、イデオレクトに 過ぎないのではないか?自分のための、自分のためだけの作品。 自分の行為のみを正当化する作品。その正当化は確かに無欠かも知れない。 そして聴き手を忘れて、音楽家の固有のモデルに閉じてしまう。 そのスタンスは、外に対して他者に対して一体何でありうるというのか? だから、(特に20世紀以降に顕著な言説の形態での)批判の鋭さは認めても、豊かさを見つけることはできない。 その倫理性には高い感銘を受けるが、それでいて自分の中にははっきりと今や形をなした違和感がある。 彼らは正しいのかも知れない。多分そうなのだが、それは「選ばれた者」の論理なのだ。 彼はそのように為すべく選ばれた者なのだ。 その選ばれた者の自分の立場の表明した書籍を、実践を、そうでない人間が 書籍の形や、あるいは演奏会のチケットの形で消費するというのは、一体どういうことなのか? 弁の立つ名人芸的ピアニストへのファン心理と何が違うのか? 音楽家が音楽について考え、実践するのは正当なことだろう。 でも、それは私にとって一体何の関係がある?私は音楽家ではない。
演奏家―作曲家の特権性だけではない。 例えば、音自体に拘り、あるいは音と音との抽象的な関係という次元に 己を限定する音楽についての緻密な思考は、だが、音楽家でない私にとって何なのか? 彼らは、その人並み優れた自分の能力に応じて、自分の問題を解いている。 だが、それは私には結局関係がない。 問題意識は結局共有できない。 それはきっと私は音楽家ではないからだ。 彼らは音楽家の「音楽家としての」問題意識の圏内で動き、結果を生み出す。 だが、私が音楽に聞きだすのは、最後の部分では、音楽家固有の問題に 対する技術的な対応ではない。
私はそうではない。私にとっては、自分も含めて、自分の身近にいる人間の心の傷や不安、怖れの方が問題だ。病や老い、そして死。 それは自分自身の問題でもある。 勿論、個人の次元では解決はない。 社会的次元にこそその手がかりがある、というのは正しいのだろう(だからこそ、私は「他者論」に関心を持ったわけだ)。 だが、それでもクオリアの私性を何かでごまかすことはできない。 個人の次元は純化する必要もないし、そうすべきではないのだが、だからといって解消されてはならない。それは残るべきなのだ。 自分に行動すべき何かの動機があるとしたら、そうした私性の、私性ゆえの、だが結局のところ私性の「ための」戦い以外にはない。 私は親密さなどいらないが、私性、個別のこの生命、この痛みの価値は擁護したい。 意識の問題を消去するのには、意識を消去すれば良い。だが、私はつまるところその問題含みの意識そのものなのだ。 消去は私「にとって」何の解決にもなっていない。 意識は頼りなく、少なくとも有限なものだ。世代の交代は意識という現象にとっては何の救いにもならない。私はそこで行き止まりなのだ。
支配するのは怒りではなく、寧ろ無力感だ。怒りがあれば、それは何かを生み出すだろう。 そしてそれが不滅へと通じる途なのかも知れない。丁度ショスタコーヴィチのop.145が証言するように。 自然への帰依の感情、法則性、Nomosへの信頼からもまた、遠い。 だからシベリウスやヴェーベルンのあの自然の即自性は勿論、マーラーのあの憧憬からも遠ざかってしまったのだ。 単なる観点の、立場の問題かも知れないとはいえ、遺伝子の、あるいはミームの媒体に 過ぎない個体の有限性を、自分の営みの虚しさを確認することは意志を喪失させる。 何という陰惨な展望であることか。 何というところに辿り着いてしまったことか。 自然が一体何の救いになるのか? (全く風景は異なるが、no hay caminos, hay que caminar / viae inviae の対比が アナロジーとして思い浮かぶ。途がないのは同じでも、何という認識の違いがあることか。)
その法則は、何か安らぎを与えるものではありえない。 寧ろ、クセナキスの様な人間の認識の有限性への絶望と、運命の仮借なさに対する反抗の方が共感できる。 或いはショスタコーヴィチの認識の方が。 またいずれ神ならぬ盲目の進化の(Schopenhauerならそれを意志と呼んだだろう)巧みさも ひらめきもない作業の産物である自然の造化の精妙さに感動することがあるのだろうか? それでもその法則の「偉大さ」(?)に畏怖の念を覚えることがあるのだろうか?
何かを作ること、産み出すことの行く末を見定めること、それはまだ残っている。 残念なことに己の産み出すものの価値については全く信じられなくなっているが、それでも、ラヴェルの職人意識の方が、自然よりも、 人工物を信じるその懐疑とイロニーとその背後にある悲しみと諦観の方が、今の自分には信頼がおける。 裏切られた、傷ついた子供の心をどこかにしまってありながら、表面上は冷淡に、理性的に振舞うその「知性」を、 その意図された、意志的な冷たさの方に私はより多く共感できる。 自分の為し遂げたこと、自分の使命に対する信頼など、持てようがない。 それでもマーラーを否定し去ることはできないのだが、、、
かつて親しくしていた友人の夢を見た。理由はわからない。 だが、こうしてまた、あの日のマーラーの第9交響曲第1楽章をきっかけにした対話に戻ってゆく。 不滅性とあとかたもなく消えること。 あの頃の素朴な信念はもうない。けれど、マーラーの音楽がなくなったわけではない。 どんな写真よりも文章よりも生々しい経験の定着。 勿論、マーラーの見た風景が見えると、といった私は間違っている。 そんなものは音楽のどこにもしまわれていない。風景は私のでっちあげた虚像に過ぎない。 けれども、経験の質は?「伝達」としては不十分だとして、この「変換」の結果は?
もし個人が、そして個人の生産物が、完全に社会に拘束されたものであるとすれば、ミームの伝播というものが意味を持つことはない。 もし正解を生成された社会的文脈に置いて、その解釈の地平をその「過去の側」に制限するならば、未来にいる聴き手、 異境で、異なる文化的伝統の裡にある聴き手は正しい解釈から排除されてしまう。 もしミームが伝播しうるなら、そうした文脈から離れた仕方でしかない。 しかもそうしたミームを受容するものが、聴き手の裡に存在していなくてはならない。 ミームを扱うとき、都市伝説や流言のような寿命の短いもの、伝播が空間的には広くて速度は早いが、存続しないものを中心に考えるのは面白くない。 マーラーの作品やショスタコーヴィチの作品のように存続する、世代を超えるものでなくては意義が薄い。 Holbrookがマーラーとショスタコーヴィチの文化的文脈の違いを超えた共通性について論じているのは(p.239)正しい。 そして多分―勿論「了解」の問題はあるだろうが―生死の問題が相対的により普遍的であり、 文化や社会といった構造よりも一般性が高い点に、共通性が可能になる地盤を求めているのも正しいだろう。 無論、「了解」の問題はある。生死は生物学的事実ではない。 寧ろ生死についての了解が問題で、その了解に接点がなければ共通性は存在しない。だがそれは「了解」の共有を求めているわけではない。 了解は社会的・文化的な制約を受けるし、必ずしも「一致する」わけではない。 個別の了解を成立させる地盤の共通性があれば良い。 多分それは、生物学的事実と社会・文化的相対性の中間くらいにあるのだ。 それは、社会・文化が閉じていないこと、ミームの伝播が「可能」であること、そして当のミームの伝播自体が辺縁を生じさせ、 そうした共通の地盤の生成を促進するのだろう。(2008.5.27,未定稿のまま公開)
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