私は、マーラーの音楽を「意識の音楽」というように呼びたいとずっと思ってきた。それは、私がマーラーの音楽を聴くときの 基本的スタンスを示す言葉であり、なぜ、他ならぬマーラーの音楽を聴き続けているのかの理由を明らかにするものであり、 つまるところ、マーラーの音楽の独自性と私が考えるものを端的に示す言葉なのだ。
上記の言明を見た人の中には、「意識の音楽」が、聴取の態度に関わる定義なのか、聴取される作品の様態に 関わる定義なのかが不明瞭であることに気づかれる方も少なくなかろう。これは正当な指摘だと思うが、この点については、 差し当たり以下のように答えたい。
私は作曲家でも、演奏家でも、音楽学者、音楽史家など音楽を対象とする研究者ではない。音楽を享受する消費者に 過ぎない。私にとってマーラーの音楽は聴取の対象であり、その都度聴き取られる音楽が私にとって示す様相が少なくとも 第一義的なものだということは否定し難い。ただしここで聴取というのは、録音媒体の再生やコンサートでの実演で 実現される音響のみを対象としているわけではなく、楽譜を読むことや自分で(頭の中で、手近に楽器で)その一部を 再現することなども含まれる。最後のものは聴取ではなく、演奏ではないのかという見方もあるだろうが、私の場合には それは単なる聴取の補助手段に過ぎず、消費の一形態に過ぎない。こうした状況において、聴取の態度と聴取される 作品の様態というのは分離し難い。「私にはマーラーの音楽はしかじかのものとして聴こえます」という言い方を背後に 常に纏わせること無く、マーラーの音楽について「客観的に」語れるとは思わないのである。そうは言っても例えば情緒的な 感想と楽曲分析との間の差を取るに足らないと考えているわけではないが、一見より客観的な装いの後者さえ、 結局、私の分析、私の解釈の結果に過ぎないという点では、聴取の態度の表現形態の一つに過ぎないと考える。
それでもなお、「意識の音楽」の指し示すものについての曖昧さが問題になることはあるだろう。そもそも「意識の音楽」の 「意識」とは「誰の」意識なのか。作曲者のだろうか、演奏者のだろうか、聴き手のだろうか、聴き手の中でも、この私に 限定されるべきなのだろうか。そもそも「誰かの」意識なのか。あるいはまた「意識」とはそもそも何か、という議論もあるだろう。 勿論、「意識の音楽」とは何か、を説明するためには、そうした点について説明をしなくてはなるまい。
では「意識の音楽」とはどのようなものか。実は私は、マーラーの音楽「だけ」が「意識の音楽」である、と考えているわけではない。 マーラーの音楽とほぼ同じような姿勢で聴くことのできる音楽は、他にも存在する。ただし原理的にいってどの範囲の、どのような 音楽が「意識の音楽」として聴くことができるのか、という問いはここでの私の関心の埒外である。最初に言ったように、 それはマーラーの音楽の聴取の態度や聴取される作品の様態を言い当てるために用意されたものであって、それ以上の ものではないからだ。世の中にある様々な音楽のうち、どの範囲のものについてそれが適用可能かどうかの境界を決めることも ある程度は可能かも知れないし、勿論、自分なりにはそうした境界があるように思うが、それで興味深い何かがわかるとは思えない。 そもそも聴取の態度に汚染されているわけだから、音楽の側の分類に使うのには無理があるだろう。
一方、「意識の音楽」は、作曲者の作曲意図、意識的な姿勢や音楽観とは少なくとも直接には関係がない。つまり、 マーラーの意図や意識的姿勢、音楽観に対して「意識の音楽」と名づけているわけではない。勿論、それが無関係だとは 思わないが、意図されたものではなく、音楽として実現されたものがどのように聴こえるかが問題なのだ。ここで実現された 音楽には、選択された歌詞、タイトルなども含まれるし、そうしたものを通じた「意図」の浸透というのは存在するだろうが、 崇高な素材が実現された音楽の崇高さを何ら保証するものではないことに思いを致せば、実現されたものの次元が 存在することは明らかだろう。 従ってまた、「意識の音楽」が、例えば意識の流れを描写するなり表現するなりの意図が作曲者の側にあるかどうかは、 少なくとも一義的な問題ではない。そうでなくても、結果として実現された音楽が「意識の音楽」である可能性は残っている。 要するに、ある種の作曲上の「流派」とか、ロマン主義などといった歴史的・文化的なトレンドとは直接関係はない。
同様に、作曲者の無意識的な音楽観の、実現された作品への反映を読み取るような姿勢もここでは問題にならない。 要するに、意識的だろうが無意識的だろうが、そうした議論は作品に映りこむ、作品とは別の何かを主題としていて、 実は音楽「そのもの」を扱っていない可能性があるのだ。単純な反映理論ではない、例えばアドルノのそれような 際立って優れたマーラー論ですら、ふとした折に、彼の主題はマーラーの音楽そのものではなく、その音楽に読み取れる 音楽とは別の何かなのではないか、要するに彼の言う「音楽観相学」というのは音楽の相貌から読み取れる、 音楽の背後にある何かを解読する試みではないかという感じを否定するのは難しい。音楽は、口実とまでは言わないまでも 少なくとも、それ自体が通路、媒体であるという感覚は否み難いのである。しかもそれは音楽そのものにとどまらず、 一気に作曲者の主体も通り抜けて、一気にそれらの背後にある社会の構造に辿り着く。最後のところで、音楽は 聴こえなくなってしまってはいないかと思われてならない。
それでは「音楽そのもの」を問題にすればいいのか、自律主義美学のかなり厳密な版を採用すべきなのかといえば、 ことマーラーの場合について言えば、作品を作者から切り離された自律的な存在とは考えられないのである。 そもそもが「音楽そのもの」というのが抽象に過ぎず、具体性の履き違えによる誤謬の結果であることはおくとしても、 マーラーの音楽には結果として、それを作曲した主体の意識の痕跡が作品に存在するのは確かなことに思われる。 それを客観的な仕方で論証することが可能かどうかはわからないが、聴き手の意識には、そうしたマーラーの意識の 反応なり運動なりを、音楽を通してというより、音楽「として」読み取ることができるように感じられるのである。 マーラーの音楽は、ごく控えめに言ってもレナード・メイヤーの「絶対的な表現主義者」の立場で捉えるのが妥当なのだ。 繰り返しになるが、マーラーの音楽を総体としてみた場合には、歌詞つきの音楽が含まれることをからして既に、 実際には「絶対的な表現主義者」ですらないと考えるべきなのだが。
ところで、作曲した主体の意識の痕跡を読み取れるという場合、実現された音楽がいわゆる典型的な「ロマン主義的」 と見做されるような、作曲者の思想、感情、感受性などなどを聴衆に伝えるためのもの、という定義からは逸脱する ことを強調したい。それは単なる主観の音楽でも、単なる世界の記述でもない。主観と客観は相関しているが、 その両者の相関の様相が読み取れること、更に進んで、主観の客観に対する反応の様相が読み取れること、 そして、そうした様相に対する主観のリフレクションが読み取れることこそが、「意識の音楽」の要件であると考えたい。 なお、最後の要件については、常にそうである必要があるというわけではなく、そうしたメタレベルの存在が音楽のどこかで 読み取れれば良い。人間は常に意識的な存在であるわけではない。人間の活動の多くは無意識なものだし、眠りの ような意識の中断もある。意識の活動のレベルも、その様相も決して一様ではない。もともと「意識」という言葉は、 複合的な活動をひとまとめに呼ぶための便宜的な名称といった趣が強いことは、認知科学などで論じられている通りである。 例えば記憶の想起、過程の直列性、記号的な記述、自己のモデルといったものの存在の複合を「意識」という言葉で 一まとめにして呼んでいるのであれば、「意識の音楽」における表れについても、そうした側面が入れ替わり立ち替わり 認められることが要件になるだろう。
ここで注意すべきは、単純な楽節の再現、線形性、修辞法の存在自体は、もともとが人間の高度な活動の産物である 音楽においてはありふれたものであり、それらの存在が即「意識の音楽」の条件となることはないという点である。これは 人工物を観察して、その背後に知的な製作者の存在を推論するのに等しい。「意識の音楽」においては、寧ろそれらは 丁度人間の活動においてそうであるように、いずれも不完全な様相を呈していることだろう。記憶には濃淡があり、 想起には、想起しているという「感じ」、つまり背景としての実時間の流れが存在している。過程の直列性は、時折 成立するに過ぎず、常には相互に非同期ですらある並列して動く過程があるばかりだし、直列性が成立する 場合においても、必ず背景に退いた過程が活動を続けている。記号的な記述は、非記号的な処理とともに 存在するのだし、自己のモデルも、それが常に確固としたものというのは、自己自身による錯覚に過ぎず、外界の 状況に応じて、その都度形成され、記憶によって同一性が保たれているに過ぎないのだ。
であってみれば、「意識の音楽」は、寧ろ、人工物に特徴的な抽象的で単純で、整然とした構造を持つものではないし、 一方で、観察された自然の模倣に終始することもないだろう。複合的で不完全な、だが全くの混沌でも非定型でもない、 主観と客観の相互作用の場の記述、更には、その場を記述するメタな視線の記述であるはずなのである。また こうした展望の下で、ようやくパロディ、イロニーといったものの音楽における現われについて論じることが可能と なるであろう。そしてマーラーの音楽こそ、優れてこうした意味での「意識の音楽」であると私には思われるのである。 (2008.9.27)
(c)YOJIBEE 2008