グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・作品覚書(4)第4交響曲


交響曲第4番

第4交響曲の成立史は幾つかの理由により些か特殊である。最初の一つは、最終的にはフィナーレの位置を占めることになった歌曲の 成立が1892年のハンブルク(2月10日ピアノ伴奏版、3月12日管弦楽伴奏版)まで遡れるのに、残りの3つの楽章はようやく1899年の夏に、 既に第3交響曲以来「夏の作曲家」としての生活パターンを確立しつつあったマーラーが、その夏の休暇の終わり間際にスケッチするまでは 少なくとも今ある形を為していなかったという点。実際に聴いた人の多くが感じるように、この作品はフィナーレの歌曲の前に3幅対の絵を 並べたような、些か特殊な構造になっているのだが、それを裏付けるような作曲年代の分裂を持っているということ。

次もまた、フィナーレの歌曲の辿った遍歴に関わることなのだが、第4交響曲は1899年の夏の終わり間際に今ある形態をとる以前の 構想では、第3交響曲の構想と渾然一体となっていた可能性があるという点である。フィナーレの歌曲は、第3交響曲のフィナーレを なす第7楽章に置かれる計画があったのである。勿論、単純に今日聴かれる形態の第3交響曲の後に、「天国の生活」を付加して みたところで、マーラーの構想を想像するには不十分なのだが、とにかく、第4交響曲は、言ってみれば第3交響曲の補遺のような 性格を持っているというのが、成立史からは窺えるのである。世上、「角笛交響曲」として第2,3,4交響曲をまとめたり、あるいは さらに第1交響曲を加えて1グループにしたり、といった区分が為されてきたが、第1交響曲、第2交響曲が、それぞれ紆余曲折に 満ちた独自の成立史を持っていたのに対し、第3交響曲、第4交響曲の方もまた幾多の構想の変遷を経たとはいいながら、 こちらは少なくとも第3交響曲が完成する時期までは一つの構想の中に包含されていて、不可分のものだったのだ。であれば、 同じく「子供の魔法の角笛」歌曲との関連があるとはいえ、第2交響曲と第3交響曲の間にははっきりとした句読点が打たれている と考えるべきなのに対し、第3交響曲と第4交響曲との間には、双生児のような関連があると考えるべきなのだろう。実際、 パウル・ベッカーが報告している第4交響曲の早期の構想は6楽章構成で、第1,3,5楽章が器楽のみにより、第2,4,6楽章は 歌曲という組み合わせで、全体は「フモレスケ」という副題を持っているのである。ここでもフィナーレの第6楽章が「天上の生活」であり、 第4楽章は、恐らく現在の第3交響曲第5楽章の「三人の天使がこころよい歌を歌っていた」、そして第2楽章に「地上の生活」が 予定されていたらしいのである。

このようにして、第4交響曲のフィナーレに収まることになった「天上の生活」という歌曲は、マーラーの作品構想上のジョーカーの ような機能を果たしていることがわかる。ついでにいえばベッカーの報告する「フモレスケ」の第3楽章は「カリタス」と題されていたが、 実現されなかったこの構想は、後の第8交響曲の最初のスケッチに引き継がれることになる。「地上の生活」の方は未完成に 終わった第10交響曲の煉獄(プルガトリオ)、即ち第3楽章に繋がっていることは、よく知られている通りである。人によっては、 マーラーが第9交響曲について述べる際に、第4交響曲を引き合いに出したことを思い起こすかもしれない。ともあれ、 読みようによっては物騒とも言える民謡を歌詞に持つ「天上の生活」はマーラーの創作の中で特異点の如きものであり、 第4交響曲の成立史は、そうした事情を端的に物語っていると言えるのではなかろうか。

*   *   *

第3楽章のコーダ近くの楽節の「雰囲気」がひどく日常的な安らぎに近く感じられることがある。 超越的な何かに撃たれたわけでもなく、感情を揺さぶる出来事に遭遇したわけではない、ある日の陽だまりの風景。それはこの 曲を作曲しているある一日に、マーラーが見たときの情態をそのまま保存しているようにさえ感じられる。 この曲のいわゆる「突破」の瞬間は、しかしこちらからの力はほとんどなく、主体は受動的に感じられる。 突破は向こうからやってきて、勝手に天が開く。それを待っていたわけではなく、不意打ちのように訪れる。 だがそれは主体を脅かすことはない。私にとってより印象的なのは音楽が静まって後、コーダに至るまでの和声進行のプロセスだ。 まるで一旦、回り道をしてからようやくゆっくり、ゆっくりと状態を元に戻すような感覚。 でも実はそこは出発点ではない。元には戻らない。そこはすでに異なる相であり、最後は何とニ長調に到達するのだ。 そしてそれは確かに、後続する歌曲のト長調を用意する。

天国の生活というのは、ここでは恐らく、この世ならぬどこかでいつか実現されるものではない。日常のすぐ隣にあって、だけれども 気づかずにいる世界といった感じのものではないか。morendoという言葉に引きずられて、ここで生物学的な死を持ち出すのは 滑稽に感じられる。だが一方で、第9交響曲の世界と全く異質のものであるとも思えない。第9交響曲が「死」を「描写」したもの だというのがむしろ疑わしいのだ。マーラーの音楽にはどこかひどく受動的な、虚ろな時間の経過する瞬間がある。無意識という のではないし、眠りでもないが、意識がひどく不活発になる瞬間がある。何かが到来するのはきまってそういうときなのだ。 もちろん、ここで述べていることを殊更、神秘的に、形而上的に捉える必要はない。マーラー自身の言葉による説明を 探し求める必要もない。寧ろ自然主義的に意識の「外部」を問うべきなのだ。「子供の魔法の角笛」のある意味では物騒な 歌詞によってアイロニカルに暗示される「天国」もまた、第4交響曲においては自然主義的に解釈されるべき地点まで接近しているのでは なかろうか。マーラーのもともとの構想は、「天国の生活」を取り囲む器楽楽章をあらためて(というのは、第3交響曲からいわば 「はみ出して」しまったので)用意することにあったのだろう。だが出来上がった作品においては音楽と言葉のどちらがどちらの注釈なのだろうか。 こうした関係を前にして「標題音楽」か否かといった議論をすることに一体どういう意味があるのだろう。更に言えば、ここで第4楽章の 音楽は、この第3楽章のコーダに対してどのような関係に立っているのか。

第1楽章で予告される第5交響曲の葬送行進曲、第2楽章でスコルダトゥーラによって示される「背後の世界」、第3楽章の二重変奏が 持つ両義性、特に副主題の変奏部分が示す、しかも曲の経過に従って深まっていく闇は「天国の生活」とどのように関係するのだろうか。 そこに突然到来する転換は、その後のたゆといは本当に第4楽章への途、第4楽章を準備するものなのだろうか。 それらを経て「天国の生活」に「到達する」という説明は、音楽の経過を歪めた言い回しによって、その関係を捉え損なっている。 そう、第3楽章がニ長調で閉じたあと、再びト長調で始まるこの歌曲は、結局のところ現実のある相を示しているのではないか。 物騒さもイロニーも、それが現実であるとすれば納得がいかなくもない。勿論それは第6交響曲の現実とは異なった相の下にあるには 違いない。だが、この終楽章は超越とはおよそ無縁ではないか。確かにこの世の営み、世の成り行きはこの音楽の外にあると言えるだろう。 だが、この音楽はそれが外にあることを恐らく知っている。

こうしてみると、「天国の生活」がなぜ、前作からいわばはみ出てしまったのかを第4交響曲自体が端的に告げているように見える。 そこでは主体の位置の移動が、座標系の変換が起きているのだ。第1交響曲から第3交響曲までの作品の語りの空間の 原点の位置、楽曲の構成と叙述の構造の対応関係の要請が、「天上の生活」を位置づけ不可能なものとして追い出してしまったように見える。 詳細は各交響曲毎に記述されなくてはならないが、交響曲におけるフィナーレの問題を解こうとしたとき、遍歴の具体的な様相はそれぞれ 異なったとしても、遍歴した主体(マーラー自身である必要は全くないが)の現在をフィナーレの近傍に置かざるを得ない。実際、どこで語りの レベルが終わり、主体の場に着地するかは、各作品毎に違うものの、どの作品においても終楽章はそこから己の辿ってきた軌道を、 非可逆的な過程によって隔てられた絶対的な過去として顧みる。そうした時間性と「天国の生活」は相容れないのだ。もしかしたら 第3交響曲の構想の時点においてマーラーは、それを未来として構想したかも知れないし、それは論理的には必ずしも間違いではないのだが、 ただちにそれが不適切な構想、実現不可能であることに気づいたに違いない。ここでは未来は決して到達しないもの、極限であって、 仮象としてであれ、それを作品の最後に置くことは構想上不可能なのだ。

第4交響曲のあからさまな擬古典主義は、主体の移動、座標系の変換のための媒介として必要だったに違いない。そして第4交響曲と 第5交響曲とを比べた時、両者があたかも同一の点に向かって逆方向から辿っているような印象を覚える。第5交響曲が回顧的なのは、 逆向きに眺めているから眺望は大きく異なるものの、その結論が実は第4交響曲のそれと同じ場所であること、そこが主体の現在の場では ないことの現われなのだ。マーラーは第6交響曲において今度は第5交響曲の過程の出発点を座標の原点に取る。「この世の生活」が、 世の成り行きが、今度は語りのレベルでの回顧としてではなく、主体の現在の場となる。第4交響曲ではあるタイプの聴衆を困惑させ、 あるいは神経を逆撫でしつつ、擬古典主義の装いのもと、「天国の生活」の非-場所を正しく定位してみせたマーラーは、 第5交響曲ではまるで交響曲の歴史をパロディ化するかのように、今度は「苦悩から栄光へ」という図式を借りつつ、現在の場から非-場所を もう一度振り返ってみせる。もうマーラーは「天国の生活」を語ることはない。ひたすら語りの水準にのみあって、交響曲にはなれなかった 「嘆きの歌」の対蹠点として「第6交響曲」はひたすら現在の、主体の場であり、従ってこれが最も主観的であり、同時に交響曲的な 構想を持った作品になる。同様に第1交響曲のプロセスのネガが第7交響曲であり、それらの後では、第2交響曲は最早、第8交響曲の ような「突破」の瞬間の拡大としてしかありえない。一見すると二番煎じの嫌疑をかけられる第2部は、だが、第2交響曲のフィナーレとは 全く異なった時間性の下にある。「死」の捉え方は、そこではほとんど正反対といっても良く、これまた一見すると矛盾・対立しか 見出せそうにない第8交響曲と大地の歌の間には実は連関があるのだ。そしてその連関の下、第3交響曲の進化論は大地の歌の個人史に 転化してしまい、結局「天国」は第9交響曲のフィナーレで、今度は「音楽」そのものの彼方にしかないものとして示唆されることになるのである。

第4交響曲の「天国の生活」をイロニーとして受け止めていながら、一体どうすれば第9交響曲のフィナーレを「死の描写」とみなし、 「昇天」の音楽化などとして捉えることができるのだろうか。一見、説得力があるようでいて、第4交響曲の「天国の生活」をある意味では 「単純に」イロニー「としてしか」捉えない見方は、その背後にある屈折を無視している点では、それが批判しているはずの見方と同じレベルにある ということはないだろうか。第4交響曲の「天国の生活」が「子供が私に語ること」でありえなかったように、第9交響曲のフィナーレもまた 「死が私に語ること」などではないのだ。いずれもそうしたありきたりの「死」なり「天国」なりのイメージを拒絶しつつ、それぞれ異なってはいるものの、 いずれも彼方への視線の時間性を音楽として定着させているのだ。「標題性」の否定は決して表面的な事柄ではない。 内的なプログラム=標題が存在するという言葉を担保に、そうした「標題性」をもう一度正当化することは、音楽の具体的な様相をわざと陳腐で 平板な抽象によって図式化してマーラーの音楽の実質を損なっているに過ぎない。第4交響曲はそれ自身身をもって、そうした誤った抽象を 告発しているように私には思われる。

*   *   *

形式の概略(Philharmonia版ミニアチュア・スコア所収のもの)
第1楽章 提示部主要主題部137
副主題部3857
第1終結部5871
主要主題部の変形された再現(再現部ふう)7290
第2終結部91101
展開部102238
再現部239297
コーダ298349
第2楽章 スケルツォ主要主題部133
副主題部3445
主要主題部4668
トリオ69109
スケルツォ109200
トリオ201280
スケルツォ281329
コーダ330364
第3楽章 ロンド形式と変奏曲形式の混合 主要主題部161
副主題部62106
主要主題部の第1再現部と変奏107178
副主題部の第1再現部と変奏179221
主要主題の第2再現部(主題と変奏曲ふう)222314
コーダ315353
第4楽章 第1部139
第2部4075
第3部76114
第4部とコーダ115184

*   *   *

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)
第1楽章(ソナタ形式) 呈示部鈴の動機「落ち着いて」13h
主題I「適度にゆったりと」47G
主題II817
主題I確保1821
主題III「新鮮に」2237-D
主題IV「幅広く歌って」3846
主題V4757
主題VI「突然ゆっくりと、落ち着いて(モルト・メノ・モッソ)」5872
鈴の動機7276h
主題I擬似再現「テンポI」7780G
主題II擬似再現8090G
主題VII「再び非常に落ち着いて、少し控えて」91101
展開部主題I・II展開「テンポI」102124h-e-C
<夢のオカリナ>「流れるように、しかし慌てることなく」125154A-e
主題I・II展開155166es
鈴の動機、主題I・II展開167184f
主題I・II展開185208b
主題II・III・<夢のオカリナ>によるクライマックス209220C
<小さな呼び声>(第5交響曲予示)221238
再現部主題I展開再現「再び冒頭のように、非常にゆったりと、くつろいで」239240G
主題II展開再現241251
<夢のオカリナ>、主題III並列251262
主題IV展開再現263271
主題V展開再現「大きな音調で」272282
主題VI展開再現「再び急にゆっくりと、落ち着いて」283297
主題I・II擬似再現298322
主題VII展開再現「落ち着いて、さらに落ち着いて」323339
コーダ340349
第2楽章(スケルツォ) スケルツォ部I導入「ゆったりとした動きで、慌てることなく」16c
A733
B3445C
A'4663c
後奏6468
トリオ部I第1部分「急がずに」6993F
第2部分94109
移行句109114c
スケルツォ部II導入「テンポI」115117
A118144
B145156C
A'157184c
B'185200C
トリオ部II第1部分「再びよりゆったりと」201253F
第2部分254275D
移行句「急がずに」276280c
スケルツォ部III導入「音を保持して(ソステヌート)」281282
A283313
B「テンポI」314329C
A'330341c
コーダ342364
第3楽章(二重変奏) 主題部A主題「静かに」116G
主題変奏確保1736
後奏3750
結部(永遠の動機)「控えて(リタルダンド)」5161
主題部B第1部分「よりゆっくりと」6275e
第2部分「流れるように」7692-d
後奏「再びもとのテンポで」93106
A変奏I主題変奏1「優雅な動きで」107122G
主題変奏2123142
主題変奏3143170
移行句171178
B変奏第1部分変奏「再び以前のように」179191g
第2部分変奏「流れるように」192211cis-fis
後奏212221
A変奏II主題変奏1「アンダンテ」222237G
主題変奏2「アレグレット・スビト(急がずに)」238262
主題変奏3「アレグロ・スビト」253277E
主題変奏4「アレグロ・モルト」278287G
「アンダンテ・スビト(まったく突然変奏の始めのテンポで)」(283)(287)
後奏「ポコ・アダージョ」288306
結部307314
突発的絶頂(第4楽章予示)「ポコ・ピウ・モッソ」315325E
コーダ326353-D
第4楽章序奏「非常にくつろいで」111G
歌詞第1節1239-a
間奏(鈴の動機)「突然新鮮な動きで」4056h-e
歌詞第2節「少し控えて」5775
間奏(鈴の動機)「再びいきいきと速く」7679h
歌詞第3,4節「テンポI」80114G-d
間奏(鈴の動機)「再びいきいきと速く」115121h
牧歌的間奏「テンポI」122141E
歌詞第5節141174
後奏175184

*   *   *

形式の概略:de La Grange フランス語版伝記第1巻Appendice No.1
1. Bedächtig. Nicht eilen くつろいで、急がずに提示13 導入(I) 3つのモチーフよりなる(フルートとクラリネット)e (h?)
431「適度にゆったりと」 3部分よりなる主題A (A:1-7, A':8-17, 将来のコーダの主要モチーフと展開部主題を伴うAの模倣:18-21, A'':22-31)G
3237「新鮮に」移行G-D
3857「幅広く歌って」 3部分よりなる主題BD
5871「いくらか流れるように」 主題C (終結)D
7276主題 1e
7790Tempo primo:非常に変形された主題A(擬似再提示)G
91101コデッタ「再びとても静かに」
展開102108Tempo primo:主題I /TD>e
109116主題A'e
117124主題Aa
125154「流れるように、しかし慌てることなく」新しい主題(Aのモチーフ(20小節)を用いており、フィナーレの主要主題を告げる)
155166主題IとA''の22小節の派生モチーフなどaes
167208主題I, モチーフA'',C,Aなどf-c-d
209220フォルティッシモのクライマックス:モチーフA''と移行句C
221238モチーフA'',I,トランペットのシグナル(マーラー自身が「小さな叫び」と名づけた)、Aの開始に戻るFis-C
再提示239253「最初と同様に」Aの再提示(A''の拡大モチーフとともに) がA''自体の1小節前から始まるG
254262移行G
263282「躍動して」:弦楽器のみによる主題BG
283297「突然再びゆっくりと」:主題C
298322モチーフI, A'',A,A'の断片
コーダ323340「静かに、さらに静かになる」 Aと展開部の新しい主題
341349「とてもゆっくりと、poco a poco stringendo」Aと移行句

2. In gemächlicher Bewegung. Ohne hast ゆったりとした動きで、慌てずにスケルツォ133 導入(ホルンで、4小節、後に各エピソード間の移行に用いられる)とAc
3445BC
4663Ac
トリオ641094小節のホルンの移行句(スケルツォの後奏であると同時にトリオの導入)、ついでCF
スケルツォ110144移行(ホルン:6小節)とAc
145156BC
157184A(1小節の導入の後)c
185200BC
トリオ2012532小節の移行、ついでC(変奏された)F
254275Cの展開D
スケルツォ2763135小節の移行、ついでAc
314329BC
3303646小節の移行、ついでA(半音階的転調)と導入モチーフから派生したコーダ

3. Ruhevoll 安らぎにみちて (Poco Adagio)124A(3部分の第1区分)G
2550A(第2区分)(ホルンとファゴットによる間奏を伴う)
5161A(最終区分)
6275B 「よりゆっくりと」(縮小された最初のバスのモチーフの断片とともに)e
7691変奏されたB(同じバス上で)(80小節は「子供の死の歌」第2曲「何故そのような暗い眼差しで」を先取りしたモチーフ)
92106B:主題のバスを変奏する第3セクション(コーダ)d
107130A「優雅な動きで」Aの第1区分の変奏(バスのモチーフが上声に現われる)
131150第2区分の冒頭の変奏、ホルンとファゴットからクラリネットへ、さらにファゴットに引き継がれる間奏とともにG
151178「非常に流れるように」Aの終りの自由な変奏
179191B「再び以前のように」:B(バッソ・オスティナートなし)g
192204「流れるように」:B、第2区分(フォルティッシモのクライマックス)cis
205221「情熱的に、やや急いで」:B、最終区分(コーダ)fis/Fis
222237A. Andante 3/4 :Aの第1変奏G
238262Allegretto subito 3/8:第2変奏G
263277Allegro subito 2/4:第3変奏E
278286Allegro molto 2/4:第4変奏、第1区分のホルンの間奏によって突然中断される(Andante subito)G
287314Poco Adagio : Aの終り(37小節から61小節)の変奏G
315325Poco piu mosso : fff :フィナーレの主要主題の金管での告知(Pesante)(すでに第1楽章の 展開部の主題中で部分的には聴かれたもの)E
326353コーダ: 上昇していく主題(AとBのモチーフに基づく)ト長調のドミナントで終止E-C-G

4. Sehr behanglich 非常に気楽に111最初の主題を提示する管弦楽の導入
1235主要セクションA、2つの部分(A,A')よりなる
3639「突然抑えて」:コラールe
4056「突然新鮮な動きで」:リフレイン(第1楽章ですでに用いられているものの展開)e
5771「少し抑えて」:対照的なパッセージBe
7275「再び抑えて」:コラールe
7679「再び生き生きと」:リフレインe
80105Tempo primo :セクションA(短縮された)とA'(展開された)G
106114「再び突然抑えて」:コラールd
115121「再び生き生きと」:リフレインh
コーダ122141Tempo primo :「終りまでとても優美で神秘的に」:Aに基づく新たな主題を提示する管弦楽の導入
142168主題A(変奏された)E
169174コラール(平行和音による和声付けなし)E
175184管弦楽による結び:ピアニッシモ
(2008.10.7~25, 11.16, 11.30, 2009.8.14 この項続く)



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(2008年9月作成)