そのことをどう評価するかは立場によって様々であろうが、マーラーがおよそ1世紀程前に成立した、交響曲という多楽章の組曲形式に拘り続けたのは事実であろう。 一方でマーラーの交響曲が、伝統的な交響曲形式から著しく逸脱しているといるという認識も広く共有されていることといって差し支えないだろう。だが、その逸脱の 「如何にして」の内容についてはどうだろうか。全体としての長大化、楽章数の拡大・縮小、楽章間の長さのコントラストの拡大、そして何よりも管弦楽の拡大、 特殊な楽器の使用や声楽の導入といった特徴について語られることは多いし、勿論これらの特徴はいずれも取るに足らぬものではない。だが、私見によればそれ以上に 重要なのは、楽章間の調的な配置の問題であり、各楽章内の構造、とりわけ交響曲における主要楽章と見做されるソナタ楽章の内部構造の方であって、 マーラーのそれが(しばしば起きることではあるが、交響曲とは名ばかりの単なる)交響的な組曲ではなく、なお交響曲であり続けるのは、良きにつけ悪しきにつけ、 マーラーが主要楽章を構築するにあたり、そこから結果的に大きく離れていくことになったとはいえ、基本的にソナタ形式を出発点としている点、そればかりではなく、 そうした「逸脱」が単なる構造の解体ではなく、アドルノが的確に言い当てたように「唯名論的」にその都度決定される構造の構築、 前世紀後半の流行した言い方を借りれば「脱構築」であることに存するだろう。
例えばマーラーの音楽が同時代のパリで、「進歩的」と目される作曲家達に拒絶されたのは、それがなお「交響曲」であり続けたからに違いなく、そうした抗議は その後も「交響曲」というジャンルに拘り続ける作曲家達に対しても同様に向けられることになるのだが、ここではそうした音楽史的な展望は少なくとも二義的な 意味合いしか持っておらず、寧ろ、そうした批難にも関わらず「交響曲」であり続けた具体的な様相の方を、外から押し付けられる価値判断を中断して眺めてみたいのである。 なぜならこの点だけとも言わず、この点が他よりも優ってとも断定はできないかも知れないにせよ、それでもなおこの点こそがマーラーの音楽の独自性を示す特異点であることは 確かに思われるからだし、私見ではマーラーの音楽の際立って時間的に発展していく構造、しかも伝統的な形式とは異なって、時間発展が外枠で予定的に決められておらず、 内在する別の力によって時間発展の方向がその都度分岐していくような、際立って豊かな構造を明らかにするための予備作業として欠かせないものと考えるからである。 それは外部からの異質のファクターの介入による構造変化、或る種の換骨奪胎と見做すのが適当な場合もあろうし、もともと内在していて、だが潜在的であったパラメータが コントロール・パラメータとして顕在化したと見做すのが適当な場合もあるだろうが、いずれにせよ、マーラーの音楽の時間的発展の豊かさ、人によってはそこに分裂やら 混乱を見出すかも知れない複雑さの背後にある力学を解明するために、特にソナタ形式を出発点としている楽章の内部構造の解明は中心的な意義を担うに違いない。
勿論こうした主張自体、何ら新規なものでも独創的なものでもなく、寧ろマーラーの音楽の形式に対する関心の中心の一つが常に既にソナタ形式の扱いにあったことは、 これまでに蓄積された文献を一瞥しただけでも明らかなことであり、従ってここで為しうるのもそうした先行研究のおさらいに過ぎない。だが、それにしてもでは実際にこうした 「まとめ」が行われたケースを邦語文献で見たことはなく、であってみればまずは自分の確認と整理のためにおさらいをしてみることを思い立った次第である。 なお直ちに明らかになることだが、結局のところソナタ形式の認定にあたっては楽章内の各部の調性配置が決定的な要因となるのであるから、以下の整理は既に別のところで 行っている調的配置の問題を、より範囲を限定し、別の角度から眺めたものに過ぎないという見方ができる。マーラーの交響曲楽章は、歌詞の構造に束縛される場合を 除けば、ソナタか変奏か、舞曲に多い3部形式かさもなくばロンドに大きく分類できるだろう。だが、静的な構造であるはずの3部形式に展開が持ち込まれたり、 やはり循環的な構造を持つロンドが回帰するとともに変奏されたり、ソナタ的な展開が企図されたりといった具合に、マーラーの場合にはそうしたプロトティピカルな各形式間での 相互嵌入が著しく、それがマーラーの楽曲の構造に豊かな動性をもたらしているのであり、ソナタ形式にフォーカスすることは、その中で最も動的な構造を中心にして 見ていくことに他ならない。そしてソナタ形式との関連が最も深いのは二重変奏であり、とりわけてもマーラーのソナタ楽章において、提示部の中で提示が2重化されたり、 複数の展開部を持つようになったりすると、両形式の境界は非常に微妙なものになっていき、結局のところ、展開部と再現部を徴づける調的配置を手かがリにするしかない、 といったことが起きるようになる。その一方でソナタであれば展開部の途中で主調での主題再現が生じると同時に文字通りの再現を忌避し、再現部が圧縮される一方で、 更なる展開を行う契機も孕むといったといった、ブルックナーにも見られるような形式上の流動化が進んだ結果、特に晩年に至るとソナタ形式とも変奏ともつかないような 独特の動的発展を孕んだ形式が生じるようになっていく。
だが、些か結論を先回りして言ってしまえば、マーラーの音楽の動性には、単に上記のような従来の形式間での相互嵌入による緊張のみでは説明できない別の 動因が存在するのである。ソナタと変奏の間の緊張は、いわば展開による緊張の後の再現による弛緩というソナタの図式と絶えざる無限に続く変容の過程との 緊張であるが、その中に、異質の句読点を入れ、音楽の流れを不連続にするような契機が持ちこまれる。ソナタ自体が複数の主題の間の緊張関係を含み持つ 動的で弁証法的な図式なのだが、そこに更に別の力学が埋め込まれ、あらぬ方向に軌道を導くような様相を呈するのである。アドルノの著名な「突破」「停滞」「充足」 ないし「崩壊」といったカテゴリーは、そうした別の力学を言い当てるために導入されたと考えるべきであって、だから、楽曲のある部分の静的な特徴をそうした カテゴリーに対応づけて分類するのは、勿論意味のないことではなかろうが、事態の一面しか言い当てたことにならないであろう。実のところそれらのカテゴリーの価値は それらの実質が、出発点となったソナタ形式の図式自体には内在するものではなく、音楽の動的な流れの別の層、別の次元を構成する点にあり、にも関わらず、 晩年に至るまでマーラーは、ソナタ形式を単なる図式として利用し、いわば宿主のように寄生することでソナタ形式を形骸化したというのは些か行過ぎた評価であって、 実際には個別の楽章において、ソナタ形式がもともと含み持っていたそれ自体複合的な諸契機を、そうした別の層との交錯によって、その都度異なった仕方で 賦活したと考えるのが正しいように思えるのである。
そうした見方をした場合に、マーラーのソナタ形式にあって顕著なのは、まず基本的には静的な性質を帯びた序奏が、ソナタの形式の外部に置かれるのではなく、 形式の内側に入り込みことで音楽の流れを都度変えてしまう点であろう。まるで構造上の句読点が序奏の再現によって打たれているかのような印象を与える 事例すら出てくるようになる。また主題の絶えざる変容を伴った再現、しかもしばしば性格的な変容すら伴った再現により緊張と弛緩の交替は、必ずしも 複数の主題間の対立、同一主題の再現といった平面のみで起きる事象ではなくなってしまう。ソナタの図式でいけば展開の途中で緊張が弛緩してしまうかと 思えば、再現が単なる回帰ではなく、その間に生じたイベントによる時間の流れの不可逆性のバイアスを強く帯びることで、寧ろ心理的には別の段階への到達を 告げるような状況がしばしば生じる。そして最後に、ソナタの図式に一応は従って、だが構造上の特異点を為すように、例えば再現部冒頭や再現部末尾で 「突破」が生じることによって、音楽の句読点の位置が移動してしまう。「突破」は予告されずに生じることはないといってよく、必ず既に呈示だけはされている 素材に基づくのだが、しばしばその素材はソナタ形式におけるに項対立を構成する主要な二つではなく、全くエピソード的な性格であったものが、今や主人公と ばかりに表舞台に躍り出る、といった按配なのである。同一の素材で、更にはモットー的にさえ生じる長調・短調の交替もまた、弁証法的な緊張、対立が優位な 次元とは別の連続的な次元の存在を際立たせる。
マーラーの交響曲におけるソナタ形式が形骸化し、あたかも廃墟の如き有様を呈しているといった修辞が用いられることがあり、それがひいては交響曲という ジャンルそのものにも敷衍されがちなのはソナタ楽章が交響曲に占める地位を考えれば当然のことと言える。そして確かにいわゆる図式的な意味でのソナタ形式は、 控えめに言っても、極めて限定的な役割しか果たしておらず、マーラーの音楽でそこには収まらない、逸脱した部分が重要であることは確かなことである。 だが、ソナタ形式が昇ったら捨てられる梯子の如きものであったのかどうかについては、私見では疑問があるように感じられる。図式的なレベルではなくても、 ソナタ形式を特徴付ける実質的な諸契機は決して機能することを止めてしまったわけではない。当時のワグナー派の作品と比すれば例えば世代的には先行する ブルックナーに比べてさえ反動的なまでに全音階的な初期作品は、だがしばしば形式的な大胆さから拒絶にあったのだったし、調性がなくなる一歩手前まで 近接するかに見える晩年の作品においてなお、第10交響曲を含めてさえ、ソナタ形式の契機は機能することを止めてしまったわけではない。だからして私には、 ソナタ形式の形骸化、廃墟といった言い回しは、既成のものからの逸脱の距離をもってのみ「新しさ」を測ろうとする立場そのものに起因するように感じられてならないのである。 そこでソナタを形骸化をしているのはマーラーではなく、寧ろ分析者ではないのかといった感覚に囚われることすら一再ならず起きている。恐らくは それをソナタと呼ぶかどうかはさておき、マーラーの動的なタイプの楽曲の形式をより実質的に記述するための言語を手にする必要があって、そうした言語の中で ソナタ形式からマーラーが汲み上げた実質、賦活させた契機といったものは適切な位置づけをもって立ち現れるのではないかと思えてならない。 (2010.7.25)
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(2008年3月作成)