グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・マーラーの音楽の構造についてのメモ


歌曲の調性と声部指定について―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

マーラーの楽曲における調性配置を気にしだすと、マーラーの作品におけるジャンルの問題が奇妙な仕方で 出現することに気付いたことがある。組曲形式における調性配置はマーラーにとっては重要な 視点であり、また時代遅れと揶揄されるほど全音階主義的なマーラーは、古典期までは 普通であった特定の調性と曲の性格の対応のようなものすら意識していたようで、実際例えば イ短調がマーラーにおける「悲劇の調性」ということになっていたり、それほど明確ではなくても ハ短調やニ短調あるいは変ホ長調、ホ長調という調性と音楽との間にある一定の 傾向のようなものを見出すことはそんなに無理なことでもないだろう。典型的な平均律楽器である ピアノではなく、主としてオーケストラを媒体として用いたこともあり、それらは伝統の単なる残滓である わけではなく、実際に現場で経験できる音響上の傾向の裏づけをもったものであったに違いない。

こうした事情は歌曲においても、とりわけそれが管弦楽伴奏の連作歌曲集である場合には基本的には 変わるところはない筈である。 だが歌曲の場合にはピアノ伴奏によるバージョンが存在することを無視してはならない。管弦楽伴奏と 連作歌曲集という2つの条件が両方とも当て嵌まる場合にはそうでもないが、どちらかの条件が外れる 場合、とりわけピアノ伴奏版では移調が許容されているのである。(管弦楽伴奏でも個別の歌手の 声域の制約などから移調しての演奏が行われる場合は稀ではないが。)だから移調の問題は 決して取るに足らない問題ではないはずである。

更に言えばマーラーにおける歌曲というジャンルの無視できない特徴は、声部指定のないことなのでは ないかと私は考えている。特に男声・女声の指定がなく、結果的にほとんどの作品で両方の録音が 存在することが挙げられるだろう。この点に注目すると、「大地の歌」は声部指定があること、 ただしアルトの替わりにバリトンでも可という選択肢が示されていること、そして移調しての歌唱に ついては少なくとも管弦楽伴奏においてはまず考えられないという点で、これはまさに連作歌曲集よりは 交響曲の側により近づいた作品であると言える。一方でこの作品にはピアノ伴奏版が存在すること、 その成立過程のある時期までは寧ろ連作歌曲集のそれに近いことは近年良く知られるようになった。 するとピアノ伴奏版については、これを移調した上で、全楽章を女声で、例えばソプラノで歌うなどと いったことが考えられるか、という思考実験をしてみれば良いことになる。曲毎に移調するのは連作歌曲に おいても既に不可だろうが、ピアノ伴奏版なら恐らく女声のみで通すのは可能で、場合によっては、 平均率で調律されたピアノは移調に対してニュートラルだから、全体を(つまり内部の相対的な 調的関係は保存したまま平行移動を行うような要領で)移調して演奏することは可能かもしれない。 実際にソプラノが全曲を歌ったピアノ伴奏による「大地の歌」の録音が存在するのをご存知の方も多いだろう。

その一方で交響曲の中で使用される声楽は強く制約されている。第2交響曲の第4楽章を男声が歌うことは 行われないだろうし、第3交響曲の第4楽章や第5楽章も同様であろう。第8交響曲第2部に至っては 役割まで与えられていて、その点では「嘆きの歌」などと変わることなく、従って自由度はほとんど全く存在しないのだ。 (もっとも「嘆きの歌」の方は改訂にあたって声部の割当に若干の変更が生じているのはこれはこれで興味深いし、 検討をしてみる価値はあるだろう。)

ところで歌曲集における声部指定の自由度は、その曲を男声で歌うか女声で歌うかについての選択肢を 可能にする。結果として生じるのは、歌詞内容から想定される性別とは異なる性別での演奏の可能性で、 例えば「さすらう若者の歌」であれば、この曲集は連作歌曲集でもあり、しかも歌詞の内容上は明らかに男声が 想定されているわけだから、女声で聴くのは直感的にはどうかと思われるのだが、 実際にはこの曲は女声でも頻繁に取り上げられるし、優れた演奏も多い。私の嗜好でいけば もっとも印象深く、繰り返し聴くのは、ベイカーの歌唱をバルビローリが伴奏したものなのである。 この曲集や「子供の死の歌」を女声が歌うことがどういう効果をもたらすかというのは興味深い 問題である。そして、私見ではそれはマーラーの場合についていえば許容されるべきだと思う。

というのも、そうした性別の交代によって或る種の異化作用、距離感、客観化が生じることは確かだが、そうした 効果は、交響曲楽章において声部を明示的に指定した場合には既に明らかに意図されているようにうかがえるからである。 例えば「大地の歌」の偶数楽章においてマーラー自身がアルトを選択したとき、にも関わらず第2楽章の題名の性別をあえて ベトゥゲの原詩の女性から男性に変えていることを思い起こすべきだろう。 否、そもそも角笛交響曲群のソロはすべて女声だが、「原光」の「私」は勿論、旧訳聖書に描かれたヤコブだし、 「三人の天使が優しい歌を歌う」の「私」には新訳聖書のあのペテロの姿が揺曳しているのは明らかなのだ。 だがだからといって、これらをバリトンで歌うというのは「大地の歌」における代替案の場合とは異なって、 音楽的にはあり得そうにない選択肢ではなかろうか。(だから私は第4交響曲のフィナーレの歌曲をボーイ・ソプラノで 歌わせるという選択は不可能ではないにせよ、どことなくマーラーの音楽には似つかわしくない選択であるように思えてならないのだ。 この曲は子供のような純真さでというマーラーの注意書きに従って、大人が歌うからこそ本来の機能を発揮するのではないのか。 この曲には第3交響曲第5楽章とモチーフを共有する部分も含まれ、そちらはアルトで歌われるということをもう一度思い起こしても 良いだろう。)

要するに一方では明確な声部指定があり、そこでは歌詞の内容から推定されているのとは異なった性別が マーラー自身によって選択されているし、その一方で、声部の指定がない歌曲においても、やはり同様に歌詞の内容から 推定されるのとは異なる性別の選択がしばしば行われもし、不自然さも違和感も生じないという事態が起きているのだ。 「さすらう若者の歌」を例にとれば、晩年のマーラーがアメリカでこの曲を演奏した時には女声が用いられたという事実もあるし、 マーラー自身は選択しなかったようだが、「子供の死の歌」の名演奏の幾つかはフェリアー、ベイカーといった女声による ものである。「大地の歌」については好みが分かれるようだが、初演者ヴァルターの下で歌ったのは、かつてマーラー自身が ウィーンに呼んだアルト歌手、シャルル=カイエであったし、ディスコグラフィーを見れば圧倒的にアルトでの歌唱が多いのは 動かしようがない。

もっとも歌詞内容が事実上ほとんど性別を決めてしまう場合が歌曲にも存在することも注意を払うべきだろう。 「起床合図」や「少年鼓手」といった子供の魔法の角笛による長大なバラード的な作品は、まず間違いなく専ら男声のための ものに違いない。同様に子供の魔法の角笛による歌曲の幾つかに見られる男女の掛け合いは、男声の歌手によって 一人で歌うことも可能だけれども、しばしばここでは性別に忠実に、男声と女声の掛け合いで演奏されることがしばしば 行われるということにも留意しておこう。してみれば演劇的な発想というのが皆無かといえばそういうわけでもないのだ。大規模 作品であれば「嘆きの歌」と第8交響曲第2部がそうした方向性を示している。

だがそうした多様性があるとはいえ、そこに一定の傾向を見出すことは不可能ではあるまい。要するにマーラーは民謡調を 模倣したり、あるいは民話やファウスト劇といった伝承に拠って楽曲を編む場合には、素材との距離感やその態度の客観性故に その内容に従った歌唱を割り当てるのに対して、より抽象的で実存的とでもいうべき主観性の領域を動くときには、 あえて性別をずらすことにより、その音楽が専ら主観的な感情や情緒の表現となってしまうことを拒絶しているように 見えるのである。その作品に自伝的な性格を見出したり、控えめに言っても非常に強い主観的な性格を見出す解釈が 飛びつきたがる領域が、表面的な分類では「絶対音楽」であったり、古典的な図式に忠実に見えたりするのと軌を一にする かのように、そこには屈折が、距離感が存在するといった具合なのである。ここには解かれるべき謎とは言わなくとも、 控えめに言っても解釈されるべき徴候というものが確実に存在していると私には思われる。

だがそれは一見したところそのように見えたとしても決してパラドクスなどではなく、寧ろマーラーの音楽が「意識の音楽」であることの 自然な表れであると私には思われる。 作曲した主体の意識の痕跡を読み取れるという場合、実現された音楽がいわゆる典型的な「ロマン主義的」 と見做されるような、作曲者の思想、感情、感受性などなどを聴衆に伝えるためのもの、という定義からは逸脱するのだ。 それは単なる主観の音楽でも、単なる世界の記述でもない。主観と客観は相関しているが、その両者の相関の様相が読み取れること、 更に進んで、主観の客観に対する反応の様相が読み取れること、そして、そうした様相に対する主観のリフレクションが読み取れることこそが、 「意識の音楽」の要件であって、ここで述べた性別の交代はそうした要件の成立に寄与していると感じられるのである。

結局のところ、マーラーの作品の「私」はマーラー自身ではない。作品の「私」は語られる物語の主人公なのだ。だが演劇とは異なって そうした役割を演じることが問題なのではない。寧ろそれは民話や伝承の類がそうであるような「語り物」に近い性格を持っていて、 ここではそうした形態を模倣しつつ、架空の伝承を語ることが問題なのだといってもいいのかも知れない。マーラーが作曲を世界の構築に 喩えたのは誇大妄想でもなんでもなく、実際に起きていることをありのままに語っただけなのだ。つまり、作品の「私」とは楽曲の表現内容、 標題の水準における主人公などではない。固有の性格を持ち、遍歴を重ね変容を繰り返し、だが同一のものである主題やら動機やらが マーラーの作品における「私」なのである。ある旋律が提示される調性はその旋律の性格を形作るし、楽曲が辿る調的なプロセスは 「私」の超空間における遍歴を辿る際の重要な手がかりの一つなのだ。複数の楽章の継起は層が複数存在することを可能にする。 かくしてマーラーの音楽は「意識の音楽」と呼ぶに相応しい相貌を備えることになるのである。(2008.10初稿, 2009.7.27,29改稿)



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(2008年3月作成)