グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・備忘(6)


備忘:その6

はじめに:このページに収められた文章は、本来公表するには適さない、ほとんど日々のメモ書きに 過ぎないものであり、それゆえその多くがエスキスに過ぎないレベルであり、論理的な流れに著しく欠け、理解に苦しむような飛躍が多く、あるいはしばしば矛盾すら見出すことができるかも知れない。 さらには、あくまでも自分の備忘のために書き溜めたそのままの形態のものがほとんどであることから、明らかに前提の説明が不足しているものも少なからず含まれるものと予想される。
ただし、書き記した内容は―その少なくとも意図の次元では、基本的に現在の見解と齟齬を来たすものはないと思うし、一見矛盾に見えるものは、とりわけマーラーのような多面的で 複雑な存在が対象である場合には、しばしばその異なった側面を眺めたものが併置された結果に過ぎない場合も多い。
従って、とりわけこの項については今後随時手を入れて整理をしていくことになるが、それは見解の変更というよりは、それぞれの文章を本来の位置に配置する作業であると考えている。 とりわけ読書をして批判的な印象を書き留めたものについては、その批判を十分に説得力のあるもの仕立てていく必要があると感じている。まあ、所詮は素人の素朴な感想なので、 このままでも問題は無いはずだが。


カフカの「審判」について、アドルノのマーラー論における第9交響曲ロンド・ブルレスケのくだりでの参照を 起点に、ここでの議論のいわば対旋律として発展させるための準備として。

注意しなくてはならない。ある日突然理由も無く逮捕され、処刑される。これはだが、現存在の被投性そのものかも知れない。

その一方で、彼は有罪なのか?という問いに対して、ローマ人の手紙のパウロの言葉によって答えてみるとどういうことになるか? あるいはここで「カラマーゾフの兄弟」のマルケル=ゾシマ=アリョーシャ(=ミーチャ)のテーゼを思い起こすと、どういうことになるか? デリダの「掟の門前」論における「白い小石」と重ね合わせてみたら?

»Ich bin aber nicht schuldig«, sagte K., »es ist ein Irrtum. Wie kann denn ein Mensch überhaupt schuldig sein. Wir sind hier doch alle Menschen, einer wie der andere.« »Das ist richtig«, sagte der Geistliche, »aber so pflegen die Schuldigen zu reden.«

K.の誤りは、自分が無罪だと思っているということに存するのか?この問いは幾つもの水準で発しうるし、その水準によって答えは異なるように 思えるが、それでいいのか?全体主義国家の秘密警察による突然の連行と秘密処刑。デリダ自身、チェコでそういう目にあって、それを 想起しつつこれを書いているのだ。それに対して神学的な解釈は一体どのように応じるのか?イヴァンの論文に対するミウーソフの反応に対して。 或いは、ある仕方で国家が教会に包摂されたのかも知れない、或る種のイスラム国家におけるイスラム法学者による支配はどうなのか? オウム真理教をはじめとする新興宗教の論理は?キェルケゴール的な倫理的なものの目的論的停止は全体主義への屈服でないとどうして言えるのか?

だが、パウロはローマ人への書簡で何と言っているのか?この書簡を(デリダが言うように、そして、ジッドの自由主義的聖書解釈に逆らって)、 旧約と新約の間のずれや揺れの中で読んでみたら、どういうことになるのか?そして、カフカの「審判」はそれに対してどのように位置づけられるのか?

もう一方で、世俗的な法による調停と、内面化された法の間のずれや揺れの方はどうなのか?これは「カラマーゾフの兄弟」の「誤審」の問題そのものである。 では「審判」ではその点はどうなのか?K.はマルケル=ゾシマ=アリョーシャ(=ミーチャ)の水準では思考も行動もしていないように見える。 寧ろ、彼にとって法は端的に自分の外部にあって、自分に暴力的に襲いかかるものであって、それに対しては自己弁護しかないかのようだ。 この物語が、全体主義国家の秘密警察による突然の連行と秘密処刑と似るのは、そうしたK.の態度にあるのだろうか?

だとしたら、「審判」において、「掟の門前」の寓話が語られるのが、大聖堂の中でであり、しかもここでは裁判官でも廷吏でも弁護士でもなく、 僧侶との対話が行われることはどういう意味を持つのか。カール・バルトは「ローマ書講解」において「宗教の意味は、罪がこの世のこの人間を支配する力を示すことにある。」と 言っていることを思い起こして見たら、どうなるのか?

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ドゥルーズ=ガタリは「審判」の「終り」の章がKのみた夢との推測をしている。 だが、これは一見したところでは馬鹿げている。それを許容したとたん、そもそもの発端から 全て夢では何故いけないのか、否、実際にはタイトルすらない草稿の各分冊は、 そもそももう一人のKが見た夢そのものではないのかと問うてみてはいけないのか? また基本的には無限の系列(セリー)であり、終りに重きを置いていないが、これは城と審判の差異を蔑ろにするものだろう。 カフカは始めと終りを最初に鏡像のように、互いが互いの分身であるかのように書いた。勿論、始点と終点があるからといって、無限がそこに含まれていないわけではない。 寧ろ、有限な長さの線分に含まれている無理数に対するデデキントの切断のような操作の無限性の方が、終りのない空間的な無限性よりも興味深いし、 一層ユダヤ=ヘブライ的とさえ言えるのではないか?ドゥルーズが別のところで示す無限概念に関する数学的センスの欠如、更には超越を単純に否定し、 内在に優位を置くナイーブさと共通のものを感じずにはいられない。

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最後が夢であるということは、実際のカフカの創作活動という外側のレベルにおいて起きたことであるという見方も可能だろう。ザムザも次の小説で甦り、ここでのKもまた、 今度は「城」を舞台に甦る。カフカは結核に冒されて早逝したが、ナイフが結核に置き換わる例というのは、例えばドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン ないしナスターシャとイッポリートを思い浮かべることができるだろうが、もしカフカが生き永らえたら、Kの復活が繰り返されるのだろう。その作業には恐らくは終りがない。

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デリダの「掟の門前」、ドゥルーズ=ガタリのカフカ論、ジッドがカフカの「審判」を戯曲にしていること。アドルノのマーラー論における「審判」の参照。 ユダヤ思想、ヘブライ的時間意識・存在論の反映(坂内正の指摘による)。

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三瓶の「審判」論。自己認識の投影であるという見方は説得力があるかに見えるが、「他者」の力を、主体に対する「暴力」を消去してしまうように見える。 逮捕の衝撃、審判の過程、その終結は、決して自己認識の投影ではない。それは全体を主体のみる「夢」に還元する議論と結局は変わることがない。 そうした主観的観念論は既に使い古されている。自己認識がないというのではないし、自己認識という契機の重要性は疑うべくもない。 だが、触発が「外部」から到来すること、それに対して主体は基礎存在論的な水準において「受動的」(つまりレヴィナスの「受動的よりも受動的な受動性」) でしかないという存在論的構造を看過してはならない。

Kaufmann Block - Kündigung des Advokatenの章における「美しさ」に注目するのは卓見である。 »Wenn man den richtigen Blick dafür hat, findet man die Angeklagten wirklich oft schön.« / »Die Angeklagten sind eben die Schönsten. Es kann nicht die Schuld sein, die sie schön macht, denn - so muß wenigstens ich als Advokat sprechen - es sind doch nicht alle schuldig, es kann auch nicht die richtige Strafe sein, die sie jetzt schon schön macht, denn es werden doch nicht alle bestraft, es kann also nur an dem gegen sie erhobenen Verfahren liegen, das ihnen irgendwie anhaftet. Allerdings gibt es unter den Schönen auch besonders schöne. Schön sind aber alle, selbst Block, dieser elende Wurm.« またカフカが「作品空間内で<美>の文学的形象化をほとんど行わなかった、もしくはできなかった」 (p.248)という指摘も全く妥当である。だが、だとしたら「審判」では「宣言」されただけの「美」が「城」において形象力を獲得したというのは本当か? 前段の文章の「作品空間」のスコープはどうなっているのか?概して三瓶の主張は、その個別の指摘において妥当だし、ゾーケル他の先行研究に対する批判も概ね 当たっていると思われるが、肝心の自己の主張の一貫性の見通しは決して良くない。それはある種の弁証法的構造を持っている(カフカの側がそうであるのに 恐らくは対応しているのだろう)が故のわかりにくさというのもあるだろうが。

三瓶はカフカに(恐らく世俗化し、形骸化した)キリスト教への批判を読み取ろうとする。だが、そうするたびに直ちにそれが目的ではないとも述べる。 これは奇妙に見える。カフカにとってキリスト教批判がそんなに問題であったとは思えないし、表面的であれ、それがキリスト教の現状に対する批判で あると考える必要すらなく、直ちに、より原理的な水準に移って都合が悪いことはなさそうだ。そうした迂回は寧ろ三瓶自身の何らかの心理的な 障壁の存在すら感じさせる。

「美」(Schön)の問題は、直ちにドストエフスキーの「白痴」のテーマ系との対比を呼び覚ますだろう。一方で「審判」の作品の内部の世界を、 「狭き門」のヴァリアントとして読むことが可能かも知れない。その時、寧ろ問われるべきは、アリサのいう「聖らかさ」とそこで対比される「幸福」 という、「審判」の世界では、否定的なかたちですら出現しない契機であることがわかる。 – Que peut préférer l’âme au bonheur ? m’écriai-je impétueusement. Elle murmura : – La sainteté… si bas que, ce mot, je le devinai plutôt que je ne pus l’entendre.

有責性に関する自己認識の契機が必要であることは言うまでもないことだが、それでもなお、そうした認識は決して自己認識の閉じた回路の 中からは出てこないし、ここでいう心の構造、つまり意識のみならず前意識・無意識といったものも含めてフロイト的な心のモデルを 前提としたところで、そうした構造の生成を問うならば、そこには他者との遭遇、外部への被曝、外傷的経験といった契機がある。 「審判」における「逮捕」は、三瓶の主張では寧ろ肯定的な契機、頽落した「人」(Das Mann)としての存在様態からの覚醒のための 必須の契機であるのようだ。それは非日常的な地平への経路ともなると見做されている。だがここでの非日常は、人間がそれに対して 無力でしかないような天変地異がもたらすそれ、あるいはある種の事故のように、道具的な連関の破綻に似ていて、いわば超越的な契機を 欠いている。超越的な契機の不在、ないし拒否というのが、カフカの特質の一つであるのは確かであり、三瓶の主張も結局そのような ことになるのだろうが。

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アガンベンのカフカ論における古代ローマ法からの「審判」読解。Kはkalumniator(誣告者)の頭文字であり、中傷しているのはヨーゼフ・K自身である という解釈も類似の構造を持つ。そこに「カフカという作家の強烈無比な「喜劇性」が存在する」かどうかなどどうでも良いことだ。 それを「喜劇性」と呼んだから、一体どうしたというのだ?そもそも、悲劇は義人の罪深さとして現われ、喜劇は罪深い者の義認として現われることになる (イタリア的カテゴリー)として、本当にカフカは後者を主題としているのか?罪は存在していない、あるいはむしろ、唯一の罪とは自己誣告であり、 存在しない罪をみずから告白することによって、この罪は成立しているのであるとして、「存在しない罪を自白するとはすなわち、 みずからの無実を告白することであ」るのは本当か?これは誤謬推理に導かれた論理的同値に過ぎないだろう(これがわからないのは、自然言語処理 研究と並行して発展してきた20世紀の論理学・形式意味論の成果をそっくり否定することに他ならない。)。だから 「それゆえこれはまぎれもなく喜劇的な身振りである」などとはいえない。なぜなら、義人の罪深さと罪深い者の義認の差異は、まさにその推理が 乗り越える差異そのものだからだ。だからこの議論にとらわれることなく、自己誣告の構造から何が導き出されるかの帰趨は別途見極める必要があるだろう。

「カフカの名状し難い罪責感は彼の作品を一貫しているテマティスムであるが、もしかすると彼は何かに責められ、罪人であるという自覚を持つことによって、 「生の息吹の奪還」を図っていたのかもしれない。」というのは、三瓶の「有責性」の自己認識と変わるところがない。 法への懐疑、罪なくして刑罰はないという原理を疑うというのはその通りであるとして、一体、それを促す力はどこに由来するのか? 自己誣告の「審判」という作品の文脈における帰結が、「訴訟を(自ら)開始することに罪が存する」のであるとしたならば、 「審判」とは一体如何なる物語であるのか?一見したところ、冒頭のJemandが誰なのかは問われることがなく、それは修辞的な ものであるかに見えるが、実際にはJemandが誰であるのかを探す物語なのではないか?それがK自身であることは如何にしてわかるのか? 読者にとって?作者にとって?作中の人物達にとって?誰よりKにとって?そしてそのとき「掟の門前」の物語の持つ意味は?

「原罪」とは「自己誣告」であるというのがアガンベンの主張の核心に存在する。そしてこれはカフカ自身の発言とされる 「原罪、すなわち人類が犯した太古の過ちは、人類が引き起こした告訴、取り下げることをしなかった告訴によって成り立っている。 というのも、迷惑をこうむったのは人類であり、原罪とは人類にたいしてなされた過ちなのだから」によって支持されると解釈されている。 上で問いを立てた小説の構造はおくとして、ここで扱われている基本的な事態(出来事)はどうなっているのか? Kの自己誣告で逮捕が生じる。逮捕を引き起こしたのがK.自身なのだ。K.は罰を受けなくてはならないが、それはなぜか? 誣告自体が罪なのか?誣告の帰結として、罪が生じたのか?(この両者は同じではない。)アガンベンの立場は明白に前者であろう。 ところで、K.の自己誣告が問題であるとしたら、(これはまさにカフカが言っていることなのだが)なぜ彼は告訴を 取り下げることをしなかったのかが問われなくてはならない。

そしてこの「自己誣告」は、やはりフロイト的な心的システムにおける超自我、イドとの葛藤の物語に回収される可能性を 含み持つ。「自己誣告」は「有責性の自己認識」とどれだけ異なるのかの距離の見極めが必要なのだ。罪は外在的なものではなく、 内的なメカニズムによって生じるとしたら、後は「有責性」が、いわば後付けの理屈的な合理化、「誣告があったからには 罪があったのだろう」という、これまた誤謬推理によるものではないかという問いが成り立つわけだ。

であるとしたら、結局、「自己誣告」という主張は、何らここで問おうとしている構造を変えるものではない。 問いは、「誰」が「自己誣告」をしたかには存していない(実際「審判」という物語自体もそれは問わない)。 なぜ「自己誣告」が行われたか、「自己誣告」を可能にするような構造はどのようにして生成したのかが問われなくてはならない。 するともう一度、「外部」を問わなくてはならなくなる。排除したはずの超越性は、単にそれを語ることを拒絶しただけであり、 超越性の認識を否定することは、それ自体、問題の理解を拒む振舞いでしかない。もう一度「誣告」のメカニズムを 作動させる「外部」が問題になるのだ。であるとしたら、本当にアガンベンの言うように、この審級において、 法それ自体の攪乱が起きているのだろうか? カフカはその点において、「これまでの文学の中でも最もラディカルな抵抗者である」とか「カフカの今日、 未来において最も先鋭的で独創的な点がある」などと言えるのだろうか?

そしてそれとは差し当たり独立になお、「なぜ彼は告訴を取り下げることをしなかったのか」を問うこともまた 可能であることに注意しよう。そしてこれもまた、法それ自体の攪乱という観点を経由して、カフカのラディカルな 抵抗者であるという評価の是非にも繋がるだろう。

勿論、(同じことなのだが)カフカが自白を支持するユダヤ=キリスト教的な文化に反するもので、 むしろ自白を「不愉快で危険に満ちている」と定義したキケロに通じるという発想は検討には値しよう。 これは一体「自己誣告」とはどう関わるのか?自己認識と自己欺瞞の、いわゆる「意識=良心」の構造とはどう関わるのか? これはドゥルーズの「カントは、法についてのギリシア的な考え方からユダヤ=キリスト教的な考え方 への転倒に関する合理的な理論を作った。つまり、法はそれに対してひとつの材料を与えるような、 あらかじめ存在する善にはもはや依存せず、善が善として依存する純粋なフォルムである。 法がそれ自体を言表する形式上の諸条件の中で、法が言表するものが善である。 カフカは、このような転倒のなかにあると言えよう。」という見方とどう関係づけられるのか?カフカはまさにそうした転倒の 「最もラディカルな抵抗者」だと言うのだろうか?

K.という固有名の付与、それがダヴィデ・スティミッリの解釈であるKalumnia(中傷、誣告)を意味するものであるとして、 本当に最初にあったのは自己誣告なのか?そもそもカフカのいう「原罪」にあたる告訴は、本当はどういうものだったのか? 告訴自体が罪であることは認めたとして、一体その告訴が、自分自身のものであると決め付けることができるのは 如何なる理由によってなのか?古代ローマの裁判において、中傷=誣告[虚偽の事実を言い立てて、他人を罪に陥れる犯罪]は 司法機関にとってきわめて重大な脅威であり、偽証をした告発者は額にKの文字の焼印を捺され罰せられたという背景を 素直に受け取れば、K.は自分ではない「他者」を誣告したと考えるのではないか?そしてその誣告を取り下げなかったことが 罪となったのではないか?カフカの引用の文章の読みは妥当なのだろうか?

恐らくはマーラーの音楽に即して「審判」を読む限り、自己誣告が正当化されることはないだろう。ドゥルーズ=ガタリの 「夢」解釈も成り立たないだろう。あなた方は全体主義国家の恐ろしさを知らない。幸いなことに全体主義でない国家に おいてさえ、誣告されることの恐ろしさを知らない。まさに「審判」という作品自体が告げていることだが、 自己弁護は無償ではないし、アドルノが引用した結末の叫びは、法治国家においてさえ、他者による誣告が生じれば 避け難いものになる。中立的な状態があって、裁きの結果として二値の価値付けが行われるのではない。 誣告が生じれば、まず彼は被告であり、暫定的であれ有罪なのだ。そして彼はそれを自ら否定しなくてはならない。 誣告の暴力は、それ自体によってまず相手をマイナスの状態に陥れることにある。この点では反訴は虚しい。 誣告者をもマイナスの状態に陥れることはできても、自分のマイナスの状態は些かも変わらない。そしてマイナスを 解消するために、彼は、そうでなければする必要のない自己弁護をし、証言をし、それらが彼を、そうでなかった 場合の彼から遠ざけていく。「カラマーゾフの兄弟」におけるミーチャの尋問に対する反応を思い浮かべるが良い。 だれが誣告者であるか、誰が共犯者であるかは、文学研究者の自説の奇抜さを競うための具になってしまっている という事情は、「カラマーゾフの兄弟」でも「白痴」でも起きているが、あろうことか「審判」では自己誣告という かたちで起きているというわけだ。そもそもそうした新規な説自体が、作品に対する誣告であるいうような 状況が起きている。法もまた暴力であることは確かだ。だけれども、誣告は法の存在を前提としつつ、それでもなお、 それに先立つ暴力ではないか?その暴力は法を利用するが、法自体に由来するわけではない。法自体に由来する暴力は 別に被告を苛むことになるだろう。法が言表するものが善であるとして、だが無実の被告を有罪とするのは法自体ではない。 法を利用した暴力は、法の暴力ではない。



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