グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


マーラーの音楽の未完了性について(2013.5.18)

文字通りの反復を嫌うマーラーの音楽の時間性においては、再現の意味合いが変わり、再現こそが 予告されたものの実現となる。マーラーの音楽の経過には、そうした実現の瞬間が含まれるのだが、 にも関わらず決してそれが音楽が目指していた目的地という訳ではない。寧ろ、それは事後的に、 回顧的にそれとわかるものなのだ。目的論的な図式が事前にあるわけではなくて、寧ろ外部から 何かが到来することを契機に、システムが新たな準安定状態に遷移するのだ。それは新しさの経験であると 同時に、システムの自己同一性が維持される不可欠の契機でもある。マーラーの音楽の時間性は、 意識を有する高度な有機体のそれであり、マーラーの音楽は意識の背後にあって、意識に先行し、 地平を形成していわば水路づけをする無意識的な部分の活動、更には、システムにとっての外部の痕跡すら 留めている。重層的・多声的な構造を持つそれは、マーラー自身がそのように定義した通り、一つの「世界」なのだ。

マーラーの音楽は常に未完了であり、開かれている。morendoないしersterbendという総譜への書き込みが マーラーにおいてはしばしば取り沙汰されるが、アレゴリーやメタファー、標題性の次元ではなく、その書き込みが 書かれた箇所で音楽的に何が生じているのかこそが問題であり、それを突き止めることによって、マーラーの音楽の 時間論的な特殊性が闡明される。マーラーの音楽という時間対象の消え去っていく有様は、その時間性の 未完了性を告げている。その音楽は「外部」を指し示し、浮かび上がらせる。 究極の可能性としての「死」、それは他人事ではないが、主体にとって経験不可能な閾の彼方として追い越すことが 原理的に不可能な可能性として、だが寧ろ主体にとっては端的に一つの不可能性として、主体がその中に 予め投げ込まれている(被投性)。主体は自分の終りを自分で画定することはできないが、原理的に到達不可能な 外部として、いわば理念として想像することは可能であり、引き受け不能なその可能性を引き受けることを余儀なくされる。

複製技術が発達し、テレコミュニケーションが可能になり、コンサートホール以外の場所で、それぞれが異なる場所、 異なる時間に、マーラー自身は経験出来なかった仕方での同一のリアリゼーションの反復的聴取が可能になることによって、 同一の経験の文字通りの反復の不可能性をもたらす変様が浮き彫りにされ、自分の経験できなかった過去を 時間対象として享受しつつ、自己と対象たるマーラーの音楽との差異を、遅れを見出しつつ、自己が生成する、 それ自体は唯一の、反復不可能な出来事の過程の個別性が析出する。そのように私は形成され、私は予め 自分に先立つものとして、自分が直接出遭ったことのない他者に取り憑かれていて、自分の経験したことのない 記憶を想起し、他者の導きに従って未来を構想する。

個体としてのマーラーが同じ日付に終焉を迎えてから、既に100年以上の時間が経過した。100年後、地球の反対側に 生きる私は、マーラーその人に会うことなく、その創作の現場に立ち会うことなく、マーラーが遺した楽譜によって、 自分が経験していない生を自己の裡に再構することができる。それ以降、自分の寿命を越える期間に渉り、 地球上の様々な場所で行われたマーラーの作品の数多くの演奏に、その演奏に立ち会うことなく、録音アーカイブを 通じて接することができる。様々な文献により、その作品の受容の目も眩むばかりの多様性に接し、自分自身もまた、 マーラーに関する様々な知識や経験を記録することによって、都度、マーラー受容の文脈を更新し、地平を広げ、 深めることができる。しかもそれは孤立したモナド的主体の営みではなく、いわばシモンドンの言う横断的個体化なのだ。 或いはまた、マーラーを自ら演奏するオーケストラの活動にコミットすることで、より直接的な仕方で共時的な次元を 拡大することもできる。

マーラーが唯物論を支持し、いわゆる「霊魂の不滅」に対して否定的な意見を述べた知己に向かって述べたといわれる 「不滅性」は、マーラー自身がそのように了解していた通り、個体性の限界を超えて、いわば「客体的不滅性」として、 だが超越論的な領野においてではなく、自然主義的に経験化され、事実性の水準において、ただし或る種の極限として、 常に未来にあるものとして、その限りでもう一度理念的なものとして、このようにして実現し、絶えず実現しつつあり、 実現し続けるであろう。、

時空を隔て、直接経験できない絶対的な過去、時間を超えてではなく、時間を通って、忘却なしの 直接的経験ではなく、忘却を経て想起される記憶として、否、寧ろ、絶対的な隔たりの彼方に対する追憶として、 何度目かの今日、5月18日という日付の反復により、マーラーという固有名の署名が記入された営み、活動が 未来に向けて継承されていくためには、それ自体はどんなに取るに足らない、些細なことであっても、その効果の持続に ついてどんなに頼りなく、儚げで疑わしいものと感じられたとしても、それが自分が受け取ったものの価値に対する精一杯の、 可能な応答なのであってみれば、「歓待」し、「証言」しなくてはならないのだと思う。

それは常に未完了であり、未来に向けて開かれたものであり、かつまた、未知の相手に宛てた 投壜通信でもある。投壜通信には、固有の日付が、固有の署名が為されている。自分が生きる土地に漂着した それを受け取った人は、記録された出来事の事実性を、恰も確実で疑い得ないことであるかのように思いなす。 「それはかつてあった」こととして、私の直接経験できない過去を、外部を指し示す「記号」となるのだ。

マーラーの総譜のersterbendという書き込みが告げているのは、美学的な水準での作品の内容であったり 意味であったりするのではない。 それは個体がいわば墓場に持って行ってしまい、忘却されて系統発生的には継承されない記憶、 その個体が蒙った癒しがたい傷を証言する痕跡なのだ。かくしてマーラーの音楽は目覚めて再来するもの =幽霊であり、私はその声に応答し、歓待しなくてはならない。時空を隔てて、共に行進する幽霊たちの連帯として。 それは「私の傷を見てください」と私の代わりに言ってくれる同伴者であり、私自身が蒙った傷の証人でもあるのだから。 (2013.5.18)



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