アンソニー・ストー「音楽する精神」(原題:"Music and the Mind", 1992)には、「音楽を一人きりで聴くこと」と 題された章がある。音楽を一人きりで聴くというのは、音楽の聴取の側面における様態を問題にしているのであって、 なかんずく対比されているのは、音楽を誰か「とともに」聴くことであろう。後者の様態の例としてすぐに思い浮かぶのは 例えばコンサートホールにおける聴取だろう。今日の一般的なコンサートのあり方においては、自分の住まいからは 離れた場所にある専用のコンサートホールで、決められた日時に、決められた演奏者が決められた曲目を演奏するのを、 複数の人間がその場を訪れて聴くことになっている。理由はさておき事実として演奏会場では、その演奏会を聴くという 目的を同じくすること以外にはほとんどの場合接点の見ず知らずの数多くの人間とともに演奏を聴くことになるわけだ。 予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家の演奏を同時に不特定多数が同じ場所で聴くという点で、複数の 意識の時間的・空間的な同期が生じているわけである。移動するための公共輸送機関の利用といった間接的な側面は 無視できないかも知れないし、演奏会場を支える電気や上下水道といったインフラの存在を閑却することもできないが、 聴取の現場では、アコースティックな楽器の発する音響を直接自分の耳で聴くという昔ながらの状況が辛うじて 保持されているとは言いうるだろう。
一方で、例えばラジオ放送を介して音楽を聴くときはどうだろうか。予め定められた(プログラムされた)曲目・演奏家 の演奏を同時に不特定多数が聴く点までは同じだが、「同じ場所で」という側面が脱落していることがわかる。更に録音された 媒体の再生装置による再生によって音楽を聴く場合は、「同時に」という側面すら脱落してしまう。と同時に、演奏が、 翻って演奏の聴取が備えていたはずの「1回性」という特性すら失われてしまう。勿論聴取そのものは都度異なったもので ありうるだろうが、「再生」される音楽は「同じもの」の「再生」であり、同一のプログラムを何度か演奏するのに立ち会うのとは 根本的に異なった事態が生じていることは否めない。
音楽を一人きりで聴くことの方を考えてみると、厳密には誰かの生演奏の聴き手が私一人であるといったケースを考えれば、 メディアの介在なしには絶対に成立しえない訳ではないように見える。だがしかし、ストーの言う音楽を一人きりで聴くことには、 演奏者が場所と時間を同じくしないという条件が含意されているのである。人は音楽を一人きりで聴くとき、そこには 再生装置こそあれ、他者は不在なのである。更に言えば再生装置というのは、演奏家のような存在とは異なって、いわば その存在の対象的性格が希薄な存在、ハイデガーの道具的存在であり、更には或る種の透明性を帯びているのは メディア(媒体)という規定が端的に示すとおりである。人は自分の目前に演奏者(達)を想像することができるだろうが、 それはメディアが生み出す虚像に過ぎない。そしてその行き着く果ては、演奏者(達)も消えてしまい、端的にそこに音が 鳴り響いている場に一人で立ち会っている、という構図であり、恐らくはストーが言い当てたかった事態もまた、この 最後のケースであろうと思われる。それは従って、メディアによって可能になった聴取であり、メディアなしでは成立しえない タイプの聴取のあり方なのだ。
このとき「音楽を一人きりで聴く」私は、端的に「音楽」に対面することになる、と言えるだろう。勿論人はそれが 誰が演奏したかを知っている。同じ演奏を何度も繰り返し聞くことや、いろいろな演奏を何度でも聞き比べることが できることによって、一度きりの演奏に立ち会うことでは困難な演奏解釈についての反省的な把握というのも、 メディアの介在によって可能になった聴取のあり方の一つであろう。他方で人は、誰が演奏したかを知らずにある作品に 端的に接することも可能だし、演奏者を意識することなく作品そのものを聴くといった姿勢をとることが少なくとも 可能になっている。あたかも作曲家との「個人的な」対話が成り立っているかの如き感覚に捉われることも不可能では なかろう。音楽がある種の情動を伴いつつ、具体的な風景や光の調子、空気感や色彩感といったものを聴き手に伝達する ものであるとするならば、「音楽を一人きりで聴く」時、聴き手は寧ろ端的にそうした音楽が浮かび上がらせる想像上の 風景の中に居るのであって、決してコンサートホールに居るのではない。逆にコンサートホールでの聴取においても コンサートホールに居ることをしばし忘れて音楽に聴き入り、音楽が描き出す想像上の空間の中に身を置くような 聴き方だって可能であろう。だがその時、演奏者とのコミュニケーションはどうなるのであろうか。そもそも音楽に没入し、 演奏者をいわば「消去」してしまった聴き手は演奏が終わった後、拍手をするだろうか。
コンサートホールに おける際立って感動的な経験は、演奏者と聴き手との間の或る種の交感による一体感がもたらすものだ。 コンサートホールでの聴取は実際には単なる聴覚に限定された経験ではない。演奏を視るという視覚的な 側面も重要だし、演奏者が演奏する楽器から直接伝わる空気の振動を感じ取るといった側面も際立って 強い作用を聴き手にもたらすだろう。 他方において今日のコンサートホールでの演奏においてすら、演奏が超越的な何物かに対する奉納であり、 聴き手も含めての礼拝たりうる。勿論、代替物は他にも幾らでもあるし、そうした集合的な熱狂、共同体的な 一体性の経験は危険と隣り合わせであることもまた確かなのだが。ましてやマーラーの場合には、 そうしたことが作曲者の企図でもあったらしい第8交響曲以外の作品においても、演奏の場は孤独ではありえない。 指揮者の存在はあるが、オーケストラは集団的なものであり、決してピアノ・ソロのリサイタルのような個人の 声に満場の聴衆が聞き入るといった事態からも程遠い。
コンサートホールで指揮を「視る」とき、解釈している指揮者が現前していて、 解釈が提示されているのであって、作曲者が現前している のではない。あたかもマーラー自身が語っているかのように、あたかもマーラーの声を聴くかの ように、あたかもそこにマーラー(の幽霊)と対話するかのように音楽を聴こうとするとき、 人は、自ら奏者になるか、あるいは演奏という媒介を括弧入れする操作をしなくてはならない。 前者の場合には、楽譜が作曲者の代補となり、後者の場合には録音技術による演奏を記録 した物理的媒体、即ちレコードやCDといったもの、本来は演奏の代補であるはずのものが、 或る種のショートカットによってあたかも作曲者の代補であるかのような思いなしが可能となる。
いずれにせよ確実なことは、投壜通信の媒体としての楽譜・レコード・CD等を介して、一人で自宅で マーラーの作品を聴くような聴取の在り方は、恐らくはマーラーの同時代には想像もつかない、想定外の ものであっただろうということだ。好きなときに、好きなだけ、何度でも聴くことが可能で、実演の経験では 到底不可能な様々な解釈の比較も可能だ。じきに音楽を楽譜もなしに思い浮かべることも可能になるだろう。 そして不完全で薄れがちな記憶の頼りなさは、何度でも繰り返し再生可能な記録媒体によって都度修復し、 記憶の中に「作品そのもの」を構成することをさえ可能にするかに見える。マーラーの音楽はLPレコードの普及の 恩恵を最も受けた代表的な存在であるという言われ方が何度となくされてきたが、マーラーの音楽のような長大で 複雑な作品の場合、場所を選ばずに何度も聴けること、場合によっては自分が聴きたい部分のみの部分的な 聴取すら可能にすることだけでも、その作品の受容にとっての寄与は大きなものであっただろう。
あたかも 演奏の個別性・恣意性をフィルターして、「作品そのもの」に辿り着けるかの如き錯覚が生じ、ことマーラーの場合なら、 マーラー自身(の幽霊)と直接対話しているかの如き錯覚が生じるのだが、例えばそれはスコア・リーディングによって 音楽を構成していく作業でも生じうるという点で、同じくスティグレールの第三次過去把持の水準にあるもので ありながら、仮構の具体的な在り方は異なって、鳴り響くであろう音を自ら想像するのではなく、 既にその場に響く音を受容するという仕方でまず大きく異なる。そこでは端的に音楽が「彼方」から私を 目がけて到来する。コンサートの経験というイヴェントにおいて演奏という媒介の働きを共時的に体験するのと 異なった、無媒介な音楽自体との遭遇が可能であるかの如き錯覚が成立する。CD等の記憶媒体を介しつつ、 こうして記憶され内面化されるうちに媒体の外部性は忘却され、恰も音楽が自分の内側で鳴り響き、 自分の奥底から響いてくるになっていく。勿論、マーラーの音楽が鳴り響く仮想の空間の広がりは確保 されるのだが、それは現実の空間ではない、内面に穿たれた想像上の可能世界の中に響きわたることで実際には 空間そのものを構成するのである。これはマーラー自身の言った「一つの世界を構築すること」の実現ではないのか? 一匹の生物のちっぽけな脳の中での出来事、それ自体は世代を超えて継承されることないエフェメールな出来事に 過ぎず、世代を超えた連続性は、実はそれを事前に可能にしていたCDや楽譜といった媒体によって 保証されているのだが、マーラーの音楽が頭の中に鳴り響く瞬間、そこにはその生物の生涯の持続を超えた 時間的な広がりが可能となり、物理的な制約を超えた空間的な広がりの展望とその中での自由な時空間の (仮想的な想像上の)移動が可能になるのだ。
その一方で、そうした「私的」な聴取とまさに呼応するかのように、「私的」な交響曲という逆説が存在する。 古典派までの交響曲は明らかにそうではなかったし、時代を下って例えばソヴィエトで生きたショスタコーヴィチの 場合もまた、別の意味合いで交響曲には公的な性格がいわば強制されたのだが、マーラーのそれについて言えば、 交響曲という形態が、例えばコンチェルトのような「パフォーマンス性」を持たず、歌劇やバレエのための音楽のように 音楽外的なものと関連するわけでもなく、宗教音楽のような儀礼のための機会音楽でもないというその抽象性によって、 作曲家の最も私的な領域に通じ、いわば個人としての作曲者にとって自由に筆を揮うことのできるキャンバスの ようなものであることが、聴き手の側の聴取の「私性」と呼応しているかのようだ。協奏曲や室内楽が、歌曲や場合によっては 歌劇すらも、特定の奏者が演奏することを想定して作曲されることがしばしばあるのに対し、ロマン派の交響曲の作曲は 無益な営みといった趣があり、それがゆえに生前は第一義的には有名な指揮者、楽長であったマーラーの場合であれば、 歌劇場監督の余技の類、道楽だと揶揄されもすることに繋がる。その一方で、その作品はバロックや古典期の作品が そうであったように、或いは今日なおそうした目的で大量の作品が生産され、消費されているのだが、大量に生産し、 一度だけ消費されれば使い捨て、といった消費のされ方を自ら拒絶する志向を備えているに違いない。勿論、繰り返し 演奏されるか、とりわけても作曲者の没後に繰り返し演奏され、録音され、レパートリーとして、あるいはカタログの上に 定着して残っていくのは莫大な作品の中のほんの一部に過ぎないのだが、マーラーの音楽が、そうなることを期待して 作曲され、そして実際に未来に生き延びたことは確かなことだろう。
そもそもマーラーの交響曲は「私的」な心境の表白ではなく、マーラー自身が言ったように一つの世界を構築することであり、 発想的にもポリフォニックな傾向を本質的に備えているとはいえ、その作品の世界に聴き手があたかも一人で歩み入れ、 その世界を自己のものとすること、言い換えればその世界に触発されて一つの主体として生成することを可能にするかのようだ。 「音楽を一人きりで聴く」のはだからマーラーのケースに限って言えば、その作品そのものがそうした聴取を要請するとまでは 言えなくても、少なくとも許容するような契機を孕んでいるからであるといえるかも知れない。それを誇大妄想的な巨大な独白と 見做さずとも、その音楽の持つ時間性は、マーラーの時代の、更にはマーラー以後、21世紀の現在に至るまでの主体の、 意識の在り方のあるタイプのそれそのものと言って良く、まさに楽譜の形で、あるいは録音媒体を通じて記録されたマーラーの 作品を受容することによって、文字通りに人は或る仕方で存在するように自己を形成するのである。従って音楽を聴くことは 主体の行為というよりは、それを通じて主体が形成される過程であり、どのように形成されるかについてプログラムされた回路の 作動であるというべきなのだ。
勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。 (2013.4.23,27,28)
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