グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


音楽が未来を予言する?(2013.4.23)

人はとかく音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げたがるかのようだ。 さながらマーラーの音楽の場合なら、西欧の近代的な文化の没落を予見していた、みたいな ことがまことしやかに主張されることになる。 更には、例えばことばに比べて音というのはそれが何かは定かではないながらもある種の空気を察知する面が あるということを根拠に音楽が他の媒体に比べたとき、優れて予言に適した媒体ではないのかという 問いが為されることがある。

だがいわゆる表現媒体の違い、意味作用や享受者への働きかけ、創作のプロセスの違いによって 「時代を予見する」という点について音楽が特権的な地位を占めているというようには思えない。 個別の作品を創作する行為はあらゆる人間の活動を包含するような 意味合いでの「世界」において時間的・空間的な特定の座標において行われる ものだから、そうした文脈の側からの影響に対して無縁ではありえない。 それは創作者の立場(時代に意識的にコミットしようとするのか、超然とした 或る種の普遍性を希求するのが、そもそもそうした立場の決定自体に無頓着 なのか)とは独立に言えることだろう。文脈というのは、同じジャンルの 先行作、同時代の作品から始まって、社会的・経済的・政治的なものも含まれうる。

ところで「予見性」についての評価は事後的なものにならざるを得ないが、だとしたら幾らでも 後付の理屈がつけられてしまうのは避け難い。 けれども、そもそも時間的にいって後に起きることを字義通りに予見する というのは恐らくどのジャンルでもありえないだろうから、まずは同時代の 空気をどの程度反映しているか、更にはその空気が後続する時代との ある種の連続性を帯びたものであるのか、といった点が議論になるというのが 実態なのではないか。

実際には人間の活動は、どんなものでもある種の目的論的な図式が後から 適用できるような、いわば過去に基づき、未来に向けて現在のあり方を (受動的な場合も含め)選択していくという側面を持つ。 そしてそれは作品としての文化的な「遺産」の蓄積、書籍他の記録媒体、 文字や楽譜のような記録のための手段といったものがいわば「前提」と なって、その上で可能になっていると考えられる。(両者は独立ではない。) 従って、文化的な活動が優れた意味で何らかの「未来」をめがけたもので あるということは、程度の差はあれ(仮に創作者本人はひたすら過去を向き、 時流に反したアナクロニズムを実践していると自己了解している場合も含めて) 言いうるのではと思われるが、その一方で、こうした機制は非常に一般的な ものだと思われるので、個別のジャンルには依らないだろう。

勿論だからといって ジャンルによる違いがないことにはならないが、個別と一般のどこに区切りを入れるのが 適当かについての基準を仮にであれ設定するのは如何にして可能だろうか。 それ自体が歴史的・文化的な事後的な或る種の解釈を前提とした、いわば先行的 解釈を孕んでしまうのは避け難い。そもそも「音楽」にしても決してその内実は一義的ではなく、 マーラーの音楽をもって音楽一般を語ることが出来ないことは当然だが、では「音楽」一般を 語らなければマーラーの場合について語ることができないかといえば、そういうわけでもなかろう。 だからここではジャンルへの依存といった水準の議論はひとまずおいて、マーラーの場合 という個別のケースについて見ていくことにしたい。それによって明らかになるのは、 音楽が未来を予言するといった発想自体がある種の錯視の上に成立している有様ということになるだろう。

ある人が音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げようと企図するとき、 実はその人は彼自身がその未来に住まっていて、いわば事後的に同時代者を過去に 見つけようとしているに過ぎない。勿論、作曲者自身が預言者を気取り、自己の音楽の進歩性を、前衛性を 自ら唱導することもあろうし、作曲者の同時代人が彼の音楽にいわば「新しい道」を見出し、その先に未来を 思い描くことの方もまた、ありふれた光景には違いない。そして未来に居る人の審判を待つこともなく、確かなものに 思われた多くの道が実は作曲者とともに瞬く間に消滅することもまた、ありふれた事態であり、未来に居る人間は、 そんな道があったことすら忘れてしまって、少なくとも出発点においては、偶々自分の時代にまで延びている 道のみを頼りに過去への遡行を始めることになるのであってみれば、残った音楽の裡に、自分の時代に繋がる 何かを事後的に発見するのは、寧ろ約束されたことなのかも知れない。だが、それが進化を支配する淘汰の原理を 目的論的に解釈してしまう錯誤と異なるものであることの方もまた、ほぼ確実なことだろう。けれども注意しなくては ならないのは、もしかしたら文化的な領域というのは、そもそもがそうした過誤と不可分で、そうした過誤を惹き起こす 構造にいわば基礎付けられているかも知れないという点であろう。それが優れて「人間」の営みである由縁こそ、 そうした「目的論的図式」を支える時間性に存するからである。

それにしてもマーラーの場合は極端であったということはできるのではないか?クルト・ブラウコップフのあまりに 有名なマーラーの評伝は「未来の同時代者」という副題を持っていた。それ以外にもマーラーを未来の預言者に 見立てるキャッチフレーズは枚挙に暇がないだろう。バーンスタインは「彼の時代はやってきた」と題する文章を書き、 その冒頭を「マーラーの時代はやってきたのだろうか?」という問いで始めている。クーベリックはより端的に、 「マーラーの時代は来た。」と冒頭で宣言する。ブーレーズは「マーラーは今日的か?」という問いをタイトルに 掲げる文章を書き、その末尾で「音楽の未来についての今日的な反省にとって欠くことのできない存在」として マーラーを位置づけて文章を結んでいる。いわゆる流行現象を事後的に確認するというよりは、そうした身ぶりを 装って、実は対象としている流行現象の一部を為しているに過ぎない類の広告紛いのコピーや、そうした流行に 対して一見距離を装って、既に四半世紀も前から判りきった認識を今更のように唱導してみせることで、実際には そうした流行の後追いをしているに過ぎないような論説の類はおくとしても、マーラーの音楽が未来を予言する ような類のものであるというのは、広く共有された認識であるかのようだ。

予言という言葉の持つ或る種のいかがわしさには、予言の「内容」というのが、とりわけてもそれが現時点において 未来の事象を扱うものである場合、はなはだ曖昧で、事後的にその内容を評価しようとした時に、どのようにでも とれるようなレトリックが潜ませてあることが多いことに由来する側面があるだろう。だが、事後的な後追いの理屈の 場合ですら、多くの場合には流行現象を説明するべく、或る種の時代の雰囲気の如き、甚だ曖昧なものが 予めその音楽に表現されているといった類のものが多い。より具体的なものでは、恐らくはアルマの第6交響曲に纏わる 回想がいわば連想の起点となって、その音楽が象徴するものというより寧ろ解釈者がその音楽に象徴させたがっている ものをかわるがわるにあてがうことが繰り返し行われている。内容は家族やマーラー自身に起きた不幸といった私的な ものから、広島・長崎への原爆投下に至るまで様々で、不毛な「標題音楽」についての議論はおいて、それ自体は 紛れもないマーラーの音楽の音楽外のものへと関わろうとする志向がそうした解釈を呼び寄せていることは確かなことに見える。

何よりも生誕100年以降今日までのマーラー受容に決定的な役割を果たしたことについては議論の余地のない、 アドルノのマーラー論は音楽社会学的な視点を備えた内容であったし、既に触れたマーラー評伝の著者である クルト・ブラウコプフもまた音楽社会学者であり、下ってマーラー事典を編んだアルフォンス・ジルバーマンもまた然りで、 アドルノの視点が一般的な了解における音楽社会学の枠組みを逸脱するものであるとはいえ、単純な反映理論では ないにせよ、音楽作品が窓のないモナドのように時代を反映させるという発想に基づいてその音楽の観相学を 試みるという志向自体、音楽作品がそれを生み出した時代と無関係でありえないという了解に基づいたもので あるのを考えれば、マーラーの音楽自体にそうした解釈を誘う傾向があるのではと考えるのはごく自然な発想であろう。 勿論、そうした事態は別にマーラーの場合にのみ生じている訳ではなく、それは他の音楽についても言えることである という反論が一方では想定され、他方では、そこで問題になっているのは専ら音楽作品の(アドルノ的な意味での) 「素材」の音楽作品への影響であり、成立した音楽作品の持つ影響であったり社会的な機能ではないという 反論もまた可能だろうが、そうした反論を一旦認めてなお、マーラーの音楽に顕著な何らかの傾向が、 マーラーの音楽を「予言的」たらしめているということは言いうるであろう。

その一方で、狭義での音楽の歴史の展望の下においてもまた、マーラーと新ウィーン楽派とのある種特権的な 関係をもって、マーラーの音楽に次の世代の音楽の予兆を読み取ろうとする傾向が存在する。音楽そのものにとっては外的な 人的な交流の水準のみならず、マーラー自身の音楽の発展史を俯瞰してみれば、その中期以降の作品に新ウィーン楽派を 準備する要素を見出すことはそんなに難しいことではないだろう。そしてその影響の範囲は新ウィーン楽派に留まる わけではなく、新ウィーン楽派に由来するセリエルな発想に対する代替として出てきたコラージュ的な作曲法、 層的な作曲法、空間性の重視、音色の多様性や調律されていない雑音的な音響の組合せなど、マーラーとの影響 関係が議論される手法は少なくない。これまた後付けの理屈ではあるけれど、そうした作曲法のいわば先駆として マーラーを発見することは、そのままマーラーの音楽の「未来性」の証言であるという認識に繋がっていく。

マーラーの音楽そのものの時間性の方はと言えば、それは目的論的な構造を持っているが、外から与えられた(ということは 既に使い古された、ということでもあるが)図式が無批判に利用されることはなく、唯名論的にその都度形式が吟味され、 時には破綻が生じたようにも見え、時にはそれが或る種の別の構造へと作り変えられるといったことが生じる。 だが、目的論的な構図がなければそれらはそもそも機能しない。そして目的論的な構図というのは、少なくともマーラーの時代以降、 21世紀の現在に至るまで、マーラーが聴かれるような文化的・社会的な空間における存在論的な基本構造である。 ジュリアン・ジェインズが構想したような意識の考古学のような射程においては、それは必ずしもある時代の反映ではなく、 もっと長期的な(ただしそれが地球上の人間の在り方として多数派であるというのは、単なる思い込みである可能性が 高いことは念頭においておいた方がいいだろう)存在論的な「時代」を通じて見られる一般的な構造であるだろうが。 だが、ある時期以降、マーラーははっきりとアナクロニスムになった可能性もまた考えてみるべきだろう。確かにある文化に属する あるジャンルの中の展望としては、それはこの半世紀、流行現象と言って良いほどの受容がなされたのは確かだろう。 だが、その外部の広がりの大きさを考え、更にそれがマーラーの時代以降、だんだんと大きくなり、ますます大きくなっていくで あろうことを思えば、マーラーの音楽を聴くこと自体が最早時代にそぐわない、アナクロニックな行為と見做されるのではないか。 確かにいわゆるコンサートのレパートリーとしてはある時期以降、あくまでも相対的に順位を上げ、演奏頻度が上がってきている のは確かだが、それが今日演奏されるの意義が、マーラーの生前、例えば1910年の第8交響曲の初演の持つ意義と 比べて、あるいはまた、第二次世界大戦後のウィーンで再びマーラーの作品が鳴り響いた折の意義と比べて、その頻度と アクセスのし易さに応じて大きくなったとはいえないのではなかろうか。そもそも自分は何故マーラーの音楽を聴くのか? もしかしたらそれは、今や絶滅に危機に瀕しているかも知れない存在の様態を擁護し、その意義を信じて投壜通信を 行うためではないのか?

勿論、マーラーの音楽が聴かれなくなる未来というのを想定することはできるだろう。否、同じ時代に生きていながら、 マーラーの音楽とは無関係に生きている人間の方が圧倒的に多いことを考えれば、マーラーの音楽が聴かれる場というのは、 常に既に極めて限定されたものであったし、今でもそうだし、恐らく将来もそうであるに違いない。ジュリアン・ジェインズの二院制の心に おける意識の考古学が告げるように、マーラーの音楽は、過去のある時期より遡っては存在しえなかっただろうし、未来のある時点、 ポスト・ヒューマンの時代には、マーラーの音楽は既に絶えて久しい、かつて「人間」と自己規定した存在の在り方を証言する 考古学的な遺物となる可能性だってあるだろう。だがその時には、そもそも音楽自体が今のままではありえないのではなかろうか。 例えば三輪眞弘さんが「感情礼賛」で仮構したような事態を思い浮かべてみれば良い。そこでは「音楽を一人きりで聴く」という こと自体が最早不可能であるに違いないのだ。そしてその時は、同時にマーラーの音楽は最早如何なる意味においても 「未来」とは関わりのない、化石のような記録に過ぎないものとなるだろう。だが、その時にはこの私は、マーラーの音楽よりも更に 儚く堆積の下に埋もれ、かつてあった痕跡すら喪われ、端的に無に帰しているに違いない。マーラーの音楽なき未来は、だから 私にとっては端的に存在しない。私よりもマーラーの音楽の方が永続的なのだ。してみれば、マーラーの音楽は、こと私に限って言えば、 常に未来に在るといってもいいのかも知れない。ただしそれは、マーラーの音楽が、かつて未来であった今日を予言していたという意味合いでは 全くない。寧ろマーラーの音楽は、その個別の作品の時間性の裡においてそれ自身の未来を(仮にある時には幻滅の下、断念されたものとして であったとしても)志向するのだ。(2013.4.23,27)



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