アドルノがマーラーの第9交響曲について述べた未来完了的な主題提示の問題、 再現と提示の問題を考えてみよう。第9交響曲に限らず、マーラーが主題の再現を強調する時、 実は再現こそが真の提示であり、最初の提示はその予告に過ぎないという見方はできないだろうか。 再現の聴取において何が生じているのか。それは単なる再認ではなく、その間に横たわる 時間の厚みを通した再認の持つベクトル性の深みを感受しつつ、そこに単なる反復ではなく、 冗長性という意味での秩序に収まらない新しさを経験するという事態が生じているのではないだろうか。
同じような未来完了的な事態は「パルジファル」においても指摘される。(アドルノだけではなく、 例えばフランソワ・ニコラも指摘しており、彼のセミナーでの分析の柱の一つとなっている。) だが、第8交響曲第2部にある「音調」はどうだろうか。それは「舞台神聖祝典劇」であったとしても、 ハイブリッドなジャンルが持つことができない(唯一、それに最も近接しうるのは、能だと思うのだが、、、) 交響曲的、(バフチンの意味での)小説的な時間性の構造の重層性、多様性に由来する。 ライトモティーフの先行聴取としての「前奏曲」がもたらす時間性をフランソワ・ニコラが指摘しているが 未来完了的な主題の提示の点で、「パルジファル」が近接しえた時間性を更に徹底した、 フッサール現象学における第2次想起と第1次想起のコントラスト自体を内包する時間の構造がマーラーの 音楽にはある。それは一見するとその関連が疑わしく感じられ、特にテキストのレベルではそのような疑念が しばしばあからさまに表明され、アマルガムであるとか、(マイヤーのように)簒奪行為であると誹謗さえ される第1部との(これもバフチンの意味での)「ポリフォニックな」関係が、その音調をもたらしているのだ。
それは音色のパラディグマの側面についても同様で、やはりアドルノが「パルジファル」に対して 指摘する「アウラ」としての残響、エコーはマーラーの交響曲の場合、そこから次の何かが創造される過去の 生成の半影であり、ホワイトヘッド的にはsuperjectなのであって、単なる随伴的で副次的な効果などではなく、 それ自体が次なる生成の契機としての側面が非常に大きく、その主たる機能にまでなっている。
マーラーの音楽を自己組織化するシステムとして観察し、その複雑性を適切な語彙で記述するのは まだこれから為されなくてはならない課題であろう。アドルノの否定弁証法に基づく記述は、アドルノ自身が 自負した通り、伝統的な形式を出発点とする他ない単なる楽曲分析でも捉えられず、ただちに標題性の如き 「内容」の次元に移行することで音楽自体を捉えることに辿り着かない分析でも捉えられないマーラーの音楽の 特質を浮かび上がらせたが、それでもそれはマーラーの音楽の相貌の一部を素描するに留まっている。
アドルノの提示するカテゴリ、「突破」「一時止揚」「充足」は、そこで起きていることの構造を記述する ための素材の一部たりえたとしても、十分な理論的な道具立てを用意するまでには至っていない のではなかろうか。ここで目指されるべきは、マーラーにおける「時の逆流」について十分な記述を 与えることであり、それを行うためにはアドルノが批判の対象とした現象学、分析哲学、経験科学が その後培ってきた複雑系を記述するための道具立てが必要なのではないだろうか。 アドルノがマーラーについて述べるときに参照するカフカの「心理学はもうこれきり」という言明を、 21世紀になった今日の展望で受け止めようとしたとき、せいぜいがフロイトによって発見された 無意識を意識の哲学に対抗させる(実際にそれは学位請求論文から「認識論のメタ批判」に至るまでの アドルノの軌跡を定めた契機の一つであるのは疑いを容れない)に留まることなく、また「世の成り行き」との 関係をヘーゲル的な弁証法的図式の組み替えによって行うに留まることなく、生気論と機械論の対立やら 自由意志と決定論の対立やらといった、これまたマーラーの時代以来の図式の制約を超えて、 まさにカフカがそのように望んだ通りに、心理学的な語彙によらずに従来、心理的なものとしてのみ 語られてきたことを語るための語彙を鍛造することこそ、アドルノが己の制約の下で行った試みの、その 志向を忠実に継承することになるのではないか。
「意識の音楽」としてのマーラーの音楽は、20世紀以降発展をみた現象学やプロセス哲学、分析哲学の 知見、更には情報理論やサイバネティクス、そして複雑系の数理の発展によって得られた展望やシステム記述の ための語彙を手にした現在において、別の仕方で記述されることを待っているように思われる。
アンリ・アトランの「結晶と煙のあいだ」(1979)の第6章「時間と不可逆性について」中には、 「二種の時間の逆行」という節があり、そこでは時間の逆行の経験についての検討が行われている。 表題が示す通り、アトランはここで時間の非可逆性について扱っているのだが、特に生物学的時間の 不可逆性を中心に論じている。ここではそれをホワイトヘッドの形而上学における時間論の一解釈として ルイス・フォードが提唱した「時の逆流」の理論と架橋することを試みたい。後者については 遠藤弘「時の逆流について」(1984)で紹介と批判的な解釈が既に為されており、ここで試みるのは 正確には、フォードのオリジナルの理論との架橋ではなく、遠藤によって意識の場に移して 再解釈されたバージョンとの架橋である。
もともとのフォードの枠組みでは永遠的客体と神(前者は当然だが、後者もまた、あくまで ホワイトヘッドの理論の中でのそれであることは言うまでもない)を不可分のものとして 論じているのに対し、遠藤は「今日ホワイトヘッド形而上学の修正が行われるべきであるとするなら、 (...)意識の起源に関する理論を現象学的に深化することの中にこそ修正のひとつの方向が見出される べきであろう(...)」(p.26)と自分の立場を述べ、更に「時の逆流」についても、「だからしてフォード氏の議論に 関しても筆者はそれをまず意識の場に移し、神を引き合いに出さずとも氏の未来解釈が成立することを 論証してみせ、結局、氏にとって不都合なかかる結果が生じた理由は、氏の創造性の概念の抽象性に あることを指摘した。このことは、要するに、氏の議論が意識の解明に役立つ限りにおいて、 筆者はそれを受け容れるということを意味する。」(ibid)としている。
上記の再解釈の方向性は、私自身のそれでもあり、プロセス哲学の枠組みにおいて為された上記 論文の提案に添って、一旦プロセス哲学の文脈から離れた場面において「時の逆流」説の妥当性を 確認することが自分の課題であった。実際にはアトランの論文は遠藤の論文に先行して書かれており、 30年後にその両者を突き合せることが学問的な新規性を持っているとは考えていないし、 一般的な意義を持つと考えているわけでもない。それは領域によっては既に当たり前のことに なっているのかも知れないし、他の人にとってはどうでもいいことであろう。しかしながら 私にとっては「時間と不可逆性について」の記述は、上述の自分の課題にとって少なからぬ 意義を持つものであった。従って、ここでの議論の整理はあくまでも私個人のためのものに 過ぎないことを予めお断りしておきたい。
上記の遠藤論文の末尾では、「時の逆流」の説明にとって神は部外者にとどめうることを 述べた後、「ただし永遠の客体を思い描く神を想定するか否かは別問題である。」という 文で結んでいる。ここでのフォード説の修正に対して私が感じていた疑問は、いわば神の かわりに永遠的客体の役割を重視するのだが、その永遠的客体の方が神の「原初的本性」と して抱握されることによってしか現実に存在しえないのでは?つまるところ、神が 「新しさ」を可能にしていることには違いないのでは?という点にあった。
プロセス哲学の文脈に限って一点だけ言及すれば、PR250(以下、Whitehead, Process and Realityからの引用は、プロセス哲学の分野での慣例に従い、 PRの略号の後にFreePress版のページ数をつけて示す。)にあるように、 神の創造的行為の性格描写を承認すれば、「新しさ」と密接な関わりを持っている 観念的逆転の範疇は説明の道具立てとして不要となり、廃棄されることになってしまう。 一方で、永遠的客体は、「神」を介してやってくることになり、神の身体=世界= 有機的システムといった描像が得られることになるのだが、それよりは神の創造的行為の 性格描写の方を不要とし、観念的逆転の範疇による説明のみで済ませることはできない だろうかということになる。
ホワイトヘッドの永遠的客体はそれ自体が、プラトンのイデアの自然主義的な再解釈としての アリストテレスの内在形相を、更に実体よりも過程を優位におく立場から捉えなおしたという見方が 可能で、そうした視点からは、現実的実質が生起する際に帯びるパターンとしての機能が 重視されている。しかもそれは潜在的なものであり、「ある一つの現実的実質への進入において、 永遠的客体は、不定に多様な進入の諸様相という可能性を持ちつづける。」(PR149) ところで、永遠的客体が現実的実質に進入するといわれるとき、それではその潜勢態としての 永遠的客体は一体「どこから」進入するのか、という素朴な疑問を呈することができよう。 そして上述の通り、ホワイトヘッド的な意味合いでの「神」がこの問いに対する答えとなって いるようなのだが、ゆらぎからのパターンの創発の機構の解明が進んでいる現時点において、 この点において更なる自然主義化された解釈を永遠的客体に対して施すことができるし、 またそうすべてきではないかと思われるのである。
プロセス哲学の研究者でない私がこの問題について答えることは身に余る難事であり、 それ自体を試みようというわけではないが、プロセス哲学を現実を説明するための 際立って優れた体系として、いわば外から眺める立場にある者にしてみれば、 「永遠的客体」自体についても再解釈を施すことが許されるのであれば、上記の疑問が 解消されるのみならず、一般に「永遠」というものを考えるにあたって、「神」のような 超越的なものにその根拠を求めることをせず説明をすることの可能性を追求しようというわけである。 そしてそのときには「永遠」という言葉自体の意味づけそのものも変化することになるだろうし、 一方で「客体的不滅性」の「不滅性」についても同様に、或る種の極限概念として、 時間を超越したものではなく、時間を通じて漸近的に実現されてゆくものとして捉えなおす ことになるように思われる。
上記のような方向での議論を成立させるための鍵は、無からの創造ではなく、カオスからの創造による 自己組織化の具体的な機構を「時の逆流」を可能にするための機構として適用することにある。 それは例えば、遠藤の同時期の論文「レヴィナスとホワイトヘッド」に おいて、レヴィナスの概念を援用しつつ「時間の根拠とは、無限の彼方の存在の一吹にすら備わっているはずの 主体性であり、生成する意識的主体性にとって推移のさざなみを形成する有(il y a)の非人称的ざわめきである。」 と述べている点に関係しており、「ゆらぎ」、「ノイズ」をメタファーとしてではなく、数理を備えた機構として扱うことを 意味している。更にまた、情報論的にホワイトヘッドを読んだらどうなるのかということを問うてみても良いだろう。
アトランも「時間の不可逆性について」で触れているが、ベルクソンやシェリング、ショーペンハウアーといった 観念論的な哲学者たちも、自然に対して働く(場合によっては「盲目の」と形容される)無意識的意志の力を 重視してきたものの、それらでは不十分なのだ。反射行動と意識的な計画的行為の対比は粗雑過ぎるし、 ベルクソンの「知性=機械的/本能=器官的」もまたそうだ。力点は、それらが「生気論」等と同様に、 物質を組織する別の原理として生命を想定しているのに対し、ここで必要とされるのは、単純な観念論でも 唯物論でもない、物質が自らを組織化することにより心的なものが、遂には意識が発生するという視点であり、 それを可能にする自己組織化プロセスを支配する法則である。
アトランが「時間の不可逆性について」で述べるように、自己組織化過程における偶然の役割を考慮することにより、 時間の不可逆性の問題を、ひいては「時の逆流」の問題を、進化の過程において適応の戦略の一つの選択肢として 意識を備えるようになった生物体における意識の次元における問題としてを扱うことが可能になるのだ。 既に「ホワイトヘッドにおける有機体と場」において、理論物理学における「対称性の破れ」を ホワイトヘッドの形而上学で扱うことを遠藤が試みているが、意識の起源といった水準において 結局、神を要請することなく、神なしで済ませることができるためには、自己組織化の機構を扱う必要が あるのではなかろうか。 自己組織化の機構こそ、神を必要とすることなく「時の逆流」を説明するための場を提供するのだ。
参照する主な文献は、遠藤弘の3つの論文、「時の逆流について」(1984)「ホワイトヘッドにおける有機体と場」(2000) 「レヴィナスとホワイトヘッド」(1985)、 アトランの「結晶と煙の間」(1979)の第5論文「自己組織化システムにおける意識と欲望」、そして、 今回の一連の思考の導きの糸となった第6論文「時間と不可逆性について」である。 アトランとホワイトヘッドを架橋するにあたり、ヒンティッカが現象学における志向性を、可能世界意味論をベースと した内包性として定義した画期的な論文「志向性と内包性」を参照し、また志向性や永遠的客体といった概念が 含み持つ目的論的な含意に関連して、ヨナスの「生命の原理」を参照する。
やや周辺的になるが、ヒンティッカの「志向性と内包性」の可能世界論による志向性の説明や、 ギブソンのアフォーダンスの理論も、「突破」してみるときれいに今回のテーマ系の中に位置づけることができる ことが確認できた。ヒンティッカが実はギブソンの理論を知って書いていることは注でも確認でき、これは 納得がいく。ホワイトヘッドの文脈だとtransmutationという範疇に大きく関わる点である。) 非平衡熱力学における「ゆらぎによる秩序」(プリゴジーヌの「散逸構造」)や進化における突然変異、 エラーによる情報量の増大といった議論もまた、共通の展望の下に位置づけることができるだろう。 ルネ・トムのカタストロフィー理論もまた、グラディエント系限定であるとはいえ、ある種の相転移現象を、 更には形態発生の問題を扱っているので関係はある。
一方で、マーラーの音楽と、それを扱う際にアドルノが用意した範疇のうち、特に「突破」(Durchbruch)を 中心に、その範疇に再解釈を施すことにより、マーラーの音楽の時間性をより適切な語彙で記述する ための手がかりが得られよう。そしてそれは第8交響曲の第1部における「創造性」の到来の問題や、 第2部のファウストの再生に象徴される心性の蘇生についての問題、一般には作品の「内容」と見做されて 区別される層ともまた関連づけられる。
出発点として、マーラーの音楽を聴くような意識を備えた有機体を考える。それ自体が複合的な存在であり、 「自分」の「中に」既に複数の出来事の同時的生起があり、従って複数の時間の流れがある。 このような複合的な存在が「時間を測定する」というとき、それは複数の時間の流れのうちの、焦点化されて いない、いわば背景をなす生起の時間、つまり測定対象とは別の存在の時間によって測定を行うことに他ならない。
生成における永遠的客体(eternal object)の典型例として、感覚的質が挙げられる。感覚的な質とは、 ニューラル・コンピューティングを始めとするコンピュータ上に実装される分類器(プログラム)に依存する分類パターンに 他ならない。この分類パターンは教師つきであれ、教師なしであれ、学習によって獲得され、学習を重ねていくうちに 少しずつその地形を変える。学習によって形成される地形はいわばsuperject(自己超越体あるいは隔体)と 見做しえ、それは無時間的な分類パターンとしての質である永遠的客体(eternal object)が浸透したものであるが、 それが次の分類という現実的実質(actual entity)を待ち受けている。
意識現象は既知のものに対するものであるから、 それは幅のある「現在」に含まれる直前の過去がsuperject(自己超越体あるいは隔体)として客体的不滅性を 獲得したもの、つまり存在として現にあることの意識に他ならない。 分類器はコンピュータのメモリ上に形成され、その状態が保持される。記憶は物的にはヒステリシスを示す物理現象に よって可能になるが、コンピュータでは媒体として磁性が用いられていることになる。従って、現在の「私」とは、 過去の変化の結果としてのメモリの状態の記述に他ならない。
してみると記憶には二種類があることになる。つまり直前の現在の短期的な記憶としてのそれと、現在には含まれない、 通常の意味合いでの過去を回想するときに参照される長期的記憶である。フッサール現象学では、前者を第一次記憶、 後者を第二次記憶と呼び、更に前者については「把持」という用語を用い、一般的な意味での過去の「想起」とは 区別する。このとき過去の「想起」とは、過去の第一次記憶である「把持」の想起でもあるが、他方で、別途把持している 現在があり、過去の把持を改めて生きることはできない。つまり、過去の「想起」とは、現在の把持を行い、その把持による 影響の下、変様を蒙った過去の把持の継起的連続を展望することに他ならない。想起は長期的なものであり、 睡眠による中断や失神のような意識の断絶を隔てても可能であり、それゆえ自己同一性の確立にとっても重要なものである。
ところで第二次記憶が生じるためには、現在の把持の領域の外に過去の出来事が一旦追いやられる必要があることが わかる。端的な言い方をすれば、思い出すためには一旦忘れる必要があるのだ。従って、一旦忘却したものの想起による 再認が、無時間的な現在から時間的な過去への、非人称的な匿名の把持から、自己の把持したものの再認による 自己同一性の認識のためには必要であることがわかる。
認識にはエラー、誤りがつきものであるが、第一次記憶の把持におけるエラーは、事後的な反省によってしか気づかない 種類のものであり、いわゆる錯覚が該当する。他方、第二次記憶の想起におけるエラーには、有名なリベットの実験によって 示された時間順序やタイミングの認識の無意識的な編集作業による(原則としてはそのような実験を介さない限り)意識が 知ることのないものを意識にとってのエラーではないとして除外してしまえば、想像力の介入による記憶の加工や変様に よるものである。だが実際には、想像力の介入の結果がエラーと見做されるかどうかは事後的にしか判定できないことに 留意しよう。あるものと過去にも認識したものと「同じ」である再認することは、必ずしも文字通りの「正確」な「同一」を 確認するための厳密な一致照合を必要としているわけではない。それが誤認の原因となるリスクと、誤差を含めた差異を 含む情報の中から、「同じ」ものを同定する能力は必ずしも完全ではないにしても、表裏一体の関係にあるのは間違いない。 情報の欠落が確率的な事象だとすれば、寧ろ「同定」の能力は、エラー補正のための情報の加工の能力に依存する。 総じて一般に、二次的記憶の想起にあっては、それが「正しい同定」をもたらすものであれ、誤認を結果するものであれ、 或る種の変形・創造が必要となる。認識対象が或る種のゲシュタルト(音楽における旋律は、エルンスト・マッハ以来 その典型例とされる)であるような高度な認知になればなるほど、その度合いは高まると言って良い。
以上のような事情で、例えば音楽における旋律の再認による同定の条件としては、(1)第二次記憶の想起の 事前条件としての忘却、(2)ノイズ等による情報の欠落に対する頑健性としてのエラー補正のための変形の能力が 必要であることになるが、(3)更に、一部の差異を含む情報に対して、正確に同一でなくても「同じパターン」であるという 分類を行うための予期のための能力もまた必要とされる。二義的な解釈が行えるようなパターンが与えられた場合には、 選択は必ずしも様々な脈絡の量的な累積に対して線形ではなく、ゆらぎによって一気に一方のパターンの選択が 起こるが、これは対称性の破れが起きる相転移現象の一種と見做すことができるだろう。
ここでの予期は、想起と対称的に、現在の広がりにおける 未来把持ではなく、過去のパターンの蓄積や、現在の様々の脈絡の中で将来起きることを適切に予測するための 能力であり、目的論的な説明が行われるようなものである。過去のパターンや現在の脈絡は、或るパターンを 選択するための誘因となり、そこには嗜好や忌避といった情動的な傾向性も含まれる。予期のパターンの地形が 形成されるに応じて、継起する事象に対する意外性や、充足といった情動的な反応が形成されるようになる。 現実的なものの単純な感受ではなく、潜在的な可能性の中からの選択、抽象的なパターンによる相空間における 可能性の濃淡によるポテンシャルを表現したベクトル場の形成といった能力を前提としている。 総じて、マーラーの音楽のような複雑な構造を備えた作品の聴取は、命題的感受と同等の、意識の存在を 前提とした複雑な抱握の過程を前提としていることは間違いない。それが単一の現実的実質ではなく、 それ自体複数の現実的実質による結合体であることは確かなことであろうが、単にそうであるばかりではなく、 仮想的に、それを経験することにより、或る種の特異な時間性の経験を可能にするように構成された、 それ自体が自己組織化していくような有機体と見做すのが適切であるように思われる。
アフォーダンス・可能世界と永遠的客体
感受のための誘因(lure for feeling)があるような、つまりホワイトヘッド的な命題の感受が可能な 主体は、フレーム問題に悩むロボット(デネット)よりもアフォーダンス知覚によって動き回る ロボットにより近い。
ギブソンのアフォーダンスをホワイトヘッドの形而上学の枠組みとすり合わせることは可能であり、例えば、ホワイトヘッドの 「変異」transmutationの範疇における永遠的客体との対比における一なるものとしての結合体としての世界の知覚によって 質による物的実体の限定が起きる点と、ギブソンが「ゲシュタルト」の知覚の説明を出発点としていた点に並行性が見られる。
一方で、ヒンティッカによる(「志向性と内包性」(1975)における)志向性の定義との比較は一層興味深い。実際には ヒンティッカもギブソンを参照しており。知覚の情報としての性格の強調をしている(「志向性と内包性」の第9節「知覚に関する真の現象学」を 参照)。informに関しては、PR241の「永遠的客体が或る感受に「形相付与」するとき、、、」以下とも比較してみるべきだろう。 それらを手がかりに、ホワイトヘッドを情報論的に読み直す可能性が開かれるであろう。
ヒンティッカによれば、志向性は世界の内部で成立する関係に関わるものではない。志向性の本質は、 さまざまな可能世界のあいだの比較に存する。(ゆえに驚きをもたらす。) 概念はそれがさまざまな可能世界からの関数であることによって、本質的に志向的なのである。 内包的対象を現実の世界への住人へと不当に物象化してはいけない。 志向性は世界内的対象にも世界内的関係にも物象化できない。世界交差的比較である。
ヒンティッカの可能世界意味論による志向性解釈における志向性の内包性としての解釈、その中でも 可能世界をいわば引数とし、概念を返すという関数としての内包性の定義は、遠藤が「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」で 指摘するホワイトヘッドの多世界論との対比を行うことができるだろう。 また、ヒンティッカの議論における「比較」は、ホワイトヘッドのいう対比、否定 (それらは意識のレベルでは必ず存在する。)、そして「命題的感受」の一種としての想像的感受などとも関係するだろう。
遠藤も指摘するとおり、ここでの可能世界は、量子力学におけるそれのような多くの主体への積分の分散としての 多世界論とは異なり、一つの主体が多くの半影を思い描き、多くの世界を思うのに近い場面の議論である。 そしてこれが感受の誘因をなす、というのは地平としての可能世界の機能と同一視できる。さらにヒンティッカによれば、知覚的個体化は意識的に制御しえない要因によって規定される。 知覚的個体や知覚的与件は、記述的に交差同定される個体の構成に対する「質料」を提供する。 「質料」は可能世界の集合であって、感覚的な生の素材ではない、とされる。 ここで改めて、「レヴィナスとホワイトヘッド」における「超越」を思い浮かべ、また、アトランの自己組織化の議論に おける「偶然」の、ノイズの役割を思いかべることもできるだろう。
いわゆる「事象様相」(de re)と「言表様相」(de dicto)区別とその関係について、 可能世界意味論は明快な説明を与える。一方で、志向性の理論にとっては或る種の 困難さをもたらしている。原子的な知覚から出発すると、それが本質的に事象様相的でしかありえず、 形相に対する質料(フッサール的にはヒューレー的与件)を感覚的な生の素材のみに限定して しまうが故に、現実の知覚がすでに過去の経験や未来の予期によって条件づけられた過程により 範疇的に構造化されており、「~についての意識」という構造を支えているものを見失ってしまう。 知覚が志向的であるためには、それは既に情報的なのである。 ヒンティッカは自分の議論が「命題的態度の対象である記述的に個体化された対象の集合」の 水準でのものであると明言しており、これはプロセス哲学的には「命題の感受」の水準の議論、 いわゆる「象徴的関わり」(symbolic reference)についての議論をしていることになる。 一方でフッサールの議論の持つ曖昧さや揺れを肯定的に解釈するならば、遠藤がレヴィナスの 享受の概念について述べているのと並行的に、「敢えて表層から深層を垣間見ようとする」「現象学者 としてのひたむきな態度」(pp.16-17)をそこに見出すことができるだろう。
一方で、可能世界の可能性の「色合い」を論じることは勿論可能である。現実の知覚がすでに過去の経験や 未来の予期によって条件づけられた過程により構造化されているということは、現実の知覚においては、 単なる論理的な可能性ではなく、そうした過程によって動機付けられた可能性が制約ということである。 そしてその可能性の根拠は、身体への記憶の沈殿と他者経験の痕跡、そしてそれらによって条件づけられた 反応や未来に向けての予期のパターンの回路に求めることができるだろう。 特徴の重み付けは価値付けを伴う。津田も渡辺慧の醜いアヒルの仔の定理を引きつつ述べているように、 形や色といったカテゴリは「先験的」ではない。(津田p.75注釈)世界は主体的形式として予め価値付けされているのである。
身体性の他性と近さ
そもそもsuperjectは内在化できないから完全な我有化はなく、外性は燃え尽きずsuperjectとして残っている。 それが自分の内側の「他者の声」であり、トーテムとしての主体性の限界であり、そこから「メガホン」としての主体、 ~が私に語ることの受動性が生じるのである。
「抽象」の結果としてのEternal Objectはどこにある?superjectに埋まっている。 自己の身体に埋まっている。「記憶」として。「想起」は高度な有機体にのみ可能である。 記憶は主体が内部に抱えているsuperjectであり、パターンとして見ればEternal Objectが浸透している。
外性は充実によるsuperject(既にeternal objectが浸透していて、選択は生じている) が次の抱握を前提するときの全くの受動性の中に現れる。 同時的主体の抱握は不可能。他者は過去の抱握をもって志向する。 (一般には過去とは思っていない。存在の過去性。) 過去のsuperjectを現在の部分として擁している。それに対して受動的である。 「充実」は時間の連続性の分断であり、概ね受動的である (これはAdornoのマーラー論における「充足」の範疇の解釈と突き合わせが可能だろう。)
「否定」の超越の(間接的な)感受は経験できないことの背後での感受であり、 他者の出現の場そのものである。 それは自己の外性の内在化によらざる体験であり、 例として、身体的事象のsuperject(内在化できない)をobjectとしてではなく捉える経験、 具体的には自分の脈拍の推移を感じるような「移行」の経験があるとされる。
「現在化された場」(presented locus)についての議論を振り返ってみよう。 まずは指示的感受から。
意識的生起特有の指示的感受が同時的生起への関わりを限定する。 指示的感受は、過去における無数の生起が投げ出すsuperjectを、現在から過去へという 逆のベクトルによって感受する機能である。 われわれの意識は、指示的感受によって現実世界と関わることを通して、地平に内属する 身体の同時的生起と交差することになる。
身体が個別化の原理となっている点にも留意しよう。同時的な他者は互いに無関係で内在化できない。 一方ではelbow roomがある。それは私的な領域で、自発性(→自由へ、偶然性へ)、個別性の根拠である。 elbow roomは知覚の地平とみなすことができ、ホワイトヘッドにおける「持続」の定義に関わる。
してみれば、身体は(内在化できないが)寧ろ「近い」のだ。それは「裏側」のようなものだ。意識の「背後」。 自己の中を降りたところに存在する「後ろの部屋」。 中に降りたところに「他者」が住んでいる。いわば私そのものが他者で形成されている。
ホワイトヘッドの体系の中で、神の自然的本性は自己の身体としての世界であったことを 思い浮かべよ。或る種の極限概念としてそれを考えるとすれば、、、
新しさ・ポテンシャリティ・命題について
ホワイトヘッドの形而上学において、新しさの根拠は「否定」、観念的逆転の範疇に求められる。 一方で、レヴィナスにおいては未来は配慮・投企を超えたものである。(これはデュピュイの「賢明な 破局論」における未来、予測不可能でリスク対策ではないような未来の要請に適合するだろう。)
否定、反実仮想、想像といったものには、永遠的客体(Eternal object)の半影(penumbra)が関わっている。 それは意識のような高度なactual occasionの場合に成立するものとされる。
「複数の与件は永遠的客体を含んでいるが、与件の周辺には実現されなかった 永遠的客体が半影(penumbra)のようにつきまとっているというのが ホワイトヘッドの命題論である。 高度な生起になるにつれてこの半影の部分を多く取り込んだ主体的形式howが 形成される。意識的生起の場合は半影の部分にのめり込むことさえある。 それが想像の世界への窓を開けることである。 実のところ、半影は過去の生起と潜勢態とがコントラストをなして、 感受のための誘因(lure for feeling)として機能する。」(遠藤「ホワイトヘッドにおける有機体と場」)
それにしても否定の起源は何だろうか?無の認識、非現実, caulsal efficiencyの中断といったものを 考えなくてはならない。キーとなるのは、物的極に対する心的極の優位であろう。
超越と自己超越体(superject)について
現実世界の要素であるsuperjectをどれだけ多く矛盾なく感受するかによって 直接的生起の強度(intensity)が決まる。 superjectは感受に対する客体的誘因(objective lure)としての在り方をし、 その誘因が豊かであればあるほど現実世界の秩序の度合いが高いと見做される。 (PR89)(遠藤「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」)
みずからは消滅することによってかえって他を触発するという力能を身につける というのが生起という微少プロセスの特徴的な振る舞いである。 これをホワイトヘッドは過去の生起が自らを超えて投げ出すという意味で超越とよび、 自らを超えて投げられる当のものをその過去の生起のsuperjectとよぶ。 過去は過去となることによって、自らをsuperjectとして外化し、感受されることを待つ。 superjectにはこのようなある意味で受動的な創造性が秘められており、 これが次に来る新たな生起の感受を誘発する。 ホワイトヘッドはこの創造性を超越的創造性(transcendent creativity)と呼び(PR87)、 生起が与件を統合して自己生成する創造性から区別している。(遠藤「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」)
超越は二つの生成の間の間隙を越えるだけでなく、可能的世界を事実性によって 限定することを通して現実性から可能性としての永遠的客体へと越えることである。 大地としての可能性から公共的superjectが立ち現れるということが超越により もたらされる。。(遠藤「時の逆流について」)
外性に相当するものは、第一に充実によるsuperjectがつぎの抱握を前提とするときの 全くの受動性の中に現れるように思われる。 未来の本質は存在するものの終焉への存在にあるのではなく、脱自的に他者に 向かうことの中で、自らをある受動性へ投げ入れることにある。(遠藤「レヴィナスとホワイトヘッド」)
対称性の破れ
対称性の破れ(symmetry breaking)は、臨界点を交差して系に作用する(無限小に) 小さな揺らぎが、系の分岐の方向を決定する現象である。 揺らぎ("雑音")に気付いていない外部観測者にとって、分岐の選択は恣意的に見える。 そのような遷移は系を無秩序状態から分岐の中の一つの状態に決定するため、 この過程は対称性の"破れ"と呼ばれる。 無秩序は系の小さな変動がその全体の外観を変化させないという意味でより対称的であるので、 その対称性は"破れる"。 対称性の破れは、パターン形成において主要な役割を担うと考えられている。(Wikipediaの記述より)
南部・ゴールドストーン量子の役割が変換によって生ずる永遠的客体のそれに相当する ように思われる。ダイナミックな秩序が形成されるとき、自発的に場の対称性が破れて、 結合体の要素が自由を失うと語られるのは、主体的形式によって結合体の要素が一定の 秩序のもとに拘束されることを意味するだろう。(遠藤「ホワイトヘッドにおける有機体と場」)
パターンとしてのeternal objectは考えられてもゆらぎとしてのそれを考えることはできない。 ゆらぎはパターンに反するものであり、それ自体目的化することができない。 寧ろゆらぎはsuperjectが内包しており、ゆらぎのある場にeternal objectがingressすることで 対称性の自発的破れが起き、相転移が生じて秩序形成がおこなわれる。
「時の逆流」について
時の逆流の経験は、単なる想起ではなく、想起と想起の瞬間にも感じられる「推移」の経験であり、 寧ろ、「今」現在の推移と想起の時間との間の断層の深さを覗き込む経験である。 それは今の定位の困難さの感受であり、時の隔たりのベクトル性の感受でもある。
不確定から確定へ、根源的現象から過去把持への推移(cf. Nicholasの「パルジファル」セミナーでの 未来完了の説明)、未来と現在との接点での永遠的客体の「進入」(ingression)が契機となる。
物的・心的と2つの時間との対応は、
ところで、物対物/物対心/心対心は連続的なスペクトルにおけるプロトタイプの如きものに過ぎない。 極限概念としての純粋な心、純粋な物は不可能である。 そもそも物と心の区別は概念極の働きの度合いによるものである。 有機体の連続性が時の逆流の強度のようなものに相関するだろう。
「時の逆流」は永遠的客体との関わりの中で心性の中で成立するものとされる。 意識のみではないが、優れて意識において、より正確には意識の生成の場において可能なのであり、 どんな有機体でも同程度に生じる訳ではない。
生起の自己生成は目的論的であるといわれるのは、この誘因に誘われて統合の 諸主体的形式を決定するための生成の諸位相を生き抜くからである。 与件の範囲、主体的諸形式などが確定的になったとき主体は蒸発してsuperjectとなる。
永遠的客体の働きについて、フォードは働きがないと見るが故に、これをまとめる現実的実質として 神を考え、いざないという消極的なはたらきですら神の現実性を通して行うように仕組んだ。 永遠的客体が不活発であるとすれば未来そのものも不活発であり、永遠的客体を決定づけるのは 現在であり、未来はその決定をまつのみとされる。(遠藤「時の逆流について」 p.33参照)
それに対し遠藤は、フォード的未来が要求する未来的存在の条件は無時間的実質が備えているとする。 フォードの内含的生起(inclusive occasion)では、superjectからsuperjectへの推移そのものの感受がなされていた。 生成の時間は推移の時間に逆流する。 生成の順序は規定作用の諸位相の継起であり、それの末端は、それがもっとも確定的で あるがゆえに、過去へ収斂する。 不確定から確定へという流れは根源的印象から過去把持への移行の中に認めることができる。 永遠的客体はsuperjectの中にすでに浸透しており、仮に感得が物理的事象のごとき 単純自然的なものでも、それはそこに浸透している永遠的客体の選択の結果に他ならない。 時の逆流は永遠的客体との関わりの中で、心性の中で成立すると考えるべきである。 未来の特殊化は意識の生成の中で背景を形成している諸事象の死としての自己疎外を 体験しつつ、その意味でそれらの事象の心性の滅した未来を体験しつつ全体としては 永遠的客体との関わりが不確定から確定へと進む、心性の甦生への歩みである。(遠藤「時の逆流について」参照)
目的因および「実体形相」と「生きている形相」について
以下は、ヨナス「生命の原理」(邦訳:細見和之・吉本陵訳「生命の哲学 有機体と自由」, 法政大学出版局, 2008)による。
「歴史的には目的因の否定はアリストテレス主義に対する大規模な闘争の一部であって、この闘争とともに近代科学は登場した。 この連関において、目的因の否定は「実体形相」への攻撃と密接に結びついていた。」(p.59)
「変化可能性とは本質的に不安定性にほかならないのであって、そのことがすでに、 あらかじめ規定された「実体形相」の不在を証言しているのである。」(p.80)
「「生きている形相」(die lebendige Form)は、物質のなかで、大胆で特殊なあり方をしている。 それは逆説的で、不安定で、不確実で、危険で、有限で、死に深く結びついたあり方である。」(p.10) 形態化可能性(Formbarkeit)は不安定性であり、その不安定性が創造的なものとする。 例えば遺伝子の複製における突然変異をヨナスは例としてあげる。 「突然変異が有害か無害かは、もっぱら事後的に、自然淘汰という籤引きにおいて外部から決定される。」 「生命の「高い」形態は、「低い」形態から生じた、それ自体では退化と区別のつかない異常な変種である。」(pp.87-88)ヨナスは「主観性の擁護」を試みているが、その議論は成功しているとは言いがたい。(ここではヨナスの議論の批判を することが目的ではないので、これ以上は立ち入らないことにする。必要なら稿を改めるべきだろう。) それにしても、なぜ意識が必要なのか?意識が随伴現象でないとしたら、意識は何の役にたっているのか? 寧ろ意識などない方がいいのではないか? 反射行動と意識的な計画的行為の対比は粗雑過ぎる。 ベルクソンの「知性=機械的/本能=器官的」はあまりに粗雑だし、それを出発点として メタファーの濫用を行う類の振る舞いはそれ以上に粗雑だ。 無意識的な暗黙知による自己組織化のレベルを設定する必要がある。 だが、そうだとしたら、その上で意識は何故必要で、何の役に立っているのか?
自己組織化による「時の逆流」の説明
以下はアンリ・アトラン「時間の不可逆性について」(in 「結晶と煙のあいだ」第6章, 阪上脩訳, 法政大学出版局, 1992)による。
主観的知覚の観点から、時間の一種の逆転の経験をする状況として、意識的意志の結果としての行動によって 目的の達成するとき、一連の出来事は最終目的によって決定されているように見えることが指摘される。 ユダヤの警句に曰く、「現実の終りは考えのはじまり」。 しかし、アトランは時間の逆行に2種を区別し、上記はその第1の種類に過ぎない。
熱力学第2法則によるエントロピー増大によって定義される時間の非可逆性に対して、生物個体の発達、 種の進化は時間の一種の逆行と見做しうる。しかしこれは熱力学第2法則と矛盾しているわけではない。 エントロピー減少は、開かれたシステムにおいて、システムと環境との相互作用においてしか生じない。 システムが外部から受け取るものがシステムにとって既知のものである場合、複雑さの増大はなく、 自己組織化も生じない。偶然のもの(ノイズ)である場合、システムは破壊されたり、崩壊したりする 可能性もあるが、一方で複雑性を増加させることで反応することもでき、この場合には自己組織化が 行われている。偶然、無秩序は創造的要素を構成しており、新しいものを生み出す。
生物学的適応の観点からすれば、変化する環境に適応するために、計画的で目的性のある方法で 環境に働きかけ(反応し)なくてはならず、我々は我々の行為の結果を前もって知る必要がある。 方向づけられた時間は行為の目的性にとって必要であり、時間の不可逆性は、ここでは物理学的な 法則の水準とは別の水準で、生きていくための機構として要請されていると考えることができる。 環境を変える予防行動を媒介とした環境への適応予防行動は因果律に基づく。 意識的意志のプロセスでは真に新しいものは起きない。「太陽の下に新しきことなし」であり、 自由意志の感情は幻想である。ただしそれは、あくまでも生物学的適応の手段としての意識の水準での 議論であることに注意する必要がある。或る意味で、予知が完全なら自由はないというのは意識の自縄自縛 に過ぎないのだ。
一方、自己組織化システムでは、過去の意識的知識に基づく因果的決定論だけではなく、無秩序と偶然が伴い、 そこには真に新しいものが現れる。新しいものの創造と安定化のプロセスであり、予言不可能であり、 意識の結果ともなりえない。R.エリアフ・ウィルナにおける人間の魂と時間のカップリングの諸相においては、 (1)意識的知性は過去 (→記憶、過去の(再)現前)、(2)情意は現在、(3)身体ともっとも近い無意識部分は 未来につながっている (→無意識的願望)とされる。
「一見目的があるようにつくられ、意志の結果であるような(その意志について何かを知らせて くれる人はいない)現象を観察すると、当然との想定される意志を神または造物主の意志と みなしたくなる。今まで我々が見てきたことは、なぜこの仮説が必要ないかを示している。 なぜならば、いかにして物質が自己組織化の場になりうるかを理解しはじめているからである。」(邦訳pp.179-180)
神は不要である。後成説的発達に際して時間の逆流が可能となる。 個体性は意識的意志から生じるのではなく、神の意志から生じるのではなく、 仮プログラムと環境との(非決定的な)相互作用によって生じる。 更新する存在の継続的プロセスは、すでに起きたことよりも、未来に起きるであろうことによって決定される。
崩壊=再組織化によって絶えず変化していくことは、死を含んでいる。 「無秩序を探し出し、破壊し、存在しないようにするのではなく、秩序自身のなかに含まれるようにする」 時間の推移、破壊者の通過は、そこでは創造者となる。
アトランはシャノンの確率論的な情報の理論を出発点に取り(ということは統計熱力学的なエントロピーの理論とも 関連を持つということに他ならないが)、複雑性と多様性、交錯、秩序、冗長性との関係を明らかにしていく。 この観点からは、複雑性とは否定的概念であり、未知の法則性による秩序であり、対象となっているシステムを 細部にわたるまで知らないことを知っているということを表している。 複雑性は、まずもって対象の多様性の認識であり、ついで無秩序を表し、更に冗長性に関する知識の欠如の測度である。 アトランの複雑性についての議論における観察者の役割に注目すると、複雑性の議論には様相の 議論との並行性が見られることに気づく。言表様相(de dicto)と事象様相(de re)の区別は、 ここでは、系そのものの持つ複雑さと、系を観察するものにとっての複雑さの区別に対応する。 プリゴジーヌの<ゆらぎによる秩序>は組織化的ノイズによる秩序と区別されなくてはならない。 後者はよく理解されていないシステムの確率的表現の原理である。
ギブソンのアフォーダンスは、或る意味で、知覚のシステムが「閉じていない」 内部にモデルを持つのではなく、世界そのものをモデルとしていることを告げているが、 この点をアトランの議論を突き合せてみる必要がある。更に熱力学的に解放系であったとしても、 組織化の法則が系の内部にあり、情報的に閉じているように見えるというマトゥーラナの 「オートポイエーシス」についてもそうだし、自己組織化システムたる「私」の自己言及性に ついても同様である。総じて、観察者が同時にシステムの部分であるようなケースにおいては、 どの観点を優遇するかによって、一見したところ相互に矛盾するような結果が得られることになる ことに注意しなくてはならない。
ヨナスも言うとおり、永遠の喪失は理念と理想の喪失でもあったが、ここで「永遠」の意味合いは変更せざるを得ない。 これはパウル・ツェランの「投壜通信」(Flaschenpost)への言及を含むブレーメン講演において、 時間を超えて、ではなく、時間を通って詩は届くと述べているのに対応する。 従って、ホワイトヘッド形而上学における永遠的客体(Eternal Object)そのものの再解釈が必要なのかも知れない。 まずそれは無時間性という意味合いを持ち、更に潜在性(potentiality)という意味合いを持つとされる。 ここまではWhiteheadそのものにおいてであるが、更に無時間性を、時間を「通って」に変更する試みが必要なのだ。 それは一旦否定されたアリストテレスの「実体形相」の再解釈とパラレルなのかも知れない。 永遠的客体(Eternal Object)も創造され、potentialとして思い描かれるのだ。それが最も顕著な例として、 数学者の、理論物理学者の冒険をあげることができるだろう。 それは更に形態形成、パターンの発生、とりわけベイトソンにおけるそれに通じているだろう。
個別の経験を超えるものだが、天空のどこかにある「イデア」ではない、極限概念としての永遠的客体(Eternal Object)の 自然主義化が求められており、「客体的不滅性」もまた、そうした意味での永遠的客体に引き寄せて再定義しなおす 必要があるだろう。そしてその時、「作品」概念自体、superject(自己超越体)として、表現(express)を通して、 後続する諸生起に分散(diffuse)する超越的創造性との関連で捉えなおすことが可能になるだろう。マーラーの 「作品とは作者の抜け殻に過ぎない」という言明、世界の構築としての交響曲作曲は、こうした文脈に置かれたとき、 単なる比喩ではない、否、それどころか事態を直観的に把握した正確な記述であるとさえ言いうるであろう。 「作品」はいわば増殖する時間を「プログラム」したものであり、「作品」を経験することは、作品にプログラムされた時間の 増殖のパターンを感受(ホワイトヘッド的な意味合いで)することに他ならない。
「作品が作者を超えて不滅である」という言明は、プロセス哲学的には、superjectの受動的な超越的創造性として全く自然な 解釈を施すことが可能であるが、逆にそうしたsuperjectに刻印されたパターンがある時には順応的に、ある時には変形を施され、 ある時には否定的に感受されるプロセスの連鎖によって、いわば漸近的に「永遠性」「不滅性」を目指すことが可能になるのであろう。 選択されえたかも知れない潜在的パターンの多様性というのは、パターンの選択が行われた時点から事後的に過去に遡及したときの 脈絡の複雑さに由来する多様性であり、寧ろ、ゆらぎやノイズといった偶然性によって外部からもたらされた「新しさ」を説明することは できない。
一方、創造性は主体にとっては外部から、ノイズによってもたらされるものであり、そこには誤謬の、破壊の、永遠性からの落伍の 危険がある。「超越」の受動性については、既に遠藤が、レヴィナスに引き付けてホワイトヘッドを再解釈する試みを行った 文脈でも強調されているが、それはヘルダーリンが「パトモス島」で歌った「危機のあるところ、救いの力もまた育つ」 という言葉が指し示している事態そのものなのではなかろうか。
そこから他者性の問題、ツェランのブレーメン講演での投壜通信論、あるいは「子午線」でも取り上げられる 「芸術」と対立するものとしての詩の宛先としての他者の問題、更にはバフチン的な意味での対話に通じる 展望が開かれるだろう。外性・他者・新しさは、偶然性・ゆらぎといった語彙と結びつけて論じられべきなのだ。 ここで私がしていることは、レヴィストロース的な「ブリコラージュ」に近い作業だろうが、 「ブリコラージュ」や神話論理における変換の手続きもまた、意識的意志の営為を超えて、バフチン的な意味での 対話としてのインターテクスチュアリティ、ポリフォニーの問題を「作品」の自己組織化プロセスといった 視点で眺めることを可能にするだろう。
更にそれは、マーラーの後期交響曲の創作とまさに時を同じくして、だがしかし全く独立に為された、ソシュールの 「一般言語学講義」に関連した探求、更にはそれには留まらない異言研究やアナグラム研究といったものも含めた 一連の探求、構造主義の嚆矢となりながら、実際には構造主義を超え、まさにここで整理したような、 プロセス哲学的なカテゴリーや自己組織化といった観点での読解へと誘うかのような探求にも通じているであろう。 ほんの一例だが、ソシュールが導入したアポセームをプロセス哲学的な自己超越体ないし隔体とし、さらにコントル- ソーム、パラソームといったノートに出てくる概念を、ホワイトヘッドの象徴的関わり(symbolic reference)の議論と 対応づける試みは、既に触れた、ヒンティッカによるフッサールの「イデーン」期の議論の可能世界意味論による 解釈、更にはレヴィナスにおける言語論、作品論との比較同様、興味深いものがある。(一つだけ、マーラーの 作品に近接した出発点として目印を提示するとすれば、<言語(ラング)は音楽作品と比較できる。><交響曲は 演奏なしで存在する実在である。>といった第3回講義のノートに見られる言葉は、その限りでは単なる譬え、 せいぜいがこれまた同時代のエルンスト・マッハの旋律のゲシュタルト性についての議論との比較を呼び出すに 留まるだろうが、その背後にある問題意識は、まさにプロセス哲学における抱握の理論やシンボル・ グラウンディングにおける自己組織化のモデルに相応しいものであるし、ここから文化と自然の問題やら 社会と個人的な意識の問題やらとの関連もあり、未だ開かれた問題として研究が続けられている。 近年の邦語文献としては、互盛央「フェルディナン・ド・ソシュール <言語学>の孤独、「一般言語学」の夢」 (作品社, 2009)が興味深い。)
なお、アトランの時間の逆流についての解釈は、アトランがまさに「二種の時間の逆行」を扱っていることを思えば、 デュピュイの「賢明な破局論」における投企の時間における時間の逆流についての議論と突合を行う ことができるだろう。アトランは崩壊=再組織化によって絶えず変化していくことは、死を含んでいるとし、 「無秩序を探し出し、破壊し、存在しないようにするのではなく、秩序自身のなかに含まれるようにする」 ことについて述べる。時間の推移、破壊者の通過は、そこでは創造者となる。こうした言明を「リスクをなくすことではなく、 破局を受け入れることにより破局を避ける」というデュピュイの主張との突合せもまた可能だろう。 またアトランの自己組織化の議論で既に示唆されている学習の問題をベイトソンの学習の理論やマイケル・ ポランニーの「暗黙知」や「個人的知識」と関連づけて論じることも必要だろう。だが、それらはここではなく、 寧ろ三輪眞弘さんの活動への応答の文脈で取り上げるのが適切だろう。
テキスト論でも伝記主義でもなく
テキスト論とここでの試みとの関係について簡単に振り返っておきたい。 テキスト論という言葉で何を指すかはかなり幅があるだろうし、いわゆる物語の 構造分析のようなものは実際に実践もし、その現場を知らないわけではなく、方法としての価値は疑問の 余地はないけれど、個別の分析の意義を無条件で担保するものであることはありえない。(もっともそれは どんな分析でも同じであろうが。)マーラーの場合に常に問題になる伝記的なものとの関係にしても、 いわゆる狭い意味での「伝記主義」に限界があるのは明白だと思うけれど、テキスト論的な立場を 徹底させれば逆に、作者の生そのものが広義でのテキストの一部になるという見方もできるし、一旦、 手続きとして作者を消去して作品を眺める、作品間の間テキスト性を眺めるということは、 一度はしてみるべきだけれども、逆に作品というのを中立的・自律的なものであるという立場もまた 一つの抽象に過ぎないのは間違いない。具体的な作者の生涯のイベントが直接作品に関わるというのは あまりに単純化が過ぎた見方で、作品自体がもつ作者とは独立のあり方を損ねてしまうけれど、 たとえ通路、媒体であるにしても作者なしに作品はないのである。
たとえ生と作品が別物である、という立場を作者がとったとしても、そうした立場自体がその作品に映り込むという仕方で、結局、 関係を透明化してしまえば取りこぼしてしまう力学というものがあるのではないか。なにより読み手である自分は、 作品よりも作者と類似した存在なのだから、読むという行為自体を透明化して、あたかも 作品を透明に分析しうると考えるのはおめでたいか、欺瞞かのどちらかであろう。
勿論、テキストをここでは音楽作品に読み替え、限定したところで、作品ごとに、その関わりの様相は様々で、 決して一様ではない。しかしその中で、いわゆる「語り」のレベルが作品の構造の契機となっているような 重層的な作品、もう一つ別に、そうした「語り」のレベルに作者の存在の様態、認識の様態が映り込んでいるような 作品という両方を兼ね備えているような作品としてマーラーの作品を捉えることができるだろう。 一方で、作品の媒体というものに無頓着であったり、ジャンルや様式を自明なものとする作者の態度が産み出したような 作品には私は関心が持てない。寧ろ、作者の立ち位置からの展望に応じ、自分の語りの衝動に応じて、 所与としてのジャンルや様式を組み替えて、都度独自の形式を編み出していくような創作のありかた、 その結果としての作品に関心があります。マーラーに関しては、アドルノがその形式を唯名論的であると規定した 消息がそうした側面を告げている。
自分とは隔たった時代の隔たった文化的背景の作品に接する場合は、その距離を測る作業が欠かせない。 けれどもそれは作品の背景となるものに作品を還元してしまうことに帰着するのではなく、今、ここで その作品を自分が(遅れて・別の場所で)受け取ることに自覚的でありつつ、それを踏まえた適切な受け止め方をするための 予備作業でなくてはならない。ある種のテキスト論は、作品を自律的な存在として、その構造を読み取る ための道具としては有効な道具だけれども、それだけでは少なくとも今、自分が作品に向き合うためには不十分なのだ。
総じてテキスト論的な見方は、私にとってはごく自然な発想だけれども、その先(もっとも、それもまたテキスト論の 一部ということになるのかも知れないし、それならそれで構わないけれど)に関心があるといえばいいだろうか。 そしてそのためには、結局は相手と自分の関係に合わせて、自分で道具を作らなければならないのではないかと 考えている。マーラーの作品(これは例えば三輪眞弘さんの活動とは異なって同時代の同じ文脈でのそれではないが故、 逆に作品を通してしか、活動に辿り着けないのだが)という言い方をしてきたが、私は実は「作品」そのものではなく、 自分を惹きつけて止まない「作品」の持つ力(作品自体「の」(主体的)活動という言い方をしてもいいかも知れない)、 その作品を産み出す活動、その作品を受容する活動という、プロセスの方に関心の中心があって、「作品」というのをある種の 静的で閉ざされた、完結した存在として扱うことには関心がないのだろうと思う。
改めて魂、生命、時間について
広義での自己組織化理論によって得られた様々な道具立てをプロセス哲学のフレームに いわば移植しつつ、プロセス哲学が持っている目的論的全体化の傾向に対し、基本概念 そのものを再解釈することで、マーラーの音楽のように多層的で複雑な構造を持つだけではなく、 いわば「畸形的」とでも呼べるような時間性を備えた作品を扱おうとしたとき、それは同時に 魂や生命といったものについての定義の再調整に繋がっていることに気づかざるをえない。 (もっとも現実に起きているのは寧ろ逆で、魂や生命といったものについての定義の再調整の 成果を、音楽作品の理解のレベルに持ち込もうとしているのであるが、両者が相関している という事情に変わるところはないだろう。)
物質と生命、あるいは物質と精神の関係の問いを立てたとき、物質と精神を対立したものと とらえずに、物質的なものがあるレベルの規模と構造を備えた複雑なものになったときに そこに精神的なものが生じるという発想は、寧ろ今や「科学的」な考え方だということに なるだろう。サイバネティクスや人工知能研究は生命なり人間を(精神に対立するものとしての) 機械に還元するものではなく、寧ろその連続性に注目し、どのようにして架橋が行われるのかを 実際のモデル構築を通して探求する企てと言ってよい。昔の唯心論や生命論は物質とは 異なった何かがあるという主張で、精神なり生命なりを対立させる傾向があったけれども、 現時点ではそうした考え方をしなければ精神や生命を説明できないわけではないだろう。 勿論、まだ説明しきれているわけではないけれど、意識にせよ、魂にせよ、生命にせよ、 物質的なものから出発して説明できるようになってきているのは確実であり、ここでは 様々なレベルを統一的に捉えるフレームとしてホワイトヘッドのプロセス哲学を参照点として いるが、こうした問題を考えるときに役に立つのはいわゆる思弁的なものではなく、 生物学や物理学、化学、更にはサイバネティクスや人工知能研究といった領域での 具体的な理論やモデルであろう。
通常は単なる比喩と理解される「魂がこもった」モノとしての作品」は物質でも精神でもない、 また別の存在論的範疇に属するものとすべきだ。そして「作品」に精神の「痕跡」が刻み込まれる、 「作品」を経由して、ある種の精神的なパターンの伝達が起きるというような説明が可能であろう。 音楽作品にこめられた魂について、最早比喩としてではなく、事態の端的な記述として 論じることもできるし、できなくてはいけない。物だけではく、無形物としての音楽作品についても、 生物や人間とおなじように語れなくてはならないはずなのだ。
時間についても、まず線的な時間表象がそれ自体抽象の結果であるということは まず確認しておくべきだろうが、これもも魂や生命をどう考えるかという問題と関連している。 自己組織化が可能になり、時間の逆流が可能になるには或る程度の複雑さを持った構造が 必要だし、幾つかの層を前提とする必要があるが、そうした構造にあっては時間の流れは 複数あって層をなしているし、流れの方向の定義によっては、比喩ではなく、文字通り 逆流が起きていると考えるべきなのである。そしてそれは「作品」の創作の場面でも、 出来上がった音楽作品の内部の時間の流れの(演奏による、或いは聴取による)経験に おいてもいいうる。そして繰り返しになるが、「作品」はそうした時間の増殖と時間流の遷移の 力学を封じ込め、プログラミングしたものであると言えるだろう。そういう意味で作品(厳密には 作品の「活動」)はそれ自体、一つの自己組織化システムなのである。
もう一度最初のように、だが以前とは異なって、、、
ある有機体にとって、新しさは「外部」からしか到来しない。確率的なゆらぎの中にある新しさをもたらすものは 有機体にとっては偶然、ノイズであり、破壊的なもの、死をもたらす可能性を潜在的に持っているものである。 それはある文脈では、「他者」と名付けられたであろうものであり、それがなければ新たなものの創造はない。 予想することもできず突然に、ノイズによって惹き起こされるエラーが、組織の致命的な破壊をもたらすのか、 それとも自己組織化の一部としてそれまでにない新たな秩序を形成することになる学習のサンプルとなるのかは 事後的にしか知られない。アドルノのまだ心理学的なニュアンスの残滓が感じられる「突破」の翻訳である 「相転移」がカタストロフであるか奇跡であるかは事後的にしかわからない。破壊が系全体に及ぶことなく、 系が存続しえたとき、系には新たな状態に変化していることになるであろう。
プロセス哲学的には可能的世界を事実性によって限定することを通じて現実性から 可能性としての永遠的客体へと超越することによって、自己のsubjectとしての主体性を滅し、公共的なsuperject( 自己超越体ないし隔体)となることで自己を未来へと投げ出し、そのことによって客体的不滅性を得ることに他ならない。 そしてそうした疎外は次なる創造へのいざないそのものなのである。意識を備えた有機体においては、それは 意志的意志の背後で働く無意識的な活動との相互作用である。そしてそれはアトランが素描しているように、 サイバネティクスや自己組織化の理論を下敷きにして言えば、環境とシステムの偶然的な相互作用による情報の生成、 その部分を取り出して見ると開放系であるシステムのエントロピーの減少に他ならず、そこでは時間の矢は (あくまで部分的ではあるけれど)あたかも逆転したかのようになる。
ところでマーラーが第8交響曲で、フラバヌス・マウルスの聖霊降臨の讃歌とゲーテの「ファウスト」第2部の終幕の 場面を用いて述べようとしたことこそ、まさにここでプロセス哲学や自己組織化論を援用して整理を試みた 「時の逆流」としての「創造性」についてであったのではなかろうか。そしてそうした過程自体を、「作品」という 一つの有機体へと纏め上げるのが、マーラーにとっての「世界を構築する」こととしての交響曲作曲ではなかっただろうか。 だとしたら、第8交響曲の第1部について「ラテン語の讃歌は、けっして神の降臨の奇跡への賛美としては扱われない。 それは人間による創造と、創造のみなもとたる愛への、それもどちらかといえば、地上的な、あるいは地上から上昇する 愛に向けての讃歌なのである」という長木さんの解釈は、「時の逆流」における推移の時間における超越の運動の 徹底的な受動性、有機体にとって創造、更新が常に破壊の危機と隣り合わせであるといった構造への視点を 全く欠いているという他ない。確かに今や表面的に「神」という言葉を使わずにマーラーが思い描いた目的論的な スキームを翻訳することは可能であろうし、従って今や脱神話化は可能になりつつあるだろうが、マーラーの時代に そうであったわけではないし、マーラーがテキストの解釈にあたって脱神話化を行っているかの如き主張は、 それが脱神話化と引き換えに、脱神話化した後にも保存されていなければならない「時の逆流」にまつわる 構造を毀損するものであるという点において、到底受け容れることはできない主張である。
マーラーの生きた時代は、ようやく無意識が「発見」され、進化論が提唱され、機械論的・決定論的な唯物論に 対して主観性を、意識の営みを擁護しようとしたときに用いることのできる理論や語彙は制限されたものであった。 自然科学にも関心を示し、フェヒナーやロッツェのような自然科学による知見と観念論の調停を試みた人々の 著作にも親しんでいたマーラーは、ゲーテの「ファウスト」の終幕自体が、特定の文化的・社会的な文脈内で 培われてきた比喩的・象徴的な神話的形象であることについて明確な意識を持っていたことが書簡での発言などを 通じて窺える。マーラー自身が現代の日本に生きていれば、恐らくは一層洗練され、精緻になった語彙により、 異なった形象を用いたに違いない。そしてそれに応じて、作品の方もまた、別の形態を別の手段を用いて作曲されたことであろう。
20世紀における「作品」概念についての問い直しの作業を経た今日において、 人はしばしば、生成の瞬間を捉えようとして、あるいはそれが捉えられないと見做して、反復される作品として、 つまり(レヴィナス的な意味での)「語られたこと」として定着されることを疑問視し、あまつさえ、即興演奏や偶然性に 身を委ね、結果として却って創造性を毀損することにもなりかねない。確かに生成の時間は巨視的な推移の時間から 覗き込もうとしても無時間的なものとしてしか捉えられないだろうが、実際に生成が起きたこと、創造が為されたことは 事後的に、生成した有機体の存続によってしか測り得ない。そして作品は、それが作品として定着されたものであるという 定義上、絶対的な特異性、一回性の毀損に違いない。だが、作品は生成の結果として存続するものとして、 生成を否定しつつ、まさにそのことを通じて生成が生じたことを証言する。のみならず、更に作品としての公共性によって、 別の生成の誘いとなる。作品なしでは特異性を証言することそのものが不可能なのだ。そうした意味で作品は 起きたことを自ら証する亡霊として、最初の一回から「再演」されるものなのである。
とりわけマーラーの音楽は、アドルノの言うとおり、名もなき者、言葉をもたぬ者の代弁者たろうとする。 恐らくそれは、「パルジファル」第3幕で言葉を奪われてしまったクンドリーの代わりに語ろうとしているのであるとも言えるだろう。 ワーグナーの作品においては、「言葉」の剥奪は、「音楽」の剥奪でもある。沈黙を語る音楽はそこにはないかのようだ。 そして近年のしばしばスキャンダル扱いされる読み替え演出においてさえ、クンドリーの扱いは一つの焦点となっているけれど、 ハイブリッドな舞台芸術の総合性が却って、クンドリーの沈黙に新たな意味を与えることの妨げになっているかの如く見えるのは 興味深い。勿論、ワーグナー自身、伝統的なジャンルの換骨奪胎を試みてはいるのだが、つまるところそれは(意図してかどうかはおくとして) バフチン的な意味でのポリフォニー性という点で、マーラーの選んだ交響曲という媒体に及ばないかに見える。もっともワーグナー自身に ついて言えば、自己の意図と主張の貫徹という点で、或る意味ではモノローグ的な舞台芸術という媒体の採用は一貫していたという 見方も成り立つだろう。他方マーラーについてもまた、創造性の問題、超越の問題を扱う媒体として交響曲を選択したのは 適切であったに違いない。ことは叙事的な展開の余地の水準の問題ではなく、まさに「他の何かが私に語ること」を定着する 手段に求められる多声性、多層性、意識を有する程度に複雑な有機体に求められる構造の問題なのである。 勿論、伝統的な交響曲というジャンルがそれを無条件で保証するものであるのではなく、アドルノのいう唯名論的な形式の 生成の場として、都度新たな構造を作り上げる素材として適切だったということである。
マーラーの交響曲が、かつて起きた事を、その日付とともに記録するのだ。アドルノはこうしたマーラーの作品の (それはまさにデリダがツェラン論である「シボレート」で述べた意味合いと一致するように思えるのだが) 「亡霊的」な性格を正しく言い当てて、マーラーの「歌曲」の一つの題名である「レヴェルゲ」 (目覚めるもの、亡霊)を引きつつ、マーラーの作品そのものが「レヴェルゲ」なのだということを言っている。 そしてそうしたマーラーの音楽を繰り返し読み、聴き、それについて語ることは、常に単なる同一物の反復であるわけではない。 常に新たな文脈でそれを「感受」(ホワイトヘッド的な意味合いで)すること、それは生物学的なメタファーを借りれば「異種交配」 「雑種形成」を呼び起し、その結果は多くの場合、奇形をもたらす致命的なものであるかも知れない。だがここでも、 これまで述べてきた「時の逆流」における創造性の議論は、スケールを変えて繰り込み可能なのではなかろうか。 そうであれば勿論、ここでここまで行ってきた整理の価値については沈黙せざるを得ないのであるが。
ここでは時の逆流に関するプロセス哲学のある解釈を出発点に、自己組織化論によってそれを 再解釈するための整理の作業を行っているが、冒頭でも触れたように、この作業自体の客観的な 意義については、それが最早21世紀の現時点では、既に一種のアナクロニズムではないかという 嫌疑を晴らすことの困難さを感じていることを改めて述べておきたい。
ホワイトヘッドの「過程と実在」は、1920年代の著作で、もうじき1世紀が経とうとしている。 出発点となった遠藤の「時の逆流について」も、もう4半世紀以上前のものである。 再解釈のためのいわば梃子としている自己組織化の理論にしても、例えば嚆矢となったウィーナーの 「サイバネティクス」であれば1948年の著作である。既述の通り、アトランの文章も1970年代で、 私がマーラーとであった時期にはもう書かれていたのである。それらを今、ここで整理する のは決してコンテンポラリーではなく、それどころか、1世代は優に遅れているという 事実に気づけば、四半世紀の間の己の無為に愕然とせざるを得ない。
マーラーそのものなら、それ自体が1世紀前のものだからアナクロニズムは或る意味では 自覚の上でのことで、寧ろそうした自覚がない発言に対して苛立ちを感じずにはいられない 程なのだが、翻ってふと、本当の意味でのコンテンポラリーな活動、例えば三輪眞弘の活動に 追いつけるのは何時のことになるのかと自問すると、自分に残された時間では、その隔たりを 踏破できないように思えてしまい、暗澹とした気持ちになってしまうことを避けられない。 勿論、応答はいつだって遅れて、別のところからではあるけれど、私が今している作業、 これだけはやっておきたいと思っている作業は、(勿論、自分にとっては必要なもので あるにせよ)、同時代的な価値など全くないものなのではないかとさえ感じられる。
だが例えば、この問いもまたアナクロニズムな自問であることは認めた上で、 プロセス哲学的な枠組みは、自己組織化論によって無用のものになったのか、 という問いを改めて立ててみるとき、それは明白に否、であると言うことはできると 感じている。
一例を挙げてみよう。アトランは2種の時間の逆行を区別し、そのうち一つ目の、 意識的意志的行動の中で生じるもの、計画と達成すべき目的があり、その目的に 到達すべく行動がつぎつぎとなされている時に現れる目的性のタイプについては、 時間の現実的な侵入ではないとしている。その理由として、一つには 侵入が思考の中にしか生じず、多かれ少なかれ幻想である点を挙げ、 もう一つに、計画とその実現は、過去の知識に依存しており、行動を予見する 過程においては、時間は通常の因果律の方向に流れることを挙げている。 そして、それに<ノイズによる複雑性>の法則が働くとき、自己組織化の物理化学的で、 意識の水準においては寧ろ無意識的な過程への侵入を対比させる。
しかし上記の対比自体をプロセス哲学の連続主義的枠組みが許容するある種のアナロジー、 もっと言えばある種の繰り込み操作によって、上記の2つの侵入を統一的に解釈する ことが可能ではなかろうか。つまり、侵入が思考の中にしか生じないとしても、 それは思考という、それ自体、物理化学的な基盤を持つプロセスにおいては少なくとも 生じているのだ。アトラン自身、出来事が我々の意志の結果であるという考えは 幻想だが、それを認めても問題を解消することにならず、ものごとを連続的に とらえようとする意志または欲望をもっているという「感じ」を肯定的に考え、 その感じがどのように動き、現実のレベルであらわれ、存在するかを理解する 必要を述べている。ある種の消去主義に対してもいえることで、クオリアは 幻想かもしれないが、同時にそうした幻想が生じるのは何故かを説明できる必要が あるのだが、ここでも「幻想」であれ、「時の逆流」の「感じ」が生じる理由を 説明できる必要がある。そしてここで「感じ」をプロセス哲学的に読み替えずとも、 こうした「感じ」が生じるためには、「感じ」の主体が意識が付随するような高度に 複雑な自己組織化システムである必要があるのは異論の余地はないだろう。 プロセス哲学的には、「幻想」をはじめとする想像力は少なくともいわゆる 「命題の感受」レベルの混成的で補完的な相を伴う「感じ」が要求されるのであり、 結局のところ、1つ目の時間の逆行の「幻想」もまた、自己組織化システムの産物で あるには違いないのである。
だが、2種の時間の逆行の間の関連は、上記のようなレベルに留まらないだろう。 意識的な行為における逆行という複合的で巨視的な過程の背後には、自己組織化の 物理化学的で、無意識的な過程が常に伴っているのである。勿論、それは記述の レベルも違い、対象が異なるから、同じものであるということではない。 そうではなくて、2つ目のより基本的で微視的なノイズによる自己組織化が、 いわば意識的な「幻想」を生み出す機構として背後で機能しており、それなくしては 「幻想」の感じが生じることもまたないのだということである。
プロセス哲学的な「時の逆流」において重視される「推移」の流れは、 それのみでは過去となり「存在化」したsuperjectからsuperjectへの推移の感受に 過ぎず、それは容赦なく経過する時間の流れの感じを説明するに過ぎない。 だが生成する意識的主体性にとって推移のさざなみを形成するレヴィナス的な 有(il y a)の非人称的ざわめきを時間の根拠として遠藤が強調したとき、自己組織化に とって未知のものとしての「新しさ」であり、「外部」であるところのゆらぎ、ノイズが 新たな秩序の形成のためには必要であるということの強調との和合が生じる。 そしてこうした微視的な過程の積み重ねが、意識を備えた複雑な自己組織化システムが 新たな事態に、危機に対処し、適応する過程で新たなものを生み出す(自己を更新する ということも含めて)ことを可能にしているのである。
ミクロとマクロは混同すべき ではないし、粗雑なアナロジーが有効なのは理論が精緻化される以前のプロセスに おいてのみではあるが、意識の理論については、そして意識の産物として見做された 限りにおける「作品」という存在についての理論については、依然としてかくの如き アナロジーを理論構築の導きの糸とすべき段階であるように思われる。分野は異なるが、 南部陽一郎がヒッグズ機構の先駆となる自発的対称性の破れを着想したのは、BCS理論という 超伝導の理論からのアナロジーであったし、ハドロンの理論として着想された南部の ひも理論は、それ自体は廃棄されたものの、点ではなく「ひも」を基本要素として 考えるという着想は、遥かにミクロなレベルを説明する超ひも理論として復活する ことになったという例を思い浮かべていただいても良い。意識の理論においてもこうした 事態は近い将来において最早成り立たなくなるということも充分に考えられるし、 同時代のどこかで、既にそうした進展が為されているかも知れないが、遠く、 遅れてしか私にはそれは届かない。だから今しばらく(それは私の生涯よりも 長い期間を指しているかもしれず、私は結局、追いつけないかも知れないが)は私は、 自分の展望からの風景を定着させ、壜に詰めて海原に投じる他ないのである。
(c)YOJIBEE 2012--2014