グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集


マーラーの行進曲の印象(2012.5.1)

いろいろな音楽の間を彷徨った後、別に意識して避けてきたわけではない筈だが、無意識的にどこかで敢えてそうして いたかも知れないなと思いつつもマーラーの音楽を聴いてみると、ただちに幾つかの顕著な質に気づいて酷く驚くことになる。 例えば行進曲。マーラーが行進曲を偏愛したのは明らかだろう。 マーラーの幼児期の記憶の中にその起源を求める見方は繰り返しなされてきた。 「芸術音楽」の擁護者からはマーラーの音楽の中のいわゆる「バナルな」要素として誹謗される恰好の材料を提供した。 集団操作の道具、ある意味ではオーケストラを統率する楽長の音楽に相応しいと皮肉られるだろうか。 画一的を強制し、意識に自発性を許さずに寧ろ心理的な適応を強いる音楽。 容赦ない「世の成り行き」への屈服、攻撃者への同一化をあらわしているのだという精神分析的な解釈もある。

確かにマーラーの行進曲は、音楽の主体を急きたて、どこかに追いやる働きをする。 停滞を中断し、活動を強制するかのようだ。 マーラーの音楽を聴く私も、行進曲に促され、前に進もうとする。 しかもマーラーの行進曲は、それが主体にとっての強制であるという主体の側の反応そのものを刻印していることもあるから、 疲れていても、動かなくてはならないのだ、という認識に聴いている私を誘う。 その認識には両面があって、強制的に歩かされているという悲壮感と、蹲っているよりは少しでも歩いた方がましだという気持ちが綯交ぜになっている。 実はそうやって急き立てられでもしなければ、怠け者の私は残された時間を浪費して、何事も成し遂げられないかも知れない。 怠惰な人間が何かを為すには、外からの暴力が、強制が必要なのだ、というわけだ。

その外部とは、「世の成り行き」かも知れないが、自分の奥底に穿たれたいわば内部の外部から響く呼びかけかも知れないのだ。 マーラーの音楽が自分の中にすっかり埋め込まれ、意識としての私よりもより下の層を構成しているとしたら、 それはフロイトのモデルのうち、超自我の指令ではなくて、寧ろエスの呼びかけであるということだってありうる。 マーラーの行進曲はそのどちらでもありうるのではないか。

もっと単純に、私の中に埋め込まれたマーラーがゲーテの思想に共感して、「活動を止めてはならない」と呼びかけているとしたら? 人間は密室の中で、外部とのコミュニケーションを絶ったままでは生きていけないのだ。 連帯への誘いであれ、強制であれ、外部からの呼びかけに応えて、外部に出て行く必要があるのだ。 行進に加わっても、あっという間に脱落し、落伍するかも知れないとしても、また立ち上がり、どこかに向かって歩かなくてはならない。 寧ろそれは生物としての、動物としてのヒトの性質に由来するのかも知れない。

不吉な連想。

1.ハールメンの笛吹きに率いられた生物の集団自殺。 閾域下に働きかける信号によって、集団催眠にかけられ、操られた集団の行進はどこに向かうのか。 だがそれも、遺伝子のどこかに仕組まれた、進化の詭計によるものだとしたら?

2.強制収容所でマーラーの姪が演奏した行進曲。 収容所の入り口には、ナチスの欺瞞に満ちたモットーである「労働は自由にする」が掲げられている。 そこでの自由とはなんだったか。生き延びるためには行進から落伍してはならない。 だがそれは強制収容所の中だけのことなのだろうか。

一旦乗りかかった船からは、途中で降りるわけにはいかないのだ。 おまけに乗った船が実は泥舟であった、ということもある。 最初は立派な船であっても、何かのはずみで泥舟に変貌することだってある。 行進に加わったときにそれを見極めることが常にできるというのは後知恵に過ぎないのではないか。 しかも行進に加わらないことはできないのだ。 せいぜいが、運がよければどの隊列に加わるのかについての選択肢があるかも知れないというのが現実ではないのか。

マーラーの音楽が持つ異様な活力は、ぎっしりと詰った情報ともども、聴くものを疲れさせ、消耗させる。 だから疲れて病んでいるときには、しばしばマーラーを聴くのに耐えられなくなるのだろう。 だがじきに、自分の中に埋め込まれたマーラーの音楽が、再び立ち上がって歩き始めるように促し始める。 目を覚ませ、とそれは私に呼びかける。

もしお前が一緒に行進している同伴者が幽霊であったらどうか? それでもお前は一緒に行進するのか? だがしかし、私もまた幽霊の如き存在ではないのか? マーラーの行進曲は、そうした幽霊たちに手を差し伸べ、隊列に加わるように誘う。 かくして「レヴェルゲ」達の隊列が組まれる。

行進がどこに行くのか、誰も知らない。 いや、ある意味では皆が知っていて、知らないふりをしているということもできる。 実はそれがどこにも辿り着かない、目的のない、行進のための行進であることを、マーラーの音楽は誠実にも隠し立てすることがない。 ただ、マーラーは自分がかつて見聞きし、体験したと思った何かに再び出遭えることをどこかで待ち望んでいる。 どこに行けばいいのかもわからないし、それが実現することのないことを予感しているにも関わらず、何か自分に勝りたるものに与ることを夢見ることを断念することはできずに、盲目の意志に導かれて行進は続くのだろう。

私は弱った体の恢復を待ちながら、過去の異郷から響いてくる行進曲の響きに耳を澄ませ、性懲りもなく再び隊列に加わることを夢見て、その意志を壜に封じて情報の海原に投げ込む。 遠い昔、子供の頃にふとしたきっかけで、誰に教えてもらうでもなく、自ら探し当てた壜の中に閉じ込められた音楽の響きに導かれて、このようにして。 (2012.5.1)



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