アルマはその「回想」の中で、マーラーに対する両価感情を幾たびと無く吐露しているが、そのうち最も激しい呪詛の念を綴ったのが、上記の言葉ではなかろうか。こう書いたアルマ自身、自己中心的な 肉食獣ではなかったかという批判が一方にあり、多分その批判もいくたりかは真実なのであろう。だが、この呪詛の言葉にも偽りはないのではないかと思う。彼女自身、断念した作曲家であり、その断念は マーラーとの出会いによって惹き起こされたのは良く知られているし、マーラー自身がそれを禁じた書簡は有名である。勿論、彼女は「自発的に」断念を選んだのだし、それを棚に上げることもしていない。 彼女はマーラーの偉大さを(ある意味では不幸にも)認識していた。そして自分が敵わないことに気付いていた。だからこれは負け惜しみ、敗北の言葉でもあるのだ。
彼女に対する批判があるのを知らないでもないけれど、この点に関して言えば、私は彼女に些かの同情を感じずにはいられない。勿論私はマーラーその人にあったわけではないけれど、 彼の音楽を聴いて、その偉大さを感じる一方で、或る種の息苦しさを、彼女が感じたのと恐らくは遠からぬ両価感情を私もまた感じないでもないからだ。マーラーの音楽の魅力はそれがアドルノの言う 「ひかれものの小唄」、カフカの審判のヨーゼフ・Kを引いて言われる、誰も聞くものがないのに大声で語られる末期の言葉であることにある。けれども彼は楽壇の頂点に君臨する大指揮者だったし、 時代を代表する「大物」でもあった。仮に私がマーラーの同時代人であり、彼に接する機会があったなら、多分私もまた、同じような息苦しさを感じたに違いない。肉食獣に関する彼女のコメントは、 同じ穴の狢であるという点を別にすれば非常に鋭くて残酷なまでに的確であると思う。
そしてこれは別に芸術の分野に限った話ではないだろう。どんな分野でも肉食獣はいるし、菜食主義者気取りというのも同じだ。そしてそうした点に気付き、反発を感じる側もまた敗北した肉食獣である、 という点についても何ら変わるところがない。「世の成り行き」の中にもそうした肉食獣はいて、そこにおいては今度は私こそが敗北した肉食獣として、アルマが書き付けたような呪詛を投げつけずにはいられない。
私自身、マーラーの音楽に対してもまた、両価感情を抱き続けるのだろう。彼の音楽は自分の中に深く、自分の一部として埋め込まれている けれど、時折息苦しさを覚えずにはいられない。違いがあるとしたら、それは価値の領域の問題で、マーラーの音楽が属している私の価値の領分は、自己の価値を超えたものであって、それ故に 擁護しなくてはならないものであるのに対し、「世の成り行き」の中で出会う肉食獣たちの価値観には接点がないことだろう。 彼らの「仕事」への献身、高潔さを認めた上で、私はそこまで「仕事」に殉ずる気はないし、 価値観を共有することもできない。
カエサルのものはカエサルに。そしてこれもまたアルマが書き留めた、マーラーがおもしろくない事態にぶつかったときに笑いながら発した言葉 "Wer hat mich gebracht in dieses Land?"(原書1971年版p.143、白水社版邦訳p.134)を己の言葉とし、彼女が記したマーラーの姿勢"Mahler war ein Feind aller Aussprachen, allen Zankes, allen Klatsches."(原書1971年版p.133、白水社版邦訳p.125)に共感を新たにし、敗北した肉食獣でありながら、最終的にはそうしたマーラーの価値に断固としてコミットしたアルマの姿勢に 共鳴するのである。(2010.3.27)
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