アドルノのマーラー論の終わり間際の上記の一節は、別のところで既に紹介した1960年のマーラー生誕100周年記念の講演の末尾の部分ともども、 マーラーの音楽が何であるかを正確に言い当てているように私には感じられる。否、より正しくは、「マーラーの 音楽が私に語ること」が何であると私が感じているかを正確に言い当てていると感じている、と言うべきなのかも知れない。マーラーの音楽を聴き始めたばかりの 子供は、自分ではそれをここまで正確に言い表すことができなくても、やはりそのように感じていたと思うし、それから30年後の今、かつては既に縮図としてではあれ、 自分が置かれた環境においては実感してはいたものの、寧ろより多くは予感であったものが、今や紛れもない実感として迫っていると感じられる。
ここでもまた「子供の魔法の角笛」が引き合いに出され、マーラーの音楽が流布しているロマン主義的な意味合いでの自己表現ではないことが説得的に 述べられている点には留意すべきだろう。寧ろそれは、そのような自己表現を禁じられた者に対する共感であり、擁護なのだ。マーラーの音楽がすっかり 「当たり前」になり、一時期は「マーラーの時代が来た」などど持て囃されて後もなお、マーラーの音楽の毀誉褒貶が著しいのは、マーラーの音楽が はっきりと聴き手を選ぶからなのだと思う。この音楽を不要なもの、不快なものと感じる人、この音楽を聴いて見たくないものを突きつけられているような 居心地の悪さを覚える人間がいるのは仕方ないことなのだ。けれども、その一方で、時間の隔たりと空間の隔たりを超えて、この音楽を欲している人、 この音楽の眼差しを必要としている人もまた確かにいる。マーラーの直面した敗北、感じた孤立、自分がそこで生きるしかない世界から、にも関わらず どうしようもなく疎外され、断罪されているという感じ方に共感を覚える人達のために、この音楽は存続し続けているし、存続し続ける。 マーラーの音楽がコンサートホールでの熱狂にどこか似つかわしくないというのも、その音楽が実は、誰も聞く耳を持たない最後の言葉を語らずには いられない疎外された人間のためのものだからなのだ。
一点だけ、些細なことだが、この著作に専ら新しい邦訳で接している方に対するフォローを。上記引用文の2つ目の文にder lange Blickという言い回しが 出てくる。これは引用文を含むこの著作の最後の章全体のタイトルでもある。内容に配慮してのこととは思うが、新訳では、タイトルは「長きまなざし」、 上記引用文では「じっと見つめるまなざし」と訳し分けられていて、それが同じ言い回しであることに気づかない。(ちなみに竹内・橋本による旧訳およびJephcottによる 英訳では、どちらもそれぞれ「長いまなざし」、the long gazeという同じ訳語が充てられている。)仕方ないことかも知れないが、このマーラー論のまさに最終章が 何故そのようなタイトルを持つか、アドルノが読み手に示唆したかった事がどのようなものであったかを窺い知る鍵の一つであると私には思われるので、 あえてここで注意を促しておきたい。
そのまなざしが聴き手にもまた届いていることを、マーラーの音楽の聴き手のうちのある種の人達は、私とともに感じ取っている ことと思う。破綻を破綻として、だが断罪するのではなく、愛をもって見つめつつ記録すること、内容の破綻とそのまなざしの二重性こそ、意識の音楽たる マーラーの作品の固有性であると私には思われる。アドルノはここでdie Schrift von Wahrheitという表現をしている。だが、私にはそう言ってしまっていいものか、 躊躇いがある。私自身は寧ろ、それが真理であればと願っているけれど、この世界ではそのようには認められないこと、常にその真理は「ここ」にはないのだ、 マーラーの音楽という仮象としてしか存在しえないのだ、ということを思わずにはいられない。否、だからこそ、勿論アドルノは正しいのだ。彼は破綻こそが そうであると言っているのだから。ここにあるのは断罪だけ、判決は覆らないし、声は届かない。甘え、感傷、自己憐憫、ナルシシズムといった批判はきっと この世界では正しいのだ。私もまた「私が間違っているのはわかっている」と言わざるを得ないのだ。私がいなくなっても、マーラーの音楽が遺ってくれればそれでいい。 私は彼のようには語れないし、彼が充分に語ってくれているのだから。(2009.3.14)
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