グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言
クルト・ブラウコプフのマーラー伝の最終章「マーラーの伝記を書くことの冒険(Das Abenteuer einer Mahler-Biographie)」より:(原書1969年版p.307、翻訳p.413)
Ich habe mich auf dir Niederschrift der vorliegenden Biographie mehr als dreißig Jahre lang vorbereitet. (...)
Meine Liebe zu Mahler war nicht beständig. Es gab Jahre, in denen ich mich von Mahlers Musik abwandte. Die so gewonnene Distanz, teils aus einem
Mißverstehen Mahlers, teils aus veränderten Neigungen herrührend, erwies sich zuletzt als nützlich, denn sie förderte das Verständnis für das Schwanken der
Gunst des Musikpublikums. (...)
ブラウコプフのマーラー伝は、幾つかの意味合いで極めて重要な位置を占めていると思われる。直接マーラーを知る人たちの、生き生きとはしているが、思い込みや
誤り―場合によっては、故意に近いものも含めて―が含まれる証言とははっきりと一線を画して、資料に関する批判的で実証的な検討を行い、とりわけ
社会学的な視点からマーラーを描き出すそのアプローチは、今なお示唆に富んだ部分を多く持っているように感じられる。
だが、それよりも何よりも個人的には、その伝記の最後に来て、ここに引用した文章を初めて読んだ時の驚きは忘れられない。30年という年月に圧倒されたことも
そうだし、マーラーに接する姿勢の紆余曲折にも率直に触れられていることに、或る意味で心打たれたのだ。
勿論、ブラウコップフは感傷的な気分でこうした文章を書いたのでない。最初の文章の後に続くパラグラフでは、楽譜をピアノで弾きながらマーラーに入り込んで
いった世代と、優れた演奏によるレコードを聴くことができる世代との受容の仕方の違いに言及し、次の引用文の後には、音楽学者と音楽社会学者の
アプローチの違いへの言及がある、といった具合で、この章もまた、後書きなどではなく、音楽社会学者とのしての自己の立場を踏まえた論述の一部なのである。
けれども私個人としては、30年前に思い立ったテーマ、しかも必ずしもずっと関心の中心であったわけではないテーマについて、それでも結局
こうした成果が生み出されたことに、率直に感銘を受けるのである。翻ってみれば、年月の経過だけはすでに決して劣らぬ長さになりつつあるとはいえ、
私には一体何ができるのか?私は別に伝記を書こうとしているわけではないし、それよりも何よりも、このような第一級の業績と己を比較するのも
おこがましいかも知れないが、それでもやはり他人事とは感じられない。
私も受け取るだけは、本当にたくさんのものを受け取ってきた。何ができるかはわからないが、何もせずに終わらせることはできないように感じている。(2007.5.22)
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