グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言
マイケル・ケネディの「マーラー」の結尾近くの文章より:(原書2000年版p.179, 邦訳p.235)
It is true that there is an element of the actor in Mahler, that he strikes attitudes not from conviction but as a spritual experiment.
But the result is never insincere. To some temperaments he will always be anathema because it is felt that he did not subject his
musical thought-processes to enough refining self-criticism, that he was too much the suffering human and not sufficiently the detached artist.
There is something in this, though study of his scores reveals a musical headwork, as Shaw would have described it, of a peculiarly intricate nature.
私事になるが、私が最初に接したマーラーの評伝はこのケネディのものだった。それは単なる偶然によるものだったと思うが、参考書籍のところにも書いたように、
この本はその慎ましい体裁にも関わらず、とても優れた視点と、数多くの興味深い情報を備えた書籍であり、最初にこの本に接することができたことをとても
幸運なことだったと思っている。
引用したのは、1976年版では最後から2つ目のパラグラフである。(その後の改訂で、この後にAfterthoughtsの章が追加されたので、現在では第15章の
末尾ということになる。)この文章は、マーラーの音楽の持っている特質を的確に言い当てていると私には感じられる。批判的なわけではなく、
決してマーラーを偶像視しない冷静な視点を持っていて、寧ろ、そこにマーラーに対する深い愛情を感じずにはいられない。実際、マーラーの音楽を
一人の人間の営みとして聴いたときに、その軌跡の技術的な展開の一貫性と速度に驚嘆する(わずか30年でここまで進むことができるのだ!)一方で、
その内容上の振幅の激しさにたじろがざるを得ないように思われる。多くの人がそうしているように、思わず「矛盾」と呼びたくなるような、
そしてついつい伝記的事実を持ち出してその説明をしたくなるような亀裂が確かに、そこかしこにあるのだ。マーラーの音楽に関心がない人間なら、そもそも
そうした問いの前提自体が疑わしいことだろうし、それゆえ、上記のケネディの文章もまた、なぜそんなことを問題にしないといけないのか理解しがたい
だろうが、まさにそれが「問題」になるのがマーラーの特殊性なのだ。それゆえ、そうした「矛盾」をあたかもなかったかの如くに、マーラーがそこから出発した素材を
一部をあたかもマーラーの音楽を理解する統一的な視座であるかのように語ったり、あるいはどんなに控えめに考えてもマーラーの音楽そのものに対しては
外的な基準に基づいて、そのうちのあるものを否定してしまうことなくして、マーラーの作品全体をどのように考えるかは、その音楽に魅せられた人間が、
それぞれ自分なりの答えを探さなければならない課題であるように感じられる。(2007.5.26)
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