グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言
ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.85, 邦訳pp.149-150)
Es ist also ein Opus von musikalischer Geschlossenheit, das in Mahlers Schaffen vorliegt, und dem prüfenden Blick wird sich keine Lücke in der
musikalisch-logischen Kontinuität, im formalen Bau zeigen. Trotzdem kann eine absolut musikalische Wertung seinem Werke nicht gerecht werden,
das zugleich die Geschichte seines inneren Lebens ist. Erst wenn wir sein Schaffen als die Äußerung einer großen Seele in Musik betrachten,
werden wir den rechten Standpunkt gewonnen haben. Maßstäbe der Menschlichkeit müssen zu denen der Kunst hinzukommen,
wollen Bedeutung würdigen. -- In welcher Beziehung Erlebnis, Gedanke, poetische Vision, religiöses Gefühl zu seiner Musik stehen, will ich
versuchen, in der Besprechung der einzelnen Symphonien anzudeuten, da in jeder von ihnen dir Beziehung eine andere ist. Nur eines sei
vorausgeschickt: » Programmusik «, das heißt die musikalische Schilderung eines außermusikalischen Vorgangs hat er nie geschrieben.
ここでのヴァルターの言葉の説得力もまた、その作品は勿論のこと、マーラーその人を非常に良く知っていて、その人と音楽との関係をまさに
目の当りにした経験に根差しているのであろう。音楽一般がどうかとか、当時のヨーロッパの音楽の傾向がどうだとかいうのは、登ったら外す梯子の
はずであって、最後はマーラーの個別の場合が問題なのだ。そしてマーラーの音楽に虚心坦懐に体を浸せば、このヴァルターの発言が的確であることは
まさに身をもって感じられるのではないかと思う。(少なくとも私はそうだ。)
ところで、この部分の邦訳は好意的に見てもかなりの意訳になっている。最後の文章に至っては、ちょっと読むと全く違った意味に取りかねないように
思われるので注意が必要である。一般にこの邦訳は基本的に戦前から戦争直後のもの(最初は「音楽評論」という雑誌に連載されたらしい)のようであり、
当時のマーラーに関する情報の量を考えれば、具体的な部分について知っていさえすれば間違えないような誤訳があるのは止むを得ないのかも知れないが、
そうしたものとは違って、こうした抽象的な部分での間違いはそれとはすぐにわからないことも多いから厄介である。もっとも最後の文章については、
前後の文脈からして、何かおかしいということはわかるとは思うが。それゆえ1960年の再版にあたっても、そうした誤りについて全くそのままなのは
些か遺憾に思われる。(訳者がこだわっているらしい文体については、私の語学力では判断しようがないが、それとは別のレベルの問題である。)
比較のために、手元にあるJames Galstonの英訳を参照すると、こちらは邦訳に比べれば少なくとも意味をとる上では忠実なようだが、それでもやはり
全く間違いがないわけではないようだ。個人的にはこの部分はこの回想の中でも印象的な部分なので、残念なことである。(2007.6.23)
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