グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言
アドルノのウィーン講演(1960)より(Taschenbuch版全集16巻pp.337--338、邦訳:酒田健一編「マーラー頌」pp.317)
(...)
In Mahlers Musik wird die beginnende Ohnmacht des Individuums ihrer selbst bewußt. In seinem Mißverhältnis zur Übermacht der Gesellschaft
erwacht es zu seiner eigenen Nichtigkeit. Darauf antwortet Mahler, indem er dir Form setzende Souvränität fahrenläßt, ohne doch einen Takt zu
schreiben, den nicht das auf sich selbst zurückgeworfene Subjekt zu füllen und zu verantworten vermöchte. Er bequemt sich nicht der beginnenden
Heteronomie des Zeitalters an, aber er verleugnet sie nicht, sondern sein starkes Ich hilft dem geschwächten, sprachlosen zum Ausdruck und
errettet ästhetisch sein Bild.
Die Objektivität seiner Lieder und Symphonien, die ihn so radikal von aller Kunst unterscheidet, die in der Privatperson häuslich und
zufrieden sich einrichtet, ist, als Gleichnis der Unerreichbarkeit des versöhnten Ganzen, negativ. Seine Symphonien und Märsche sind
keine des disziplinierenden Wesens, das triumphal alles Einzelne und all Einzelnen sich unterjocht, sondern sammeln sie ein in einem Zug der
Befreiten, der inmitten von Unfreiheit anders nicht zu tönen vermag denn als Geisterzug. Alle Musik Mahlers ist, wie die Volksetymologie
eines seiner Liedertitel das Erweckende nennt, eine Rewelge.
アドルノの、これは1960年のマーラー生誕100周年記念の講演の末尾の部分。歌曲「起床合図」に言及した最後の文章は特に有名だろう。
(これにちなんで言うと、対をなす「少年鼓手」の方は、処刑を前にしてGute Nacht!と叫んで終わるのであって、内容上もまさに対をなしている。また
目覚めているということでいけば、同じWunderhornliederの中のDer Schildwache Nachtliedでは、Verlone Feldwachtが登場し、最後は
終止形に到達することなく、Feldwachtという単語を引き伸ばして終わる。勿論、更にRückert LiederのUm Mitternachtへと連想を延ばすこともできるだろう。)
アドルノは社会と個人の関係を問題にするが、―そしてそれは勿論正しいのだろうが―、個人が己の価値の無さに思い当たるのは、別に社会の力に
よってだけではないだろう。個人が社会に拘束されているという契機を軽視することはできないだろうが、それでも、社会的なものだけが個人を制約する
わけではない。生物学的な限界もまた存在する。ここでアドルノがいわゆる中期のマーラーの「客観性」への言及で話を結んでいるのは、そういう意味で
妥当なのだ。だが、後期はどうなのか、後期様式に見られる―シェーンベルクがとりわけ第9交響曲について指摘した類の―非人称性についてはどうなのか、
というのが最近の私の関心の中心の一つである。社会がどうであれ、「否定性」というのは主観に、意識に予めプログラムされた徴なのではないか、と思えて
ならないのだ。意識というのは、遺伝子の搬体たる生物としての個体に比べてもなお、儚く取るに足らないものなのだから。
そうした問題はおくにしても、このアドルノの指摘の的確さは、全く驚異的だと思う。マーラーの音楽がそうした儚い「主観性の擁護」であるという考えは、
まさにこうしたアドルノの言葉で言い尽くされてしまっているとすら思えるほどである。
なお、この講演は酒田健一編の「マーラー頌」で読むことができるが、それ以外にも例えば、シュライバーのマーラー論の「証言」の棹尾を飾るものとして
収めされている(ただしDie Objektivität seiner Lieder und Symphonien, 以降最後まで)。ただし、こちらの邦訳はその最初の文の従属節の解釈がおかしくて、
それだけ読むと、意味が逆転しているようにとれてしまうし、その後の文章も、恐らくはわかりやすくしようとして節の順序を入れ換えたり、原文の構造を崩して
言い換えたりしているのだが、結局、かえって意味がとりにくくなっているように見受けられるので、邦訳を利用する場合には注意が必要だと思われる。
別にけちをつけるのが目的でやっているのではないから、こうやって引用にコメントするたびに邦訳に対する疑義を書くのは本意ではないのだが、
幸か不幸か、そうせざるを得ない場合が多いのは遺憾なことだ。だが、気づいてしまったものを書かなければ備忘の用をなさないので、
止む無くコメントを残しておく次第である。(2007.6.30)
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