グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言
アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より
Il n'avait pas cinq ans lorsqu'on lui demanda ce qu'il rêvait de devenir plus tard. La réponse de Gustav Mahler fut aussi surprenante que la
question avait été banale : « Je veux être un martyr ! »
Sans doute Arnold Schoenberg ne connaissait-il pas cette anecdote et pourtant il allait s'exclamer, après la mort de Mahler :
« Ce martyr, ce saint ... peut-être était-il écrit qu'il nous quittât? ... » Certes, l'histoire de sa vie suffit à détruire la légende aussi absurde que tenace
d'un Mahler crucifié par les tragédies personnelles, les deuils, les drames et toutes les catastrophes qui forgent l'âme romantique.
Quoi qu'il en soit, Mahler fut réellement un martyr et cela au sens littéral du mot, c'est-à-dire un homme qui met sa vie, toute sa vie en jeu pour sa
croyance, un homme pour qui le sacrifice est accomplissement. Sa religion de la musique, son douloureux idéal de la perfection devaient en faire la
victime désignée des philistins de la tradition, de la routine et de la facilité. Pour lui, l'acte de musique passait par la contrainte de soi-même,
par la souffrance. Il sera donc un martyr de la musique au même titre que Flaubert un martyr des lettres.
同じくアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュのマーラー伝の今度は本文の冒頭である。子供の頃何になりたいかと聞かれて、殉教者になりたいと答えた
このエピソードもまた有名なものだが、これを冒頭に置き、またしてもシェーンベルクの言葉を引きながら、マーラーが結局、音楽の殉教者であったという
規定をするところから、この長大な伝記が始まるのである。
個人的なことになるが、もう20年ちかく前に、このアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記ではなく、ドナルド・ミッチェルの研究の最初の巻を読んだ時に、
膨大な伝記的情報が、音楽を聴くことで自分の中に勝手に作り上げていたマーラーのイメージと一致せず、身勝手な親近感に冷水を浴びせかけ、
距離感をもたらすことになった経験がある。だから伝記には楽聖伝説の類を破壊する効果があるという言葉には頷けるものがある。否、楽聖伝説の
類には興味がなくても同じことだ。同じ中部ヨーロッパに住んでいるならまだしも、それは自己の想像力を遙かに超えた距離の向こう、時空の彼方にあるのだ。
評伝を幾つかと、とりわけアルマの回想録を、その内容をそらんじられるほど読んで、すっかりマーラーを「わかった」気になっている愚かな若造に対して、
自分の知らぬ人、自分の知らぬ土地やものをこれでもかとばかりに延々と提示することで、自分がわかったと思ったのがどんなに浅はかな思い込みに
過ぎないかを思い知らせる効果が、このような伝記には確かにあるのだ。量はここでは質的な効果を持っていて、結局、ある人の生の厚みを
そのまま追体験することなど勿論出来はしない、そのわかりきったことを、ともすれば忘れてしまう浅慮を粉砕する強度は、まさにその量に由来するのだろう。
それでは、音楽の殉教者という規定の方はどうか?それは間違いではないのだろうと思うが、こちらもまた、私にとってはマーラーという人の「理解しがたさ」を
象徴するようにさえ感じられる。そうした人間の書いた音楽が自分を惹きつけるのは何故なのだろうか、あるいはまた、自分は本当にその音楽を
理解しているのだろうか、という問いは恐らくなくなることはないのだろうと思う。マーラーのような「時代の寵児」の伝記であれば、恐らく別の読み方―
時代を知るためのコーパスとして用いるような―もまた可能なのだろうが、残念ながら私にはそうした視点の移動はできそうにない。
私にとっては、マーラーの音楽の特異性がまずもって問題なのだから。それゆえ私にとって、伝記というのは直接謎に答えてくれる情報を提供してくれるものではない。
そもそも伝記もまた、「客観的な事実」を伝えるものではなく、ある人物の生の軌跡を浮び上がらせるために、できるだけ多くの視点を提供することに
あるのだし。それゆえ必要に応じて伝記を参照することは、寧ろ、過度の熱中による思い込みを防ぎ、適当な距離感を持つために必要なものと
感じている。(2007.7.7マーラーの誕生日に)
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