グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(2)証言


「嘆きの歌」に関するフランツ・リストのマーラー宛書簡(1883年9月13日)

Sehr geehrter Herr !
Ihre mir freundlichst zugesandte Composition "Waldmärchen" enthält manches Werthvolle. Das Gedicht scheint jedoch nicht derart, derselben einen Erfolg zu verbürgen.
Mit ausgezeichneter Achtung.

Franz Liszt
Weimar
13 Setb.
1883

リストがマーラーの「嘆きの歌」の詩を酷評したという記述が、Webサイト幻想旅人團 「後の祭」の 九鬼蛍さんの著作「かたよりクラシック道」にあったのを見つけ、一体どういう経緯でそんなことが起きたのか興味を抱き、手元にあるHenri Louis de la Grangeの マーラー伝を調べてみたことがある。その結果、フランス語版の第1巻のp.168にこの件についての記載を見つけることができた。 (なお英語版第1巻のp.850, 注20にもこの件についての記述が見られる。)
それによれば1883年当時、全ドイツ楽友協会(Allgemeiner Deutscher Musikverein)の会長であったフランツ・リストに、マーラーは「嘆きの歌」のスコアを 送り、それに対するリストからの9月13日付けの返信をカッセルで受け取っている。de la Grangeの伝記でもその内容の要約はされているのだが、 Mahler Studies (1997, 私が参照しているのは2006年のペーパバック版で以下のページもペーパーバック版による)所収のEdward E. Reillyの論文 "Das klagende Lied reconsidered"で、その文面とリスト自筆の書簡および封筒の宛名書きの写真が紹介されている(文面はp.39、宛名書きの 写真はp.40の図2.2、書簡の写真はp.41の図2.3)。
上掲の文面を読んでまず気づくことは、リストが「森のメルヒェン」と書いていて、「嘆きの歌」とは書いていないことだろう。その理由は推測するほか無いのだが、 Reillyはマーラーが第1部のみしか送らなかった可能性と、リストが第1部のみしか見なかった可能性を示唆しており、de la Grangeはフランス語版の注19で、 マーラーが第1部だけではなく、全てを送ったという仮定の上で、当時は全体が「森のメルヒェン」と題されていたのでは、という推測をしている。
勿論、それらの仮説の真偽について判断することはできないが、興味深いのは、Reillyがこのリストの反応を、後年マーラーが改訂にあたり第1部をカットした 原因になったのでは、と推測していることで、なかなか興味深い推定だと思う。もっとも詩を拙劣と評価するのであれば、恐らくそれは第1部に限定された話では ないだろうとは思うが。
いずれにしてもベートーヴェン賞を受賞しそこなった「嘆きの歌」は、(後日マーラーが語ったのとは多少異なって)「進歩派」と考えられていたであろうリストにも 拒絶され、数度の改訂を経て、第1部「森のメルヒェン」を削除した形態で、1901年2月17日にウィーンでマーラー自身の指揮によって初演されるのである。 「森のメルヒェン」の初演はマーラーの死後、1934年11月28日アルノルト・ロゼーの指揮で行われ(チェコ語、ブルノ国営放送)、その後永らく、初期稿の 第1部と改訂稿を組み合わせた演奏が行われてきたが、初期稿の完全初演が 1997年10月7日にマンチェスターでケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団に よって行われたのはまだ記憶に新しい。 (2008.3.8)



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