これは「マーラーのエッカーマン」ことナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録のアッター湖畔シュタインバッハの1896年夏の章に含まれる、自身の創作プロセスで経験をマーラーが 語った言葉である。前後の脈絡から明らかなように、この時マーラーは第3交響曲の作曲の最中であり、上記の言葉もその途上で起きたことであろう。 なお理由は詳らかにしないが、この部分は1923年版には含まれていない。「故郷と少年時代について」という日付なしの回想の記録のあと、「作曲と楽器付け」という7月16日の日付つきの パラグラフの前に、7月10日という日付つきで、だがタイトルはなしで、その日の午後、自転車でウンターアッハに同行した折にマーラーが語った言葉として収められているのである。
上記の証言はマーラーの創作プロセスにおける無意識の力と、それをマーラー自身がはっきりと認識していたことを証言する記録として貴重なものに感じられる。創作のプロセスの あり方は人それぞれだろうし、マーラーその人とて、これが全ての作曲に当て嵌まるわけではないだろうが、にも関わらず、こうしたことが起きたという証言は、一方ではマーラーにおける創作の あり方を端的に証言するものであろうし、他方では例えばジュリアン・ジェインズの二院制の心についての主張を裏付ける証言のリストに追加することができるだろう。
ジュリアン・ジェインズは、創造的思考には幾つかの段階があると述べている〈柴田訳「神々の沈黙」紀伊国屋書店, 2005, p.58〉。第一の準備段階で問題が意識的に検討され、 続く孵卵期には問題に意識的に集中されることなく、突如として解明が訪れ、後付けで正当性の論証がなされる。マーラーの証言を、ジェインズが傍証として引用している ヘルムホルツ、ポワンカレ、アインシュタインといった面々の証言に追加することは全く容易なことに思われる。(ちなみにここで引用されている証言の主がマーラーの同時代人であるのは興味深い。 とりわけヘルムホルツはマーラーと同じ街に住んでいたこともあり、マーラーを知っていたし、物理学に深い関心を抱いていたマーラーはヘルムホルツの学説にも強い関心を抱いていたことが 書簡などから窺える。またマーラーが特に親しかった物理学者のベルリナーはアインシュタインの友人でもあった。)3つのB、すなわちバス、風呂、ベッドが発見がなされる3つの場所だという 言葉に、己の経験に照らして納得する人は多いだろう。なお「声」がベートーヴェンやワグナーといった、彼にとっての規範的な存在の姿を纏っている点もジェインズの主張と一致する。 勿論、フロイト風に、一方ではエスの働きがあり、他方で超自我の声がある、というような説明も可能だろうが、寧ろ近年の意識についての見解のように、より広いパースペクティブの中に 位置づける方が一層興味深い。
マーラーの場合に興味深いのは、にも関わらず意識の働きがその音楽に痕跡として残されているかに感じられる点だ。マーラーはいわゆる技能として身体化された次元だけで音楽を 書いたわけではない。だが一方で意識的な「意図」が技法を選びとったというような説明ではマーラーの場合を説明したことにならない。マーラーの場合にしばしば問題になる「標題」に ついての議論もこのことと関係している。「標題」に従って音楽を編んでいったのではなく、編まれた音楽を事後的に説明するものとして「標題」があるのだ、とはこれまた本人の 証言だが、してみれば編まれた音楽に事後的な説明を付加することが可能になるような意識と無意識の往還がマーラーの場合にはあるのだ。そしてこうした機制はマーラーが表面的には「標題」を 拒絶した後も基本的には変わらなかった。その延長線上に、シェーンベルクがプラハ講演で述べた、あの第9交響曲についてのコメントが存在するのである。「内的な標題」という言葉に囚われて そうした標題を探索するのはホワイトヘッドの言う「具体性の履き違えの誤謬」である。マーラーが好んだといわれるショーペンハウアーの「思考は言葉で具体化された瞬間に死ぬ」という言葉を 思い浮かべるべきなのではなかろうか。
そのようなことを考えたとき、マーラーがアルマ宛の書簡で晩年に語った「作品は抜け殻に過ぎない」という言葉が別の意味を帯びてくるように思われる。恐らくマーラーは「ファウスト」のゲーテの 顰に倣い、「初めに行いありき」〈第1部1237行〉、「絶えず努め励むものを我々は救うことができるのです」〈第2部11937行〉といった言葉を念頭において語っているに違いない。音楽作品も また具体化された思考、思考の痕跡に過ぎないのかも知れない。だが意識のやっていることが情報の処分であり、情報の圧縮の過程で生じる「深み」こそが作品の価値の源泉なのだとしたらどうだろう。 作品の「如何にして」は、その作品が生み出された思考と切り離して論じることは困難だから、その意味で思考が作品に優越するということができる。だが情報を如何に処分するか自体が 背後の思考と無関係ではありえないとしたら、作品はその処分の仕方の「如何にして」の分だけ、その作品の背景となった思考を超え出ている。
作品の価値が中立的・自律的なものではないのは、作品の解読の過程についても同様だ。作品がどのような価値を持つかは聴き手がその作品からどのような情報を展開・構築しうるかにかかっている。 勿論それは作品の「如何にして」と独立ではありえないが、聴き手の側にも多くのものが課せられているのだ。押し付けられた不完全な標題に囚われ、作品が含み持つ豊かさに背を向けて、受け取った 情報を恣意的に処分してもう一度「言葉」を取り出すことに一体どのような意味があるのだろう。作品が生み出された文脈を渉猟し、あたかも「正解」に辿り着こうとして様々なものを排除する そのプロセスは「抜け殻」から更に色褪せ、次元の縮退した欠片を取り出す不毛さと貧困に行き着くことにしかならないのではなかろうか。
確かに作品は抜け殻に過ぎないかも知れない。だが、それは同時にそれ自体、神の衣でもあるのだ。マーラーの音楽は、聴き手がある瞬間に別の部屋からの声を聴くことを可能にするような類のものなのだ けれども、それは当然、ここで参照したマーラーの創作のプロセスでの「別の部屋からの声」と、同じものなくても、無関係ではありえない、同相のものであるに違いない。 (2010.5.5)
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