ここで話題になっているプフィッツナーの歌劇「愛の花園の薔薇」は、アルマがマーラーに働きかけて宮廷歌劇場でのウィーン初演を実現したという経緯が「回想」の方で語られている。 1902年のクレーフェルトでの第3交響曲初演の折にプフィッツナーがマーラーを訪れ上演を懇願したのが発端で、その後1904年2月にマンハイムとハイデルベルクをマーラーが訪れた折に 1月31日にマンハイムで行われた上演を聴いた感想を翌日ハイデルベルクからアルマに書き送ったのが上掲の書簡である。ここでの評価は否定的だが、アルマの働きかけにより1905年4月に マーラーがこの歌劇のウィーン初演を行うことになる経緯は「回想」の1905年の章に詳しい。
だがここで私がこの書簡を採り上げるのはプフィッツナーの歌劇を話題にしたいからではない。そうではなくてマーラーが評価をする際に用いた進化論に由来するレトリックの方が 興味深く思われたからである。進化論は21世紀の今日でもキリスト教圏では未だ議論の対象のようで、極東の島国から眺めるとそれはそれで些か意外な感を抱くのだが、 ダーウィンの「種の起源」出版からまだそんなに時を隔てていない1904年の時点で、よりによって音楽を評するのに進化論の比喩を用いるのはマーラーが持っていた思想的背景の 反映に違いない。今日の視点からすれば何でもないような言い回しかも知れず、私自身、子供の頃にこの書簡を読んだ時にも特に気を留めることもなく通り過ぎてしまったのだが、 例えば上掲の書簡の続きで言及される第3交響曲を肴にマーラーの世界観を論じようとするのであれば、1世紀の年月がもたらす遠近法的な歪みに無頓着でいることはできないだろう。 マーラーが読んだとされるフェヒナーやロッツェ、ハルトマン等は当時勃興しつつあった実証的な自然科学の知見と観念論的な思弁との折り合いをつけようと試みたが、それはその時代が 要請したものであって、今日それに当時と同等の意義を認めるのは困難だろう。マーラーも彼なりの仕方で共有し、その音楽にも刻印されているそうした思考のベクトルは 今日でもなお喪われた訳ではないだろう(実際、同じベクトルを持つ主張が今日的な文脈で繰り返されるのをそこかしこで見ることができるだろう)が、展望は自ずと変わっている筈だし、 それに対して無自覚でいるのは当時のマーラーが抱いていた関心のベクトル性の深さとは相容れないことだろう。
21世紀の今日に生きる人間が1世紀も前の立ち位置に無媒介に立てる筈がないというのに、その音楽についてはコンサートホールやCDでいとも容易くアクセスできるが故に、 実際には「幽霊」でしかないかも知れないものをまるで生きているかのように錯視してしまうことが、そうしたことの原因になっているのかも知れない。 実際そのようにして子供であった私もまたマーラーの音楽に出会い、その人を知っていったのである。 だが厄介なのはそのこと自体ではない。マーラーは紛れもなく過去の人であり、その音楽はどのようにしても今日書かれる音楽ではあり得ないにも関わらず、マーラーが生き、その音楽が 産み出された「圏」は、寧ろ現在とあからさまに地続きなのだ。文脈から切り離して接することができる程は遠くはなくて、それゆえに寧ろ遠近法的な倒錯が厄介さを増しているのだ。 ウィーン宮廷歌劇場監督であったマーラーは当時の文化的な風景の中においても中心に位置づけることができることもあり、19世紀末ウィーンの文化の中に彼とその音楽を位置づけようと いう試みが為されてきたが、それがマーラーと今日の距離を適切に測るのに必ずしも資した訳ではないのは、それがマーラーの音楽同様、ある種の流行現象となり、まるでそれが 自分達の時代のものであるかのように喧伝されると距離感は喪われてしまった経緯に明らかだろう。
その厄介さは時間の次元だけにとどまらない。アウトサイダーであったマーラーの音楽を、更に外側の極東の島国から眺めた時の展望は単なる外部からの視点であるとは言い切れない。 端的な例が「大地の歌」であって、この場合には李白や孟浩然、王維の詩に対する日本人の距離感が更に加わるから一層ややこしいことになる。例えばアドルノの視点と同じ位置に 立つことは、少なくとも私にはできない程度に漢詩は自分の中に埋め込まれてしまっている。件の世紀末ウィーン文化史にしてもそうだが、漢詩が極東の島国において持ちうる意義は、 かの黄昏の地におけるそれと同じである筈はない。だがそれでは相変わらずマーラーを理解できていないのは一体どちらの側なのかということになれば、あちらとこちらで誤解の様相は 異なるとはいえ、誤解の程度はお互い様なのではないか。お互い様といえば、漢詩について西欧人以上に今日の日本人がわかっているというのだって甚だ怪しいかも知れないのだ。 最初に採り上げた進化論の受容に関しても恐らく例外ではなく、マーラーも含めた彼の地の人々の躓きがかえって腑に落ちない程抵抗感なく受け入れることができているのだろう。 だがこうなるともう、自分独自の展望があるのだとしか言えない気にもなってくる。距離を測る作業、自分の立ち位置を確認する作業などいいから、自分なりの聴き方、 受け止め方をすればいいではないか。そもそもこのことに気付く以前にお前はマーラーの音楽にどっぷりつかってしまったではないか、というわけだ。勿論、年季の入ったマーラー・フリークを 誇るのも考えものだ。遠ければ細部は判別できないが、近ければ今度は全体が見渡せない。結局のところ、存在するのはそれぞれの立ち位置に応じた展望の違いだけで、 それらに優劣をつけることなど出来はしないのではなかろうか。存在するのは関心の深さ、共感の深さ、衝動の大きさだけなのではないか。
確かにそうなのかも知れない。そもそもが、一体何を根拠に同時代に生きる他の誰と私が視点を共有しうるというのか。程度の問題をなかったことにしてしまうのは明らかに極論だが、 過去の異郷に生きたマーラーと私との距離が、同時代の誰かと私との距離以下に原理的になりえないというのは一体どのような抽象的な空間なり場なりを想定してのことなのだろう。 ある相空間においてはマーラーは私の隣人なのだ、とどうして言えないのだろうか。例えばプフィッツナーはマーラーの音楽との接点を見出せないとアルマに対して語ったらしいが、 私は、それが思い込みや視界狭窄に基づくものであったにしても、マーラーの音楽との接点が見出せずに困った経験はない。だが同時代に同じ文化圏に生きた同業者プフィッツナーと マーラーとの距離と私とマーラーとの距離とはそもそも同じ尺度でなど測れないし、比較することにも意味はないだろう。結局、どのような空間を設定するかに依るのだし、 実はマーラーについて語ることとは、そうした空間の定義の作業そのものの一部なのではないか。「私にはこのような風景が見えます」と語ること。語りの衝動は、 その人が見た風景の素晴らしさや不思議さに由来する。それはまた「自分に与えられた素材と手段を駆使して世界を構築すること」に他ならない。 マーラーなら同意してくれることと思うが、世界は認識されるのではなく、構築されるものなのだ。もっと言えば純粋な認識というのは言葉の上の抽象に過ぎず、 それは構築と切り離してはあり得ない、つまり認識と構築は同じことなのだ。そしてそれは勝手気儘な仕方によってではなく「ある声」に従うことによって、 その世界の法則を明らかにすることによってしか為しえないのだ。
なお、この書簡は1995年に出版された"Ein Glück ohne Ruh' : Die Briefe Gustav Mahlers an Alma"ではpp.182-3に収められていて、上掲の1940年版とは若干の異同があるが、 ここで採り上げた主旨の上からは大きな問題はないので、ここでは初出の1940年版に従った。(2009.12.5)
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