グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(1)語録


アルマの「回想と手紙」にある病床でのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.226, 白水社版邦訳p.228)
(...) "Wie Spinnen haben sie mich umstrickt! Sie haben mein Leben gestohlen! Man hat mich isoliert! Aus Eifersucht und Neid! Aber auch ich ibn schuld. Warum habe ich es geschehen lassen? Ach, ich habe Papier gelebt!" und das sagte er immer wieder vor sich hin : "Ich habe Papier gelebt!"

これを病人の繰言と片付けるのは容易いことだし、一方でマーラーほどの立身出世をした人間の言葉とは思えないとして顔を顰めてみせることもできよう。 ごく控え目に言っても、これはあくまでマーラーの視点からの展望に過ぎず、他人から見ればまた異なった判断が為されるのだろう。 だが、仮にそれを認めてもマーラーの心の傷がなくなるわけではないし、恐らくは上記のマーラーの言葉には少なからぬ真実が含まれているのだろうと思う。

こうした事柄はマーラーの遺した音楽を受け止めるにあたって取るに足らないことだろうか。他の作曲家への一般化はできないだろうし、安易な伝記主義も また問題だろうが、こうしたマーラーの反応は、その音楽の持つ表情と決して無縁ではないように思えてならない。例えばとりわけ第9交響曲に読み取れる 様々な情態の変転の中には、上記の言葉と響きあう調子が含まれているのではなかろうか。

何と卑小な、芸術に相応しからぬ素材であることよ、と批判する向きもまた、あるだろう。そんな低次元の感情を音楽に持ち込むはしたなさを詰る人も いるに違いない。例えば「きわめて反抗的に」という指示を持つ音楽などに価値はない、というわけだ。 だがそういう人にとってはマーラーの音楽は無縁で価値のないものである、ということに過ぎない。そのような価値の体系が、マーラーの 音楽に意義を認める価値に比べて優れていると言い募る根拠となる尺度など、一体どこにあるのだろう。

否、そんなことはどうでもいいのだ。私には「自分の人生は紙切れだった」と病床で語るマーラーの気持ちが、(私なりの矮小化されたかたちではあっても) とてもよく分かる気がする。若き楽長マーラーが直面した無理解と冷笑から始まって、こうした感じ方を抱く契機には事欠かなかった筈なのだ。 マーラーは決して狂信的な人間ではなく、自分がやったことを客観的に眺めることができたようだから、彼が時折或る種のシニシズムに陥ったとて、 それを責めることは私には到底できない。そして何よりも私にとってかけがえのないものに感じられるのは、それでいてマーラーが決して自分の価値観を 完全に相対化して解体してしまいはしなかったこと、自分の核にある「何か」を信じつづけたように思えることである。

マーラーの場合、それは無意識的な原信憑ではなく、苦い批判と懐疑にさらされつつ守り続けたものなのだ。 私はそうした意識の働きに感動を覚え、共感する。遠い異郷の、過去の人だけれども、マーラーは出会って以来30年近くたってなお、 自分にとってそれなしでは耐えて生きていくことのできない価値を共有する同伴者なのだし、その音楽はそうした価値の存在を身をもって 示しているように感じられる。恐らくその作品はマーラー自身にとっても、そうした価値を確認するための媒体であったのではないか。 そこに或る種の自家中毒の危険を嗅ぎ付けて批判する人の慧眼には敬服するけれど、私はそこまで怜悧であり続けることができない。 所詮はそうした循環の中を生きていくしかない。価値は天空のどこかから降ってくるわけではないのだから。

クロップシュトックの賛歌に自ら詞を書き加えて以来、マーラーはある意味ではひたすら同じことを反復して確認し続けていたのだ という見方も成り立つだろう。そうした営為を愚かだと嘲笑したければすればいいのだ。私はそんなに聡明でもないし達観もできないから、 そうした強迫的な反復による確認の衝動の方がずっと自然に感じられる。第9交響曲の第4楽章の末尾には「何か」が残っている。 音楽は消え去るけれど、全くの無に帰するわけではない。何かが残っている。「紙くず」同然の生を耐え忍ぶことに勝る何かが。 (2009.2.24)




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