グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・人物像(1)語録


1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190)

(...) Nun aber denke Dir ein so großes Werk, in welchem sich in der Tat dir ganze Welt spiegelt - man ist sozusagen selbst nur ein Instrument, auf dem das Universum spielt. (...) In solchen Momenten gehöre ich nicht mehr mir. (...) Die ganze Natur bekommt darin eint Stimme und erzählt so tief Geheimes, das man vielleicht im Traume ahnt! Ich sage Dir, mir ist manchmal selbst unheimlich zumute bei manchen Stellen, und es kommt mir vor, als ob ich das gar nicht gemacht hätte. Wenn ich nur alles so fertig bekomme, wie ich mir vornehme.

この書簡もまた、第3交響曲誕生の消息を告げる資料として、あるいはアンナ・フォン・ミルデンブルクについて、あるいはまた「天才」のエゴイズムについて 言及されるときに決まって引用される非常に有名なものである。ここでは、作品創作に関するマーラーの姿勢を告げるマーラー自身の言葉として、 その一部を引用した。ここで注目したいのは、マーラーが自分の世界観なり宇宙観なりを表現するとか、自分の印象や感情を表現するとか いったいわゆる一般に「ロマン主義的」とされる姿勢とは些か異なったニュアンスで、自身の創作過程について語っている点である。作曲者は最早 一楽器、媒体に過ぎず、語りの主体は宇宙・世界そのものなのだ。結果として書き留められた作品が自分が書いたものとは思えない、とすら 語っているのだ。あるいは精神分析学的な立場からは、ここで夢や不気味なものに言及されていること、無意識の活動にマーラーが耳を 澄ませている点が注目されるのかも知れない。第3交響曲の、マーラー自身による陳腐な標題が、それでも「~について私が語ること」ではなく 「~が私に語ること」であったことは、この手紙の文章と正確に対応する。要するに、それは一過性のレトリックではなく、もっと根本的な スタンスの事実(といって問題あるなら、少なくとも本人の「実感」)に忠実な記述であることはまず認めて良いのではなかろうか。先に語りたいことが あって、媒体として音楽が選択されているのではない。音楽が先にあって、こともあろうに、それを後づけで作曲者自身が「解釈」している有様なのだ。

無論それらを、結局は「霊感」に突き動かされる天才作曲家の肖像であるとして、あるいはこれこそロマン主義的誇大妄想の典型として 考えることも可能だろうし、一般にはそのように見做されることが多いのかも知れない。だが壮年期に差し掛かったマーラーのこうした言葉は、 晩年のマーラーが遺した第9交響曲について述べたあのシェーンベルクの言葉、作曲家はもはや個人としては語っていない、メガフォン=代弁者に過ぎず、 隠れた作者がいるに違いない、という言葉と突き合せて検討すべきなのだ。一体、何が変わって、何が変わっていないのか。シェーンベルクの 述べる非人称性、客観性は、「霊感」に突き動かされる天才作曲家像とどのように関係するのか。無意識の、夢の過程との関係は晩年にはどうなったのか。 マーラーに外から「標題音楽」のカテゴリを押し付け、断片的な証言という「事実」を担保に、「隠されたプログラム」とやらを作り上げ、それを知らずに マーラーの音楽は理解できないと言ってのける姿勢は、マーラー自身の創作のスタンスとどう関係するのか。私の様な一愛好家が出る幕はないのだろうが、 個人的な感慨として、マーラーが後に、一旦は自分でつけた標題を削除し、他人による後付けの標題や解説の類を酷く嫌ったというのは、ある時期に 作曲観の変化があったから、というより、時代の風潮に対して無意識であったマーラーが、徐々に自分の創作のありように自覚的になった結果ではないか、 と思えてならない。変わったのはマーラーの自覚の水準で、背後で動き続けている創作の姿勢は一貫していたのではなかろうか。

音楽史や楽曲解説の類は、後から理解のための分類を提案し、典型を設定する。年表の中に収まった作曲者は類型化され、あたかも差異はなかった かの如くになる。だがその音楽が、時代を超えて、文化的文脈を超えて聴き手に訴える力をもっているとき、その力の源泉は、そうした記述・解説に よって説明されるようなものなのだろうか。マーラーの音楽は私にとって文化財ではない。博物館に陳列された観賞の対象ではない。学問的には 取り扱い不能な、排除されるべきものなのだろうが、厄介なことに、私にはマーラーが上述の書簡で表明したようなスタンスが、その音楽を介して 理解できる「気がする」のだ。取るに足らない、錯覚、思い込みかも知れない、けれども一貫して、変わることのない強い印象。マーラーの音楽は、 私に対して、デイヴィッドソンの言う「根源的解釈」の音楽版を要求するかのようだ。寛容の原理に基づく、当座理論による合意の最大化。 勿論、言語と音楽を単純に置き換えることはできない。コミュニケーションのモデルを単純に音楽に持ちこむことはナンセンスだ。だが、現実に 既存の音楽の解説や説明において、何と多くの寄生が生じていることか。デイヴィッドソンの展望は言語によるコミュニケーションの説明としては 随分と挑発的な部分があるが、音楽においてはコミュニケーションのモデル自体が問い直されなければならない。だとしたら、一体どんな展望が 開けるのだろうか。いずれにせよ、マーラーの音楽の特質の説明は、そうした未聞の展望の裡にこそあるのでは、という印象は拭い難い。 (2008.10.4)



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