私が子供の頃に最初に手にしたマーラー伝であったマイケル・ケネディの著作には部分的であるが上掲の文章の翻訳が引用され、それに続けて「メッセージは 掲示板にピンで貼られた。翌日、これははぎ取られ、破られた。」(中河原理訳p.90)との文章があって、この件を読んだ私は大変なショックを受けたことを 良く覚えている。私のような平凡で無能な人間でさえ、馬齢を重ねるに従い、そうした出来事が別段珍しいことではなく、むしろありふれたことに属するかも 知れないことを身をもって知るようにはなったし、それゆえ後続の痛ましい出来事に対する現時点での感慨は、その時のものとは些か異なるとはいえ、 上記のマーラーの文章から受ける印象の方はあまり変わりはないようだ。
今日でも、あるいは同時代においてすら、作曲家としてのマーラーはともかく指揮者としてのマーラーの能力についての評価は確固たるものであっただろうし、 劇場監督としてマーラーが達成した上演の水準の高さを疑問に付する意見は寡聞にして知らない。だが現場で起きていることは、従ってマーラー自身が 経験したことは、決して後からの美化で取り繕うことができるような生易しいものではなかったに違いない。であってみれば寧ろ船山さんのようにこの文章を 「模範的」と評価するのが適切であって、この文書自体もまた、劇場政治の最終幕の一齣には違いないのだろう。だがだからといって、例えばこの文章は ゴーストライターが書いたものではないのか、といった議論がされるわけでもなく、マーラーがこうした行為に及んだ意図を憶測しようという話もないようだ。 結局のところ、子供の私が子供なりに身をもって知らないではなかった筈の「現実」の経験の過酷さ(勿論そんなものはマーラーの場合と比べれば比較するのが 憚られるほど取るに足らないものに過ぎないには違いないのだが)と引き合わせ、自分のアイドルであるマーラーの受けた「理不尽」な仕打ちに義憤を感じた 当時の私の感じ方と大きくは違わないようだ。後になって病に倒れたマーラーはアルマに向かって、自分の人生は紙切れだった、と述懐したようだが、 上記のうわべは「模範的」な文章にもマーラーの傷が感じられ、おしなべて「大地の歌」の「告別」の詩と響きあうような感じさえあって私には痛々しい。
アルマがやはり回想で述べているように、劇場の管理者として極めて有能だったマーラーは、必須の能力として当然に人の心理を読むのに長けていたに違いない。 そのマーラーがこの文章を書置きしたのは、それに対する否定的な反応をも予測した、覚悟の上のことだったのではなかろうか。最早彼には喪うものはなかった。 そうした時に自分の偽らざる心境を、今なお自分を支持し、理解してくれる人たちに向けて吐露したい欲求にかられたとして、それを咎めることはできないだろう。 上記の文章が感動的なのは、牧歌的ではありえない現場の事情を糊塗せず、自分がしたこととその結果をマイナス面も含めて認める率直さがそこに 感じられるからだと思う。それをわざわざ最後に言い残す挙措について「やけくそ」と受け止める醒めた見方も、なおそこに「ポーズ」を、「演技」を見る冷静で 意地悪な見方も可能だとは思うが、私はそうは思いたくない。これまたアルマが正しく理解していたように、マーラーは時としてあまりに無防備で傷つきやすい、 素朴な心の持ち主だったし、私の知る限り疑いなく倫理的に高潔に振舞うことを自らに課していたように思える。 勿論、そういうマーラーを、何事もくそ真面目に考えすぎるのだと見做した シュトラウスの認識もまた正しいが、私はこの点についてはマーラーの「くそ真面目さ」に共感を覚えるし、シュトラウスとてそういってマーラーを一方的に批判した わけではない。寧ろシュトラウスは、醒めた視線を保ちながらも、そうしたマーラーに対して助力を惜しまない寛大さを持ち合わせていた。私には実際には 想像がつかない、同じように途轍もない才能を持つ者同士だけが分かち合える共感とともに。
勿論、人それぞれ能力も性格も異なるのは当然で、自分がマーラーになれると思い込んでいるわけではない。そういう「天才」マーラーですら、 机の下に唾したところでベートーヴェンになれるものではない、と語ったとアルマが伝えているではないか。上記の文書を去ってゆく職場に掲示した マーラーの気持ちも、自分の人生を紙切れだったと述懐するマーラーの気持ちも、誤解は覚悟の上で、自分なりに「わかる」し、深く共感できる、 ただそれだけのことなのだ。否、端的に言えばアドルノが1960年のマーラー論の末尾で述べているように、マーラーがまさしく » Ich soll da bitten um Pardon, und ich bekomm' doch meinen Lohn! Das weiß ich schon.« という角笛の詩に曲をつければこそ、あるいはまた、Ohne Verheißung sind seine Symphonien Balladen des Unterliegens, denn » Nacht ist jetzt schon bald. « であるからこそ、私はマーラーを聴かずにはいられないのだ。 そしてまた彼が「君臨した」筈の職場への告別の辞、翌日には破り捨てられる運命にあった上掲の言葉もまた「敗北者のバラード」のヴァリアントで なくて何だろうか。そこにはもうすぐ産み出される「大地の歌」の最終楽章に自ら書き加えた mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold! ということばが こだましている。すでに第6交響曲のフィナーレで練習番号149に至って、先行して再現した副主題のどこかに不穏な予感を秘めつつも清澄で 柔らかな表情(この副主題再現部は前後との残酷なまでの対照ゆえにマーラーが書いた最も美しい瞬間の一つだと思う)が消え去り、身の毛のよだつ様な心理的な リアリティを伴いつつ、主要主題の再現を準備すべく練習番号150番にVorwärtsという指示を書き込んだとき、そのことばはマーラーのものであった。 そう、それは心のどこかで主要主題が回帰するのを「運命」として予感していて、それが現実のものとなったときのあの諦念と絶望感が入り混じった 心理状態そのものなのだ。「やはりこうなるのか」という言葉にならない呻き、そしてもう一度、だが今度は負けることがわかっている戦いに挑むときの心境。 この順序で主題が回帰してしまえば、最後のとどめの一撃、イ短調の主和音の到来は既に定まっている。それゆえ主要主題が回帰するときの 容赦なさの感覚は生々しい。あるいは第5交響曲第2楽章の練習番号21番以降22番の頂点で倒れ臥すまでの絶望的に彷徨う眼差しにおいてもまた、 一瞬過去を回顧する空間が広がりながら直ちに運命の容赦なさに再び呑み込まれて行くプロセスの過酷さが示される。 そしてそれらは聴き手の私のものでもあるのだ。はしたなく節操のない音楽の聴き方であることは否定しようと思わないが、聴き始めた子供の時以来30年あまり、 私にはそういう聴き方しかできないし、そういう聴き方ができればこそ、私はマーラーを聴き続けているのだ。
そして上掲の文章にも現われている人間の営みとその成果の限界についての認識が、その後の晩年のマーラーの作品にも色濃く反映しているのは 疑いないように感じられる。天才マーラーは遙かに遠くまで行くことができた。だけれども、それでも所詮は限界があるのだという認識もまた持っていた。 例えば、晩年のアルマ宛の1909年6月27日の書簡における「作品」についてのマーラーの言葉は非常に印象深いものなので別に既に紹介しているが、 それもまた、こうした文脈において考えるとまた別の意味を帯びてくるように思われる。更にこの先の到達点に、こちらもまた別に紹介しているあの遺言の » Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. « を置いてみたらどうだろうか。 そこには「やがて自分の時代が来る」(そして「今や来たのだ」と受けるのが「マーラー・ブーム」以来のお約束のようだが)という妻への強がりよりも、 価値の相対性と自分の遺すものの不十分さに対する諦観が強く感じられるように思えてならない。「わかる人だけにわかってもらえれば良い」という言葉もまた、 エリート主義的な鼻持ちならない傲慢さによるものではなく、少なくとも不完全である人間にとって価値は相対的なものでしかないことに対する認識と、 それに応じて能力やら才能やらも相対的なものであること、その一方で、それが故に、ある価値を尺度とすれば、どうしようもない理解の溝というのが そこかしこに存在することを認めざるを得ないという現実的な認識によるものであるように感じられる。 そして私もまた、それが選択肢の一つであることを認識しつつ、マーラーとともに在ることに意識的にならざるを得ない。実を言えば最初の 選択の瞬間には子供であった私がこうしたことに対してどこまで意識的であったか自信はない。けれども今の私は今度は否応なく意識的に選ばざるを 得ないのだ。そしてその選択は私の生の態度の全般に影響する。良くも悪くもマーラーの音楽はその人と不可分であると言われるが、そうである分他の 場合よりも一層、聴き手の側にも音楽を単なる音響の消費で済ますことを許さないように思われる。
なおこの文章は有名だからあちらこちらで引用されていて、例えばクルト・ブラウコプフのマーラー伝でも邦訳を読むことができる。 ただし、私が所有しているブラウコップフの伝記の原書では何故か文章の細部に異同があり、上記の船山の著作所収の写真とは明らかに異なっていたので、 上掲の原文は写真と文面が同一であることを確認できた別の典拠に拠った。(2008.6.22,25,28)
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