グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860-1911)・雑文集
「はじめに」の撤回された異稿(2005年11月版)
何かについて語ることはとても難しい。その対象について余程知悉しているという確信無しに迂闊に書いてしまえば、後悔することになるのは明らかである。一方で、人は愛するものについて語り損なうとも言われる。実際に、よくわからずに強い印象を受けた時に書いた内容、それはいわば決め付けや思い込みに過ぎないのだが、それでもそれが後で知った事実と結果的に整合しているという偶然も決して珍しいことではない。
私はマーラーに対して、はっきりとした両価感情を抱いている。知っている、という点において、私の貧弱な経験の裡の相対的な比較に過ぎないとはいえ、マーラーの音楽以上によく知り、親しみ、馴染んでいるものは(ジャンルを超えても)ないと言ってよい。経験が人間の自己を形成する、という言い方が文字通りに受け取られるのであれば、マーラーの音楽は、まさに「私の一部」であると言って良い。勿論これは程度の問題であって、他の様々なものたちも、それぞれの度合いで「私」を構成しているのであって、別にマーラーの音楽だけに質的な飛躍を含む特権的な何かがあるわけではない。けれども量も一定の度合いを超えれば質に転化する。いや、このこと自体、Webで知る限りでも多くの方に起きていることのようだし、「マーラーと私」を特権化しようという意図は全くない。客観的に、統計的に見れば、とりわけマーラーのようなある種の「毒」を持った音楽については良く起きることが、私の場合にも起きたというに過ぎないのであろう。他の人には容易に嗅ぎ付けられるらしい、その「毒」というものに、どうやら私は全く無頓着であったし、基本的には今でもそうであるというのが、なによりの証拠に違いない。
しかしいずれにせよ、一旦そのように自分の一部になってしまったものを引き剥がすことは決して容易ではない。一時期私はそのようにしようと試みた。それは丁度、自分がある種の妥協として選択した職業に幾ばくか馴れ、それとともに、その妥協によって自分が喪ったものの巨大さ(私のような、能力の乏しい人間にとって、手に負えないという意味での相対的な大きさだが)に思い当たるようになった時期だった。内容こそその人間の能力と、置かれた環境に応じて様々であろうが、誰もが、偉大な天才ですら迎えるある種の危機の時期だったのであろう。(ちなみに「天才」マーラーにもそういう時期はあった。ちょうど第1交響曲と、後に第2交響曲の第1楽章になる交響詩「葬礼」の時期がそうだと思う。もっとも彼が遭遇した状況と私のそれとは全くといっていいほど接点がないのは勿論である。)その時期まで私は、マーラーについて書きたいという希望を持っていて、それ以外の研究の真似事はほとんど断念していたにも関わらず、一時期、大学時代の恩師に対して自分の企画を送って指導をお願いするようなことさえした。アドルノのような経験と知性とをもってのみ可能であるようなそうした企てに研究を断念して世間に出てしまった私が無謀にも取り組むなどという暴挙は、正統的な現象学者・倫理学者である恩師に受け入れられる筈も無く、沈黙による拒絶という回答を得ただけだった。(それでも寛容な師はその拒絶を詫びてくれさえしたのだった。)それを機に当時所有していたマーラーに関するすべての音源と楽譜・書籍を処分した。(引き取ってもらった古書店の店長が、初対面にも関わらず、惜しくは無いのかと念を押してくれたのをはっきりと覚えている。)自分の一部を切り捨てるそうした決断は大きな虚脱感と幾ばくかの苦痛によって報復を受けたが、それでもそれから数年間は寧ろマーラーの音楽を懼れて遠ざけていたのである。それはある程度成功したとも言えるし、こうして今現在は再びその音楽を聴くようになっているのであれば、失敗したというべきかも知れない。禁煙の類との類比でいけば明らかに失敗だろうが、しかしこうした事象の場合には、そうした事実自体が持つ意味というのは確実に存在する。要するにかつてのように私はマーラーを聴くことができなくなっているのに否応無く気付かざるを得ないのである。
いわゆるその「禁忌」を解くきっかけが何であったかを正確に想い出すのは難しい。その後、ある時期に、自分の貧しい、そして年を追うごとにますます貧しくなる精神生活に業をにやして「棚卸」を行ったことがあって、音楽についてはCDと楽譜を徹底的に整理した(その整理を生き延びたCD、楽譜はほとんどなく、今持っている僅かなそれらのほとんどは、その後、吟味の上で再び入手したものである)のだが、その時に、最早マーラーが自分にとって、ある種の疎遠さを帯びた他者として存在していることに気付いたのだったと思う。そして整理してみると、自分の中に(抑圧された形であれ)棲み続けている数少ないものの一つで、それをとってしまえば結局自分の中には何も残らないような気持ちに囚われたのを記憶している。小人閑居して不善を為すのことば通り、生活の糧を得ることに追われる合間にふと訪れる凪の時期になると、憂鬱が自分を強く支配する傾向が徐々に強まり、それが耐え難くなったことに追い立てられるようにして、それまで封じてきたものに再び向き合うことになったのだった。異郷の地の、時間的にも隔たった過去の天才。自分とは全く異なる環境に生きた、自分には及びもつかないような才能をもって、指揮者として自分には及びもつかないような世俗的な成功を収め、その上で世紀を隔てたこの僻遠の地で聴かれ続ける音楽を残した人間に、かつてはあれほど親しみを感じていたのが信じ難く思われた。その一方で、その音楽が自分に対して力を持つことを確認せざるを得なかった。(それには、かつては不思議な偶然で聴くことのできなかったバルビローリの演奏を聴くことができるようになったことが与っているのかも知れない。)
結局、否定も執着のある種の様態であるということに過ぎず、一旦飲み込んでしまったものを全く無いものとするのは所詮は不可能である、という当たり前のことに気付くのに、頭の悪い私は随分と時間をかけねばならなかった。おまけに、そうした時期をおいてみて、実は自分の一部として取り込んだその音楽が、実際には自分の基本的な資質にとって必ずしも親和的なものではなく、寧ろそれは、ある種のないものねだり、自分と正反対のものに惹かれる側面が強かったらしいということにようやく思い当たったのである。全く物分りの悪いにも程があると呆れられそうなものだが、いずれにせよ、そうして長い時間をかけてようやく、一つの他者として、しかも精神的にはもっとも馴染みの深い、それでも限りなく自分とは隔たった他者としてマーラーの音楽に接することができるようになったと感じている。
そしてこうした状況に至ってなお、驚くべきことに(多少は自分でも呆れはしたのだが)自分にはまだマーラーの音楽について語りたいという気持ちと、書くべき内容が存在することが明らかになった。マーラーについて書くことは、それが必ずしも自分に近しい音楽ではないにも関わらず、自分について語ることになってしまうことへの懸念、そして、結局のところマーラーの音楽の「毒」に中てられ続けているのは確かなようなので、「人は愛するものについて語り損なう」の愚を犯すことになりはしないかという懸念はある。けれども、自分をある意味では裏切って生活の糧を得ることにその時間の大半を費やすことにしてしまい、そしてそこから抜け出すことができない愚かで平凡な人間にとって、そうした対象でなければ、その残された時間を費やす意味などありはしないのであろう。ますます時間は減り、今や休日すら蚕食されつつあり、意識の裡のどこかでは常に仕事のことを意識せざるを得なくなってしまっている状況で、残った時間を何に使うかは決定的に重要なことだ。こんな無益なことに時間を費やすなら仕事をした方が生活の足しになるのでは、あるいは家族や親のために時間を使うべきなのではないかという気持ちも強い。とはいっても、こうしてマーラーについて書くことがどういう意義を持つものであるかについて更に考えてみたところで、下手な考え休むに似たりということになるだけだろう。こちらの意義についてなら、そんなことを考えるくらいなら仕事をするなり家族や親の相手をするべきなのははっきりしている。幸いなことに意義ある内容についてなら、マーラーほどの偉大な人間についてであれば、例えばWebにおいてすら、今や幾らでもアクセスすることが可能である。つまり、ことマーラーに限れば自分のWebページの「客観的な」存在意義の欠如について思い悩む必要は初めからないのである。そうであってみれば安心して自分のために書くことができるのだと思えばいい訳である。願わくばこうした取るに足らない文章もまた、マーラーが遺した偉大なミームの存続と伝播の一端を担わんことを。たとえそれが存在するという事実性のみでしか寄与できないとしても。そしてまた願わくば、マーラーが語った「神の衣を織る」ことに、ほんのわずかでも寄与せんことを。
実際のところ、何も価値のない、何も意義あるものを生み出すことのできないものは、何も遺さずに消えてしまったほうが良いという気持ちに抗することは難しい。私の父はそういう意味ではとても厳しく、潔い人間だった。その死の後で、こうしたWebページを続けるべきかについては迷いがないわけではない。そもそも暫く前から、例えば自分が生活のためにしている仕事の成果物に自分の署名をする必要のないことに、安らぎすら感じるようになっている。それを思えばこのWebページもまた、いずれ他の文章同様に消去することになるのかも知れないが、その一方で、そうした出来事の後でこうした文章を書いているのもまた事実なのだ。マーラーの音楽にはそういう側面があると私には感じられる。マーラーの音楽は生きるための勇気を聴き手に与える類の音楽なのだ。通常、厭世的な音楽ということになっている晩年の作品がとりわけそうなのだと私は思う。そうした力は、未完成の第10交響曲の全曲(私が聴くのは専らクック版である)を筆頭に、第9交響曲、大地の歌において、他のより「肯定的」と考えられている作品にまさって感じ取ることができると私は思う。否、晩年の作品だけでなく、それ以前の、第6交響曲と「子供の死の歌」を頂点とする作品も含めてマーラーの音楽全てがそうした音楽なのだ。自分に近しい者の最期が近いことを認識した時の絶望により相応しい音楽、そして喪の音楽、喪に相応しい音楽は他にもあるだろう。また、そうしたことに対して超然とした態度をとることを教えてくれる高い品位の、あるいはそれ自体超然とした音楽もまた、あるだろう。だが、それらに勝って、マーラーの音楽は、死を引き受け、それを無化することなく、その上で行き続けることを示唆してくれる音楽だと感じている。(2005.11.5)
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